「第二の『試練』とは、『あったかもしれない可能性』を見せるだけの現象なんだ」
ティーカップをテーブルに置いたまま、賓客なき茶会で、魔女は語る。
あらゆる色が抜け落ちたような白い髪が、頭から背中を覆っており、その身は喪服のような濡れ羽色のドレスに包まれている。
組み直した両手と、髪の隙間から見える顔だけが、彼女の新雪のような肌を覗かせていた。
漆黒を纏った純白の魔女――『強欲の魔女』エキドナは、言葉を続ける。
「挑戦者の記憶を細部まで網羅し、『世界の記憶』が挑戦者の過去・現在・未来を読み取って、必要な情報を抽出する。そうして組み立てられた、『ただその時だけの世界』。それが第二の試練の正体なんだよ」
エキドナは語る。自分と同じ『魔女』に、親愛なる友人に言葉を告げる。
そして、講釈を聞く金髪の魔女――『憤怒の魔女』ミネルヴァは、勝気な声で言葉を返した。
「なにそれ。ややこしくてわけわかんない。『別の世界を見せるだけ』って、『試練』の間は、この世界から消えちゃうってわけ?」
勝気さと可愛らしさを秘めたその声に、エキドナは苦笑を返す。
「まあ、第二の『試練』の正体そのものは重要じゃないね。君の質問に答えよう。答えはノーだ。第二の『試練』は、茶会や第一の『試練』と同じでね。あくまで精神のみが体験するもので、肉体をどこかに飛ばすようなものではない」
そこでエキドナは一度言葉を止め、テーブルのカップを手に取り、口をつける。
「じゃあ、おかしいじゃない。何であの男はいきなり墓所から消えちゃったのよ。おかしいじゃない。エキドナ、あんた何か企んでるんでしょ。そうなんでしょ」
「残念だが、それは否定させてもらうよ。これはワタシの意図した現象ではない。個人的には、ワタシは彼が第二の『試練』を受けることを望んでいたんだよ。なのに、『試練』は成されることなく彼が消えた。ワタシには、全く予想できなかった出来事だ」
自分の企みが水泡に帰したと言いながら、その口元はほころんでいる。
「ただ、何が起きたのか、ある程度の推測はできるよ。第一の『試練』は彼の記憶のみから構成される世界だったが、第二の『試練』は違う。彼の記憶と、彼の知らない記憶を踏襲した上で、『あったかもしれない世界』を構築するためのものだ。『世界の記憶』は、彼の心中を、過去を、後悔を読み取ろうと試みた。彼が見てきたもの、彼が知っているもの、彼が知らない裏側まで。そして――この世界だけでなく、彼のいた異世界についてまで、読み取ろうとしたのさ」
エキドナが軽く手を掲げると、その手に黒い装丁の本が出現する。――この世界のありとあらゆる過去、現在、未来を読み取る、禁断の書だ。
「あの男の、元の世界について読み取ろうとしたのはわかった。でも、だからなんなの? 何をどう読み取ったところで、そんなの再現性が変わるだけで、あの男が消えちゃうことにはならないじゃない」
「本当にそうかな? ワタシにだって、この『叡智の書』の全てを解明できてはいないんだ。『世界の記憶』の知識を伝える機能がある、それは間違いない。けれど、『異世界の記憶』を読み取るというのは、この世界だけでできることなのかな? 彼という異世界人を起点にした時に、この本は『異世界の記憶』も求めた。そして、その果てに異世界との繋がりを作り出すことができないと、どうして言えるだろうか!」
いよいよ興奮を隠すことのなくなったエキドナは、流暢に語り続ける。
「彼を起点に、この世界と異世界との繋がりができてしまった。こちらの世界に彼を呼び込んだ者がいたように、この世界から彼を呼び戻す存在がいたんだよ。果たしてそれは何故彼を呼び戻したのか。ワタシのような、彼への好奇心からか。アレのような、彼そのものへの妄執なのか。――――興味が尽きない」
エキドナは。
強欲の魔女は。
未知を愛し、好奇心の充足を喜びとする魔女は。
まるで恋人へ向けるような視線を、この世界から消えた少年へと向けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「菜月昴さん、ようこそ死後の世界へ。あなたは不幸にも亡くなりました。短い人生でしたが、あなたの生は終わってしまったのです」
