ep.1「始まり」
――尸魂界
現世で死んだ人間が大抵たどりつく、所謂《あの世》
とはいっても、ここ尸魂界で生まれた人間もおり、そういった者たちの一部や、大多数の現世からやってきた幽霊――
東西南北、それぞれ80の区域に分かれたその一角。南流魂街78地区《戌吊》
そこにある一軒のあばら家に、彼女はいた。
「しっかし、ここはほんと治安が悪いねぇ……」
起き抜けの汗ばんだ額を、薄汚れた布で拭きながら、少女はつぶやく。傍らで伸びている名も知れぬ男は、まだしばらく起きないと判断して、自分が布団代わりにしていた布を被せてやる。女に飢えてか力を見せつける為かは知らないけど、襲われたからついちょっと返り討ちにしてしまったけれど、まだ《生きてる》みたいだし、風邪でもひかれたら後味が悪い。
つい先日やっとの思いで手に入れた水差しを、粗末なちゃぶ台もどきの上に置いておく。こいつが起きたらまた一波乱ありそうだし、面倒ごとは今はご免被りたい。
「んじゃ、風邪引いちゃだめだよ、お兄さん」
たぶん聞こえてないだろうけれど、そう続けて呟いて、少女はあばら家を出た。
《戌吊》は流魂街の中でも治安が悪い。死神たちがいる中央――瀞霊廷から離れた位置にあるからだろう。要は、監視の目が届きづらいのだ。ここでの強者は力、あるいは知恵に秀でている――大凡が悪い意味で、だが。もっと外側のほうに位置する80番街などはもっと治安が悪いのだろうか。死後にも苦労するなんて、そこに配置された魂魄は運が悪いというか、なんというか。自分が言えた義理ではないのだろうが。
次の寝床を探すために、あぜ道を歩いていく。距離が長いから早め早めに行動せねば。
空を見上げる。自分が起きたのは草木も眠る丑三つ時、まだ朝までは時間がある。だが今から歩いて行かないと時間には間に合わないだろう。少女は街の中を中央—―瀞霊廷、真央霊術院へ向かって歩き出していた。
少女、井塚 実灰は霊力を持った魂魄である。尸魂界にやってきた頃は精神的に参っていたのかなんなのかはさておき、気づいたら《戌吊》の隅でうずくまっていた。そこから、彼女の記憶は始まっている。
状況も読めず、空腹で動けなかった彼女を見つけたのは、たまたま通りかかった黒服――後に死覇装というのだと知った――の男だった。
男は空腹を主張する井塚を見捨てず、幾ばくかの食料を分け与えてくれた他、意味不明な質問を投げかける井塚に付き合ってくれたのだ。
「ここどこでしょうか、私死んだはずなんですが」
「お前さん現世の記憶があるのか?珍しいな、霊力もちで現世の記憶があるの」
「現世……?」
「お前さんが死んだのは現世、んでここは尸魂界。所謂あの世だな」
「あの世」
「おう」
「……腹が減るあの世?」
「あー、ちょっと現世の人間が考えるあの世とは違うかもな、詳しく説明すると――」
男は丁寧に説明してくれた。尸魂界の在り方、そこで暮らす人々、そして自分たち、死神の役目を。
井塚はそれを記憶しようと真剣に聞き入った。あの世、死んだ人間が来たり、この世界で生まれた人たちが住み、生きている世界。あの時した《賭け》を思い出す、あれが本当にできる可能性が見えてきた。ちょっと元気が出たぞ。
「んで、だ。お前が腹が減るってことは、霊力がある証拠だ」
「ん、そうなんですか?」
「おう、霊力の無い奴は腹は減らないからな。嗜好品みたいに食べたり、後は水は必要だから水分を摂る位だ」
霊力。それは死神になるためには必要最低限の才能らしい。霊力がある人は空腹感を覚えるのが一般で、流魂街出身の場合、大体が食い扶持を得るために死神になろうと真央霊術院という、死神になるための学校へ向かうらしい。だが、往々にして差別的なものがあり、流魂街と、瀞霊廷それぞれの出身者の間には溝があるとか。どんな環境でもそういった問題は存在するようだ。
