2月に入り、梅の花が咲き始めた。それでも地上130メートルから見る景色は、私のアイドル達がレッスンを始めた2週間前からなんら変わりない青々とした空が広がっていて、ただ部屋の中にある捲られたカレンダーと節分を控えた鬼の仮面だけが時の流れを告げていた。
またあのピリピリとした会議を終えてプロデューサールームに戻ってからもう10分したが、特に何をする訳でもなく、コーヒーを手にただ目の前の資料を見つめていた。
「どうしました?」
「え? ああ、ちょっとね」
ちひろさんに声をかけられ、どこかに行っていた意識を取り戻す。
「また何かあったんですか?」
「いや、美城ってすごいなー、ってね。コーヒーいる?」
「あ、お願いします」
平日のこの時間は仕事も少なく、私にとっては休息の時間だ。ちひろさんも仕事が落ち着いたのか、珍しく伸びをした。
「ほい、コーヒー」
「ありがとうございます。それで何があったんですか?」
「まぁコレ見てよ」
先程までの会議の資料をちひろさんに渡す。ちひろさんは少しの間きょとんとして、そしてそっと中を覗いた。
「……あー」
「すごいでしょ?」
「なかなか気合い入ってますね、これは」
「これから忙しくなるよ、はぁ……」
ため息なんかをついていると時計はもう午後2時半をさしていた。
「おっと、そろそろ行かなきゃ」
ちひろさんから書類を受け取って、冷蔵庫からスポーツドリンクを3本取り出す。
「今日は行くんですね」
「まぁ、これ伝えないといけないからさ」
「彼女達はどうですか?」
「んー……ぼちぼちかな」
歯切れの悪い返事をしてしまい、ちひろさんの顔が少し曇る。
「ああ、いやいや、まだ2週間なのによくやってると思うよ。でも、もっと彼女達には出せるものがあるはずっていう期待もあってね」
「それは、プロデューサーとしてですか?」
「……そういうこと、かな」
時々ちひろさんは何か見透かしたことを言う。そのすこし心配しているような目から逃れるように、私はプロデューサールームを離れた。
私がアイドルをやっていた、ということはほとんど誰にも言っていない。知っているのは今西部長くらいで、まだ周子達にも言ったことはない。それでもちひろさんは何故か知っているような風に喋るものだから、彼女の勘は恐ろしい。まぁ、別に隠すものでもないけれど。
「なんか、恥ずかしいんだよね」
エレベータールームで1人、言い訳するように呟いた。
「はい、ワン!ツー!スリー!フォー!塩見!遅れてる!」
「っ、はい!」
レッスン場に入ると、聖さんの大きな声と3人の激しい息遣いが聞こえた。時間は午後2時50分、3時までのレッスンももう終盤だ。私は後ろでその踊りを見て待つことにした。
レッスンを始めたあの日から、彼女達は毎日レッスンを志願した。とはいっても、周子は上京、フレデリカは短大の春休み、志希に至っては不登校――曰く『今まで学校マジメに行ってたけど、簡単すぎてつまんないし、アイドルの方が面白そう!』だそうだ――なので、暇を持て余していただけなのだが。
意外なのは3人ともマジメなことだ。3日に1回は志希が失踪するが、大抵は近場で退屈そうにしていて、見つかると最後まできちんと受ける。よっぽどアイドルが楽しいのか、それともよっぽど暇なのか。
「志希!動きをもっと大きく!」
「っ、はぁ!」
また、聖さんの妹、青木明さんが担当する歌のレッスンも始まった。音程をとる程度は3人とも最初からできたが、声量・肺活量の観点ではまだまだだ。
それでも毎日レッスンしているだけの成果はあり、ダンスレッスンでは、最初は2時間持たなかった体力も、今では息を切らせながらではあるが、耐えられるくらいにはなった。動きも目に見えて良くなってきている。
そして、レッスンのレベルもうなぎ登りに上がっていって、もう今は基礎的なダンスを組み合わせたものを練習している。それでもなんとかついていく彼女達に少し感心した。
「宮本!ふらつくな!」
「はいっ!」
ただ、それは各々の課題をも浮き彫りにしていた。フレデリカはバランスがうまくいかずどうしてもふらついてしまい、志希はダンスが小さく怠けている印象を受ける。そして周子は後半になるにつれてだんだんとテンポが遅れてしまう。
加えて毎日2時間のダンスレッスン、1時間の歌のレッスンは、彼女達の体に疲労を蓄積させているだろう。
「……もう1回通して今日は終わりにしよう」
「「「はい!」」」
