――時間は少し遡る。
ゆんゆんやめぐみんの部屋のある宿、その廊下に設置されている男女共用のトイレ。その中で使用中となっている個室はたった一つ。スバルが帰ってきていない以上、必然的にここにスバルがいる。
そう判断したゆんゆんは、ゆっくりと扉を叩く。少女の小さな拳と木製の扉が衝突し、シンプルで均質な音が空間に鳴り響いた。
「その…………すみません、ナツキさん。申し訳ないと思うんですけど、そろそろ出ていただけませんか?」
返事がない。だが、扉を叩く音で驚いたような気配を感じたし、誰かが中にいることは明白だ。
ゆんゆんとしても相手を急かすような真似を、それも用を足している異性にしたくはない。
だが、事が事だ。今の機を逃してしまうと、次に移動できるチャンスがいつになるかわからない。
ためらいを振り切り、再度、繰り返すように扉を叩く。
「ナツキさん、お取り込み中すみません。その、私もこんな時に声かけるのはアレかと思ったんですけど、ちょっと時間がないようなので、急ぎの用事があるんです」
返事がない。
スバルを怒らせてしまっただろうか。嫌われてしまったらどうしよう。
心中を絶え間なくを焦燥が渦巻くものの、ここまでやってしまったら今更である。出てきてもらった後に、素直にごめんなさいするしかあるまい。
「その、返事だけでもお願いします。あの、もしもーし!」
そう決意して扉を三度叩き始めた時、突然扉が開いた。
「あーもう、うるさーい! 人が取り込んでるんだから、急かさないで欲しいんですけど!」
水色の髪を振り乱し、女性が開いた扉の中から姿を見せた。
淡い紫色の衣に包んだ身体、その胴体は女性として見惚れるようなボディラインを描き、そこからは均整の取れた手足がすらりと伸びている。
神に授けられたのか悪魔と取引したのか、目鼻立ちは整うを通り越して、もはや人間離れした美貌を持っていた。
その水色の瞳を恨めしそう向けられて、慌ててゆんゆんは己の失礼さに気づいて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! てっきり知り合いが入っているものだと思っていたので、まさか無関係のお姉さんが用を足していたなんて知らなかったんです」
「女神はトイレなんて行かないけどね! ただトイレ掃除してただけよ!」
「め、女神……?」
意味不明な言葉を聞き、ゆんゆんの頭はさらに混乱の境地に至る。確かに女神という言葉が似合うほどの美貌の持ち主だが、比喩的表現だろうか。まさか、自分を女神と思いこんでいるわけでもあるまい。
ゆんゆんの驚愕を見たその自称女神は、自分がおかしなことを言ったことに気づいたのか。狼狽の表情を浮かべて、
「こほん、間違えたわ。私は通りすがりのアークプリーストよ。こんなところに女神なんているわけないからね。でもほら、トイレの汚れとか、そういうの気になる性質だから掃除してたの。ほんと、それだけだから!」
それだけ言うと、女性はそのままゆんゆんの前から去っていった。
少しの間ぽかんと口を開いたままその姿を呆然と見送るゆんゆんだが、すぐに意識を切り替える。念のため未使用状態のトイレも確認してみるが、当然そこにもスバルの姿は見当たらない。
――たった一人で外に出た。
スバルの取った行動に気づき、何故と疑問を抱く。
スバルが何を考えてそんなことをしたのかはわからない。だが、ろくな結果にならないことだけは想像ができる。
瞬間、身体中に戦慄が駆け巡り、全身の肌に粟が生じるのを感じて。
嫌な予感に心が騒ぎ立ち、その衝動のままに即座に部屋まで駆け戻り、部屋で待っていためぐみんに声をかけた。
「めぐみん! ナツキさんがいないの!」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「な――――――――」
意識の隙間を縫うように、不意打ち気味に登場した悪魔を見て、スバルは絶句する。
無機質な瞳には、特別な感情――――以前見た時の、あの燃えるような怒りは見られない。
