AM 5:30
備え付けのベッドの上で、スゥッとサドゥの意識は浮き上がる様に目が覚めた。
そして、ほんの数秒程で己が何者で、どの様に生き、どの様な境遇でこの場にいる事を思い出して…
瞬間、絶望した。
自身に五感が存在する事に、自身に手足が存在する事に、自身に思考が存在する事に。
何よりも、自身が生存している事に、絶望した。
ゆっくりと身体を起こし、視界を巡らせる。
寝る前に準備していた通り、ベッドの周りには目覚まし時計すらなく、手に取って凶器に出来そうなものはない。
窓ガラスも特製の頑丈なものでなく、一般的な家庭向けのものだったら、頭から突っ込んで山肌に投身していた。
死んでいない事に絶望している彼女では、どう足掻いても死への誘惑に抗えない。
(大丈夫。大丈夫。ここには良い人しかいない。まだ死ねない。まだ生きなきゃ。まだ大丈夫…)
必死にそう自分に言い聞かせて、死への誘惑を振り切る。
頭痛を、嫌悪感を訴え続ける頭を必死に両手で抑えつける様に抱えながら、全身が熱病に侵されたかの様に震えている。
彼女が戦っているのは自分だ、自分の中の死へ逃避しようとする弱さだ。
頭の中で妹であるマシュの、マスターである立香の、そしてお世話になっているカルデアの職員やサーヴァント達の顔を思い浮かべる事で、サドゥは漸く意識を現世へと向ける事が出来た。
「………。」
ふらり、と覚束ない足取りでベッドから降り、冷水で濡らしたタオルを用意すると、クローゼットから何時ものカルデアの服装へと着替えていく。
下着だけ(トップは寝る時には付けないが)の姿になると、空調も最低限しかついていない部屋で躊躇いなく冷え切ったタオルで身体を拭いていく。
同時に、思考が明瞭化していき、今後の予定を時系列順に考えていく。
(朝ご飯作って、掃除して、呪腕さんと訓練の予定…。)
それらの予定を思い出し、何とか今死んでしまっては迷惑がかかると自己暗示をしてから身体を動かしていく。
そうでなければ動けない。
そうでなければ生きられない。
そんな歪で病んだ様を、彼女はしっかり異常だと認識していた。
(早く、逝かないと…。)
だが、それを治そうとすら思わない。
何もかもが劣る自分が死んでしまえばそれで済むと、本気で思っているから。
……………
AM 6:00
普段はエミヤが実質的に占拠している食堂の厨房スペース。
だが、ここ数日はサドゥが自主的に入っている。
昨夜の内に仕込んでいた料理を温め直したり、手早く完成させていく。
食事形式はバイキング。
食器と食物、飲み物等を用意して、後は利用者によるセルフサービスだ。
今日のメニューは簡単な卵と肉料理が数種にサラダとスープ、デザートのヨーグルトやシリアルに各種飲料、主食にはパンとご飯、お粥を用意した。
こうすると態々配膳する手間が無いので楽なのだ。
とは言え、嘗てのカルデアの様に専門の職員と豊富な物資がある訳ではないので、施設内の一角にある畑と保存食、特異点で回収した物資をやり繰りして何とかサーヴァント達にも多少は提供できる程度の食糧を確保できていた。
「おはようサドゥ嬢。朝早く精が出るな。」
「…おはようございます。」
食堂に入って来たのは、常に雅さを纏いながらも飄々とした侍…ではなく、自称農民の佐々木小次郎だ。
鍛錬の後なのか、薄らと汗をかいている。
「…どうぞ。」
「うむ、忝い。」
未使用のタオルを小次郎に渡す。
