意識を取り戻したスバルが最初に確認したのは、自分が死んだかどうかだった。
自身の身体は横たわっており、背中には柔らかい布の感触がする。視界にはいつか見たことのある天井が広がっており、鼻孔をくすぐるのは、草木とは無縁の室内の空気。
東南方向に設置された窓を向くと、東の空が少し白み始めているのが目に映った。
早朝の宿だ。
数えるほどしか泊まったことのない、宿の個室。少なくとも、あのまま『死に戻り』したわけではないらしい。
続いて、見るのは自らの手。拳と掌を交互に作り、自身の皮膚の感触、それに握力を感じて現実感を得た。
そのまま肉体の状態をチェックする。
頭部、胴体、腕部、脚部、特に外傷らしきものなし。
頭痛も内臓の痛みも感じられない。
それどころか、”前”の世界からあった手足に感じる重さ────ゲートを酷使した際の後遺症まで失せている。
いったい誰が自分を治療してくれたのかわからないが、凄まじい腕だ。少なくともセシリ──スバルの知る、この街最高のプリーストと比較してもはるかに格上の使い手といえるだろう。
これらの状況を合わせて考えるならば。
スバルが気を失った後、ホーストを誰かが討伐、あるいは撃退。そのまま、その何者かがスバルを運んで治療してくれたといったところだろうか。
とすると、まずい。
上位悪魔であるホーストは、この街最強クラスの魔剣の勇者すら、重傷を負わせる強さである。それを相手に被害なく突破できたとはとても思えない。
また、エンシェントドラゴンのこともある。
スバルの肉体に染み付いた、濃厚な魔女の臭気、それを吸い上げたエンシェントドラゴンは、いったいどれほどの脅威になるかわからない。
最悪の場合、大勢の死者を出した挙句、エンシェントドラゴンを手のつけられない脅威に変えてしまってから、セーブポイントが更新された可能性も────。
「落ち着け…………落ち着け…………まだそうと決まったわけじゃねえ」
頭によぎる最悪の可能性を、ともすれば加熱しそうな思考を、額に手を当ててなんとか押し留める。
「不安がっていてもしょうがねえ……まずは、あの後どうなったか確認しねえと……」
切り替えきれない意識を強引に振り払い、スバルは扉の方に目を向けて。
「…………お久しぶりです、ナツキさん」
ただ静かに、椅子に座っていた少女と目があった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「まあ…………そんなに時間は経ってないですけど」
彼女とこうして真っ向から対面するのは、どれくらいぶりだろうか。
数え切れないほどのループを繰り返してきたスバルにとって、現実の時間などなんの意味も持たない。
はるか遠い過去、スバルが何度も死なせた少女。
スバルが原因で、何度も殺してしまった少女。
こちらをまっすぐ見据えるその顔を直視できず、スバルの視線は自然と下を向いて。
彼女の首筋に白い包帯が巻かれているのに気がついた。
最後に別れた時にはそんなものはなかったはずだが、怪我でもしてしまったのだろうか。
「体の調子はどうですか? 悪いところは全部治したって話でしたけど。それでも、大怪我すると治療しても違和感が残るっていいますから」
こちらの身体を気遣う、優しさに満ち溢れた声。
「……………………何の用だよ」
それを、あえて不機嫌そうな感情を乗せた硬い声で断ち切りにかかる。
この状況。
ゆんゆん自身がスバルを助けてくれたか。あるいは、スバルを助けた誰かから引き取り、治療とベッドの手配をしてくれたのか。
「もう、俺とゆんゆんには何の関係もないだろ」
いずれにせよ彼女への恩に対して、スバルが返せるものは拒絶だけだ。
彼女がスバルと関わっても、一方的に悲劇に巻き込み、凄惨な結末を生む。
それはスバルが、スバルだけが一番良く知っている。
「変に構おうとするのはやめてくれ…………俺に近づくな。迷惑だ」
下手に言葉や金銭で感謝を伝えようものなら、再び繋がりが出来てしまうかもしれない。
それでは意味がない。
人との関わりを求め、しかし人一倍他人に気を遣う彼女なら、こうするだけで距離を置いてくれるはずだ。