唐突に告げられる言葉を他所に、ナツキ・スバルが行ったのは状況の確認だった。
まず自分の最新の記憶を思い起こし、死因らしきものが考えられないことを確認する。
続いて周囲を見回すと、その水色の髪と淡い紫の衣を纏った少女が目に入る。
見覚えのない相手だ。
自分がよく知る銀色の少女でも、青色の少女でも、ましてや訪ねようとしたモノクロの魔女でもない。
場所は墓所の石室ではなく、真っ白な部屋だ。何度も体験した、口の中に砂が入ったような不快感もない。
記憶にない相手、記憶にない場所――『死に戻り』が起きたわけではなさそうだと判断する。
スバルが死んだ時、世界は時間を遡り、強制的なやり直しが行われる。それがスバルにつきまとう魔女の祝福『死に戻り』だ。
現にスバルは『聖域』を起点とするループに、ずっと囚われていた。
人質を解放し、屋敷に帰還した直後に『腸狩り』に腹を裂かれた一度目。
屋敷に戻り、誰一人守れないまま、何もわからずに食い殺された二度目。
聖域の守護者ガーフィールに監禁され、多くの命と引き換えに生き延びて、忌まわしき魔獣『大兎』に再び食い殺された三度目。
強欲の魔女に全てを打ち明けた結果、嫉妬の魔女の怒りを買い、影に呑まれる前に自害した四度目。
そして、全てを失い、あまりに凄惨な地獄を体験した五度目。
何も守ることができないまま、今回のループだけで、都合五度の死を経験した。
そして彼は悲劇から全てを救うため、唯一全てを相談できる相手――エキドナの元へと赴くと決意したのだ。
だが、自分がいるのは、魔女の茶会でもなければ、その入口の墓所でもない、真っ白な部屋であり。
目の前にいるのは白黒の魔女ではなく、水色の髪と、淡い紫の衣を纏った少女だった。
その髪の色は、スバルが救うと誓った少女を思わせて。その人間離れした美貌は、スバルが守ると誓った少女を思わせる。
「俺が、死んだ?」
「ええ。初めまして、菜月昴さん。私の名はアクア。日本担当、水の女神アクア。若くして死んだあなたを導くために来たの」
おかしい。
少女――女神アクアの言葉を聞きながら、スバルの頭は疑問で埋め尽くされる。
自分が死んだ、その事実は構わない。
元よりスバルの命は消耗品だ。何度死に、心をどれだけすり減らそうと、全てを守り障害を突破する覚悟はできている。
だが、死後の世界に連れてこられたというなら、話は別だ。
この『死に戻り』はスバルに無限の機会を与え、死という安息を許さない。
そこに回数制限はなく、嫉妬の魔女がスバルに執着し続ける限り、自分には無限の挑戦権が与えられる。
そのはずだ。
そうでなければ、ならないのだ。
「私は死んだあなたに、二つの道を提示します」
『死に戻り』の力が失われたというならば。
ナツキ・スバルが永久に失われたというのなら。
あの世界は二度と救われない。
屋敷では殺人鬼が惨劇を引き起こし、聖域に閉じ込められた人々は魔獣に食い殺される。
育ての親パックという支えがなく、スバルをも失った銀色の少女――エミリアは、心を病むだろう。
世界から忘れられた青色の少女――レムは、誰にも目覚めさせることができないだろう。
それが確定するということは、つまり――。
「一つは人間として生まれ変わり、新たな人生を歩むか。もう一つは天国的なところで……」
「やめろ」
「はいぃ?」
思わず出た言葉が、アクアの言葉を遮った。
「あのねぇ、私女神なんですけど? 神さまの言葉を遮るなんて、何考えてるわけ?」
アクアの口調が崩れ、女神のメッキが剥がれているようだが、そんなことは聞いていない。
ダメだ。ダメだ。ダメだ。
自然と拳を強く握りしめる。肌が裂け血が滲んでいるのを感じるが、そんなことは今はどうでもいい。
「やめてくれ。そんなの望んじゃいない。今更そんなものは、望んじゃいないんだ」
ダメだ。ダメだ。ダメだ。
ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。
なんで今更。なんで今更。
なんで今更!