人間よりも遥かに頑強で、各種の生理現象すら無視できる英霊とはいえ、それでも生前と同じく快不快は存在する。
こうして彼らとコミュニケーションをとる事も、付き合っていく上でとても大事な事なのだ。
それが例え、依存染みた理由があり、相手もそれを察していたとしても、だ。
「ふむ、こうして毎日白米にありつけるとは。時代は本当に変わったものだな。」
「…小次郎さんも、お米の方が好きですか?」
その名前の通り、小次郎は日本人であり、その生前の食生活は当時の日本のそれだ。
となれば、必然的に和食の方が身近となる。
「いや?郷に従うまでよ。某、まともに食えるものならそこまで拘りはせんよ。」
まぁゲテモノや毒物染みたものは勘弁だが。
「くす…前はそんな人達と一緒だったんですか?」
「はっはっは。とある女狐めに散々失敗作を食わされたものよ。夫への手料理の試作品とやらでな。」
小次郎が言うのが誰なのか、原作知識を持つサドゥには一発で理解した。
裏切りの魔女メディアとその二人目のマスターである葛木宗一郎の事だろう。
凸凹夫婦だが、確かに愛のあった二人の姿に微笑ましさを覚えて、サドゥは自然と口元を綻ばせた。
「ふむ、やはり其方も妹同様に微笑んだ方が愛らしい。」
「…いえ、あの子の方が愛らしいですよ。」
きっと自分の場合、内の醜さが表面に滲み出ているだろうから。
あの純真な妹の様には絶対に可愛らしくはなれない。
「何、どんな花を愛でるか、それは愛でる者が決める事。某は其方を愛らしいと思って、こうして愛でているだけの事。其方もまた、マシュ嬢とはまた異なる愛らしさを持っている。それを否定されては、某の立場が無い。」
「…困った人ですね。」
「では、困らせ序でに緑茶を頼もう。そろそろ他の者達も来るだろう。」
「…ちゃっかりしてますね。」
眉を困った様に下げながらも、一切の嫌味の無い賛辞にサドゥは丁寧に緑茶を淹れる事で応えた。
悪意のない純粋な好意には好意と行為で返すのが、せめて彼女に出来る事だから。
(ふむ、やはり心の傷さえ癒えれば、誰もが振り向く女子になるであろうな。)
その様を、人類史上屈指の技量を持つ侍は穏やかな目で眺めていた。
それから10分としない内に、食堂は起き出した職員と遅番であった職員達が集まり、往時程ではないものの騒がしくも和やかに時間が続いた。
……………
AM 9:30
厨房での仕事を終え、昼食の仕込みも終えれば、後は掃除の時間だ。
とは言え、10時過ぎには昼食の準備に行かなければならないので、機械を使う。
「…ごー。」
電源スイッチを押せば、全長1m程の5機のドラム缶型お掃除ロボが廊下を滑っていく。
人手が無い現状、個室の方は各自でするしかないが、これさえあれば数時間程で他の共有スペースは恙なく掃除してくれる。
それは即ちこのカルデアの使用可能な区画がそれ程までに狭いという事を意味していた。
「………。」
廊下を散開して掃除していくドラム缶から目を外し、直ぐに食堂に戻る。
エミヤが立香と共に第3特異点への探索に向かっている今、レイシフト中は交代で不眠不休で見守らなければならない職員達を除けば、食堂を専属で守れるのは彼女しかいなかった。
「…頑張ろう。」
ぐっと、密かに拳を握りながら呟く少女に、職員達がほっこりしているのを彼女だけが知らない。
……………
PM 3:00
カルデア内戦闘訓練施設にて
ヒュ…カッ!