目の前の男はそういうものを実際に見聞きしていたようで――死神だから当然だが――、話す内容は現実味を帯びている。何か苦労したのだろうか、と邪推してもみるが、それよりもだ。
「つまり、死神とは尸魂界、ひいては現世における治安維持組織、ということでしょうか」
「ま、大雑把に言えばそうなるな」
治安維持というよりバランサー、とかとも言うらしい。
「真央霊術院にはどうやって入れるんですか」
「……お前、死神になる気か?」
「勿論」
「食い扶持を手に入れたいってなら、他の仕事を探したほうがいいぜ。いつ死ぬか分からない仕事だ」
「そんな仕事をしてるあなたが言いますか」
そういい返すと、男は苦笑して頭を掻いた。初対面なのにずいぶんと優しい人だ、これは根っからのお人好しで、後々苦労する質と見た。
「それに、大丈夫ですよ。これでも生前は最前戦で先頭切って戦ってましたし、体の動かし方くらいは覚えています」
「はぁ?お前、見た感じ日本人だろ?現世の日本じゃ確かに戦争が起こってるとは聞くが、軍人は大体が男だって話だぞ、どういうことだ」
「――は?」
戦争?軍隊?
何を言っているんだ、とこちらも怪訝そうな表情で見つめる。と、今更思い浮かんだことがあった。
「まって、現世今何年、そんでもって月の色は」
「は?」
「いいから答えて!」
「……1900年位だったはずだ、月の色は青、っつーか、青と緑?色んな色が混じってたな」
嘘だろ。
月はその時代だったら、まだ緑化はされていない、されているはずがない。だって月を地球と同じ環境にしたのは、あの子だ。それを行ったのは2071年、1900年代とかでは断じてない。
月の色が白だったら、まだ過去に飛んだということで納得はいった。だが、現実には月の色からして緑化が済んでいる。これから察するに、ここはやはり……。
「お兄さん」
「どうした、すげぇ顰め面してたから驚いたぞ」
「いえ、はい、まぁ色々私の知る現世とかなり違っていたので、少し驚きまして。余計――死神になりたくなりました」
「……本気か」
「本気です。知りたいこと、やりたいこと……探したい人が一気に出てきたので」
「それは死神にならないと」
「できないことです」
むしろ探し人はどこにいるか、どころか存在しているかどうかも分からない。だからこそ、現世にも行くことがある死神になりたい。
「それに、それだけではないんです」
「ん?」
「さっき言ったじゃないですか、戦ってた、って。……誰かを守る仕事、誰かを助ける仕事、あと、強いのと戦うの、好きなんです」
強敵に一人、時に仲間と一緒に立ち向かうときの、なんとも言えない緊張感と高揚感は、今でも鮮明に思い出せる。助けた人からの感謝の言葉も、反面妬まれるような、恨まれるような視線も思い出せる。だが、それらすべてが遣り甲斐で、生き甲斐だった。あの仕事に――神機使い、ゴッドイーターに誇りを持っていたのだ。あの職場が、井塚のすべてだったといっても過言ではない。
「だから、教えてください。死神のなり方」
だんまりを決め込む男に縋りつき、説得の言葉を投げかける。ここは中央から離れているから、詳しい情報源、それも安全で、いい人なんて滅多にいない。これを逃す手はないのだ。
――無言の攻防は、男が折れる形で決着した。
それから数ヶ月、ようやく試験の日がやってきて、井塚は瀞霊廷への道を歩いている。あの男――志波 海燕というらしい―—から色々と教わったから、予習は大丈夫なはずだ。というか、自分のわがままに付き合ってくれた形だというのに、あの男はお人好し過ぎないだろうか。
彼からもらった、手描きの地図を見る。世話好きな人だった。配属されるなら、現時点では彼の下がいいな。
そんなことを思いながら、井塚は一人、進んでいった。