早急に彼女との会話を切り上げ、その後状況を把握し、必要ならば自死も考えなくてはならない。
そう、早くも意識を『次』のことにまで移していたスバルは、
「────嫌です」
予想外の言葉を返された驚きで、背けていた視線を戻した。
否定で返したゆんゆんは小さく肩を震わせて、何かに耐えるように自身の服を握りしめながら。
それでも、ただまっすぐにスバルを見据えていた。
「森に潜んでいた悪魔は、アク────私が連れてきた人たちと協力して、なんとか討伐に成功しました。あのドラゴンは、ナツキさんのおかげで結界の中に閉じ込められたままです。ナツキさん以外には、特に怪我人も死人も出ていません」
彼女はすらすらと、スバルの求めている情報を並べ立てる。
「ですから。お話を、しましょう」
紅の瞳に明確な意志の光を宿し、そう続けた。
「…………話すことなんてねえ」
「私にはあります。ナツキさんと話したいこと、ナツキさんから聞きたいこと。いっぱい、いっぱいあるんです」
正面から突っぱねても、意志の光を陰らせることなく、躊躇うことなく食い下がってくる。
その強い意志は、かつて誰にも話しかけられず、一人ただ座っていた少女の姿とは思えなかった。
いや。
本当に必要だと判断した時には、腕を失おうとも、自らの意志を示し続けられる。
それも彼女の姿だったか。
「ナツキさん。私と別れてから────ううん、別れる前。あのドラゴンの像で、何を見たんですか?」
「俺は────」
「とぼけたって無駄です。ナツキさんの無茶なレベル上げ、あんなドラゴンが現れると知ってたとしか思えない準備。…………悪魔は偶然かもしれませんけど、それにしたって、何か関わりがあると思うのが当然です」
その言葉で、スバルは自分のやり方が浅はかだったことに気付かされる。
確かに最高効率で動くことは重要だが、もっと自分の不自然さが目立たないように、観察されないように気を配っておくべきだった。
まさか、突き放してとうに離れたと思っていたゆんゆんに観察され、知られていたとは。
お人好しの彼女のことだ。何度も繰り返したループの中で、気づかれないところで何度もスバルを助けていたとしても不思議ではなかった。
「教えてください。何があって、ナツキさんは、あんな命を捨てるようにレベルを上げて、死に急ぐような戦いをしていたんですか? 戦いがあるとわかっていたのなら、私が────ううん、他の人たちだって、きっと力を貸してくれたはずです。なのに……」
首を振る。
ダメだ。それをさせたら意味がない。
スバルが声をかけたその短絡さで、ゆんゆんは貪り食われて命を散らした。
スバルなどが仲間になってしまったから、ゆんゆんはスバルを守ろうとその身を紅く染めることになった。
そもそも。
スバルがこの世界に来なければ、この街に悲劇は起きなかったというのに。
「ナツキさんだけが、一人で苦しい思いをして、傷ついて……」
苦しむのも傷つくのも、スバルだけでいい。
違う。
スバルが苦しむのも傷つくのも、当然のことなのだ。
全てはスバルの愚かさが招いたことなのだから。
「返事くらいしてください!」
「いいから、ほっといてくれよ……!」
何も知らない彼女にとっては、スバルの行動は不可解極まりないものなのだろう。
たまたま危機を知り、力もないくせに一人足掻いている愚か者。事実、そう思われても仕方がない。スバル自身が、己の愚かさを一番知っている。
「放っておけません。私に生き残れ、なんて言っておいて、自分の命を大切にしないなんて、おかしいじゃないですか」
「これでいいんだよ。俺の命の使い道は、これでいいんだ」
スバルの言葉に、真面目に相手をする気がないと判断したのか、ゆんゆんは眉を釣り上げる。
「そんな理屈…………!」
「エンシェントドラゴン……眠っていたあいつを目覚めさせちまったのは、俺なんだ」
その気勢を削ぐように、スバルはその言葉を被せた。
それは紛れもない真実の一部であり、スバルの罪の一端だ。
「俺の迂闊が、俺の無能が、俺の未熟さが、あの災厄を引き寄せた。なら、俺が俺の全てを使って解決するのが道理だろう」
言いながら、自分自身に嫌悪感を抱く。
心配するゆんゆんを振り払うために、自分の罪すら利用している。