「うむ、大分様になってきましたな。」
「…呪腕さんの、お蔭です。」
投影した双剣の内、小ぶりな
それを繰り返し続ける。
指導するのは呪腕のハサンだ。
元々凡人にして非才な彼は自己鍛錬と自己改造で山の翁へと至った人物であり、こと短剣の投擲に関して言えばアーチャーのエミヤ並に優秀なサーヴァントだ。
また、戦闘技術においても標的への接近と逃走に秀でており、現状サドゥが必要だと思っている事を凡そ修めている貴重な人物でもある。
「得物の重心と形状を把握し、風を計算し、最適な投擲姿勢を以て、十分な力と勢いを付けて投擲する。」
静止目標ならそれで済むが、動体目標なら更に目標の機動予測を加えた上で、戦闘と言う予測の困難な状態で、尚且つ不安定な姿勢で投擲を行わなければならない。
となれば、必然的にどんな状況でも投擲するための各種フォームから最適なものを選択、実行しなければならない。
座学は前日やったので、今日はそれをお浚いしてからの実技だ。
「ふぅ…フッ!」
タンッ、とやや軽い音と共に移動する標的の一つに
だが、それは的を貫通する事はなく、移動と共にあっさりと抜けてしまう。
勢いが足りず、深く刺さらなかったのだ。
「む…。」
「ははは、最初はそんなものですとも。」
幸いと言うべきか、サーヴァントとしては最低クラスの筋力Eであっても、常人と比較すれば10倍以上の膂力を持っているのだから、生前の呪腕のハサンよりも条件は良い。
そして、デミサーヴァントであるサドゥは成長する事が出来る。
これにより、彼女は何とか戦闘技術、又は特異点で役に立ちそうなスキルを会得しようとしていた。
また、呪腕のハサンの指導は人並みではあっても丁寧なので、サドゥも根気よく彼の指導に応えていた。
「まだまだ身に付くのは先ですが…何、貴方は若いし習得速度は生前の私より遥かに早い。以後も精進を怠らぬ事です。」
「…はい、ありがとうございます呪腕さん。」
ぺこりとお辞儀するサドゥ。
既に訓練開始から2時間以上が経過しており、そろそろ食堂に戻らねば夕飯の準備に間に合わないので、これで今日の訓練は終了だ。
だが、その愛らしい姿と仕草に反し、彼女の胸中は変わらず諦観に支配されたままだ。
嫉妬も悔恨も怒りも消え…否、怒りはある。
自分という害悪が存在する事への怒りがある。
今も呪腕というその道のプロフェッショナルに指導してもらっていながら、即座に習得できない己の無能と非才を憎悪していた。
(どうにかならぬものか…。)
その鬱々とした雰囲気を滲ませる少女を前に、嘗ては教団の頭目であった呪腕もまた頭を悩ませていた。
……………
PM 5:00
この後に朝まで徹夜になる遅番のスタッフを始めとして、何とか本日予定していた各種業務を終えた面々が食堂に現れ始める。
全員が大なり小なり疲れが顔に出ているが、それでも自分の責務を果たしている辺り、カルデアの人材の質は確かなものだった。
だがしかし、エミヤがいない現状、食堂の活気も少し墜ちていた…
「…本日はワイバーンのお肉です。」
…筈だった。
幸いと言うべきか、現在第3特異点にレイシフトしている立香達が狩った新鮮なワイバーンの肉の余剰分が送られてきたため、今夜の夕食のメインはそれに決定した。
ワイバーンは竜種としては最下位の一つだが、その肉は人類の咬筋力に比して極めて硬い。
だがしかし、特異点先で頑張っているエミヤよりワイバーンの肉の下処理・調理法も一緒に伝えられたのだ。
流石はプロの料理人100人とメル友になった一家に一台の正義の味方である。
その情報は確かで、更に送られた肉は既に下処理済みであったため、後は加熱すれば美味しく頂ける状態だった。
そのため、本日は焼き肉大会であり、職員らの興奮から食堂は一種異様な雰囲気に包まれていた。
「はは、まさか竜を肴に一献とはな。此度の召喚はよく度肝を抜かれるな。」
「ですな。まさか竜種を食する日が来るとは…。」
5次アサシンコンビの二人も、食堂の一角でのんびりとしながら焼肉をつついていた。
とは言っても、呪腕のハサンの場合は具材をミキサーして消化し易くした専用スープを味わっていたが。