漆黒の肉体にはところどころ浅い傷がついており、つい先程まで戦闘していたようなことが窺える。
スバルの視線に気がついたらしく、上位悪魔――――ホーストは「ああ、この傷か」とつぶやいてから、大きくため息をつく。
「さっきおかしな二人組に襲われてなあ。アホみたいに硬いクルセイダーと、殺意満々で襲い掛かってくる女盗賊っていうヤバい奴らだ」
クリス同様、スバルに漂う魔女の残り香を嗅ぎ取っているのか。スバルを自分と同類だと勘違いしたらしいホーストは、親しげに話しかけてくる。
「とりあえずやられた分くらいは返してやろうと思ってテレポートで分断したら、さっさと逃げられてな。お前も気をつけろよ?」
そう言って牙を剥き出しにして口角を上げる。おそらく笑顔――なのだろう。無機質な瞳からは感情が読みづらく、その笑顔が友好的なものなのか、別のものなのかすらわからない。
以前のような強い怒りの感情こそ見せていないが、だからと言って安全とは言い切れなかった。
事実、スバルの中にある危険警戒センサー――――幾度となく重ねてきた『死』によって培われた嗅覚が、目の前の悪魔に強い警鐘を鳴らしている。
「むしろ今出会えたことは、僥倖と考えるべきなのかもな……」
ホーストの背後には木々などが見えるばかりで、目的であった竜の彫像が見えない。
最低限の確認はできたと考えよう。
可能であるならば、本当にそこにいないのか、それとも不可視状態のままそこにいるのかを確認しておきたかったが、今はその余裕はない。
ならば今スバルが関心を持つべきなのは、目の前の悪魔にある。
この悪魔の目的は何なのか。
対話が可能であるならば、それを掴み、交渉に結びつけることもできるかもしれない。友好的な関係を築けば、この死のループを抜け出す重要な戦力になりうる。
そう思索するスバルをよそに、ホーストは自分の傷を撫で付けると
「で、聞きたいことってのはだな。そんな感じの女の盗賊は見なかったか? 銀髪で、胸のあたりが
「いや……知らねえ。少なくとも今日は見てねえよ」
「そうか。……ったくこっちは友好的に、かなり大人しくしてたってのにな。あいつらにつけられたこの傷の腹いせに、ちょっと向こうの街でも襲ってこようってところだ」
訂正。
一見親しげな悪魔だからといって、人間の味方というほど都合の良いものでもないらしい。
まあ、向こうからしてみれば『こっちはいきなり襲われたのに、何で友好的な態度を続けてやらなければいけないのだ』という話なのかもしれない。
だが、襲った冒険者――おそらくは先走ったクリス達――だけならまだしも、無関係な街の人々まで襲うというのなら、スバルとしても看過はできない。
この悪魔を止める必要がある。
否、正確に言うならば、今後この悪魔を止める手段を探る必要がある。
さっきこの悪魔はこう言っていた。『自分は友好的にしていた、大人しくしていた』と。
そもそも、何故友好的な態度を取る必要がある。
アクセルの人間と協力関係を結びたい、という線はない。それならば報復での襲撃はしないだろうし、そもそも何のコンタクトもなく狩り場の森に居座っているだけで協力どころか大迷惑だ。
つまり他の目的がある。例えば、アクセルかその近くで探している何かがあるというようなものが。
スバルの思考、それが一周目のループの記憶と線を結んだ。
「――――ウォルバク様とやら、か?」
知らず知らずのうちに、スバルの口から放たれたその言葉に、ホーストは劇的な反応を見せた。
去りかけていた姿勢を一瞬で変化させ、そのままスバルとの距離を一息で詰めると、
「お前、ウォルバク様を知ってるのか?」
そう言って、スバルの黒瞳を覗き込んできた。
――ウォルバク。
それは、この悪魔が最初の周回で叫んでいた名で。その叫びは、スバルが命を奪った初心者殺しに対して向けられていたはずだ。
やはり、あの初心者殺しがこの悪魔の目的なのだろうか。それならば、早期に捕獲して引き渡す計画を立てれば、この悪魔の目的も解決するかもしれない。