なんという偽善。
なんという欺瞞。
──せめて心を鋼にできたなら、きっと楽になれるだろうに。
「わかったらそこをどいてくれ。俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ」
自分の目で正確な状況を把握するのも、『死に戻り』するのも、ここでゆんゆんといては不可能だ。
そう、扉へと足を進めると、スバルの前を、広げたゆんゆんの手が押し留めた。
「バカなことはやめてください! ナツキさんが今こうして生きていられること自体奇跡でしょう!?」
前提条件が違う。
『死に戻り』を知らないゆんゆんにとっては、絶望的確率を経た上での、奇跡のような
無限の再挑戦を前提としたスバルにとっては、訪れるべきして訪れた結果────過程に過ぎない。
そう判断したスバルは、ゆんゆんに背を向けて、ベッドの近くに置いてあった私物を探り始めた。
「な、ナツキさん、無視しないでください!」
会話を放棄したスバルの背に食ってかかる声。
────ゆんゆんも、ここまで積極的になれるんだな。
普段からこうあれれば、いくらでも仲間ができるだろうに。
そう、他人事のような思考を走らせながら、体内の
最悪、シャマク────無理解の魔法を使い突破してもいい。
状況確認は必要だが、『死に戻り』が必要な状況なら、シャマクを使用したことによる消費はチャラだ。
可能性は低いが、『死に戻り』不要な状況という可能性もある。だが、一度の無駄打ちも、それほどの問題にはならないだろう。
セーブポイントが更新されていたならどうしようもないが、そこはどうにもならないことだ。
「別にいいんだよ。この程度のこと…………なんともない────からっ!」
スバルはそこまで言うと同時に、ベッドの側に置いてあった部屋の備え付けの小物を壁に向けて投げた。
「────────!」
ゆんゆんの視線が一瞬そちらに向けられる。
その隙をつき、スバルは彼女の横をすり抜けてドアノブに手を伸ばし────扉がまるで動かないことに気がついた。
「これは…………!?」
「『ロック』、です」
ゆんゆんはスバルの考えを先回りするように、その魔法の名を言った。
「ナツキさんが寝ている間に、扉と窓にかけさせてもらいました」
補足するゆんゆんに再び相対し、スバルは内心歯噛みする。
確かこの魔法を解除するには、同等以上の実力でなければならなかったはずだ。
当然、スバルの魔法の実力は、ゆんゆんに遠く及ばない。
彼女の許可なしに出られない、見事な軟禁状態だ。
「ここから出してくれ」
「出しますよ。ナツキさんが、これから言う私の質問に答えてくれたなら」
それから一拍置き。
すうっと息を吸い込んで、彼女は問うた。
「ナツキさんは、嫌じゃないんですか?」
「…………何がだよ。そんな質問をする意味がわからねえ、これでいいって言ってるだろ」
「正しいかどうかの話じゃありません。妥当かどうかの話じゃありません。ナツキさんの心に聞いてるんです」
揃えた両手を胸に当て、
「私は一人でも戦える力がある。だから、一人でも問題はないでしょう。でも…………一人は嫌です。嫌なんです」
痛切な実感のこもった言葉を語り続けた。
「ナツキさんは一人で戦うのが正しい。例えあなたの道理がそう言ったとしても…………本当にそれでいいんですか? ナツキさんの心は、そこに何を感じるんですか?」
スバルの、心。
自分に温もりをくれた青い髪の少女、その寝顔が脳裏に走る。
彼女の寝顔を初めて見た、胸を引き裂くような痛み。
あの時スバルの心にできた傷は癒えることなく、この世界に来てなお開き続けるばかりだ。
この痛みに比べれば。
失ってしまう苦しみに比べれば、覚悟の上で死を超え続けることに、何の迷いがあろうか。
だから、スバルはその問いに、まっすぐ答えた。
「俺は何も苦しくなんてない。俺は──死んだっていいんだ」
────────チリン。
「ほら、嘘です」
少女の懐から、いつか見た魔道具が現れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ここまでの会話で、ゆんゆんの動きに不自然な点はなかった。
