さすがに午前10時半にして今日2杯目のコーヒーはまずいかな、と今度こそあたたかーいコーヒーに、ミルクを入れて考える。対面には同じホットコーヒーに角砂糖を1つ落とした銀髪の少女――塩見周子と彼女は名乗った――がいた。
彼女はスカウトされるなんてことを1ミリも考えていなかったらしく、私の言葉を受けた直後、氷のように固まってしまった。緊張しながら2,3分、さすがに北風が強く、固まった彼女が本当の意味で固まってしまいそうで、とりあえずまだ少し呆然としている彼女の手を取って近くの喫茶店に連れ込んだのだった。
「落ち着いた?」
「うん、ありがと」
声をかけると彼女は顔を緩めて、申し訳なさそうに微笑んだ。キツネのようなつり目が可愛らしい。この頃には私の緊張もすっかり解けていて、微笑み返すほどには余裕があった。
「申し遅れたけど私は渡瀬柚希。美城プロダクションのアイドル部門プロデューサーをしてます」
「あ、どうもー」
席を立って彼女の横につき名刺を手渡す。プロデューサー渡瀬柚希としての名刺を渡すのは初めてだ。
「美城プロダクションってあの?」
「あの、っていうのがどのなのかはわからないけど、まぁ色々やってるところだよ」
「へぇー」
「……もしかして、疑ってる?」
「いやいや、そんなことあらへんよ。……ごめん、ちょっと疑ってるかも。あたしなんかがスカウトされるなんてちょっと信じられへんし」
彼女は少し困ったような顔をしていた。それもそうだろう。私もスカウトされた時は戸惑ったものだ。結局、親の勧めもあってアイドルになったけど。
お互いにコーヒーを1口。今度はちゃんと温かくて、冷めた缶コーヒーなんかより幾倍か美味しく感じられた。にしてもまだ学生みたいなのにコーヒー飲めるんだ、と考えていたらふと疑問が湧いた。
「ところで、周子ちゃんはなんであんなところにいたの?月曜日だけど学校とか大丈夫?」
「あたしは高3だけど大学受験しないから、あと登校するの卒業式だけなんだよねー」
「へぇ、何かやりたいことでもあるの?」
「んー、まぁ家が京都の和菓子屋だから後継いでもいいかなーとか思ってたんだけど、今日家出してきちゃったからなー」
「んっ…!けほっ、けほっ」
突然の衝撃の事実でコーヒーを飲んでいた私はむせてしまった。
「大丈夫?」
「へ、平気平気、って家出したって?」
「ん、まーね」
「親御さん心配しないの?」
「書き置き残しといたから大丈夫だよ」
「でも、家出にしてはちょっと行動しすぎなんじゃない?」
「んー、あたしとしては実家で和菓子屋の看板娘しながらダラダラしてたかったんだけど、ちょっと親と言い合いになっちゃって。
だったらこんな家出てってやるー、どうせ家出するんだったら気分変わらないうちに遠くまで出てきちゃおーってね」
「それで東京までって」
「家出ってそういうもんでしょ?……たぶん」
確かに妙に納得がいった。彼女の雰囲気はどこかマイペースで、服装や持ち物は正しく家出娘のそれだ。だけど、淡々と話す彼女の目はちょっと泳いでいて、やっぱり少し迷いがあるように見えた。
外では北風がひゅうひゅうと吹いていて、すきま風が暖房の暖かさで包まれた私達に突き刺さる。私と彼女の間には微妙な距離があって、それをお互いに埋められずにいた。
「あの、さ」
しばらくして沈黙を静かに破ったのは彼女だった。さきほどまでの飄々とした様子はなく、出会ってからずっと惹かれていた笑顔はそこにはなかった。
「アイドルの話さ、保留ってことじゃダメかな?」
「保留?」
「うん。家出とか色々あってドタバタしてたからまだ気持ちの切り替えができてないっていうか、ちょっと遠くに出てきすぎて、シューコちゃんちょっとホームシックっていうか……」
彼女の声は少し震えていた。
「とにかく、まだ決められないんだ」
「……そっか。まあ今決めなきゃいけないってわけじゃないよ」
「うん、ごめんなさい」