もう1度最初から踊り始める。汗の匂いに当てられたのか、私もあの時はこんなダンスしたなぁ、なんて考えていると体が自然に動き出した。
見様見真似で踊っていても、3年のブランクというのはなかなか大きなもので、思ったようには体が動かない。それでも後半になってくると楽しくなってきて、自分なりのアレンジを少し加えられるほど余裕も出てきた。
なんというか、懐かしい気分だ。体力は衰えているけれど、1曲でへこたれるほどやわではない。お客さんが入っていた頃は私もこんな新鮮な気持ちで踊れていたのだろうか。
「渡瀬さん」
かけられた声に私はピタッと動きを止めた。気がつくと3人はこちらを見て目を丸くし、聖さんは何か感心したように頷いていた。
「ご、ごめんなさい」
「いや、そこまで踊れるというのはなかなかのものだ。何かやっていたのか?」
「えっと……昔少しかじった程度ですよ」
「……ほう、それでもスーツでそんなに動けるというのは……」
聖さんが興味津々に食いついてくるので、今更恥ずかしくなってくる。アイドルやってた、なんて言える雰囲気ではない。レッスン室の大きな鏡には赤くなった私の顔がはっきりと映っていた。
その視界の端で、周子が肩で息をしながら俯いているのが見えた。彼女はこちらを向くと、ニコリと笑った。
「すごいね、はぁ、柚希さん、はぁ」
「周子、大丈夫?」
「平気平気、はぁ、少し疲れただけやから、はぁ」
周子は相当体力を消耗しているようで、その場にへたりと座り込んだ。呼吸は早くなっていて、とても辛そうだ。ちょっとした罪悪感が芽生えた。
「シキちゃんももう電池切れー……ばたんきゅー」
続いて志希も床にうつ伏せになって動かなくなってしまった。まぁ志希は動けないのではなくて動きたくないのだろうが。
「わおっもうこんな時間! じゃあフレちゃんはおやつの時間にしよ♪ シューコちゃん、このお菓子食べていい?」
「んぅ、いいよ」
「やったぁ♪ フンフンフフーン♪」
そんな中フレデリカだけはまだピンピンしていて、マイペースに周子のバッグの中にあったアーモンドチョコを食べている。鼻歌までつけてゴキゲンそうだ。
「宮本はともかく、塩見と一ノ瀬は連日のレッスンで体力を消耗している。少し休んだ方がいいだろう」
「そう、もいかないかもしれません」
「ん、なになに? 何かあったの、プロデューサー?」
聖さんの忠告は重々承知しているが、そうはいかない事情があった。私は持ってきた資料を聖さんに渡し、寄ってきたフレデリカにも渡し、そして倒れ込んでいる周子と志希にも渡した。
「これから言うこと、落ち着いて聞いてね」
一瞬の静寂の後、少しの不安と心配を胸に、私は静かに口を開いた。
「デビュー曲と、テレビ出演が決まったよ」
アイドルという夢物語を最後に描いたのはいつだっただろうか。
あれは確か4年前、実家の店番をしていた時、店にテレビで見たことがある女性が訪ねてきたことがあった。いわゆるアポなし企画というもので、『京都で名のある和菓子屋さん』という口コミを聞きつけて訪ねてきたようだった。
中学2年生だったあたしは、結局テレビに映るだけの度胸はなく、親に対応をすべて任せて、看板娘の職を放棄した。
けれど、生で見た彼女の美しさが忘れられず、テレビでアイドルとして活躍する彼女を見た時はキラキラと輝いて見えたものだ。
そんな遠い存在だったアイドルの第1歩をあたしは踏み出そうとしている。
「はぁ……」
デビュー曲という大きな存在を前に、あたしから漏れたのは喜びではなくため息だった。
地上30階のさほど大きくない部屋に1人。フレちゃんと志希ちゃんはもう家に帰っていて、隣ではまだ柚希さんとちひろさんが作業をしている。西日が部屋を赤く染めて時間の経過を実感させていた。
デビュー曲といっても、あたし達3人のユニットというわけではなく、美城プロダクション所属アイドル全員名義のユニット『シンデレラガールズ』として出すというもの。曲は『お願い!シンデレラ』と『とどけ!アイドル』の2曲、どちらもアイドルを全面に出した明るい曲だ。
だけれども、ため息をつかせた原因は他にあった。それは初披露の場所だ。
「よいしょっと」
プレイヤーをイヤホンに繋いで、延々と2曲のCD音源をループさせながら、もう1度配られた資料を見る。
ミュージックスタジアム、通称Mスタはテレビ夕日系列の超長寿音楽番組。毎週高視聴率を叩きだし、Twitterのトレンドをかっさらう。そんな番組の2時間スペシャルであたし達はデビューしなければならないのだ。しかもそれは3週間後、時間の猶予もあまりない。