悪魔がいなくなれば、その後の状況は大きく好転する可能性も高いだろう。
そこまで思案したところで、目の前のホーストの表情が変わる。
「んん? 傷の痛みでわからなかったが、お前…………ひょっとして人間か? かなり臭いが強いが、そうだよな。それに、混じってるこれは……」
スバルの正体をあっさりと看破したホーストは、スバルの肩をガッシリと握りしめ、そのまま胸のあたりに顔を近づけると、スンスンと臭いを嗅ぎ始めた。
ホーストからすれば軽く握っているつもりなのかもしれないが、スバルにしてみればかなり痛い。その腕の力強さに、以前一撃でのされた記憶が蘇る。
「…………やっぱりお前、ウォルバク様の匂いが混じってるじゃねえか。なあ人間、お前ウォルバク様とどこで会った?」
…………………………。
「………………何? 誰の匂いだって?」
「ウォルバク様だよ、ウォルバク様。見た目は……そうだな、でっかくて黒い魔獣だよ」
匂いと聞いて、一瞬『ウォルバク様=嫉妬の魔女説』が頭をよぎるが、それはホーストの言葉ですぐに否定された。
スバルの前に一度顕現した嫉妬の魔女は、闇色のドレスを纏った人型の黒い影であり、『でっかい魔獣』という言葉はあてはまらない。
「…………黒くて巨大な魔獣? 初心者殺しなんて知らねえよ。それこそ俺に聞くより、この森をくまなく探した方がいいんじゃねえのか? 俺には、そんなモンスターを飼う趣味はないんだぜ」
「おいおい、とぼけたこと言うんじゃねえよ。こんなにウォルバク様の匂いをさせておいて。名前まで呼んでおいてよう。大体、ウォルバク様は初心者殺しじゃねえよ」
「はぁ!?」
当たり前のように前提を覆すホーストに、スバルは瞠目する。
あの初心者殺しこそが”ウォルバク様”ではなかったのか。それとも、外見がそっくりな相手をスバルが初心者殺しと間違えていたのか。
大体、スバルからそいつの匂いがするとはどういうことだ。
仮に『初回ループの初心者殺し』が”ウォルバク様”だったとしても、スバルはあれ以降やつと出くわしてはいない。
ならば、スバルは知らないうちに黒い魔獣とやらに出会って、気づかぬうちに匂いをつけられたことになる。
「知らねえよ、そんなこと……何がどうなってんだよ……」
嫉妬の魔女といいそいつといい、一体スバルの何が気に入ったというのか。
混乱しながらも情報を整理しようとするが、徐々に肩にかけられた圧力が強まっていることを感じ取り、それを一度中断。
見ると、目の前のホーストの手に、自然と力が入っているのが瞳に映った。
「待てよ。ウォルバク様の匂いはあの方に会ってつけられたんだろうが、その名前をどこで聞きやがったんだ?」
ホーストはブツブツと何か考え込んでいたかと思うと、ふとスバルに問いかけた。
「…………どこぞの悪魔が親切にも教えてくれたんだよ」
一瞬誤魔化そうかとも思ったが、そんなことをしても大した意味はないだろう。スバルは投げやりに話す。
ここからどうすれば、この悪魔から有益な情報を引き出せるのか。
「なるほどなぁ。アーネスと会ったのか。まさか、あいつを殺ったのもお前か?」
唐突に出た、知らない名前。おそらくは、この悪魔の仲間といったところだろう。
口車に乗せて乗り切るか、このまま死か。力のない自分には選択肢が少なく、さらに適切な選択肢がどれかわからない。
自分の弱さと頭の悪さを嘆きながらも選んだのは、
「さあな。当人の名前なんて聞いてないからな」
悪魔の言葉を遠回しに肯定すること。
それを聞いて、ホーストの腕の力がさらに増していく。
「なるほど……なら、うかうかしていられねえ。どんな手を使ったか知らねえが、何を隠し持ってるかわからねえ奴はやっかいだ。ウォルバク様にまで手を下されたらたまったもんじゃねえからな」
大切な存在の危機を感じ取ったのか、静かな口調ながらも怒りの色が強まっていった。