つまり、最初から魔道具のスイッチはオンにしてあったということ。
おそらくスバルの身に纏わりついていた魔女の臭気は何らかの理由────かの竜にすべて吸い取られたのだろうか────で消失している。
つまり、今の魔道具は正常。スバルの偽りを、正しく容赦なく暴き出す審判者だ。
「くそ…………。望んでない時ばかり、正常に働きやがる……」
小さな声でついた悪態が聞こえているのかいないのか、ゆんゆんは、小さく微笑んで、こちらをじっと見つめてきた。
確かにスバルの今の言葉は偽りだ。
死の循環。
そこには苦痛も、恐怖も、激昂も、悲嘆も、破滅も存在し。
どれだけ血を流し、惨劇に狂乱し、慟哭に喉が潰れ、枯れ果てるまで血涙し、どうしようもなく摩耗したとしても。
それでも、心は鋼に至らない。
スバルの心は弱く、脆く、ちっぽけで。
誰も知らない死を見続けて、どれだけ償いを繰り返しても、そこに強さは宿らない。
それでも、意地を張り通す。スバルはそうしなければならなかったのに。
「ナツキさん」
紅い瞳が、スバルの黒瞳をじっと覗き込み、
「そんなに苦しいなら、逃げてしまいましょう? 誰にも頼まれていないのに、ただの冒険者がたった一人でエンシェントドラゴンを相手にしたんです。誰もナツキさんを責めたりしませんよ」
心優しい少女が、スバルの身を案じて発したであろうその言葉。
「逃げ、る…………?」
「ナツキさん?」
その言葉を聞いた途端、
「は、ははっ…………!」
口から笑いがこぼれた。
筋肉が収縮し、ただ空虚な笑いが止まることなく口から出続ける。
頭を抱えて顔を隠し、床に座り込んで、そのまま背中を閉ざされた扉に預けた。
ひとしきり笑い────自嘲を終えると、スバルは顔から一気に表情を消した。
「断る。俺はもう逃げない。逃げるわけには、いかない」
決意を込めた言葉を、淡々と彼女に告げる。
「痛いのも、苦しいのも、俺が勝手にやってることだ。ゆんゆんには関係ない」
何を言われても関係ない。言うべきことは事実だけでいい。
ただ突き放せ。それが唯一の、彼女を救う道だ。
それだけを念頭に置き、ただ告げた。
黙ったまま聞いていた彼女は、ぼそり、と。
「なら、私にも考えがあります」
つぶやきとともに、ゆっくりと、自分の首元を露出させ。
そのまま流れるような動作で、首に巻かれた包帯を、そっと外した。
「あ────────ああああ」
顕になったまるで透き通るような白い肌。
その白の中に、一筋の黒が混じっている。
その黒は、『願いを叶えるチョーカー』の形をしていた。
「なん、で…………」
瞳が揺れる。
声が震える。
目の前の光景を信じたくなかった。
だが、いくら目をこすっても光景が変わることはなく、目の前が現実であると突きつけてくる。
その黒いチョーカーは、ウィズの店で取り扱っている魔道具。
着用者は己の願望を叶えることを強制され、叶えられなかった着用者はチョーカーによって絞殺される。
死と隣り合わせの呪いの魔道具であった。
「なに、やって…………何をやってるんだよ」
「さあ……なんでしょう」
彼女は首につけたチョーカーに手を触れながら、紅の瞳に光を灯し、口を笑みの形に変える。
その微笑みは、自身の行為への自嘲なのか。それとも、何かの思惑を持った上のものなのだろうか。
どちらにせよ、死への導火線に自ら火をつけた少女を見て、スバルの肉体はただただ震えるばかりだ。
「それにかけた”願い”を教えろ……なんとか叶えてみせる」
「お断りします」
「どうしてだよ!?」
少女の意図が理解できず、スバルは立ち上がって彼女に一歩近づいた。
「なんでそんな、バカなことするんだよ! 自分の命をなんだと思ってやがる!」
ゆんゆんは、この世界におけるスバルの罪の証であり、同時に守るべきものの象徴だった。
生きていて欲しい。
幸せになって欲しい。
そのために、スバルは死の循環を繰り返し、取り零した命を拾い集めてきたのに。
彼女を、多くの人々を守ることこそが、スバルの償いだったのに。
知らず知らずのうちに、スバルの全身に熱が走り、同時に胸の奥にずしりと重いものが沈み込んだ。
「なのに……! お前が……お前がそんなことをやってどうするんだよ……!」