「解放なんていらない。転生も天国も望んじゃいない。俺は戻らなきゃいけないんだよ! 戻って、ペトラを、フレデリカを、オットーを、ベアトリスを、ラムを、レムを、エミリアを!」
気がつくと、前にいる女神へ一歩踏み出していた。そのまま自分の両手でアクアの両腕を掴み、一気に詰め寄り……いや、縋り付く。
「ちょ、近いって。っていうか臭っ! 何あんた悪魔かなにかなわけ!?」
「俺が守らなきゃいけないんだ! 俺が傷ついて、俺が苦しんで、俺が守らなきゃいけないんだよ! 早く戻してくれ!」
「――――――――っ」
「天国なんていらない! 俺を、あの世界に!」
動揺を隠すこともなく、悲壮感に満ちた顔で。少女の腕に跡が付くほどの力を込めて、ただただ希う。
安息などいらない。
「あの地獄の前に、戻してくれぇ!」
死に満ちたあの世界に。地獄が待ち受けるあの時間にこそ、戻りたい。
そんなスバルの懇願は。
「…………残念だけど、それは認められないわ、菜月昴さん」
真っ向から、切り捨てられた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
戻れないのか。
「ちょっとー。そんなに落ち込まれると困るんですけど……」
守れないまま、本当に終わるのか。
「ねえ、そりゃショックだったのはわかるわよ?
自分が死んじゃったんだもんねー。でもほら、天界には天界の規定があるっていうか。そうホイホイ元の世界で生き返らせてあげるわけにはいかないのよ」
だが、諦めることはできない。
考えろ。
力も知恵もない、何もない自分は、考えて足掻くことはやめてはならない。
「っていうか、こういうシリアスな空気は苦手なんですけど。私を崇めて感極まるとかならともかく、暗い雰囲気になられても困るの。
おまけにあなたなんだか臭いわ。暗いわ臭いわってもうどうしようも……ああ言い過ぎたから余計に落ち込むのやめてちょうだい!
『悪魔祓い』! ほら、これで臭くなくなったわよ!
とにかく、死んじゃったものは死んじゃったんだから、そこはきちんと切り替えて……」
「そうだな。急に取り乱して悪かったよ、女神サマ」
まず深く息を吸い、肺に空気を入れる。死後の世界とやらに酸素があるのかは知らないが、呼吸すれば脳の回転もマシになるだろう。
そうだ。
冷静になってから考えてみれば、スバルが死んだということ自体眉唾ものだ。あの墓所でスバルを殺すような理由のある人間は、これまでのループを見る限りいない。
スバルと敵対的な男――ガーフィールが不干渉宣言を翻したという可能性も考えたが、それも考えにくい。『試練』そのものを避けている彼が邪魔をするなら、わざわざ『試練』が起こるかもしれない墓所に足を踏み入れたりするまい。
墓所に入る前にスバルを止めるか、殺していれば済むだけの話だ。
スバルは二度、三度と深い呼吸を重ね、アクアに自分が落ち着いたことを暗に示す。
そのまま手を大きく横に広げ、害意がないことをアピールした。
「なんつーか、俺は死んだって自覚がないんだよ。最後の記憶では周囲に誰もいなかったし、何かが落ちてくるような事故があったとも思えないんだが。なに? 知らないうちにデスノートにでも名前書かれたの?」
「あー、いるのよね。自分が死んだって認められない人。えーと、今調べるからちょっと待ってなさいよ」
スバルの言葉に、アクアは自分が持っていたメモ帳らしきものをペラペラめくる。仕事はそれなりに真面目に取り組もうと考えているのか、割りと真剣そうな顔だ。
こうして改めて見ると、見事な美貌に感心する。幼さと高貴さと艶やかさが同居したエミリアの美貌とも、艶と儚さと威圧感を兼ね備えたエキドナの魔貌とも違う。
