友達料と逃亡生活   作:マイナルー

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7 『竜の咆哮』

 視界が歪み、スバルの眼に映る光景が、森から別のものへと切り替わる。

 鬱蒼と生い茂っていたはずの木々は、まるで新たな道を切り開くかのようにへし折られ、全く原型をなしていない。

 そのくせその道は、森の入り口にも出口にも続いていない。なんとも中途半端なそれは、破壊者が空高くから森中途へと急降下したことを示している。

 破壊者の持つ、白く鋭い双眸。その眼光に加え、口元からはどんな剣よりも鋭い牙を覗かせ、見るものに対して威圧感を与える。それらの部位を持った顔面は逆三角形を連想させる鋭い形をしており、頭頂部からは二本の角が生えていた。

 その顔と同じように松葉色の鱗に身を包んだ胴体からは、こぶのように膨らんだ箇所も見える。見るからに強靭な四肢は、鋭い爪を持ったその手だけで、スバルの胴体を軽々鷲掴みにできそうだ。

 さらに目を引くのは、広げられた赤茶色の翼だ。その形はどこかコウモリのそれに似ており、蛇のような尾とともに、破壊者の巨大さを際立たせている。

「あれは――――伝説のエンシェントドラゴン……!?」

 魔剣の勇者と共にテレポートしてきた少女、その一人が呆然とした顔でつぶやいた。

 ドラゴン。ワニとシカとトカゲを合わせて生まれた存在――それはどこで聞いた言葉だったか。

 日本においては、知らぬもののいない神話の住人として知られている存在。

 前の世界においては、近くはスバルを何度も助けてくれた、愛しき地竜パトラッシュ。遠くはルグニカ王国を守護している神龍ボルカニカ。それ以外にも地竜に水竜と、様々なところにあった生物。

 この世界においては。最も強く、最も高い価値を持ち、そして最も恐ろしい、至高のモンスターだとされている。

 そして竜といえばもうひとつ。スバルの脳裏に以前見たひとつの彫像が駆け巡った、その時。

「めぐみん!」

 ドラゴンの出現した空間、そこに黒い人影を見たゆんゆんがそう叫んだ。

 が、それだけ。平原から比較的近い位置とは言っても、駆けつけるには物理的な距離がありすぎた。

 いかなる魔法によるものか、それとも竜の持つ特殊な力によるものか。直前まで存在を偽装し、破壊の風景とともにその姿を見せたドラゴンは、竜尾を振るわせながら本隊後方グループとの距離を瞬間的に詰める。