共演者の面子を見ると、どう考えてもあたし達は場違いだ。絶対に失敗できないという焦燥感が心を支配していく。
「周子、終わったよ」
「あ、うん、お疲れー」
もう5時半か、とあたしはソファーに寝っ転がっていた体を起こすと、柚希さんが隣に座ってきた。
「片方貸して」
「ほいほい」
あたしの左耳につけていたイヤホンを柚希さんーの左耳につける。そのまましばらく2人で聞いていると、ちひろさんがこちらを見て微笑んでいるのに気づいた。
3週間一緒に住んでいると、こういうスキンシップは割と当たり前になっていたが、なんだか照れくさくなってきて、少し距離をとろうと体を左に寄せると、柚希さんの左手があたしの左肩を引き寄せた。
「うわっとと」
「イヤホン、外れるでしょ」
バランスを崩して柚希さんに膝枕をされる体勢になってしまった。慌てて起き上がろうとしても、柚希さんが腕を腰に回していて身動きが取れない。仕方なく寝返りをうって、イヤホンをしている右耳を上にした。
志希ちゃんじゃないけど、この体勢は彼女の匂いが強く感じられてなかなか。
「どうしたのさ、いきなりこんなこと」
「……なんか、謝りたくてね」
「何を?」
「色々、無理させること」
「大丈夫、あたしを誰だと思ってんの」
「だけど……」
本当はあの時相当辛かったのは内緒だ。連日のレッスンと跳ね上がる難易度は、少なくともあたしの体力を徐々に蝕んでいる。だけど、志願してレッスンを受けている手前、休むわけにはいかない。デビューがもうすぐに控えているならなおさらだ。
「あ、そういえば」
あの時見た彼女のダンスは相当のものだった。あたし達が2週間頑張ってきたことを、一瞬見ただけでやり遂げてしまった。
「柚希さんってアイドルやったん?」
「…………」
「あの写真の1番左の人、あれ柚希さんやろ?」
「……はぁ、隠せないか」
柚希さんは右手をあたしの頭の上に乗せた。
「内緒にしててね」
「んー、別に隠す程でもないんじゃない?」
「そうなんだけどね。だけど、地下アイドルなんて何の経歴にもならないし、それに……」
彼女は左手を握りしめた。
「それに、あんまりその頃を思い出すと、周子達に嫉妬しちゃいそうだから」
「嫉妬?」
「……私達、テレビなんて出たことないし、ましてやメジャー曲なんて出したことないからさ」
「あー……」
悲しい顔をしてそんなことを言う彼女に、私はこれ以上の詮索ができなかった。しばらくの沈黙、柚希さんは完全にネガティブな考えが頭を占めているようで、耳から落ちたイヤホンにも全く気づいていないようだ。
「……もしかしたら、私が勝手に周子達に嫉妬して、無意識に無理させようとしてたのかもね」
いきなりそんなことを言い出したものだから、驚いて彼女の方を見た。短い前髪が影を作り、目に涙が溜まっている。
「そんな顔しないでよ。あたしはまだ大丈夫、全然動けるって」
「でも……」
彼女の涙が今にも落ちそうになった時、コトッと何かを置く音がした。
「さっきから聞いてれば、湿っぽい話ばっかりしないでくださいよ」
続いて呆れたような声。見るとそこには帰る準備を済ませたちひろさん。何故か鬼の仮面を被っている。私は驚いて柚希さんの膝から飛び起きた。
「周子ちゃん達は頑張りすぎです!もう少し自分の体を気遣ってください!」
「え、はい」
「渡瀬さんは渡瀬さんで、元アイドルなんでしたら、先輩として周子ちゃん達に色々教えてあげればいいじゃないですか!つまらない嫉妬をする前に、これからのことを考えてくださいよ!」
「……はい」
「……なんて」
珍しく声を荒らげるちひろさんに気圧されていると、彼女は鬼の仮面を外した。
「柄じゃないですけどね。これは私のおごりです。飲んで元気出してください」
机に置いてあったのは2つの小さな瓶。
「これは?」
「私が愛用しているスタミナドリンクです。出元は秘密ですが、決して怪しいものではないですよ」
「ちひろさん、ごめんね、気遣わせちゃって」
「もう! そういう時は謝罪はいりませんよ」
「……うん、ありがとね、ちひろさん。それと、周子」
「ん、なーに?」
「……ありがとう」
柚希さんの目から溜まった涙が落ちて、それから笑顔になった。太陽が沈んで暗くなった部屋に3人分の笑い声が響く。もらったスタミナドリンクは、なんだか変な味がした。