比企谷八幡。相模南の仇敵にして天敵。
雪ノ下雪乃のように聡く、
由比ヶ浜結衣のように敏感で、
葉山隼人のように全てを俯瞰し、
そして相模南のように卑屈な人間。
相模南が最も嫌悪し、そして最も尊敬するクラスメイト。
文化祭での因縁があるにも関わらず、体育祭でまで自分の醜態に最後まで付き合ってくれた、嫌味な男。
語弊を恐れずに言うなら、うちがいま、クラスで一番気にしている男だ。
「いや別に悪くねぇけど……なんでいきなり喧嘩腰なんだよ」
「あんたが失礼な声だすからじゃん」
「そりゃ悪かったな。じゃ、俺は教室戻るわ」
言うが早いか、昼食だったらしい惣菜パンの袋を丸めてポケットに突っ込むと、さっさと立ち去ろうとする。
もちろん、逃がすつもりはない。うちのもやもやを取っ払ってもらわなきゃ気がすまないし。
「ちょっと。それだとうちが追い返したみたいじゃん」
「いや実際その通りなんだが……」
「は?」
「なんでもございません」
「別にうちはあんたがいても気にしないし。ほら、座れば?」
「いやほら、いまアレがアレだからちょっと」
「意味分かんないんだけど。いいから座ってよ」
「……おう」
嫌そうな顔をしながらも、うちの態度がただの気まぐれじゃなく、何かしら目的があることを察したんだと思う。
比企谷が渋々ながら元の場所に腰をおろしたのを見てから、うちもその隣に腰を下ろした。もちろん、うちたちの間は人が一人座れるくらいには開けてある。比企谷の隣に座るとか、うちだって嫌なんだから。
どうしようかな、とちょっとだけ考えて、とりあえずお弁当の包みを解いて膝の上に広げた。
比企谷は落ち着かなげに身を捩る。
「おい相模、何か用があるなら早くしてくんね? 俺も暇じゃないんだけど」
「あんた、昼休みに用事なんてないでしょ」
「いや超用事あるし」
「なんの用事? 言ってみ?」
「……いいから早く用件を言えよ」
嘘を見透かされたからなのか、きまり悪そうに視線をそらす。
まったく、こいつはどうでもいいところで変な嘘つくんだから。
うちはこいつが、比企谷が嫌いだ。
あの文化祭で一番悪かったのは仕事と責任から逃げ出したうち。
だけど、だからって比企谷がうちを罵ったのは事実だし、あの時うちは本当に悔しくて悲しくて、あふれる涙を止められないくらい気持ちはズタズタだった。
だから、例え一番の原因がうちにあっても、うちがこいつを嫌いなのは変わらない。
でも、あの文化祭の騒動にうちはひっかかるものを感じている。
認めるのは悔しいし癪だけど、比企谷は優秀だし、感情を理性で押さえ込める人間だと思う。
そこは、うちもちょっと認めてる。尊敬だってしてる。
だってうちだったら、自分のことを一度でも悪く言った人間と部活だからってもう一度関わろうと思えない。
あんなに自分の悪口を言って、噂を拡散したうちの前に正々堂々と、そして目一杯卑屈に立って見せた比企谷が、ムカついたから、なんて理由であんな酷い悪口を言うだろうか?
それだけが、どうしても腑に落ちない。
それは体育祭以来うちの心にずっとわだかまっていた疑問だった。
自分の悪評を立てた人間のために私情を抜きにして奉仕部の仕事に徹することが出来る比企谷八幡が、ただの腹いせであんな暴言を吐くとは思えない。
文化祭では見えなかった、というより見ようとしなかった、体育祭を通じておぼろげながら見えてきた、比企谷八幡の人物像。それらと最も矛盾する、文化祭での暴言。
だからうちは、その真意をこいつの口から直接聞きたい。
うちが本気で、こいつを嫌いになるために。
「……あんたさ」
「なんだよ」
「なんで文化祭のとき、うちにあんなこと言ったの?」
多分予想外の質問だったんだろう。比企谷の顔が形容しがたい感じに歪む。
うん、やっぱこいつキモい。
「なんでもなにも、あん時言ったまんまだ。仕事ほっぽり出したお前に苛ついてたから、思ってたこと全部言ってやったんだよ」
嘘だ。すぐにそう確信できた。
本当にそれが理由だとしたら、その悪罵が出てくるのはもう少し早いタイミングだったはずだ。悪意のこもった感情的な言葉なら、屋上に来た時点で、その言葉が出てきてもおかしくない。だけど、こいつが屋上でうちを見つけて最初に口にしたのはたしか、
『エンディングセレモニーが始まるから戻れ』
あの時も、比企谷は私情より仕事を優先していた。
もしかしたら気持ちの上では、仕事をほっぽって逃げ出したうちに本当に苛立っていたのかもしれない。だけどそれを口に出すのではなく、比企谷はあくまでも奉仕部として、文実の一人としての役割に徹していた。