彼女の顔が本当に寂しそうで、思わず目をそらしたくなってしまうほどだった。しかし、カップに残ったまだ温かみのあるコーヒーを飲んでもう一度顔を上げると、そこにあった彼女の顔はさきほどまでの笑顔を取り戻していて。
「なーんて、そんなしんみりしないでよ。アイドルにはすっごく興味あるし、気持ちの切り替えなんて1回寝りゃすぐにできるって」
「大丈夫なの」
「へーき、あたしそういうのには自信あるから」
ふふふと互いに笑い合って残りのコーヒーを飲み干す。温くなったコーヒーでさえ、いつもより嫌な雑味を感じなかった。
「さて、と。じゃあそろそろ行くかな」
窓の外は、来た時ほどの風はないようで、高くなった陽が明るく暖かく木々を照らしていた。11時半になり、高そうなコートを羽織ったマダム達の行き交いが増えている。
「気持ち切り替えられたら連絡してね。連絡先そこに書いてるから」
「……えーっと、言いづらいんだけどさ……」
彼女はちょっと複雑な顔をして、それからすぐに含みのある笑みを浮かべた。不意に変わった彼女の顔に、私のドキドキとした心が思い出されて――
「お家、泊めてくれないかな」
ああ、私はこの笑顔に弱いんだな、と惰性で頷きながら思った。
ガタン、ゴトンと電車が揺れる。その揺れは朝乗った新幹線のそれのように静かなものではなかったが、疲れきった体にはこれでさえ心地よく感じられた。現に、隣に座っている女性、渡瀬柚希はあたしの肩に首を乗せてすぅすぅと寝息を立てている。
あれからあたしはわがままを言って彼女を振り回した。ゲーセンに行ったりアメ横に行ったり博物館なんかを見てきたり。なんせ東京なんて初めてだったものだからあたしは終始とってもテンションが高かった。
彼女は最初は嫌がっていたけれど、伝家の宝刀『営業スマイル』は思った以上に効果抜群で、最後の方はもうノリノリで東京案内をしてくれていたようにも思う。
呼び捨てにするのも許可されて、柚希柚希と連呼して禁止されそうになったときも伝家の宝刀で対処した。終始姉妹のようにじゃれついている様子たるや、本当に今日初めて会ったのだろうかと自分でも疑ってしまうほどだ。
喫茶店で芽生えたホームシックな気持ちはさっきまでの楽しさに紛れて見えなくなっていた。
「ふぅ……」
彼女の方を見ると整った顔立ちがすぐ目の前にあった。最初は気づいていなかったけれど、あたしよりちょっと背が高くて、ずっとスタイルがいい。それでもこうして寝顔を見ているとまるであたしに妹が出来たようで。思わず頭に手を置いたところで、薄く睨むような視線を感じた。
「周子」
「ありゃ、バレちゃった?あいたっ」
彼女はあたしにデコピンしてまた元の澄ました顔に戻った。こうなってしまうとやっぱり年上なんだなぁと感じさせられる。
「今どこ?」
「うーんと、国分寺?ってとこ出たかな」
「じゃあ次降りるよ」
「はーい」
青いスーツケースを持ってドアの前に立つ。程なくしてドアが開いて、あたし達は駅に降りた。午後6時、陽はもうとっくに落ちていて辺りは暗くなってきている。風がないからか朝よりは寒く感じないけれども、冷たい空気が夜の到来を告げていた。
冬の夜はあまり好きではない。秋に奏でる鈴虫の鳴き声や白い電灯に照らされる春の夜桜、そのような楽しみを冬には見い出せないのだ。でも、今日は違った。スーツケースのガラガラと賑やかな音、地面を叩く2人分の靴音。進む度にあたしはだんだんと気分が上がっていった。
駅を出て歩いて10分、賑やかな駅を離れてもうここらになると閑静な住宅街が広がっていた。暗い舗装道路に点々と電灯の白い明かりがさしている。
「ここだよ」
角を曲がって路地に入って突き当たり、2階建ての建物がそこにはあった。
「一軒家?」
「そ、親に貰ったの」
「……は?」
「まぁそうなるよね。親がそこそこの会社の社長でさ、一人暮らし始める時に勝手に買ってきてくれたのよ」