肩を通り越して首が、呼吸器官が圧迫される。自分を容易く蹂躙できるその力を感じ取り、身体が反射的に竦み、同時に手の中の汗腺がフル稼働して、びっしょりと肌を濡らした。
来るのならば、来ればいい。
数秒後の死を予感して、それでもスバルは相手を見る。
だがホーストはしばらく待っても攻撃を加えようとはせず。代わりに、スバルに向けて、はっきりとした声で言った。
「いいか、ウォルバク様を連れてこい。わからないなら、とにかくこれまで触れた奴を片っ端から連れてこい。ウォルバク様を素直に引き渡せば、お前やあの街に危害を加えたりしねえ」
その言葉とともに、アクセルの方向を顎で指す。
これは言い換えると、要求に従わなければスバルはもちろんのこと、あの街にも被害が及ぶという意味である。その際に起こる街の被害が、スバルがこれまで見てきた地獄と比べて、そう差のないものになることは想像に難くなかった。
だが、危険を犯して得たものもある。
おそらく要求は譲らないのだろうし、必要ならば襲ってくるのだろうが、それでもここまでやってもスバルが生存してるという事実は大きい。
それほど積極的な敵対をしてこない相手ならば。”ウォルバク様”とやらを引き渡すという選択肢が取れたなら、この悪魔は去るのではないだろうか。
もちろん、スバルの知る限りそれらしい相手など一度も会っていないのだから引き渡しようはないのだが、そこは試行回数との勝負だ。巨大な黒い魔獣という、わかりやすい特徴もある。探し続ければ、きっといずれ見つかるだろう。
沈黙するスバルに対して、ホーストは念押しする。
「いいか、わかったな?」
そう言って、脅しつけるように首に対しての力を強く込めた。
その瞬間。
「『ブレード・オブ・ウインド』ォッ!」
その言葉と共に、風の刃が空気を切り裂き、ホーストの丸太のような腕に一筋の傷をつけた。
「んん?」
その攻撃に、ホーストが向けた視線の先には。
「な、ナツキさんから手を離して!」
ワンドを握りしめた、少女の姿があった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
心の怯えを封じ込め、片っ端からかき集めた勇気を胸に、ゆんゆんは悪魔と対峙する。
悪魔は自分の言葉など意にも介していないのか。顔こそこちらに向けたが、未だにスバルの肩から首にかけて握ったままであり、離す様子が見えない。
同じようにこちらを見てきているスバルは、呆然とした表情を見せていた。
宿を去ったスバルの行き先を追うのは簡単だった。
彼は特に隠す様子もなく、堂々とまっすぐ森へ進んでいたのだ。わからないはずもない。
自分がスバルの不在に気付かないと思ったのか。それとも、森に入れば追ってこないと考えたのだろうか。いずれにせよ、後でお説教しなければならない。
もちろん、その『後』を守りきれたらの話だが。
「『クリエイト・アースゴーレム』!」
その叫びと同時、ゆんゆんは地面に手をついた。
詠唱にアレンジを加えることで効果に変化を及ぼしたそれは、スバルと悪魔を強引に分断するように、大地を隆起させる。
「ちっ!」
悪魔はとっさにスバルから手を離し、その腕を振るって生成中のゴーレムを力任せに破壊した。
大した戦闘力だ。強力なモンスターが跋扈する紅魔の里にも、これだけの力を持ったモンスターはいるまい。
「紅魔族、だと? …………ウォルバク様の封印があったのは紅魔の里だから……そうか、そういうことか!」
何やら一人で納得している悪魔から視線を切ることなく、ゆんゆんはワンドを向けながら考えをめぐらしていく。
たった今、この悪魔の出した”ウォルバク”という名には聞き覚えがある。確か、以前出会った女悪魔のアーネスが何度も口にしていた名前だったはずだ。
つまり、この悪魔の狙いはアーネスと同じ、めぐみんの(一応)使い魔ことちょむすけだ。
「『ライトニング』!」
「『カースド・ライトニング』!」
そう叫んで放った一条の雷撃を、闇色の雷撃が迎撃する。
ライトニングの上位に当たる上級魔法。