 存在そのものが暴力的といっていいその質量は、間にある木々を木っ端微塵にぶち抜いていった。

 勢いのまま、冒険者たちにその莫大な質量を叩きつけるべく、ドラゴンは片腕を振り上げる。

 響く咆哮。

「――――――――ッ!」

 同時に。

「『―――――――――』ッ!」

 そのドラゴンの鼻先に、ひとつの爆発が引き起こされた。

 光と共に巻き起こる衝撃波。そのあらゆる容赦を忘れた暴風は、

「――――伏せてくださいっ!」

 響いたゆんゆんの指示。その声に、反射的にスバルは脚を曲げ、そのまま体勢を低くした状態へと移行。

 同じように肉体を倒した他の冒険者達と視線が交錯し、直後に凄まじい勢いで飛んできた木が、鉄片が、身体の少し上を通り過ぎる。

 少しでも避けようと全身を地面に押し付けようとした――瞬間。

「がっ――――――――!」

 スバルの背中に燃えるような熱が走り、続いてそれが痛みに変わる。

 それは折れた木々か、それとも鉄の破片か。とにかく急速に飛び交った何かが自身の背中を切り裂いたと理解した。

 だが、浅い。十をゆうに超える死を乗り越え――経験してきたスバルには、その傷が命に関わるものかどうか直感的に理解できる。

 あくまで少々肉を裂かれた程度。痛みを我慢すれば、きっと活動だってできるだろう。

 今はただ、痛みに耐えてこのまま低姿勢を維持するだけ――――そう考えていた直後、今度は斜め上からの衝撃がスバルに襲いかかった。

 傷口を強く押す痛み、続いて何故上からという疑問を抱いてから遅れて気がつく。

 すでに暴風は去っている。破壊の風と共にやってきた破片などではない。

 スバルの斜め上から飛んできたそれは破片などではなく、生きた人間だということに。

「めぐみん、めぐみん!」

「……………………」

 意識はなく、息は掠れ、黒いマントが赤く染まっている。

 涙を浮かべて縋るゆんゆんに対しても、めぐみんは何も反応を示さない。

 とにかく安全な場所へ運ぼうと抱えようとして――――手にぬるりとした感触を覚え、スバルは自分の傷の痛みを忘れた。

 彼女の腹部から胸部にかけて受けた傷は、明らかにスバルの背中のそれよりも深い。

 どこまでが彼女のもので、どこまでがスバルの血なのかはわからない。

 今わかるのは、彼女は巻き込まれる危険を承知で魔法を撃ち込み。

 それを耐えた竜の一撃によって重傷を負いながら勢いのままに吹き飛ばされ、そのまま放物線を描いて落ちてきた、ということだ。

 魔剣の勇者の負傷からドラゴンの出現、そしてここまでの事態に混乱した頭でそこまでの理解を得る。続いて、彼女が飛ばされてきた方へと視線を巡らせると、残された冒険者達がドラゴンへと挑みかかっているのが見えた。

 ドラゴンは未だ生きている。

 人類最強の爆裂魔法ですら、奴を倒すことはできないというのか。

 そのドラゴンはその冒険者達を歯牙にもかけず――――視線をこちらの方へと向けてくる。

 まずい。

 ドラゴンは攻撃を加えている冒険者達に竜尾を振り回して吹き飛ばし、倒れた彼らを無視して高く飛翔。その姿が一瞬ぶれて、そのまま消える。

 正確には、消えたわけではないだろう。

 先程突如出現したのと同じ手法で姿を見えなくしたに違いない。

 竜の視線は確実にこちらに向いていた。次に見えない竜に蹂躙されるのはこちらの方だ。

 だが、かつての『見えざる手』と違い、術者すら目に映らない敵に一体どう対応すればいいのか。

 その場の冒険者達が迷い、対応を決断できずにいた――その時。

「っ……『クリエイト・アースゴーレム』」

 最速の対応は、嗚咽と共に響いた言葉だ。

 蚊の泣くように小さく、怯えた犬のような、しかし確かなゆんゆんの声。

 声量にも感情にも関係なく、そこには確固とした意思があった。

 スバルの気づかぬうちに詠唱を終えていた、そんな彼女の意志に応えるように、手をついた地面が大きく隆起する。以前見た風のカーテン同様、アレンジを加えてあるのか、その形成速度は以前にスバルが見た時よりも明らかに早く、その大きさもとてつもない。