1人でこんな家住んでも何も楽しくないけどね、とボソッと呟きながらカードキーをかざす彼女はどこか寂しそうで、それでも何も言わせないようなオーラがあった。
「お邪魔しまーす」
中に入ると小さな玄関。靴を脱いで、突き当たり右手にある引き戸を引くと真っ暗な部屋があった。
「電気は……これ?」
「ああ、それはキッチンのやつ。リビングのはその右ね」
「はーい」
言われた通り電気をつけると綺麗に整頓された部屋が目に写った。物は少なく、それでもこの広い部屋に空白を感じさせないように工夫されている。しかし、真っ白いソファーは4人用、普段1人で食事するのであろうテーブルには6つの椅子があった。
「本当に一人暮らし?」
「ええ」
「家具でかくない?」
「親戚がよく遊びに来るからね」
「どんくらい?」
「月1で姉家族4人くらいかな」
それにしてもでかいだろうとソファーに座りながら思った。ふかふかだ、羨ましい。お金持ちの感覚はよくわからない。
「お風呂先入る?ならすぐ洗っちゃうけど」
「あ、あたしがやるよ。それくらいは出来るから」
なんとなく、あたしが家事がある程度は出来ることを見せたくなった。
「ふーん、じゃ、綺麗にお願いね?」
「ぜ、善処します」
壁のボタンをいじりながら横目であたしを見る彼女の視線がとても鋭いものに見えて、案内されたお風呂場にあたしは慌ただしく駆け込んだ。心臓はバクバクと鼓動を早めていた。
ひっろいひっろいお風呂場をあたしはいつもの3倍くらい丁寧に洗った。それはもう、ピカピカに。ひと仕事終えて脱衣室を出ると、さっき彼女がいじっていたボタンは床暖房のボタンだったらしく、足元がポカポカとして気持ちいい。キッチンでは、腰に黒いエプロンをつけた彼女がフライパンと向き合っていた。
「ちゃんと洗ってくれた?」
「できる範囲でね」
「ありがと、ご飯もう少し後だから座って待ってて」
家庭的な雰囲気を纏った彼女はあたしを徹底的にもてなそうとしていて、ソファーに座ったあたしも背筋を思わず伸ばしてしまうほど落ち着かない。もやもやとした気持ちが広がっていた。
どうやらぼーっとしていたみたいで、気がつくと彼女が目の前にいた。
「ん、出来たよ」
夕食として出てきたのは豚肉とほうれん草の胡麻和え、味噌汁、そして白いご飯の素朴なものだったが、それがまた美味しかった。あっという間に食べ終わってしまうと、彼女は嬉しそうに笑う。それはまるで娘を見るかのようで、あたしはその顔をまっすぐ見られなかった。
食事の後はあたしが使命感に駆られて皿洗いを買って出た。食い下がる彼女に先にお風呂に入らせて、2人分の食器をあらっていると、それも早く済んでしまった。
1人でいるのが落ち着かないで、『お背中流しましょか?』なんていつもより高い声を出すと『大人をからかうんじゃないよ』といつもより低い声が帰ってきて、あたしは慌ててリビングに戻った。
それから彼女がお風呂場を出るまでの10分間、あたしは何をするのではなく、ただただソファーに座っていた。
「出たよー」
「あ、はーい」
バスタオル1枚を纏った彼女とすれ違う。彼女の顔は家に入る時と同じ顔をしていた。
いざ1人で浴槽に浸って10分経って、あたしは突然今まで感じたことのない大きな孤独感に襲われた。さっきまでのもやもやの正体がようやくわかった。
柚希は他人なのだ。
あたしはあたしを演じていた。
彼女がどれだけあたしを気に入ろうと、そのあたしはシューコではない。
いや、そのシューコちゃんはあたしではないのだ。
親不孝者だったあたしは、それでも2人の親に支えられていたのだという簡単なことを今ようやく実感した。本当のあたしは2人しか知らない。2人の後ろ盾があって、あたしがあった。
でも今はどうだ。
突然家出してどこに行ったかもわからないような娘を、2人はどう思っているだろうか。連絡もとらず、家の手伝いもせず、1人で東京に来てしまうような娘を。