人間離れしながらも、情念も恐怖も抱けない。自然と手を合わせてしまいそうな神々しさを醸し出していた。
そんな視線に気づいたのか、アクアはその神々しい美貌を歪ませ、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。
「何よ。ははーん、ひょっとして私の美貌に邪な感情を抱いちゃったりしたのね? でもダメよ。私女神だから、その辺の人間が口説いたところでどうにもならないの。たとえ大金持ちが全財産貢いだって、指一本触れられない遠い存在なのよ。残念だけど諦めなさいな」
「あいにく、俺は普段から好みどストライクの美少女で目の保養をしていてな。それに俺の心の一番目と二番目はとうに埋まってるから、どんな美少女だろうと揺らいだりしねえよ、女神サマ」
「一番目と二番目ねえ……。えーと、どれどれ。『菜月昴、日本人。人間関係がうまく築けず、痛い奴だと思われて孤立して次第に不登校児に』と。二股できるような甲斐性はあるようには見えないわねー」
書いてあることは事実だし、スバルとしても現状二股できているわけではないので、特に反論はできない。
押し黙るスバルを横目に見つつ、呆れたような顔でアクアはメモを読みあげていき――次第にその瞳に浮かぶ感情が、困惑の色に染まっていく。
「えー、腸フェチの変態に殺される、同上、チンピラにうっかり殺される……はぁ?」
アクアが、信じられない顔で読み上げていく惨状。
「犬に噛まれて呪い死ぬ。女の子に頭を砕かれる。同じ娘に拷問された後別の娘に介錯される。投身自殺……」
その全てが、ナツキ・スバルが実際に体験してきた『死』だった。
アクアは目を細めて、品定めするようにスバルを見つめ、ぶつぶつと呟く。
「あんた、本当に何者? 残機持ちの悪魔……じゃないわよね。それならさっきの魔法で消し飛んでるはずだし、そもそもここに来るのは日本人の死者だけだもの。悪魔が入り込む余地はないわ」
その言葉はスバルを詰問するものから、次第に自問するようなものへと変わっていった。
下手に疑われないよう、スバルはその視線から逃れるようなことはしない。その上で、アクアの言葉について考えを進める。
状況がわからない以上、自害による『死に戻り』を試すのは危険がありすぎる。今必要なのは、ここから元の世界に戻るための手段を探すことだろう。
ナツキ・スバルが『死に戻り』を活用して、活路を見出さない限り、あの世界で惨劇は繰り返される。
なんとかこの女神から、元の世界に戻すという確約を取り付けなければならないのだ。
「私のくもりなきまなこで見たところ……人間、それも日本人なのは間違いないわね。魂には確実に死が刻まれてる……。でも、肉体が一緒に転送されてる……? 死んだ魂の自動転送に、肉体がついてくるなんて、絶対にありえないんですけど。間髪入れず蘇生魔法を使っても、剥がれた魂は一旦ここに来てから、蘇生された肉体に戻るものだし……」
考えろ。考えろ。誤ちを選べない今こそ、冷静に戻って考えろ。
「ま、いっか。どうせ死んでるってことに変わりはないんだし、このまま手続きしちゃいましょ」
先程の真剣そうな顔はなんだったのか。めちゃくちゃテキトーな結論に達したアクアを他所に、スバルは考えを進める。
まずスバルとして一番望ましいのは、これがエキドナのたちの悪い悪戯という可能性である。
だが、それにしては精神が肉体から乖離するようなあの感覚を覚えていないし、こんな誰とも知らない女神とやらを用意すまい。
ならば後は、この女神が色々と勘違いしているだけで、実際は死んでもいないのにここに飛ばされてしまった可能性だ。