そんな比企谷の態度が変わったのは、遥とゆっこと、そして葉山くんが来てからだった。
うちが望んだ通りの優しい言葉をかけてくれた三人を前にして、自分のしでかしたことを突きつけられた気がして動けなくなったうちに対して、こいつは。
『本当に最低だな』
そう、言ったんだ。
「嘘でしょ」
うちが言うと、比企谷はようやく正面からうちの顔を見返してきた。
「嘘じゃねーよ」
「それも嘘」
「なんでそう思うんだよ」
断定的なうちの口調を訝りながら、比企谷が聞き返してくる。どうして、と言われると上手く説明できない、けど、うちは感覚でそれが嘘だってわかってしまう。敢えてそれを言葉にするとしたら。
「だって、ああいうのなんか、比企谷っぽく、ないし」
「っぽくないって、お前が俺の何を知ってんだよ」
「それは……あの時はあんたのことなんて知らなかったけど。体育祭とか、あったし、今はその、うちだって少しは、あんたのこと、知ってる、し」
……やば、なんか泣けてきちゃった。
比企谷のことなんか嫌い。それはあの文化祭からずっと変わってない。だけど同時にうちのなかでこいつはもう絶対に無視なんて出来ないくらいの存在で、うちはこいつを嫌いながらも尊敬していて、うちには無い強さを持っているこいつに認めてもらいたいとさえ思っていて。
そんな比企谷が、うちのことを「人の上っ面だけ見て判断する薄っぺらいやつ」だって思ってるんだって、そう思ったらなんか、悔しいし悲しいし切ないし、何よりうちは本当にその通りの人間だったから、それが情けなくて――。
「――うぁ……」
「ちょ!? お、おい相模? な、泣くな落ち着け。スマン、その、キツイ言い方したつもりじゃなかったんだが」
うちの涙を見て、比企谷は慌ててフォローになってないフォローをしどろもどろになりながら口にする。その事実が、こいつだってうちのこと嫌いなはずなのに、それでも泣き出したうちのフォローをしているということが、あの屋上での罵倒が嘘だったことを肯定することにも、多分気づいていない。
言質取ったり、と心の何処かで冷静な自分が思う一方で、一度溢れ出した涙は簡単には引っ込んでくれない。うう、こんなことで泣き出しちゃうなんてうちってやっぱりメンタル弱すぎなのかなぁ……。
文化祭、体育祭に続いて、またうちの醜態を見る羽目になった比企谷だけど、こいつは立ち去らずに黙って座っていた。話がまだ終わっていないことを察していたのか、あるいはうちを泣かせた責任を感じているのか。そのくせきっと、例えばここに葉山くんが通りかかったりすれば、あっさりと立ち去ってしまうのだろう。
ああ、そっか。
ふと、前触れ無く納得がいった。
あの時もそうだったんだ。自分が気まずいとか、自分が苛ついたとか、そんなのはこいつにとっては二の次で。
葉山くんたちがいれば、暴言にはストップがかかる。あの状況で仲裁に入るってことは、比企谷を悪者にして、うちが被害者になるってこととイコールで。そうすればうちは自己嫌悪に沈みかけた自分を引っ張り上げて、あの場を離れていける。屋上を出たうちにはエンディングセレモニーに戻るしかない。
やっぱり比企谷は、あの時も仕事に徹していたんだ。
そのために自分を投げ出して、文化祭のあと、うちに何を言われても、どんな噂を流されても、自分の仕事をしただけだからと、素知らぬ顔で受け止めていたんだ。
相模南は実行委員長をやり遂げた。
そのハリボテの看板を、そのどうしようもなく薄っぺらな嘘を、誰にも気づかせないために。
その強さを、うちは尊敬している。
その強さに、たぶん嫉妬している。
相模南は比企谷八幡に、どうしようもないほど憧れている。
そして自覚する。
うちはあの文化祭で、これ以上ないほどの醜態を晒したと思っていたけど、そうじゃないんだ。
これ以上ないなんてそんなの大間違いだ。それは体育祭後のうちの境遇が何よりも明確に証明している。一度責任を投げ出した人間に同情してくれるほど、周囲は優しくない。
だけどうちは文化祭のあとには、誰からも責められなかった。うちよりも「悪いやつ」がいてくれたから。
うちは、比企谷に救われていたんだ。
「……落ち着いたか」
うちが泣き止むのを待って、比企谷はこっちを見ないままそう言った。全ての事情が見えてしまった今、そのなんてことのない言葉さえもうちの情けなさに追い打ちをかけるようだったけど、不思議とそれは不快ではなかった。
「ねぇ、比企谷」
「何だよ」
