目覚まし時計の鬱陶しい音は、まだ微睡みの中にいるあたし、塩見周子を徐々に徐々に覚醒させていく。ごろんと背を向けた直後、ピピピピピピと間髪入れずにけたたましい音が鳴った。仕方がなくそれを叩いて、むくりと起き上がる。陽の光が東向きの大きな窓から入って、この見覚えのない部屋を照らしていた。
昨日は疲れきっていたようで、時計を見ると午前9時。昨日の記憶は2人して泣きわめいていたところまでで止まっていた。ここは彼女の部屋だろうか、木目調のデスクと本棚がある質素な部屋だった。
あたしが寝ていたのはセミダブルのベッド、2人で寝るには少し狭いくらいのサイズだ。抱きしめあって寝ていたのだろうか、お気に入りの寝巻きは背中側にかけてしわしわで、右腕にはうっすら赤みがかっている跡があった。
起きてから10分、ようやくベッドを抜け出し、換気がてら窓を開けベランダに出た。どうやらここは2階の部屋らしい。
「んぅー……」
大きく伸びをして深呼吸。都会の空気は汚いなんて言うけれど、すがすがしい朝の空気は故郷のそれとほとんど変わらない。昨日とはがらりと変わって風もなく、朝から太陽の暖かさを感じられたが、そうはいってもさすがに真冬の空気は冷たく、あたしはすぐに部屋に戻って窓を閉め、そして部屋の扉を開けて、目の前にあった階段を降りていった。
昨日自分で言ったことではあるが、一度寝ると本当に気持ちが切り替えられるようだ。昨日あったもやもやとした感情や孤独感はきれいさっぱりなくなっていて――もちろんそれは、昨日親と連絡をとって気持ちが楽になっているのも原因のひとつだとは思うが――代わりをアイドルというものへの興味と期待が占めていた。
リビングに降りるともちろん柚希の姿はなく、テーブルの上にラップに包まれた朝ごはんと、黄色いメモ用紙の書き置きがあった。
《起きたらまずシャワーを浴びて体を綺麗に洗うこと。朝ごはんは用意できたけど、昼はなにも作れなかったから駅の方で食べてきてね》
メモ用紙の裏には1000円札。過保護だなぁと思いながら、書き置きのとおりにシャワーを浴びに向かう。お風呂場は昨日ほどは広く感じなかった。
作り置いてくれた朝ごはんを食べ終え、皿洗いをしている間、いつもは見ない朝の情報番組を見ていた。東京近郊のグルメだとか、栃木での殺人事件だとか、そんな興味の出ないような情報を聞き流していると。
『続いての特集は、今話題のあの事務所。アイドル部門新設が発表された美城プロダクションに独占取材です』
あたしは思わず皿洗いをほっぽり出して、テレビに食いつくように近づいた。取材を受けているのは美城プロダクションの会長。新設されたきっかけだとか、オーディションの話だとか、様々なことが話される中、ある話題があたしの耳に残った。
『プロデューサーもね、うちの精鋭を集めてますから、絶対に人気者にしてみせるという気概を持ってね』
プロデューサーは精鋭部隊。中にはあの大物俳優堀田銀次郎や人気歌手夏井桔梗を担当した経験のある敏腕プロデューサーもいるとか。ということは柚希も精鋭部隊の一員なのだろうか。なんだかワクワクとした気分になった。
そういえばあたしは柚希について何も知らない。彼女についてあれやこれや考えているうちに、今まで何も思わなかったのが不思議になるくらい、ある素朴な疑問が彼女に芽生えた。
彼女はどうして男物の服を着ているのだろうか。
初めてあった時もそういえば男物のスーツだった。部屋着もそうだ。一瞬見た寝間着もそうだ。ボーイッシュな雰囲気を出している訳では無い、ましてやモデルのようなあのスタイルも持っているのに、どうして。
興味のない人から見るとどうでもいいことだろうが、一度疑問に思うと頭から離れないのはよくあることで、気がつくともう美城プロダクションの特集は終わっていて、テレビでは過剰に性能をアピールする通販番組が始まっていた。
「どうしてなんだろうなぁ……」
中途半端になっていた皿洗いを終わらして、1日ぶりにスマホでネットをしていても、やっぱり気になるものは気になってしまう。何をするにも集中できなくて、ついにはソファーで呆然と天井を見上げていた。
「……んん?」