悪魔の放ったそれは、ゆんゆんの雷撃を一蹴し、とっさに放したワンドに直撃した。
「頭は冷えたか? いいか、俺様は紅魔族とはあんまりやり合いたくねえんだ。……それであのガキンチョがどう怒るかわかったもんじゃねえしな。さっきあっちの男と話してたことは聞いてたか? ウォルバク様を素直に引き渡せば、お前らにもあの街にも危害を加えたりしねえよ」
そう言って、ゆんゆんの紅い瞳を覗き込んでくる悪魔。
だが、ちょむすけを引き渡すことはできない。あの猫を見捨てるには、ゆんゆんは情が移りすぎてしまった。
口先だけ頷いてこの場を乗り切ったとしても、いずれこの悪魔は必ず追ってくる。
ちょむすけの飼い主のめぐみんが。
危なっかしい、とても大切な友達が。
関わりがあると気づかれたスバルが。
とても危うい、大切な友達になれるかもしれない人が。
必ずこの悪魔に狙われる。
「絶対に、させない――――んむっ!?」
なおも悪魔を睨みつけ、更なる呪文を詠唱しようとした刹那、その口を硬い手で塞がれる。
人間、それも駆け出しの後衛職が、上位悪魔の手を力づくで引きはがせるわけがない。
どうにも、ならないのか。
小さく開いた紅い瞳に涙が溜まる。
「落ち着いて冷静に考えてみろよ。俺様だって、ウォルバク様を取って食おうってわけじゃねえ、むしろ丁重に扱うつもりだ。当然だけどな」
頭が悔しさでいっぱいになり、悪魔の言葉もあまり聞こえない。
目の端にスバルの姿が映る。
「今この状況下で、皆が幸せになるにはどうすりゃいいか、わかるだろう?」
悪魔がそう言った、その直後。
「うん、キミが滅んじゃうことだと思うよ」
その言葉とともに、悪魔の胸から刃が飛び出してきた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「なっ――――!」
ゆんゆんがあっさり敗北するのを見ながらも何もできず、自らの無力を呪っていたスバル。
その眼前に銀髪の少女――――クリスが突如として出現した。
何の気配も前触れもない、完全な奇襲。おそらく、一度敗走してから盗賊の『潜伏』スキルで身を隠し、逆襲の機会を窺っていたのだろう。ホーストの背中から胸へと
「『バインド』!」
スキルの言葉と共に放たれたのは、鈍色の輝く細い糸。クリスの声に従うように動き出した
「テメエか! クソ、邪魔してんじゃねえよ!」
ワイヤーは毒づくホーストの強固な肉体に、蛇のように巻き付き、その動きを拘束しようと締め付けていく。
元々強力なモンスターを拘束するための特殊なワイヤーだ。何の効果もないということはあるまい。
そこに対して、
「『ライトニング』!」
ホーストの手から解放され、詠唱を終えたゆんゆんが魔法を放った。
ダメージがないはずがない。
ワイヤーを、そして胸から突き出た刃を伝播し、魔力から精製された雷撃が直接体内へと送り込まれているのだから。
だが、それだけでは決定打には至らない。
ホーストは忌々しげに顔を歪めると、怒りの声をあげた。
「いっ……てえなあぁあ! クソッタレ、舐めてんじゃねえ!」
そう叫び、ワイヤーでの拘束されつつも、そのまま強引に両手を出す。
その様子を見て何かを感じ取ったのか、クリスは一歩前に出て、片手を突き出した。
「喰らいやがれ!」
「させないよ、『スキル・バインド』!」
「『インフェルノ』! ……クソがあっ!」
ホーストの叫びに先んじて発動したクリスのスキル。何をどうやったのか、不可視のそれはホーストの魔法を妨害したらしく、
吐き捨てるホーストに対し、ゆんゆんはなおも追撃を加える。
「『ライトニング』っ! 『ライトニング』っ! 『ライトニング』ーっ!」
胸から突き出るダガーに幾度となく雷撃が命中し、そのまま体内へと電流の伝播が再現された。
激しく火花が散り、強い閃光が走る。それから目を背けつつ、クリスはゆんゆんのそばに回り込んだ。
ちょうどホーストを挟んで、スバルと真逆の位置になる形だ。
「やるじゃない、さすが紅魔族だねぇ」
「あ、あなた、なんで私達を助けるの!?」