アクアの独り言を一つ一つ咀嚼して、自分なりに解釈すると、そちらの可能性は高い。
魂の自動転送――つまり、彼女たち神は死者を迎えるといっても、世界中の死者をいちいち探し回って迎えに行っている仕組みではないらしい。
当然だ。世界中で毎日大勢が死んでいる以上、神としても世界中を探し回る余裕はないのだろう。
世界には――神が作ったものなのか、それとも元々あったものなのかは不明だが――『死』が刻まれた魂を感知し、自動的に天界へと送り込むシステムがあるのだ。
そしてアクアのような神によって、死後の魂を導いているということになる。
魂に死を刻まれた者。ここまでナツキ・スバルを的確に表した言葉はあるまい。
異世界に飛ばされて、何度も何度も死んだ自分が、何故今更感知されたのかはわからないが――とにかく、ここに飛ばされた理由はわかった。
自分は墓所で肉体的に死んだわけではなく、死を経験した魂の持ち主として、ここに送られてきたのだ。
ならば、なんとかそこから切り崩せないだろうか。
「女神サマ。俺に肉体があるのなら、生きてるってことで元の世界に帰してくれてもいいんじゃないか?」
「ダメダメ。十回以上死んでるくせに肉体があるだなんて意味わかんないけど、それでも死者は死者よ。そんな理由で特別扱いするなんて、エリート街道を進む超偉い私にはできないわね」
エリート。
先程の雑な仕事ぶりからして、スバルの目には気に入った相手ならホイホイ蘇生させそうな適当な感じの性格に見えるのだが。
どのみち今はそんな慈悲は期待できそうにない。
ならば――確かめるしかあるまい。
「わかった。説明するよ。俺の魂がおかしいのは、俺が『死にも――」
刹那。
世界が色を失い、時が静止した。
視界から現実感が失われ、何の音も聞こえず、床の感触すら感じられない。
そんな中、黒の魔手だけが、その世界を自在に動く。
スバルの腹を、肋骨を、内臓を。愛おしげに撫でるように突き進んでいくその魔手だけが、スバルの脳にダイレクトに感覚を伝えてくる。
そして、最後に心臓を握りしめられる激痛がスバルを支配した。
「――――――――――――が、」
やがてその魔手から解放され、世界が色を取り戻す。
『死に戻り』を明かすことは、嫉妬の魔女が定めた唯一の禁忌だ。
それを破れば、スバルの心臓――あるいは、聞かされた誰かへとその魔手が伸ばされる。
たとえ覚悟があろうとも、その痛みと恐怖は、それを容易に捻り潰そうとし――時として、その命すら奪う。
これまでのループで、スバルが幾度となく経験してきた、嫉妬の魔女の警告であった。
今回『死に戻り』を告げようとした相手は初対面。彼女に危険が及ぶ可能性はゼロに等しい。
故に、天界という場所では嫉妬の魔女から解放されているかもしれない――『死に戻り』が作用しないかもしれないと考え、試したのだが。
「やっぱりお前も、ついてきてるってのか――」
エキドナの夢の城では、嫉妬の魔女は禁忌を破ったスバルに手を出すことはできなかったが、同じ条件がここにも通じるかというと、そうではないらしい。
これでアクアに全てを告げて、帰してもらうという選択肢は取れなくなった。
もっとも、『死に戻り』の継続、その可能性を確かめられたと考えれば、スバルにとって最悪の結果とは言えない。
「ちょっとー。説明するとかいって、いきなり止まらないでよ。しかもなんか臭くなったんですけどー。エンガチョよエンガチョ! もう、『悪魔祓い』!」
突如不自然な様子を見せたスバルに、アクアは不審がりながらも女神流の魔法をかける。
「悪い、なんでもない」
返答しながらも、スバルの頭は回転をやめない。