 比喩表現抜きに人の形をした壁、という形容がふさわしいそのゴーレムは、スバルたちを守るように立ちはだかった。

 直後。壁となったゴーレムに大きく『穴』が空いた。

 ただ破壊された、というのではない。砕け散った光景など見えず、突如としてそのゴーレムの胴体が、向こう側の景色に変わった。少なくともスバルにはそう見えた。

 同時にスバルの脳裏を駆け巡るのは先程見た、森の木々が突然残骸へと変化したという光景だ。

 そこから導き出される答え――それは、ドラゴンの使っている力は透明化ではなく、自分の周囲の空間の認識偽装ということである。

 逆に言うならそれは、その空間の中心こそが、ドラゴンの現在地であるということを示していた。

「『ライトニング』ッ!」

「あ――『ファイヤーボール』!」

 ゴーレムに空いた穴、その中央部にゆんゆんの雷撃が。一手遅れたものの、それを理解した魔法使い――テレポートで転移してきた彼の火球が叩き込まれる。

 それに続くように、周囲の冒険者達も弓矢等を打ち込み始めた。

「――――――――――」

 咆哮が鳴り響く。

 続いて、再度空間の歪み。ドラゴンが空間ごと出現し、

「なんだ!? ちくしょう、ほとんど効いてねえ!」

 いかな耐久力か、ほとんど同時に打ち込まれていた魔法の光にも、先に打ち込まれた爆裂魔法にも、ほとんどダメージが見えない。

 決してないわけではないが、明らかに小さすぎるのだ。一体どれだけの魔法耐性を持っているというのか。

「――――――――――」

 ドラゴンは続けさまに放たれた矢をものともせず、再度咆哮。大きく息を吸い込んで、何かを溜めるように、牙の並んだ口を閉じた。

「炎のブレスが来るぞ! 気をつけろ!」

 誰かの警告に、冒険者達はある者は盾を構え、別の者は散開し、身構える。

 ただ一人。ドラゴンの出現に呼応するように前に出た、スバルを除いて。

「馬鹿、何やってんだお前!」

 誰かの叱責も聞こえない。今やるべきことは別にある。

 ナツキ・スバルは弱者だ。それでも今やれる一手はある。

 右腕を、口を閉じたドラゴンに向けて突きつけた。

 やるべき一手は決まっている。

 それはスバルの中にある数少ない手札。

 己を削る力。再起不能になることも覚悟の上の、禁じられた一手。

 スバルが使える唯一の魔法。

 

「――――シャマァァァァァァッック!」

 

 『前の世界』にしか存在しない、『陰属性』の魔法だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 スバルは知らないが、この世界における魔力と、向こうの世界での魔力は性質が違う。

 当然といえば当然だ。

 どんな世界でも人は魔法の力を備えているとされているが、世界によって魔法はその形を変えている。

 【スキルポイントを使用して取得し、スキルの一部として行使する】こちらの世界の魔法。

 【魔力(マナ)を体内に取り込み、別の形で世界に放出する】前の世界の魔法。

 全く別の形で発展した二つの魔法。使用している魔力の根源が全く別のものである。

 こちらの世界では、人が体力同様に備わった魔力を使い。

 前の世界では、世界の循環に携わる、大気中の魔力(マナ)を使う。

 人間が持つ魔力と、マナは似て非なるものであり、マナは魔力の代用品にはならないし、魔力もまたマナの代用品とはならない。

 そしてこちらの世界には、大気中にマナがないのだ。

 スバルの体内のわずかなマナは、とうの昔に器官(ゲート)を通じて外部へと放出されている。

 故に、スバルはシャマクを使用するために、命の源(オド)を削りマナの代用品としていた。

 発動するかどうかすら確証のないまま使った、その力の代償は小さくない。

 壊れかけの器官(ゲート)を酷使したことによる、魂を明滅させるような激痛と喪失感。

 寿命(オド)を削ったことによる、全身へのどうしようもない倦怠感。

 背中を裂かれたことによる流血など、問題にならないほどの消耗がスバルを襲っていた。

 視界が混濁しそうになるのを、舌を噛み出血させた痛みで対応する。

 たとえ舌を噛み切って死ぬことになろうと構うものか。今気を失えばどのみち『死に戻り』行きなのは間違いない。

 今は何を置いても、リスクを負って放ったシャマクの効果を確認することだ。

「これは……いったいなにをやったんだ、あんた!」

 名も知らぬ魔法使いは、ドラゴンの頭部を包み込んだ闇を指差して問いかけた。

「ドラゴン、の、かんか、くを、狂わせた」

 それは黒い靄。漆黒に包まれた、小さな無理解の世界。

 スバル自身も経験がある。これに包まれた者は何も見えず、何も聞こえず、たとえ今自分が刺し殺されたとしても、その闇の中ではそれに気づけない。

 姿を偽装し、存在を理解させなかったドラゴンが、自らが今無理解の世界にあるというのはなんとも皮肉であった。

「長くは、もたない。早く、逃げ、ろ」

 息も絶え絶え、言葉を告げるだけでスバルの肉体は絶叫を上げている。

 それでも、すぐに撤退するべきだ、という事実だけは伝えた。

 今ここにある戦力は、あくまで後方部隊。全体的な強さなら、はっきり言って二軍のようなものだと聞いている。伝説とかいうエンシェントドラゴンの強さがどの程度かは知らないが、彼らがその戦いに耐えられるとは思えない。