とっさに即興の連携こそしたものの、ゆんゆんはクリスへの警戒を解かない。
そんなゆんゆんにクリスは軽い口調で、しかし視線はホーストからそらすことなく語りかける。
「言ってる場合じゃないでしょ。あっちとこっちじゃ、さすがにこっちを優先しなきゃだよ」
どうやら助太刀しに来た彼女は、ホーストを殺すことを優先し、スバルのことは放置するつもりのようだ。
言葉と共に新しいダガーを抜き、油断なく構える。
「こいつだってそれなりに消耗してるはず。力を合わせて戦えば、きっと勝てるよ」
「はんっ! よく言うぜ」
クリスの前向きな言葉、それをホーストは鼻で嗤う。
「消耗が激しいのはお前の方だろ? 馬鹿みてえに硬いクルセイダーのせいで、さっきの戦いもやたら長引いたからな。それにこの『バインド』は、それこそ紅魔族並の魔力でもない限り、そう何発も使えねえくらい魔力を食うんだ。違うか?」
ホーストの言葉に、クリスは沈黙したまま汗を一筋垂らす。それはホーストの推測、その肯定を意味していた。
彼女の魔力は残り少なく、使える手札が限られている。それは間違いない。
「そっちの紅魔族の娘っ子だってそうだ。最初の風の魔法と、二発目以降の魔法で威力が全然違いやがる。俺様には普通に魔法を使っても効かないと思って、かなり魔力を注いでるんだろ? なら、あと何発撃てるんだろうな」
その言葉に、ゆんゆんも図星をつかれたような顔を見せる。
ホーストは笑って小さく魔法を唱えると手に刃を作り出し、それによって自らを拘束するワイヤーを切断した。
「ちなみに、そっちの人間。どんな隠し玉があるのか知らねえが、俺様の後ろから狙おうとしても無駄だ…………ぜ…………」
いかにして『見えざる手』で相手のバランスを崩すか考え、機会を窺っていたスバルは、それを逸したことを悟る。
陰魔法『シャマク』は、この悪魔の知能からして通じない可能性が高く、さらに使用後にスバルが倒れてしまうことも十分考えられる。
ならどうすればいいのか――――とそこまで考えた時、振り返ったホーストがこちらを見ていないことに気がついた。
ホーストが見ているのは、地に足をつけたスバルではなく、上。
見ると、ゆんゆんもクリスも同じ方向に視線を向けていて。
スバルもその視線に追従し、ようやく気がついた。
生い茂る巨樹。その幹から生えた、長く太い太い枝。
誰かに削られたのか、その枝の表面は平らになっており。そこに一人の少女が立っている。
その少女の全身に、とてつもない魔力が集中していることに。
「ならば、私の番ですね」
声。
涼やかな声。
スバルの頭上から鳴り響いたその声は、かつてスバルが聞き惚れた銀鈴の音を想起させる。
ゆんゆんと同じ紅い瞳を輝かせ、短く切りそろえた黒い髪を、とんがり帽子ですっぽりと覆っている、魔法使い姿の少女。
その姿を見たゆんゆんは、ワンドをなくした両手を構えつつも、意外そうな声で言った。
「め、めぐみん…………?」
「どうも、先ほどぶりです。人が止めるのも聞かず一人で突き進んでいくのですから、全くこの娘ってば世話が焼けますね」
そこで一度言葉を区切る。
「だって、めぐみんはナツキさんを見捨てろっていうから、私は一人で……」
「ええ、言いました」
今度はスバルの方に顔を向けて
「よくもやってくれましたね。せっかく人が頭回して、なんとか無事に隠遁生活を送れるようにしていたというのに。その全てを無視して、唐突に森に特攻するとは頭がおかしいんですか、あなたは」
紅い瞳を怒りで光り輝かせて、
「ですが、そこのアホはともかくとして、こんなところであなたにあっさり死なれては、里の皆に顔向けできないでしょう」
どうやら、スバルに呆れて一度は放置しようとしたものの、飛び出して行ったゆんゆんを助けに来た、というところらしい。
そうやって話をしている間も、めぐみんから感じる圧力は毎秒ごとに高まっていく。
「おい小娘、なんだそりゃあ」
「爆裂魔法です」