嫉妬の魔女がここまでついてきているのなら、最悪スバルが死ねば『死に戻り』が作動し、墓所に戻れる可能性が高い。
ならば、後はそれをせずに済む手段を模索するだけだ。
選択肢として自害が増えたことに安堵しながら、スバルはアクアとの話を続ける。
「……俺が何をすれば、『特別扱い』して、元の世界に帰してくれるんだ?」
アクアは、時間を何度も巻き戻ってきたスバルにとっても、これが初邂逅の相手だ。何をすれば気に入られるかなど、わかりはしない。
ならば、ここは単刀直入に切り込む方が正解だろう。
アクアはそんなスバルの姿勢にも、興味なさげな態度を見せる。
「あるっちゃあるけど、無理だと思うわよ」
「まあ、話だけでも頼むよ。話すだけなら、別に減るものでもないだろ?」
「ま、それもそうね」
アクアは羽衣をいじる手を止め、両手を胸の前で組み直した。
「あなたを元の世界に戻してあげるためには、これから、地球とは別の世界で魔王を倒してもらう必要があるわ」
「別の世界? ……ルグニカとかカララギとかヴォラキアとか、そんな国がある世界か?」
「何よそれ、どこのゲームの話? そうじゃなくて、これからあなたが行く、未知の世界のことよ」
残念ながら、飛ばされる異世界が、戻りたがっているあの世界だった、なんて都合の良い話ではないらしい。
アクアが続けた話はこうだ。
その世界には魔法がありモンスターがいて、魔王軍の侵攻に人類は苦しめられている。
そして、悲観した現地住民たちは、死後の生まれ変わりを拒否。ただでさえ死者が多いにも関わらず、転生による魂の循環も滞っているために、新たな命もなかなか誕生しない。
この人口不足が続けば、遠からず人類滅亡の危機に瀕することになる。
「だから、日本人で若くして亡くなった人に強力な武器や才能なんかを持たせて、異世界への援軍にしたい――っていうのが、今実施されてる計画なんだけど」
「けど?」
「あんた、最初から肉体があるでしょ? 肉体がある人には、チートを持たせるってのができないのよ」
肉体を再生する時に一緒に専用適性もつけるからね、武器持たせてもちょっと強い剣とかになるわ、と付け加える。
なるほど、それならばスバルには不可能だと得心する。
ならば特別な力を与えられることもなく向こうに行って魔王討伐を目指すよりも、さっさとここで死んで戻った方がマシかもしれない。
そうスバルが考え始めた時。
「もしあなたが魔王を打ち倒すことができたなら、どんな願いでも一つ叶えてあげるわ」
「――――――――」
どんな願いでも。
どんな、願いでも。
「それが、生きて元の世界に戻るための条件か。……なあ、俺としてはあんまり遅くなったら、向こうの世界に戻っても意味が無いんだよ。すげー悪いけど、あっちの世界って物凄く立て込んでてさ。腸フェチな頭のおかしな女とか、人を食い殺す獣とかが、俺の大切な人たちを狙ってるんだよ。あそこに戻るためなら、また別の世界だろうとなんだろうと行ってやるけど、それで皆を助けられなくなったらどうしようもないんだ」
「その点は心配ないわ。どんな願いでもって言ったでしょ。魔王倒した勇者様は特別待遇。勇者様が死んだ後なら、どんな時間軸でも戻していいってお墨付きももらってる。なんなら、死んだ直後の時間に戻した上で帰してあげるわよ」
そう語るアクアの瞳からは、ナツキ・スバルにまるで期待していないということが見て取れる。
「ひょっとして、本気でやる気なの? チートなしで魔王に挑むなんて、ちょっとどうかしてると思うわよ。大人しく天国行くか、赤ん坊に転生するかにしときなさいな」
「ま、ちょっとおかしいくらいは許してくれよ、女神サマ。俺は昔から、人と違うことをやっては白い目で見られてきた男だからな」
