初めてのキスは、すっぱい香りがした。
◯
愛姫さまはわたしのご主人さまだ。
わたしと愛姫さまは生まれたときからずっと一緒で、そしてわたしは愛姫さまのためになんでもしなきゃいけなかった。わたしは家令の家系の娘で、つまりわたしという人間は、愛姫さまのために生まれてきたのだった。
愛姫さまはわたしで遊ぶのがお気に入りらしくて、それともわたし以外で遊ぶのがきらいだったのかもしれないけれど、とにかくわたしはたくさん愛姫さまに遊ばれた。愛姫さまはわたしを犬に追いかけ回させたり、わたしの洋服やお母さんのつくってくれたハンカチをからかったり、ロケット花火でわたしを月に打ち上げようとした。
ほんとうは、少しだけいやだった。小さいころのそういう思い出のせいでわたしはいまでも花火がきらいだし、音を聴くだけでこわくなって身体がふるえる。そんなわたしを、愛姫さまはまたからかう。
だけど、わたしは愛姫さまが好きだった。
だいきらいな花火でわたしを怖がらせる愛姫さまも、大好きだったお人形の髪の毛をきってわたしを泣かせる愛姫さまも、そうやって無邪気そうに笑う愛姫さまも、家族のことで泣いている愛姫さまも、大好きだった。
わたしには愛姫さましかいないように、愛姫さまにはわたししかいなかった。だから、わたしがはじめて人をきらいになったのは、あの、うっとうしい
◯
「っ、うぇ……っけほ、ぐ……っは、は、はっ」
くるしそうに嗚咽をもらす背中をゆっくりとさすりながら、わたしはいつものようになぐさめる。
誰に対しても気が強くて、強情でみえっぱりなのに、こういうところはとびきり弱い。むかしから、ずっとそう。
「み、ず……よしの……わた、し……っうぇ」
「むりしてしゃべらないで。愛姫さまは気にしなくていいから、ゆっくり深呼吸して」
「う、ん……は、っは、は、ぁ……」
お医者さまにきいても、特に健康に問題はない、といわれる。だけどこうして苦しんでいるすがたは、ちっとも大丈夫にはみえない。
ゆっくり、ゆっくりさすってあげているうちに、息を整えたようで愛姫さまは顔をあげた。まだすこしだけ、みみが赤かった。
「っん、っ、っ……っは、ふ、はぁ」
胃の中のものをぜんぶ吐き出したあと、愛姫さまは小さな口に運ばれるままに、ひとくちずつ、わたしの水を飲んだ。わたしは愛姫さまがしゃべれるようになるまで、じっと待っていた。
しばらくすると、かたくとがった声で一言だけ。
「……服が、よごれたわ」
「しょうがない。替えをもってくるから、愛姫さまはそこでよごれたのをぬいで待ってて」
愛姫さまがこくりと素直にうなづいたのをみて、わたしはいそいそと着替えをとりにクローゼットにむかった。
ほんとうは泣きそうなのを我慢しているんだって、わたしだけがしってる。あんなふうに唇をかみしめているの、何度もなんどもみたことあるから。
今日が、学校じゃなくてよかった。
服をもって戻ったら、愛姫さまはいつも通りに戻っていた。わたしの用意した着替えをみにつけると、お腹がすいた、と言って部屋を出ていった。わたしは部屋に残ったよごれた服をまとめて、念入りに手洗いする。いとおしい子供にふれるみたいに、そのよごれを丹念に、じっくり洗いおとしていく。
わたしが洗濯をおえたころ、愛姫さまが呼びにくる。何か食べものを買ってきなさい、って。わたしはまたいそいそと出かける。
これがわたしたちの生活で、日常だった。
◯
一日じゅうベッドで寝ているのは、そんなにわるい気持ちじゃなかった。水疱瘡じたいはくるしかったけど、熱がひいてからはすっかりよくなった。
部屋から出られなくてたいくつ。日記に書くこともないくらい。そんな日々のなかで、わたしは愛姫さまのことを考えた。
愛姫さまはいまなにをしてるのかな。
愛姫さまはどんなこと考えてるのかな。
愛姫さまはわたしがいなくてどんな気持ちかな。
つまらなそうにしてる?
それとも、すねてるかな。
いつもみたいに怒ってる?