自身の感情、その全てがない混ぜとなり、慟哭として口から漏れる。
「ナツキさんに、言われたくありません」
まるで拗ねたような膨れ顔で返されて。
場違いなまでの平然とした態度に、スバルの頭にかっと血が昇った。
「お前、自分がやったことが…………そのチョーカーがどんなものなのか、本当にわかってるのか!?」
「わかってるもなにも…………一緒に聞いていたの、ナツキさんも知っているじゃないですか」
この世界でのループが始まる前。
ダクネスとクリスの会話を聞いていた時、確かにゆんゆんはそばにいた。知らないはずはない。
「わかってるなら、どうして…………!」
ゆんゆんのどこに、命を賭ける理由があるというのか。
「私は、ナツキさんの特別な誰かじゃありません。たった数日しかそばにいなかった私に、友達のいない私に、きっとナツキさんの考えていることはわからないと思います」
彼女は首に巻いたチョーカーにそっと触れると、寂しさの浮かぶ瞳で語る。
「────だから。ナツキさんの見ている世界と、同じものを見ようと思いました」
死の息遣いが聞こえる世界を見れば。
先の保証が掻き消えた、一筋の生を掴み取る世界を見れば。
スバルのことを理解できると、そう考えたというのか。
「やめろ……やめてくれ……そんなことに意味なんてないんだ……」
スバルの『死に戻り』を知らないゆんゆんに、スバルのことを理解することはできない。
どれだけ死に瀕していようと、幾多の死を越えてきたスバルを理解できるはずがない。
先のない世界を体感しても、『先』の保証があるスバルと分かり合えるわけがない。
彼女の行為は、全くの無意味──無駄死にだ。
「────────っ」
胃の内容物を全てぶち撒けたくなる衝動を強引に飲み干して、スバルは手で目を覆った。
最善を求めていたはずなのに。自分以外は傷つかない道を目指していたはずなのに。
何故目の前の少女は、自ら死に向かってしまうのか────。
もはや迷っている暇はない。
セーブポイントが更新される前に『死に戻り』して、彼女のバカな行為を止めなくてはならない。
スバルは自分の舌先を小さく出し、顎部に力を込め────。
「今、ナツキさんが感じている
紅い瞳の少女の言葉が、その動きを押し留めた。
「人の心を理解するのは、本当に難しいですよね。でも…………やっと同じ気持ちになれました」
恐怖と自嘲、それに少しの歓喜を混ぜた、泣き笑いのような表情で少女は言った。
「ナツキさんはひどい人です。こんな痛みを私に押し付けていっちゃうんですから」
そう言って、手を自分の胸から離し、スバルの胸をつついてみせた。
「違う……そういう問題じゃない。俺は、俺は最後には絶対生き残るから、お前とは違うんだよ……!」
「私だって、こんなもので死んだりしません。そう、確信しています」
魔道具は音を鳴らさない。
「いい加減なこと、言うなよ……!」
「私がいい加減なら、ナツキさんだってそうでしょう……!?」
互いに語気が荒くなり、互いが互いの瞳をまっすぐ睨みつける。
無視して自害しなかったのは、彼女の真意を知らなければ、また同じことをする────なんていう理由ではなく。
このまま退くに退けない、そんなつまらない子供じみた意地だった。
「俺一人でやればいいんだよ……! 俺が傷ついて、俺が苦しんで、俺だけが背負い込む! 他の皆には痛みも苦しみもを味あわせたりしない! 俺が俺の勝手でやって、何が悪いんだよ!」
「まだわからないんですか!? 他人が傷つくのが嫌なくせに、なんでわからないんですか!」
…………うるさい。
「全部全部、俺のせいなんだ……! 一番大事なところで、傷を負い続けられなかった俺の弱さが皆を殺すんだ! なら、自分の尻拭いくらい、自分でやらなきゃいけないだろうが!」
「見てるこっちが苦しいんですよ! ナツキさんにだってわかるでしょう!?」
うるさい。
「別にいいだろ! 俺がやらなきゃいけないんだ! 俺が全部、全部、全部やればいいんだよ!」
「そうやって、何もかも一人で背負い込んで、何もかも一人でやろうとして! 自分が魔王になるつもりなんですか、あなたは!」
────うるさい!
