思えばもう少し仲良くしておけば良かった。
あの後、士郎氏から店で食事を取っていかないかと誘われたのだが、母なつきはそれには頷かず、「それは、我がチームが君のチームに勝利したときに取っておこう」という、何とも男前な断りを入れていた。
少し惜しいことをしたとも思わなくもない。周りの少年達が口にする食事の数々はどれもこれも手の込んだ料理ばかりで、巻き上がる湯気だけでも、それが極上の味を持つことは明らかだった。
お茶請けで出されたクッキーにしても、飾り気のない上品な味わいで、ひょっとすればここのパティシエールであるところの高町夫人はずいぶん上等なところで修行をしたのではないだろうか。
ともあれ、有意義な一日だったと思える。少なくとも、可愛いフェレットのユーノと再会できたことに関しては。
翠屋の戦勝会も宴もたけなわというところでお開きとなり、それぞれ少年少女達は親御さん達の迎えのもと三々五々と散っていき、俺たちも高町家に別れを告げ帰路に立つ流れとなった。
「いい人達だったね、翠屋の人たちは」
俺はそういって隣を歩く母を見上げた。
「ああ、そうだな」
俺の手を取り、ゆっくりと歩く母は、ただまっすぐ前を向きながらつぶやいた。
「士郎さんと何の話を?」
「ただの昔の話だ」
予想通り、母はそれ以上は何も言わなかった。
母と士郎氏は俺が隣に座ったとたんに話をやめていた。それは、他人に――いや身内にすら聞かせたくない話をしていたのは明白だった。
だからこそ俺は知りたいと思う。それはただの好奇心なのだろうか。
「昔の話って?」
「昔の話だ」
「そう……」
俺はもう一度母を見上げた。その表情は変わらず、いつもよりもよっぽど無表情で、寂しそうだった。
これは、気長にやっていくしかないか。俺は小さく肩を揺らし「ふぅ」とため息をつきながら視線を下げた。
目に映るのは初夏の陽射しに照らされて、表面に若干の陽炎をなびかせているアスファルトの黒。その割れ目から僅かに芽吹く緑の息吹は力強く、多くの往来に踏み付けられてもなおまっすぐと天を目指して伸び進む。
その姿がまるで頭上にそびえる母の姿を連想させるようで、俺はまるでかなわないと心に浮かべた。
そして、ふと、俺は足を止めた。
「どうした? はるか」
繋いだ手が僅かな力で引き留められ、母もまた足を止めて俺の方に向き直った。
「なんだろう? 宝石?」
俺は繋がれた手をやんわりとほどき、膝を折り曲げて足下に手を伸ばした。
菱形の蒼い宝石。
それは何の変哲も無いただの石といってしまえばその通りだった。つまみ上げて太陽に晒して見るも、それは透き通っているように見えて透明ではなかった。装飾店の軒先に並ぶ色とりどりの宝石のようなきらびやかさはなく、その造型は人の目を奪うようなものではない。
あまりにもシンプルで、ただそれだけの石。青いガラス玉をただ菱形に切り取っただけと言われれば納得してしまうだろう。
しかし、俺はその石に見とれてしまっていた。
「パワーストーンってやつかな? だれかのお守りなのかも?」
俺はそうつぶやいたが、おそらくそれも違うとも思っていた。
少なくともこれは、誰かを守るとか、助けるとか、かたわらに置いておくとか、そういう類の物からはかけ離れた……むしろ真逆のものであると思えて仕方が無かった。
「落とし物か。まだ近くにいるかも知れないな」
母はそう言って、その石を渡すようにと俺に手をさしのべ、俺は若干の不安を感じながらもそれを母に手渡した。
「ん……あれかもしれないな」
母はそのまま掌を額にかざし、その先にいる一組の少年少女の姿を見つけた。
同年代の少年少女達と比べても低いとしか言いようのない俺の背丈では確認のしようが無いが、道行く人々の合間々々からうかがえば、そこには少女を前にして鞄をあさりながら少し慌てた様子の少年がいた。
「あれ? 確かゴールキーパーの子だったよね」
なるほど、彼女持ちだったのか彼は、最近の子は進んでるな。だけどまあ、スポーツ少年とそのマネージャーのカップルなら、それほどフテキセツなカンケーにはならないかと俺は思い直し母を見上げた。
「あの子のかな?」
「さて、どうだろうな。だが、まあ、可能性が有る限りは試すしかないだろう」
外れても人が死ぬわけではない。という母の呟きを無視して、俺は母から石を受け取り、二人の側へと歩いて行った。
「やあ」
「え?」
いきなり声を掛けて驚いた様子の少女が、俺に目を向けた。
「何か用か?」
少年の方は幾分怪訝そうな眼差しを俺に向けていた。
さて、少し困った。声を掛けてみたはいいが、どのように切り出すか全く考えていなかったのだ。
「えーっと、ちょっと困ってる様子だったから、ひょっとしてこれかなって思ったんだ」
そう言って俺は掌を上に向け、そこにのせられた石を彼に差し出した。もう少し上手い言い方もあったのだろうけど、俺にはこれが精一杯。殆ど初対面の人に対してフレンドリーな会話を持ちかけるなんて高等技術など持ち合わせていないのだから、不躾ではあるがさっさと用件を済ませてしまおうという算段だった。
そして、それはどうもあたりだったようで、目の前に差し出された石を見て、少年の表情は一変して、安堵のため息が彼の口から漏れた。
「よかったぁ……これ、探してたんだ。サンキューな……えーっと」
「篠﨑だ」
「わかった、篠﨑。今度なにかおごるよ」
「そうだね、楽しみにしてる」
おそらくそれは永遠に来ない「今度」なのだろうが、気にすることはない。
俺はそのままその石を彼に渡し、母に目配せをしてその場を辞することにした。男女の逢瀬をこれ以上邪魔することはない。それに、何となく彼と仲よさげに話す俺に、件のマネージャーの彼女が少しジェラシーの混じった視線を投げかけつつあったのだからたまったものではなかった。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ」
「ああ、じゃあな」
「またね」
いちおう子供らしく手を振り合いながら、俺はきびすを返して、一歩引いた位置からこちらを眺めていた母の表情をうかがった。
「もういいのか?」
その表情は、他の人からは理解されることはないだろうが、とても穏やかなものだった。
「ん」
俺はそう短く答え、視線を振って「行こう」と告げた。振った視線の先には、ちょうどあつらえたかのように、イタリアンの軽食屋があった。
「本格地中海の味」をキャッチフレーズに「こだわり素材の自家製ブレンドの茶葉」の売り文句に肩をすくめながら、果たしてこの店の味は、紅茶中毒たる母の下を満足するに足りるのだろうか。
俺は少し楽しみに思った。