不機嫌そうに顔を伏せているのは、もしかしたらこいつなりの照れ隠しなのかも、と思う。うちも真っ赤になった目とか、崩れたメイクとか見られたくないし、今はそれがありがたい。
「うち、うちさ。あんたのこと嫌いだよ」
「お、おう? 知ってるぞ」
泣き止むまで待ってくれていたのに、うちが口にできたのはそんな言葉。でも、だって、仕方ないじゃん。気づいてしまったんだから。だから最後まで聞いて欲しい。うちにこんなこと言わせた責任は、あんたにも少しくらいあるんだから。せめてそれを聞き届ける義務が、あんたにはあるんだもん。
「うちのことなんて何とも思ってないくせに、うちに優しい比企谷なんて嫌い」
「は? いや、お前何言ってんの」
比企谷が戸惑いの声を上げる。だけどそれには応えない。お願いだから、いまはとにかく全部言わせて欲しい。
うちはちゃんと比企谷が嫌いだってことを。
でも、その嫌いはもう、さっきまでのそれと同じじゃないってことを。
「うちのことなんて好きじゃないくせに、うちに優しいみんなも嫌い。うちのことなんてちっとも信じてなかったくせに実行委員長を任せたみんなが嫌い。うちのことを知りもしないのに壊れ物みたいに遠巻きにする奴らが嫌い」
でも。
「――そうなるまで気づかなかった自分が、一番、嫌い」
ああ、言えた。
言えてしまった。
言ってしまった。
ずっとうちの中に渦巻いていて、だけど絶対に認めたくなかったこと。
うちが一番悪かった、なんて客観的な事実じゃない。全部全部自分で招いたことなのに、それを周囲のせいにして、比企谷のせいにして、みんな嫌いだなんて思ってしまう自分が、うちは一番嫌いなんだ。
プライドなんてとっくに崩れていた。
三浦さんに対抗しようなんて考えて実行委員になった時から? それとも比企谷と一緒に夏祭りに来てたゆいちゃんを内心で見下した時から? 違う。もっと、ずっと、前から。
誰かに負けたと思った時から。
自分を心の底から誇れなくなってしまった、相模南が、絶対ではないと知ってしまった時から。
ずっと縋っていた、自分は特別なんだって幻想に。
それがとっくに打ち壊されていたことに、うちだけが気づかないまま。
そんな自分の愚かさが、醜さが、滑稽さが、大嫌い。
「うちは……こんなうちなんて、もう――」
「これは、俺の友達の友達の話なんだが」
唐突に、比企谷が声を張り上げてうちの言葉を遮った。
「そいつは学級委員をやっていた。といっても人気者だから推薦されたとか、やる気があったから立候補したんじゃなく、単にみんなが嫌がったから押し付けられただけだったんだが、とにかくそいつはクラスの代表になった。嫌だなぁ面倒だなぁと思う一方で、そいつは期待してもいた。そういう役職につけば誰かが自分を認めてくれるんじゃないかと思ったんだ」
けどなぁ、と比企谷は自嘲するように苦笑いしながら続けた。
「クラスの誰とも親しくなかったそいつに、クラスをまとめる力なんてあるわけもなかったんだよ。押し付けられた役割を果たすどころか、なんにも出来ずに役立たずの烙印を押されて、半年後には委員が交代してそれっきりだ。教壇に立たされてまごついていた時間は、そいつにとって死にたいくらい恥ずかしかった」
「……なにそれ。そいつが、うちと同じだって言いたいわけ?」
「まぁ聞けよ、話はここからだ」
比企谷はうちの口出しに手を突き出して待ったをかけて続けた。
「そいつは凹んだ。そりゃあもう海よりも深く。でもってクラスの連中と顔を合わせるのがたまらなく嫌だった。馬鹿にされると思ったんだろうな。ところが、一週間もするとクラスの連中はそいつへの興味を失った。原因はなんだと思う?」
「え、と……なんか他に話題があった、から?」
「なんだわかってるじゃないか、その通りだ。その時クラスで男女それぞれの中心だった奴らが付き合い始めてな。クラスの連中の興味は全部そっちへ移動したってわけだ。さて、このことから得られる教訓は何だ、相模」
「ん、っと……人の噂なんて気にしても仕方ない、ってこと?」
「違うな。やらかしちまった失敗を反省するなんて無駄だってことだよ」
「え」
「そいつは海よりも深く凹んだが、実際にはそんな必要はなかったんだ。クラスの連中はそもそもそいつに期待してなかったし、そいつが後悔しようが反省しようが心を入れ替えようがクラスのイケメンと美少女カップルが誕生すればそっちに食いついただろう。だから、他の連中にとってそいつが後悔したとか反省したなんてのはどうでもよかったんだよ」
「で、でも、失敗したのは本当のことじゃん!」