ふと、気づいた。あたしは今1人ではないか。家主である柚希はいない。今なら誰かを気にせずにこの家を探ることができるのではないかと。
勝手に漁ったら怒られる、という良心はこのシューコちゃんには存在しない。興味のままに動き、興味のままに生きる。マイペースが座右の銘だ。
「よし、やるか!」
このいたずら娘に留守番を任せたことを後悔させてやる、なんておかしなテンションで、あたしはソファーから立ち上がった。
まずは玄関だ。家に入って向かって左側の下足箱を開ける。下足箱の大きさの割には数が少なく、そのほとんどがスニーカーだ。しかし奥を覗くと靴箱が1つ、中にはキラキラとした装飾のついた、いかにもきらびやかなドレスと共に身につけるような、高いヒールの靴が入っていた。
「綺麗な靴だなぁ……」
履きたくなる衝動は、壊した時が怖いから抑える。その代わりスマホでパシャリ、証拠品として保存しておいた。一体何の証拠になるのかはあたしにもわからないけど。
丁寧に元に戻して、次は脱衣室。さすがに下着は女物のようだ。これもスマホでパシャリ。ブラのサイズを見てしまい、少し落ちたテンションで、場所を移動する。
リビング、和室、クローゼットに収納棚を見て、女性らしいものを次々写真に撮っていく。なんだか変態チックだが、これもしょうがない、調査のためだ。
これだけ探しても、彼女が男物の服を着ている肝心の理由は何も見つけられなかった。だがこれで諦めるシューコちゃんではない。今度はまだ未知の領域たる2階に足を踏み入れた。
2階には朝あたしがいた部屋を含めて3つの部屋があった。まずは向かって左の部屋に入る。しかし、この部屋には何もなかった。部屋を余らせているのだろうか、クローゼットの中にもモノはなく、リビングより少し狭いだけの広さを持つ部屋はがらんとしていた。
そんな部屋を出て今度は正面の部屋へ向かう。
「うわぁ……すごい」
中はさっきの部屋とうってかわって様々な楽器が並べられていた。ギターにバイオリン、フルートにグランドピアノまで。一般庶民のあたしにはそのすべてが高貴なモノに見えて、思わず声に出てしまった。そしてとりあえずパシャリ。
彼女の意外な一面を見たところで部屋を出て、最後の部屋、朝あたしが寝ていた部屋の調査に向かう。先程からはだいぶ時間が経っていて、日差しは南向きの窓から入ってきていた。
「ん?」
部屋を探索していると机の上あたりに違和感。
「なんだろう、これ」
違和感の正体は、整然と並ぶ書物の横に置いてある木の板。近づいてみると写真立てのようだ。だけれども、肝心の写真は伏せられていて見えない。あたしは興味本位で写真立てを立てた。
「……えっ?」
そこには背の高い柚希を含めて、5人の可愛らしい衣装を着た少女と、1人のメガネをつけたスーツ姿の男の笑顔が写っていた。
紙のすれる無機質な音でさえ、部屋の中に反響して幾倍にも大きく聞こえる。溜まった唾を飲み込むことも出来ないほどピリピリとした雰囲気が伝わってきていた。
ポカポカとした陽気に恵まれた朝が遥か遠い昔のように感じられるのは、暖房の温度が低く設定されているせいか、はたまたこの会議室の冷えきった空気のせいか。
美城プロダクション本社ビル9階の第1会議室で行われているのは、明日のオーディションを控えたアイドル部門プロデューサー全体会議。社内の人間から見れば、そうそうたる敏腕プロデューサー10人が集まる中、1人場違いな雰囲気で縮こまっているのが私、渡瀬柚希だ。
趣旨は、どのような方針でオーディションを行うか。会議では、大物俳優堀田銀次郎を担当した古瀬プロデューサーが主張する『個性を重視するべきだ』という意見と、人気歌手夏井桔梗を担当した能見プロデューサーの主張する『能力を重視するべきだ』という意見が真っ向から対立していた。
古瀬プロデューサーと能見プロデューサーの対立は昔から有名らしい。同期で出世時期も同じとあってライバル意識が強いのだろう、様々な意見が飛び交う中、議論は平行線を辿っていた。
会議は予定を大幅に延長して行われたが、一向に進展の気配はない。明日に控えたオーディションまでの時間は確実に近づいていて、焦りからかこの場にいる人はみな冷や汗をかいていた。
「このままでは埒が明きません。多数決で決めましょう」