「俺を、これ以上のクズにしようとするんじゃねえ! 俺に残った最後の価値を、奪うんじゃねえ! 俺には、もう、この
「なにが、ナツキさんをそんなに────!」
「俺が! 皆を捨てて一人で逃げてきた、クズ野郎だからだよ…………!」
そう絶叫すると共に。
スバルの身体は、膝から崩れ落ちた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『初めて安全な道を選んだ。それがたとえ、先にさらなる困難が待ち受ける道であろうとも、あなたは選んだ────私のくもりなきまなこには、それが見通せます』
遙か遠い時間の先、占い師はそう断言した。
────大正解だ。
今となってはそう思う。
あの時、スバルの心に初めて、明確な疑心が誕生した。
自分自身の選択────そして、自分自身の心への疑いが。
────自分は、本当に前向きな考えで、この世界にやってきたのだろうか。
────本当は、どうしようもなく行き詰った世界が恐ろしく、一時の安息を求めて逃げ出してきただけではないのか。
そして、一度でも疑いが湧くと、もう止まらない。
気づかないふりだけは──自分を正当化するための嘘を自分につくことだけは、かつての醜さを繰り返すことは、もうできなかったから。
「俺は神様に出会ってここに来た。魔王を倒せば、皆を救ってくれる、それに縋って、ここに来た。でも、それじゃダメだろう……? 神の言葉でも……魔女の言葉でも……ホイホイ信じていいものじゃないだろ……! 皆を置き去りにして、一人で逃げていいはずがないだろうが!」
そうだ。
女神アクアの誘いに乗り、この世界に送られた時から、ナツキ・スバルの逃亡は始まっていた。
本当に皆を救いたかったのなら、あそこで安易に別の道に逃げるべきではなかったのだ。
このループに希望が見えない?
そんな弱音を吐くには、何もやり尽くしていないだろう、ナツキ・スバル。
少なくともエキドナの助言という、縋る希望があったから、お前はあの時墓所に向かったのではないのか。
神の力を借りるチャンスを逃がさない? 脆い希望に『オールイン』?
ただの思考停止、ただやるべきことから目を背けていただけだ。
本当にあらゆる痛みと苦しみを背負う覚悟があったなら、少なくともあの場は自害するべきだったはずだ。
セーブポイントが更新される前に『死に戻り』して、取り返しのつかない事態を防ぐべきだったはずだ。
そして、身を削り心を擦り減らし、命を捨てて繰り返して、『聖域』の運命を変えてみせる。それだけを考えていればよかったのだ。
全てを尽くしてからでないと、こんなギャンブルは許されなかったはずだ。
「魔王を倒せば全て解決するんだって、そう思って逃げてきた」
なのに、スバルは安易にこの世界に飛び込んだ。
その場の凌ぎに、何の保証もない道へと逃げ込んだ。
「ちょうどいい口実に乗っかって、皆を置いてここに逃げて! 挙句の果てに、逃げ込んだ世界でも悲劇を巻き起こしてる──そんな、どうしようもない大馬鹿野郎なんだ!」
結果────目の前の少女をも、ありもしなかった死の運命に巻き込んでいる。
『ありがとう、スバル。私を、助けてくれて』
その双眸にはめ込まれた紫紺の輝きが、風に舞う銀糸の髪が、唇から紡がれる銀鈴の声音が、少女の全てがスバルを魅了した。
彼女への恋心のために、何度でも死に、共に歩こうと誓った。
『えへへ。うん、うん……好き。スバル、大好き』
その恋い焦がれた少女が使命と試練に押しつぶされ、やがて壊れると知りながら。スバルは彼女を置き去りにした。
『でも、お前は『その人』になってくれる?』
四百年の孤独に苛まれ、終わりの見えない袋小路に閉じ込められ。助けを求める声すら枯れ果てた少女がいた。