 シャマクに二度目はない。王都最高の治癒術師の言葉を破ったのだ。ゲートが完全に潰えていないだけで幸い、奇跡だとすら思える。

 いつシャマクが解けるかはわからない。ならば今するべきことは撤退だ。

「ぐすっ。――――――ナツキさん。めぐみんをお願いします」

「……ゆん、ゆん?」

 見ると、幾度も魔法を使ったにも関わらず、いまだに涙は止まっていない。否、涙が止まっていないのに、ああも果敢に行動してみせたというべきか。

 ぐしゃぐしゃにした顔を、自分のローブの袖で強引に拭き取っていく。

 そのまま全体をごしごしと拭き終わり、鼻を真っ赤にしたまま、ゆんゆんはこう言った。

「長くは持たないなら、ナツキさんはめぐみんと……そこの魔剣の勇者さんを連れて、そちらの人にお願いして、どこかの街にテレポートしてください」

 そう言ってテレポート使いの方へ一度視線を向けて、再度スバルに目を戻す。

「他の冒険者さんたちは、アクセルに戻って、皆にこのことを伝えてください。――私は、しばらく戦ってみます」

「無茶、だろ……おい、やめろ」

 少しずつスバルの呼吸は戻ってくる。だが、スバルの恐怖と不安は増すばかりだ。

 ゆんゆんの言葉が頭に浸透すればするほど、嫌な予感が、悪寒が止まらない。

「めぐみんは、凄いんです」

「…………」

 杖を両手で握りしめ、スバルと一度目を合わせて、そしてめぐみんの顔へと視線を移す。

「学校では私は勝ったこともありませんし、とことんタフですし。邪神の下僕や上位悪魔だって倒したことがある、本物の天才なんです」

 そう言って、名残惜しげにめぐみんの前髪に触れる、その仕草に。

「めぐみんの魔法で倒せない敵なんて、絶対にいません。さっきのは詠唱しきる前に襲われたとか、うっかり失敗しちゃったとか、そういうのです」

 かつて終わった世界。単身、白鯨の足止めに向かった、青い少女の姿が重なって。

「めぐみんはこんな怪我で死んだりしませんし――めぐみんが生きてれば、きっと大丈夫」

「…………やめろ。おい、ダメだ。そんな変なこと――レムみたいなこと言うな!」

 うまく動かない身体で、なんとか手を伸ばし、ゆんゆんに静止を促そうと努力する。そんなスバルに、くすりと少しだけ笑って、ゆんゆんは両手でスバルの手を包み込むように握った。

「弱くて怖がりで――とても優しいナツキさんは、正直言って冒険者には向いてないと思います。それでも魔王を倒すのなら、めぐみんを頼ってください。めちゃくちゃで、知力が高いくせに頭悪いことをする子ですけど……めぐみんはきっと、最強の魔法使いになれる娘だと思いますから……よろしくお願いします」

 止めようとするスバルの手。彼女はそれをそっと制して、口の中で何かを言いかけ、結局何も言えないように、ただ微笑んだ。

「あ…………うぅ」

 その笑顔を見て彼女を止める手段がないことに気づき、スバルの口から声にならない音がこぼれ落ちる。

 理屈の上ではわかる。

 先の戦いを見る限りドラゴンの戦闘力は、少なく見積もっても今ここにある戦力でどうこうできるものではない。こちらの攻撃はドラゴンにはほとんど通じていなかったし、少しでもドラゴンが攻勢に出れば、こちらの全滅は必至であろう。そして、ドラゴンはすぐに無理解の世界から脱出し、襲い掛かってくるのは想像に難くない。