「ああ失敗した。だが人には向き不向きがあるしまして学生なら出来ないことだってある。委員長なんてのはその典型だろ。ロクに社会に出てもいないひよっこが、同世代の人間を何十人も束ねて動かすなんてそもそも無理なんだよ。出来なくて当然まである。だからやらかしちまった、ってひと晩悶えたら、あとはケロッとしてりゃいいんだ。その失敗を責める奴がいたら、筋違いだと思っておけばいい」
開いた口が塞がらないって、こういうことか。
なんだその開き直り方は。そもそも意味わかんないし、周りが気にしないからそれでいいなんて、そんな自分勝手が通用するはずがない。受け入れられるはずがない。
失敗は、取り戻さなきゃいけない。
そのはず、なのに。
「誰でも良かった役割を引き受けて、誰でも良かった仕事を失敗したからって落ち込む必要なんてどこにもねーんだよ。優しくない世間が悪いって思っときゃいい」
誰でも良かった。
誰も期待してなかった。
それはとっても厳しい言葉で、うちのなけなしのプライドをズタズタにする言葉。
そして同時に、いつの間にか全部を償わなきゃ許されないと思いこんでいたうちの重荷を下ろす、とても優しい言葉。
「だから、まぁなんだ。他の連中が全部忘れるまで、放っとけばいい。キツイかもしれんが、そう長くは続かねぇよ。学校一の嫌われ者の噂にも七十五日待たずに飽きた連中だし、目前に迫った修学旅行もあるしな」
――だから、あんま気にすんな。
不思議だ。
開き直ってるって、意味わかんないって、そもそもこいつの話はうちのやらかしたこととは全然符合しないって、ただの気休めだって、全部わかっているはずなのに。
そのめちゃくちゃな言い分に、なぜだかすっかり気持ちが軽くなっているうちがいる。
失敗は取り戻さなきゃいけない。
でも、その失敗が取り戻す前に風化してしまって、どうしようもないなら?
無理にそれを取り戻そうとするのは、それはもう、うちの勝手なエゴでしかない。そのエゴの最たるものが、きっとあの体育祭だったんだ。
――じゃあ、うちが本当にしなきゃいけないことは。
「ねぇ、比企谷」
頭に浮かんだ考えの馬鹿らしさに、つい口が軽くなる。
馬鹿馬鹿しいその考えを実行するための言葉が、口をついて出てきてしまう。
「みんなが全部忘れるまで、うちを一人ぼっちにした責任、アンタがとってよ」
「は?」
頭に浮かんだ考えとは正反対の、だけど実行には不可欠な言葉を突きつけた途端、比企谷がやっぱり嫌そうに顔を歪める。
これもきっと、うちのエゴ。
でもこれは、誰かに許されたいからじゃない。うちがうちを許すために、やられっぱなし、助けられっぱなしで終わらないために。
比企谷が言うなら反省も、後悔もしない。
代わりにうちが比企谷に出来ることをしてあげる。比企谷が勝手にうちを助けたんだから、うちだって勝手に比企谷を助ける権利がある、よね?
「なんでそうなるんだよ。だいたいそんなの、責任のとりようがねーだろ」
「そんなの簡単じゃん――うちを一人にしないように、一緒にいてくれればいいんだよ」
「…………は?」
たっぷりの間を取って、今度こそ本気で嫌そうな顔をする比企谷。
でも、うちはもう一歩だって退かない。
ふふん、うちを慰めた失敗、反省しても遅いんだからねっ!
……だ、大丈夫かな? 本気で嫌われたり、避けられたりしないよね?
鬱屈してた気持ちまで吐き出しちゃって、これで比企谷に避けられたりしたらちょっともう立ち直れないかも……。
ということで、第一話・完です。
ほぼ感情論。それさえもあやふや。
原作ありきのキャラクターを動かすのは本当に難しい。
さがみん解釈に多分に他SSの影響が見て取れるかもしれませんが、それを差っ引いても体育祭以降の相模は個人的にこういう人物として捉えています。
二度の失敗でプライドをズタボロにされたことで今まで以上にメンタルが弱っている一方、調子に乗りやすいタチだったり感情優先で動く部分は変わっていません。ただ、もともとクラスカーストの上位だったこともある相模は愚かであってもバカではなく、賢しい部分も持っている、ので二度の失敗から多少なりとも自分を省みている……から結局文化祭の真実にいつかは自分で気づいちゃってまたメンタルが弱っていく、みたいな。
原作のさがみんはさがみんで、その愚かさで彼女なりに立ち直っていくでしょうが、今回は周囲に距離を置かれてしまった場合の彼女についての「もしも」を考えてみました。
なんか作者も知らないうちに根性論でだいぶ立ち直ってしまいましたが。さがみん強い子やればできる子。