『友人助けようとするってのは、そんなにおかしなことですかね?』
悪意に翻弄される中、無条件の善意で駆けつけてくれた友達がいた。
自身の半身とも言える存在を失いながらも、薄紅の瞳に隠した慈しみを変えなかったラム。
その身を呈して何度もスバルに尽くしてくれた、忠竜パトラッシュ。
見ず知らずの少女を守るため、最期まで戦ってくれたフレデリカ。
前の世界、『聖域』を起点としたループのすべてで凄惨な結末を迎えたペトラ。
外敵を必死で遠ざけようと、ただがむしゃらに守り手を貫くガーフィール。
他にも、大勢の人々が死の炎に消えていった。
スバルが救わなければならない人たちが、スバルに置き去りにされて、死んでいったのだ。
『レムは、スバルくんを愛しています』
空っぽの過去に、何もない自分にうつむいたスバルに、勇気を与えてくれた青の少女がいた。
独りよがりなスバルを見限らず、醜悪なスバルの甘えを許さず、ただスバルを支えてくれた青の温もり。彼女の
『かっこいいところを、見せてください。スバルくん』
彼女の願いを胸に抱いておきながら、できることをやり尽くしもせずに、スバルは彼女の元を、世界を去った。
信頼を裏切った。
裏切って、しまった。
前の世界でできた大切なもの。
大切な思い出。
大切な、人達。
その全てが反転し、ナツキ・スバルの心を苛み続ける。
お前が皆を殺したのだと。
誰よりも痛みも苦しみも知る身でありながら、皆にそれを押し付けて逃げたのだと。
都合の良い綺麗事を並べて、一人で戦っているつもりでいたのだと。
そんな心の痛みのほうが、血肉を貪られる痛みよりも、全身を溶かされる苦しみよりも、よっぽど辛かった。
自分の弱さに、自分の愚かさに気がついたなら、目を背けることは許されない。
決意を、信頼を、愛情を裏切った償いを果たさなければならない。
自分が生み出した惨劇を、止めなければならない。
「こんな大馬鹿野郎に……誰も救えない俺に価値なんてないから…………」
前の世界に戻るには、女神の言葉を信じるしかない。
「誰も死なせずに、誰も巻き込まずに、魔王を倒してあそこに戻れたら、その時は────」
初めてスバルは自分の罪を償える。
もう一度、全てをゼロに戻すことができる。
きっと、自分を赦すことができる。
だから。
「…………もう、俺に構わないでくれ。俺から離れてくれ。俺に──もう誰も、死なせないでくれ」
手に力は入らず。
前を見ることもなく。
空虚な瞳で床を見つめ、言葉だけをこぼすスバル。
「────それでもあの日、声をかけてくれた。私にとってのナツキさんは、それで十分です」
そんなスバルを、ゆんゆんは目を逸らさずに見据えていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あの時、誰一人として話せなかった私に声をかけてくれて、本当に嬉しかった。嬉しかったんです」
魔道具は音を鳴らさない。
些細なつまらないことを、本当に嬉しそうに、ゆんゆんは語る。
「お互い特別な誰かでなかったけど……きっとこれから何も変わるんだって思って……。あの数日は輝いているように思えました」
スバルにとって、遙か遠き記憶。
彼女にとって、ついこの間の思い出。
隔絶した過去を共有するスバルには、理解できなかった。
「ずっと独りぼっちだった私にはわかります。一人は、ダメなんです。一人だとうつむいて、自分の足ばかり見て……。考えも下ばかり見たものばかりで、いつまでたっても前を向けなくなるんです。だから────ナツキさんが声をかけてくれて、変わろうと思える機会をくれて、凄く嬉しかった」
違う。
スバルは彼女のことを思う気持ちは、それほど多くあったわけではない。
「お前に声をかけたのは、強そうな人の手が空いてそうだったから、力を利用しようってだけの、俺の勝手な都合で────」