肉体で高まっていく膨大な魔力を杖の先、その一点に集中させながら、めぐみんはシンプルにその正体をホーストに告げた。
辺り一帯の空気が大きく振動し、そこに込められた魔力は余波だけで帯電現象を引き起こしている。
生来、魔法使いとしての天賦の才を与えられし紅魔族。その中でも随一の才能を持った少女の魔力が根こそぎ全て、純粋な破滅の光へと変換されつつあった。
「ゆんゆん達が時間を稼いでくれたおかげで、既に準備は完了しています。さあ、受けてもらいましょうか」
これまで怒りこそしたものの、一度も焦燥感を見せることのなかったホースト。
だが破滅の光を見た今は、さすがに狼狽を見せ、途端に饒舌になった。
「待て待て、ちょっと待て。確かにその魔力は大したもんだ。でもな、俺様なら何とか耐えられないことはないかもしれねえぞ? 確かにダメージは受けるだろうが、本当に俺様を仕留められる確信があるのか? 爆裂魔法なんて、人間が一発使えば魔力を使い果たして倒れるのがオチだ。その後、俺様は絶対に容赦しないぜ?」
「確信ですか? ありますね。何故なら私は、紅魔族随一の魔法の使い手であり、これはあなたの同僚を葬った、人類最強の必殺魔法なのですから」
自信と確信に満ち溢れた表情で、めぐみんは断言した。
「そうか。アイツを殺ったのはお前だったのか。…………だが、俺様を殺せるくらいの魔法をこの距離で撃てば、お前もこいつらもまとめて巻き込まれるんじゃねえか?」
めぐみんの真下にいるスバル。そしてホーストを挟んで対角線上にいるゆんゆんとクリス。
それらの距離は決して大きく離れたものではない。スバルが見た爆裂魔法の規模を考えれば、ホーストに放てば全員巻き込まれることは避けられないだろう。
「構いません。人生の最期が爆裂死となれば、私もゆんゆんも本望です」
「ちょっと、めぐみんっ!?」
ハッタリなのか、本心なのか。どうしようもないことを言い出しためぐみんに、ゆんゆんが叫ぶ。
「なにバカなこと言ってるの!? 助けに来てくれたことは嬉しいけど、お願いだからちょっと待ってよ!」
ゆんゆんの言葉を、めぐみんはやれやれといった顔で聞き流す。
めぐみんが頭を小さく振った拍子に、帽子の中から「なー」という声が響いた。
「…………そういうことか」
ホーストはかぶりを振って、無機質な瞳に凶悪そうな顔面を、何かを悟ったような表情へと変化させて見せた。
「おい、わかったぜ。お前の目的は俺様を殺すことじゃなく、それを
「いえ、本気でこれを撃ちたいのですが」
「冗談はやめろって。自分も仲間も死んででも撃ちたい、なんて頭のおかしなやつがいるもんかよ。確かにそれを食らっても、俺様自身は《残機》が減るだけで済むが、取り返しのつかないこともあるもんなあ」
ホーストはそう言うと。自分の身体に残るワイヤーを取り払い、両手を広げた。
「いいぜ。今回は大人しく引くし、今日のところはお前らにもあの街にも手を出さねえよ。それでいいか?」
そんなホーストの和平交渉を、
「嫌です。これが撃てないのなら、せめて私達全員が死ぬまで、一切手出しするのをやめてください」
めぐみんは躊躇なく一蹴した。
「おいおい、さすがにそれは強欲じゃねえか? じゃあ三日だ、三日。その猶予の間に、お前らはどっかに逃げればいい。その後俺様が見つけた後はどっちが勝っても恨みっこなしってことで」
「駄目です。どうしてあなたに追いかけ回されるのを、延々と気にしなくてはならないのですか。というかそろそろ制御に集中するのも疲れてきたので、撃ってもいいですか」
「待て待て、お前もちょっとくらい譲歩しろよ!」
そんな、破滅の光と隣り合わせの、どこか緊張感に欠ける交渉の最中。
「――――――――逃げて!」
それまで沈黙を守っていたクリスの、突然の叫びが響き渡り。
――次の瞬間。
「――――――――ぇ」
破滅の光を制御していためぐみんの胸を、見えない”何か”が貫く。
その悪辣な下手人の正体に心当たりがあるスバルは、小さくつぶやいた。
「エンシェント……ドラゴン」