 状況は厳しい。しかし、時間さえあれば、状況は変わる。

 爆裂魔法使いのめぐみんや、魔剣使いの勇者が復活すれば、ドラゴンを倒すこともできるかもしれない。

 あるいは一時全員で逃げれば、ドラゴンが去った後に街を再建できるかもしれない。

 ドラゴンが去らなくても、時間が経てば他の街からの応援も来るだろう、それでなんとか追い払うことができるのかもしれない。

 ならば、今は誰かが足止めをしてシャマクでは足りない時間を稼ぎ、皆を避難させるべきだ。

 大怪我をした三人はテレポートで、他の皆は今すぐに撤退をして、民間人の避難誘導をして、戦力を温存する。

 今覚悟しなければ、その機会もない。

 だからこそゆんゆんは皆を、そしてめぐみんを守るために、足手まといを置いていくつもりなのだ。

 ゆんゆんの言葉を聞いて、ある少女――魔剣の勇者とともに現れた二人の片割れは、代弁するように言った。

「皆……私達は街に下がりましょう。ここにいても、この子の足を引っ張るだけだわ」

 少女は瞳に悔恨の光を宿しながら、皆に撤退を呼びかける。

 言葉に従うように、理屈に従うように、冒険者達は手早く最小限の荷物だけで街への避難を開始する。

 理屈の上ではわかる。

 ――――だが、それは彼女の理屈だ。ナツキ・スバルの感情は、別にある。

 スバルの瞳に映るゆんゆんは、ただの十三歳の少女なのだ。

 声は震え、額には汗がにじみ出る。頬は真っ青に染まり、膝はガクガクと揺れている。杖を握る手には、力が入りすぎている。

 戦いに身を投じる覚悟はあっても、確実に見えた死に対する心構えなどありはしないのだ。

 そんな彼女を一人、置いていけというのか。

「ナツキさん」

 ゆんゆんがそっとスバルの身体を押し、未だ意識の戻らぬめぐみんの隣に置く。

 テレポートを使える魔法使いに、「……お願いします」と事務的な声をかけて。

 最後に一言、言葉を乗せた。

「さようなら、私と一緒にいてくれた人。――――ばいばい、私の一番大事な友達」

 前半はスバルに、後半はめぐみんに。

 ゆんゆんの、万感の思いを込めた言葉に応えなければならない。

 未だ眠り続ける彼女の親友の分も、応えなければならない。

 応えなければならないのに、何も声が出ない。

 少しだけだが、身体の倦怠感はマシになった。今なら無理矢理強がれば、隣に立つくらいはできるかもしれない。

 それなのに。

 彼女を止めることも、彼女に感謝する言葉も出て来ることはなく。

 やがて、魔法使いの詠唱が終わった。

「『テレポート』!」

 男の声に、スバルの視界が歪む。

 目が光だけに包まれて、ゆんゆんの顔が見えなくなり。

 唐突に光が晴れ――――

「――――えっ?」

 目の前にあったのは、驚きと恐怖の入り混じった、ゆんゆんの顔だった。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 転移していない。