「して、どう見る呪腕殿?あの娘の見込みは?」
「能力としては努力家ですが、私と同じで凡人ですな。貴殿の様な剣才は欠片もありませぬ。しかも、サドゥ殿は…」
「心を病んでいる。本来なら、寺で養生させておくべきだな。」
「ですな。」
この二人は、正面から言ってしまうのは簡単だが、それでは何の問題解決にならないとして沈黙を選んだ。
無論、自身に出来る事があればするが、現状では精々仕事を手伝うか訓練に付き合う位しか出来ない。
「あの娘に必要なのは、ただ寄り添ってくれる誰かと静養だ。外野がどう言った所で、それは上っ面をなぞるだけに過ぎん。」
「うむむ、私も宗教関係者として何かせねばならぬのですが…生憎とこういった事は門外漢でして。」
現状、メインでサドゥのメンタルケアに当たっているのはエミヤとクー・フーリンsである。
他にも手空きの英霊達が何やかやとマスターやマシュ同様に甘やかしているが、彼女の心を解き解すには至っていない。
「まぁ急いても仕損じるだけ。今は待ちに徹するとしよう。」
「歯がゆいですが、致し方ありませんな。」
言って、焼肉とスープを抓む二人だった。
……………
PM 8:00
シュン、と管制室の自動ドアが開く。
それに疑問符を上げて幾人かが振り返るが、すぐに視線を戻すか片手を上げたり、会釈なりで軽い挨拶を返す。
彼女の存在は彼ら職員にとっては既に当たり前のものだからだ。
「…ドクター、夕飯ですよ。」
「お、ありがとう。そろそろお腹が減ってきてたんだ。」
疲れを顔に滲ませたDr.ロマンに温め直した焼肉の残り物を手渡す。
このドクター、放っておくと甘味とコーヒー位しか摂取せずに数徹するので、定期的に食事を届けて様子を見るのがサドゥの日課となっていた。
「…食べ終わったら、休んでください。」
「いや、あのね、サドゥ。今は立香君達が特異点にレイシフト中だし、仮とは言えTOPのボクが休んでたら示しが付かないし、緊急時への対応速度も…。」
「どーぞどーぞ。ドクターがいなくても今なら大丈夫ですよ。」
「藤丸君も寝るみたいだし、今夜はもう動きは無いでしょう。」
「君達裏切ったな!?僕の気持ちを裏切ったな!?」
まさかの部下達の裏切りにロマニは叫ぶが、いい加減休めと睨まれると、渋々だが従う事にした。
「まぁまぁロマニ。そう気張り過ぎるもんじゃないよ。折角なんだからちゃんと休むと良い。心配なら私が見ておくから、安心したまえよ。」
「うーん…まぁレオナルドがいるなら安心かなぁ…じゃぁすまないが頼んだよ皆。」
うーす、と職員らがそれぞれ気の無い返事をする。
「ちっ、美少女に気遣われるとか死ねば良いのに…。」
「サドゥちゃんの手を煩わせるなよロマニの癖に…。」
「サドゥちゃんprpr」
「あ、保安部ですか?えぇ、ロリコンを発見しまして、えぇ、お願いしますね。」
「全部聞こえてるからね君達…!」
一部が保安部に連行されながらも、カルデアの中心たる管制室は今夜も賑やかだった。
……………
PM 10:00
「お休みなさい…。」
夕食の片づけと明日の仕込みを全て終え、入浴と身嗜みを終えると、サドゥは早々に布団に入った。
訓練と食堂業務の疲れから、既に身体はへとへとだ。
本来のこの虚弱な身体ではきっと無理だった仕事だが、こういう時ばかりはデミサーヴァントになって助かったと思う。
“あー早くレイシフトしねーかなー。”
すると、ここ数日大人しかったアンリ・マユが話しかけてきた。
(どうしたの?)
“此処の連中は善人過ぎてオレの出番がねーのよ。特異点なら何でもありな殺し合いも多いからさ、色々滾っちゃうんだけどねー。”
確かに、人の悪性の器である彼からすれば、善良な人々で多くが構成される現在のカルデアは居心地が悪いのだろう。
(何れ来るよ、その時を気長に待とう。)
“はいはい、お利口さんにして待ってますよっと。”
そうして目を瞑れば、直ぐに意識が薄れていく。
消失していく自我、知覚できなくなる感覚、力の抜ける四肢。
疑似的な死にも感じられる深い睡眠に安らぎを感じながら、サドゥは目覚めない事を祈りながら就寝した。