ナツキ・スバルにより、転生特典なしでの魔王討伐。
女神は無謀だと考えているようだが、スバルは可能性を感じていた。
魔女が未だスバルに喰らいついているというなら、それはスバルの『死に戻り』が未だ失われていないことを示している。
ならば、希望はある。
ナツキ・スバルに使い道は残っている。
幾多の死を乗り越えて、最善の未来へとたどり着く希望が、ある。
魔王を倒す未来、そこにたどり着いた時――。
「魔王討伐――俺がその『無理』をやり遂げたなら、叶えられる願いの数を増やしてくれ」
スバルの脳裏に浮かぶのは、眠り続ける青色の少女、レム。
彼女はこの世界で誰よりもスバルを愛し、スバルもまた彼女を愛した。
ある悪意に飲まれ、眠り姫に変えられたレムを、必ず目覚めさせる。そうスバルは誓った。
救い出せる手段は見えずとも、諦めずに救うと誓った。
そして今、神の力を借りるチャンスが降りてきている。
絶対にこれを逃してはならない。
「一つじゃ足りないんだ」
力も知恵も、何もかもが足りないスバルが、それでも成し遂げなければならないことがある。
自分を魅了した銀色の姫の道のりも。
温もりをくれた青の少女との日々も。
全てを守り、取り戻すためにナツキ・スバルは存在している。
聖域を起点としたループで、初めて起きた、女神との邂逅。この変化は、きっとプラスにできる。いや、しなければならない。
「よく考えたら、このまま戻っても、何もできないまま終わっちまうかもしれねえんだ。何か持って帰らないと、意味がねえ。一つの世界を救うなんてどでかいことを、縛りプレイでやるって言ってるんだぜ?なら、やり遂げた暁には、ただ戻るだけじゃなく、俺の大切な人たちを俺の望む形で救ってほしい――このくらいの贅沢は認めてくれてもいいんじゃね?」
これまでのループに希望が見えなかったことは確かなのだ。
この女神、時々アホさは感じるが、嘘を言ってるようには見えないし、魔女達のような得体の知れない危険な臭いもしない。
といっても、あくまでスバルの主観から来る印象論で、それだけで信用するのは甘すぎるかもしれないが……。
脆い希望に『オールイン』するのは、初めてではない。
もっと交渉材料があれば良いが、今のスバルにできるのはこれが精一杯だ。だからあとは、ただ頭を垂れるのみ。
「――――頼む」
「いいわ、認めてあげる」
「マジか!」
あまりにもあっさりとした了承。言質を取った喜びのままに頭を上げたスバルに対し、アクアは手を振りながら、考えるのも億劫という態度を見せた。
「もういいからとっとと行っちゃいなさいよ。どーせ期待はしてないし、アンタといるとシリアスな空気になって辛気臭いわ。後がつかえてるのよ。はあ、次からは姿を見せる前に、経歴や死因を確認してからのほうが良さそうね」
そう言いながら、すでにアクアはスバルに興味を無くしたように視線を下に移す。
釣られてスバルも足元を見ると、そこには青い魔法陣が出現していた。
アクアは本を閉じ、どこからともなく取り出した杖を構え、告げた。
「さ、そこから出るんじゃないわよ。……こほん。勇者よ! 願わくば、数多の勇者候補達の中から、あなたが魔王を打ち倒すことを祈っています。……さあ、旅立ちなさい!」
厳かなアクアの声を聞きながら、スバルは明るい光の粒子に包まれる。
その肉体は重力に逆らうように持ち上がり、高度をぐんぐんと上げていった。
誰よりも死を体験し、幾多の地獄を見てきた少年は、誰に告げるでもなくつぶやいた。
「待ってろ。俺が、必ず――――」
――皆を、救ってみせる。
次の瞬間に彼――ナツキ・スバルはこの世界から消滅した。