進行役の今西部長の一声で空気がまた一層引き締まる。
「個性を重視するべきだ」
「いいや、能力だ」
古瀬プロデューサーの発言に食いつくように能見プロデューサーが反応した。その後も次々と他のプロデューサーが意見を述べていく。
やはり双方の主張は拮抗しており、個性vs能力は4人vs5人。残るプロデューサーは私と、私の隣に座る寡黙な大柄の男性、武内さんのみだ。
武内さんは私の下積み時代の直属の上司にあたる人で、優しい性格と強い信念を持っていて、私の尊敬する人物でもあった。
「武内さんはどう考えますか?」
次に意見を述べるのは武内さん。私は祈るような気持ちで武内さんを見ると、武内さんはひどく申し訳なさそうな顔をして。
「…………私は個性を重視するべきだ、と考えます」
責任が私の両肩に重く重くのしかかった瞬間、自分の顔がみるみる青くなるのが鏡を見ずとも分かった。
「渡瀬さん、君はどう考えますか?」
今西部長の優しい言葉も今は処刑のカウントダウンにすぎず、尋常ではない量の冷や汗は背中を撫でて留まることを知らない。
2時間半にも及ぶ会議の命運、美城プロダクションのアイドル部門の命運は、入社3年目の私にかかっている。
「落ち着いて自分の意見を述べてください」
さすがにまずいと感じ取ったのか今西部長も気が気でないように声色を変えた。長い時間の拘束は多かれ少なかれそれぞれに苛立ちを与えていて、1人立っている私をその苛立ちを乗せた視線で責め立てる。
「わ、わた、た、私、は…………」
うまく声が出ない。深く深く深呼吸をしてもう一度。
「………………こ、個性を重視するべきだと……」
そこまで言って、私は椅子にへたりと座り込んでしまった。少し間を置いて、古瀬プロデューサーが大きく拍手をした。そして武内さん以外の個性重視派の3人が続く。能見プロデューサーの顔がみるみる赤くなっていった。
「静粛に。では明日のオーディションの方針は決まりました。各自資料に目を通し、明日に臨んで下さい。以上です」
今西部長が長い会議の終了を告げた。途端、能見プロデューサーが真っ赤な顔でドタドタと足音を鳴らしながらこっちに向かってくる。思わず立ち上がって深々とお辞儀をすると、右手で肩を突き飛ばされて、私は椅子に腰を強く打った。
「貴様のような生娘にこの業界がわかるものか!!」
能見プロデューサーはそう捨て台詞を吐いて会議室を出てしまった。その言葉を受け止めてただ呆然としていると、腰の痛みと共に意識が戻った。気づけば会議室にいるのは私と武内さんと今西部長だけ。
「武内さん…………ひどいです……」
「も、申し訳ありません。自分に嘘はつけないので……」
時計を見るともうお昼を回っていて、お腹が少し鳴った。
「お昼……一緒に食べてくれたら許します……」
「は、はぁ……」
兄のように慕う武内さんとの食事は、極度の緊張の後だからか、ほとんど味がしなかった。
「そんなことがあったんですか…ふふふ」
「ぜんっぜん笑い事じゃないよ…」
日も傾いて午後5時半、終業時間をすぎて私はちひろさんと共にエレベーターに乗っていた。家にいるはずの周子のために就業時間内に仕事をなんとか終わらせ、残業せずに帰宅する。何かを忘れているような気がするが気のせいだと信じて。
「これから、大変ですね」
「能見プロデューサーに目つけられて、明日はオーディションだし……ちひろさんも他人事じゃないからね」
「ですねぇ」
「じゃ、私こっちだから」
「はい、お疲れ様です」
同年代のちひろさんとのひとときの会話を終え、私は1人駅に向かった。路肩の雪もだいぶ溶けている。日の落ちた空は一番星が見えるほど澄んでいた。
歩いて数分、都会の駅は夜でもとても明るいもので、憂鬱な気分も少しは晴れていく気がした。駅のホームでは風が抜けていき、ガードの甘い耳はピンポイントで狙われたように、そこだけとても冷たくなる。
どのくらい待ったか、帰りの電車がホームにやってくる。ようやく落ち着くことが出来るとため息をつくのも束の間、その電車にいつも乗っている彼女のことを今の今まで忘れていて――
「……ははは……」
こちらを見つけて目をキラキラとさせる、赤みがかった髪色をした制服姿の彼女を見て、私は思わず襟元の匂いを嗅いだ。