スバルはただ。
一人ぽつんと待つしかできないその姿に、四百年の孤独を耐えた少女を重ね合わせただけで。
「そんな、自分勝手な奴に感謝する必要なんて────」
「はい。利用するつもりの相手も、結局危険から引き離そうとする。そんな、どうしようもないお人好しなんですよね」
「────────」
少女の何もかも見透かしたような無垢な瞳に、自身の黒瞳を覗き込まれ、何も言えなくなる。
自分はそんな善人ではないのに。
こんなどうしようもない自分に、一体何を見ているというのか。
紅い瞳を逸らさずに、少女は言葉を重ねる。
「ナツキさんが何を見捨ててきたのか。何から逃げてきたのか。誰を置き去りにして、どれだけの悲劇が起きたのか。それは私にはわからない。わからないけれど────それでも、独り苦しみ続けることが償いだなんて、私は思いません」
薄っぺらくて、何もなく。自分にあったはずの最後の価値すら一度は投げ出した。
そんな自分に、死で救う以外の、どんな償いができるというのか。
「俺は…………俺、は…………」
「ナツキさんを苦しめるものがあるなら、少しずつ胸の裡を明かしてください。悪いことをしたなら、一緒に頭を下げて、一緒に叱られましょう。辛いことがあるなら、全て吐き出してください。どんな困難が相手でも、二人で……皆で考えたなら。きっと、前を向いて何かを見つけられるはずです。だから────」
「自分の価値は誰かを救うしかないだなんて…………そんな哀しいこと、言わないでください」
鼻の奥からツンとした痛みが走る。
胸のあたりを引き絞られるような圧迫感が襲い、そのまま視界がぐにゃりと歪む。
「自分を認められるために、誰かに好きになってもらうために、命と心を削るなんて、しないでください。そんな悲しい
頬が濡れているのを感じて、ようやく自分が泣いているのだと理解した。
「ナツキさんに、死んでほしくないんです」
ゆんゆんは、左の手で黒のチョーカーにそっと触れながら。
そこに込められた”願い”を、告げた。
「私は他の誰でもない、ナツキさんと友達になりたい」
そのまま数秒の間、静寂が場を支配する。
本当に、彼女の願いがそれだけだと伝わってしまって。
自分の命を、どうしようもなく惜しまれてしまって。
嘘は通じない。
本当のことしか話せない。
嘘をつきたく、ない。
「逃げ出した俺が苦しまずにいるなんて、そんなこと許されるのか?」
「逃げ出す前の皆さんは。ナツキさんの幸せを喜ぶ人じゃ、ありませんでしたか?」
幸せを喜べる人だから、皆の幸せを願ったのだろう。
少女はそう告げた。
「俺は……死にたくないと思っていいのか?」
「死んでいいなんて人がいるのなら、私がぶん殴ってやります」
傷だらけの心を守ろうと、少女は拳を振り上げた。
「弱っちい俺が、何も失わないまま魔王を倒すなんてできるのか?」
「一人じゃ無理かもしれません。だから────契約を、しましょう」
そう、少女は右の手を差し伸べて。
「魔王の討伐が、あなたの逃げだというのなら…………一緒に、最後まで走り抜けてやりましょう。私はその逃亡生活を完遂するまで共に在り続け、あなたから死と孤独を奪いましょう」
何の強制力もない、
「それが私達の友達料です」
────カチャリ。
手を取ると同時に、部屋に軽い音が響く。
少女の首から、黒のチョーカーの拘束が外れる、小さな音が。
「俺の名はナツキ・スバル! 無知蒙昧にして天下不滅、いつか魔王を倒す、お前の友達だ!」
「我が名はゆんゆん! いずれ紅魔族の長となるものにして────あなたの友達です!」
この日、この時。
長い、長い時間をかけて。
一人の少年と孤独の魔女は、友達になった。
18 『友達料と逃亡生活』