 どういうことかと後ろを振り返ると、スバルの目に生暖かい液体がかかった。

 何事かと思う前に視界が紅く染まり、妙な音が聞こえる。

 ぽたり、ぽたりと。水がしたたるような音。

 目をこすり、瞬きを繰り返してからもう一度確認。すぐそこに見える、テレポートを使ったはずの魔法使い。その首に、大きな亀裂が走っている。

 その綺麗な傷口には、魔法使いの使う風の刃を連想し、一拍遅れて下手人を直視した。

 無理解の世界にありながら、竜は魔法を行使して、的確に魔法使いの首を掻き切ったのだと、ようやく気がついた。

 ようやく竜の頭部に黒の靄が去る。怒りと憎しみに染まった瞳を、めぐみんのそばにいるスバルに向け、先程の炎のブレスを―――― 

「――――はあああああぁぁぁぁぁっ!」

 そこでスバルとドラゴンの間に割り込んだのは、蒼い鎧を纏い、魔剣を持った男であった。

 腹の傷はとりあえずの止血をして、その上に布を巻いた程度の強引なもの。蒼い鎧はボロボロのまま、まるで身を守れるとも思えない。

 それでも男は言葉とともに魔剣を抜き、どういう力か、炎のブレスそのものを斬り裂いた。

 その瞳は、ただ己の使命に燃えている。

「キョウヤ! 気がついたの!?」

「キョウヤ! 無茶しないで!」

「フィオ! クレメア! 君たちは負傷者を運んでくれ! ここは僕が引き受けた! 君、動けるか!?」

 彼は二人の少女に端的な指示を、スバルに問いかけを送ってくる。

 答えようとする目の端で雷撃を放ったゆんゆんの、焦りに染まった表情が見えた。

「な、なんとか……いや、大丈夫だ!」

「ならボケっとしてるんじゃないっ! 逃げろっ!」

 ドラゴンと対峙する彼は、余裕などなく背中で叱責。それを受けたスバルは、未だ白濁しかける意識に鞭を打って立ち上がり、無理矢理足を走る形に変える。

 強がりだろうと意地だろうと、なんだってかまわない。少しでも自分の力になる想いをかき集めて、前を向く。

 前方には、少女に背負われるめぐみんの姿が見えた。

 スバルは一度だけ男を振り返り、

「悪い。――――ゆんゆんを、頼む」

「…………安心してくれ。僕は女神様に誓ったんだ。必ず、この世界を救ってみせると」

 おそらく激痛が神経を揺さぶっているであろう彼は、それでもしっかりと魔剣を握りしめる。

「任せてくれ。女の子、それも駆け出しの子一人守れないような男が、世界を救えるわけがない」

 背中で応えた言葉。それは虚勢だ。

 一人の男の虚勢。

 悪魔に負わされた傷に、その場のしのぎをしただけのボロボロの身体。どう考えても、その魔剣の真価を発揮できる身体ではないと、門外漢のスバルにだってわかる。

 それでも彼は、己の誓いのために、己の信じる誇りのために、己の意地のために、その虚勢を貫こうとしていた。

 スバルは最適解を見出せないまま、ただその意志を無駄にしないために地を駆ける。

 今、自分から竜に突撃し、返り討ちにあったほうが良いのかもしれない。

 あるいは今、自らの喉を掻っ切った方が良いのかもしれない。

 これ以上の苦しみを増やすくらいなら、いっそ今『死に戻り』するのもひとつの選択肢ではないか。

 そう頭の中を駆け巡っていても、ゆんゆんと彼の意志を無駄にはしたくなかった。

 ゲートの酷使で痛む肉体、それでも少しでも早く足を前に運んだ。

「ちょっとあんた、遅いわよ、もっと急ぎなさい! キョウヤの迷惑になるでしょうが!」

「身体、ボロボロなんだよ……お前こそ、人ひとり背負ってるくせに速いな……」

「これでもキョウヤと一緒に戦ってるんだから、あんたよりはずっと高レベルよ!」

 この世界ではどんな人間でも、レベルが上がれば身体能力が上がる。そして経験値さえ貯めれば、時間に関係なくレベルは上がる。

 高レベルの魔剣の勇者と共に旅をしているのなら、必然的に彼女の身体能力もそれなりに高いというわけか。

「――――――――――」

 耳に届いた、竜の咆哮。

 直後、足元に違和感。続いて、地が大きく震動していることに気がついた。

 スバルの脳裏に、上級魔法には大地を意のままに操るものがある、という言葉がよぎる。この現象がそうなのだろうか。

 大地は脈打つように激しく上下に動き、自分の靴の裏が本当に硬い大地であるのか信じられなくなる。体のバランスを崩し、まともに立つことすらできやしない。これならば、不安定な船の上を走ったほうがよほどマシだ。