この広い浴槽を埋めるにはあたしなんかじゃまるで足りなくて、空いたスペースがあたしの不安を煽る。ぐるぐるぐるぐる負のスパイラル。
いてもたってもいられなくなってしまって、あたしはまともに体を洗いもせずに飛び出すようにお風呂場を出た。
家から持ってきた寝巻きですら懐かしく感じられて、涙をこらえながら脱衣室を出ると、同じく寝巻きを着た彼女は6人がけのテーブルの真ん中に座っていた。その手には缶ビール、それとあたしのスマホ。
「さっきから、鳴ってるよ」
「……うん」
スマホを奪って確認すると不在着信が3件、全部家からだ。脱衣室に戻って鍵を閉めた。そしてすぐに電話をかける。聞こえるのはプー、プーという話中音。
「ああ、もう!」
声を出してハッとした。あたしがあたしじゃないように苛立っている。冷静になろうと深呼吸していると、着信。ワンコールもしないうちにあたしは応答ボタンを押した。
天気予報が外れて、今日も雪が降っている。カーテンを捲って降る雪を見ていると、その雪は電球の光が当たって、オレンジ色に煌めいていた。
アイドルをやめてからというもの、あまり飲めないビールを毎日1缶ずつ飲む習慣ができた。少しでもアルコールに強くするためというのもあるが、1番の理由はこの夜の寂しさを紛らわすためだ。
この広い家に一人暮らしというのはなかなか堪えるものがあって、特にお風呂場は出来るだけ長居したくはない。今年25になるいい大人がこんな女々しいことを考えたくはないのだけれど。
「あぁ、もう!」
周子の苛立った声が聞こえる。どうやら私の家のお風呂場には魔物が住み着いているらしい。私と周子、2人で入ってもまだあまりあるくらい広い浴槽は、心の奥底にある孤独感をぐちゃぐちゃにかき混ぜてやろうと大口開けて待っているのだ。
彼女の様子がおかしいと気づいたのは、家に入ってすぐ。彼女が手伝いをしてくれるというので横目で微笑みかけると、彼女は怯えたような顔をして去ってしまった。
それからもどうも強引に役に立とうとしていたり、私の目を意図的に避けていたり。彼女は彼女の皮をかぶって、私の評価を得ようと無意識に動いていた。まるで自分が自分の操り人形になったように。
彼女がお風呂場に向かった時、すれ違いざまに見た彼女の目は朝の喫茶店で泳いでいたそれと同じだった。直感的にもうダメそうだと悟った私は、いけないこととはわかっていながら、鳴っていた彼女のスマホをとってそれに出た。
「周子ちゃんは今日は私の家に泊まります。決して見失わないと誓います。それと、もうすぐ周子ちゃんはあなた達に電話をかけると思います。どうか周子ちゃんを見捨てないでください」
それだけ言って私は電話を一方的に切った。
彼女がお風呂場から出てきたのはそのすぐあとで、もう焦燥しきって顔をきつくしかめていた。私の手から奪うようにスマホをとると鍵のある脱衣室に戻っていって、鍵を閉める音が聞こえる。冷えたビールの、コーヒーとはまた違った苦味がのど奥深くを通っていった。
彼女が私の前に再び現れたのはそれから30分程してからだった。目をパンパンに腫らして、髪は自分でかき回したのかボサボサになっていたが、それでもこの家に来てから、いや初めて会った時なんかよりずっと素敵な笑顔をしていて、私は思わず上から抱きしめた。これは酔いが回ってきているせいだと自分で言い訳をしながら。
「あたしね、親不孝してた」
「うん」
「言い合いもした」
「うん」
「家出もした」
「うん」
「でもさー、お父はんもお母はんもあたしを許してくれるって」
「うん」
「シューコちゃんはシューコちゃんだよって」
「……うん」
ここまで話して耐えきれなくなったのか、彼女も私もへたりと床に座り込んでしまった。24と18の女2人は夜が更けるまでわんわんと抱き締め合いながら泣きわめいた。
私達が泣き止む頃には、外の雪はもう晴れていた。