 それでも、前に進まないわけにはいかない。姿勢を低く、這うような体勢で強引に進む。

 脳すら揺らされそうな、気持ちの悪い局地的震動の中をただただ進む。

 後ろで戦っている二人のためにも、時間を忘れるように、ただ進んで。

「……………………っ!」

 『死』に直面しているが故の直感か。頭の後ろにおかしな空気の動きを感じて、とっさに頭を右に振る。

 スバルの左頭部、そこを掠めて不可視の何かが通り過ぎていったのがわかった。

 おそらく、竜の放った不可視の風の刃だろう。二人と戦いながらもこちらを攻撃してくるとは、よほど憎いと見える。

 スバルには、何かした覚えなどないというのに。

 掠めたスバルの左頭部からは、当然流血が起こり、新たな苦痛が発生する。痛覚を遮断できない人の欠陥を呪い、呼吸に喘ぎながら、動きの鈍い頭をなんとか回転を再開させる。

「――ぁ」

 ふと、スバルの前方を進んでいた少女が、突然転んだのが見えた。

 未だに大地の揺れは不規則に続いている。姿勢を低くしながら移動していたが、転倒の一つや二つ起こるのは仕方のないことだ。

 ただ、当然ながら、少女が背負っていためぐみんまで一緒に転んでしまっている。

 大地の揺れに導かれ、二人の元から何かが転がってきた。

 自分の頭の動きが鈍い。それはアルファベットのLの形をしていて、なんだかオレンジ――というよりは柿のような色をしている。

 頭の動きが鈍い。頭の傷は予想以上に酷いのだろうか。

 転がってきたそれを持ち上げて、ようやく靴だと気づき。

 その落とし主に――めぐみんの元へと視線を送る。

 右の足首から先がなくなっていた。

 遅れて、握っているそれが、靴だけではない重みを持っていることがわかった。

「あ――――ぁあ」

 背負っていた少女は立ち上がらない。

 胴体を寸断され、立ち上がれるはずもない。

 広がった二人の血が、縦に横に揺れる大地の上で、おかしな形に広がって。

 自分がかわしたせいで。

 自分のせいで、その光景が起きたのだと、やっと理解する。

 めぐみんの身体が、偶然スバルの方に転がってきた。この状況でも意識が戻っていないのか。いや、一度戻ったところに激痛のショックで再び意識を失ったのかもしれない。

 めぐみんはまだ死んでいない。めぐみんを頼れと、ゆんゆんに言われた。めぐみんをよろしくと、ゆんゆんに言われた。

 自分のせいだ。自分のせいだ。

 なんとかしないと。なんとかしないと。

 なんとかしないと!

「つ、つながな、きゃ」

 思考が加熱する。肉体の損傷、脳への血の欠乏、器官の損傷にオドの消耗。目の前の事態に対応できるだけの力がない。

 以前自分の腕をもぎ取られた時のように、スバルの脳は常識を忘れて判断を誤った。

 めぐみんの足首、骨や血管、それに血肉を覗かせる綺麗な断片に、手に持った靴、その中の足をくっつけようとする。

 つながらない。何故だ。何故だ。何故、何故。

 何故!

 ……………………………ああ。

 当たり前だ。馬鹿か自分は。

 これでつながるわけがないだろう。

 自分の無理解が恥ずかしい。

 足の向きが反対じゃないか。

 手の中のそれをぐるりと回転させて、きちんとつなぎ直そうとしたその時。

「ふざ、けるな! ゴフッ……僕達は、まだ生きているぞ! 相手はこっちだ!」

 巨大な竜の影が、スバルとめぐみんを覆った。

「やめ――――『ブレード・オブ・ウインド』ォッ!」

 血を吐きながらも挑む魔剣の勇者と、残り少ない魔力を絞り尽くしているゆんゆん。押しとどめようとする二人の攻撃を、竜はまるで意に介そうとしない。

 傷ついていないわけではないはずなのに、ただスバルとめぐみんの元へ行くことを優先している。

 ここで終わる。この世界はここで終わりだ。

 ならば、せめて。

 めぐみんに覆いかぶさり、彼女の身体を隠しとおそうとする。

 『死』を理解したスバルの、意味のないわずかな意地。

 ただの意地で、少しだけでも、ゆんゆんの言葉に応えたかった。

 

 その肉体を死に至らしめたのは、牙か、爪か、魔法か。

 ここで終わるスバルが知ることはない。

 ここで終わるスバルが知る必要もない。

 

 

 

 

 ただ終わり。

 ナツキ・スバルは、もう一度あの時間に舞い戻る。


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