……もしかして、泣いてるかな。
まさかね、と思いながら、わたしは笑っていた。笑えなくなったのは、あいつを見つけてからだ。
──
わたしの大きらいな、かわいそうな男の子。
◯
次の日は学校で、わたしは愛姫さまを起こしに行かなきゃならなかった。愛姫さまは寝起きがよくないから、なんどもゆすってあげないと起きてくれない。あんまり強くゆするとあとで怒られるから、そっと。愛姫さまは寝ぼけ眼をこすって、わたしは着替えを手伝った。
愛姫さまは朝もよく食べる。まいにち、信じられないくらいの量を食べる。安達垣のシェフは笑って腕がなります、なんていうけど、わたしはちっともそうおもわない。
愛姫さまがこうなったのはわたしのせいだから。
学校では、愛姫さまはおとなしくしている。すごくまじめで成績もいいし、先生のひょうばんもいい。わたしは勉強がにがてだから、たまに愛姫さまに教えてもらっている。
学園では金子さん、木場さん、水野さんという三人が愛姫さまによくしてくれている。三人はいつも一緒で、愛姫さまもその輪にくわわっている。仲良くなったきっかけは愛姫さまの男ぎらいで、調子にのった男の子をあしざまにふったところをみてひとめぼれしたらしい。愛姫さまもまんざらでもなく思っていて、お昼も三人と一緒に食べていた。さすがにいつもの量を食べるわけにもいかないから、業間やすみとわけてお弁当を食べていたけど。
わたしはいつものように、お昼やすみに三人のもとへむかう愛姫さまのために、
そんなことが起きるとしっていれば、ずっと愛姫さまのそばにいたのに。
わたしが購買でもみくちゃにされてようやくパンを買ってこられたとき、愛姫さまは三人に介抱されていた。どうやら、朝ごはんのぶんを吐いたらしかった。わたしは頭がまっしろになって、あわてて三人にあやまってむりやり追いだすみたいに別れをいって、愛姫さまを保健室のベッドに寝かせた。
あくまでも具合がわるいから吐いたのだ、と。
そういうことにしておきたかった。
◯
そいつはとつぜん愛姫さまのそばにあらわれた。はじめてみたのは、わたしの部屋のまどから外をのぞいたときだった。マサムネと呼ばれる少年は、すごくたのしそうに、すごくうれしそうに、心から愛姫さまが好きなのだと、そういう顔をしていた。
はじめは、なんともおもわなかった。水疱瘡でやすんでいるわたしのかわりに愛姫さまに遊ばれている子だ。でも、わたしのようにうまくはいかないだろうとおもった。きっと愛姫さまにはついていけない。愛姫さまには、わたししかいないんだ。
それは、わたしの願望でしかなかった。
愛姫さまのご両親の離婚が正式にきまりかけていて、愛姫さまは日に日につらそうになっていった。風邪をひかれたのもかさなって、愛姫さまは外で遊べなくなった。わたしの水疱瘡もすっかりなおっていたので、もとどおりになったとおもった。
『でもね、私、もう一人じゃない』
愛姫さまにはわたしだけ。わたしには愛姫さまだけ。やっとわたしのところに愛姫さまがもどってきてくれたと、そうおもっていた。
『マサムネがいるもの。だいじょうぶ』
──その言葉を、きくまでは。
◯
愛姫さまは泣いていた。わたしは、愛姫さまが誰にも見られる心配がないところ以外で泣いているのをはじめてみた。愛姫さまの涙はとくべつだった。
わたしは胸がしめつけられるような、叫びだしたくなるようなふしぎな気持ちになって、愛姫さまに声をかけられなかった。
「……吉乃?」
そうしているうちに愛姫さまは、小さな声でわたしを呼んだ。わたしはあわてて返事する。
「は、はい」
「どうして、すぐに来ないのよ……私がこんなに、苦しくて、助けてほしかったのに……」
「ごめんなさい、愛姫さま……愛姫さまのご飯を買いにいかなくちゃって、わたし」
「うるさいっ!!」
「……っ」
愛姫さまは怒っていた。あたりまえだ。わたしはまた、愛姫さまをかなしませてしまったのだから。
「ごめん、なさい……もう二度と、愛姫さまのそばからはなれません……」
「それじゃ、買い物も出来ないでしょう……っ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
わたしはひたすらにあやまった。けれど愛姫さまはわたしをゆるしてくれなかった。しかたない。
わたしだって、わたしをゆるせない。
「……もういい。吉乃、早退するから手続きして」
「はい……すぐにしてきます」
わたしはまた、罪をおかしたのだ。
二度とゆるしてもらえなくてもしかたない罪を。
◯
『あんたなんか、好きにならないわよ。豚足』
その言葉は、だれにむかっていったんだっけ。
きっとそれはわたしだった。あんたなんか好きにならないって、そう言われたのはわたしだった。
マサムネは愛姫さまに好かれている。
じゃあ、わたしは?
『あんたなんか、好きにならないわよ。豚足』
どうしてそんなこと言ったんだろう。わたしには愛姫さましかいなくて、愛姫さまさえいればそれでよくて、愛姫さまが必要としてくれてさえいれば、
『あんたなんか、好きにならないわよ。豚足』
やめてよ。わたしの頭のなかでかってにわめかないで。わたしはそんなこと、言うつもりなかったのに。どうして、どうしてこんな──
『あんたなんか、好きにならないわよ。豚足』
そうだ、わたしは。
愛姫さまに捨てられるのが、こわかったんだ。
◯
目がさめたら、汗だくだった。
どうやらうなされていたらしい。ベッドのわきにかけてあるタオルでぬぐって、身体をおこした。なんだか頭がおもい。時計をみてはっとした。いつも起きる時間より、一時間もおそい。
「……愛姫さまっ」
ようやく意識がはっきりして、思考のうちにとびこんできたのは愛姫さまのことだった。
急いで立ちあがって、めまいがした。部屋のかどに身体をぶつけるのにもかまわず、愛姫さまをさがして屋敷をはしる。めまいはどんどん強くなって、目のおくがじんとしみた。
愛姫さまは、ダイニングにいた。
「吉乃? そんなに慌ててどうしたの、走り回るなんてはしたないわよ」
「っ……は、はぁっ、あき、さま……」
愛姫さまはなんでもない顔で食事をしていた。
「ふ、ふく、は……」
「そんなの一人で着替えたわ。あなたが来ないのがいけないんでしょう?」
「う、うぅ……」
「吉乃!?」
その場にうずくまったわたしをみて、愛姫さまがあわてて駆けよってくる。どうしようもなく頭がいたくて、涙がでた。わたしは愛姫さまにしがみついて、わんわんないた。
「よしよし、そんなに悲しいことがあったの?」
「ぅ、あぅ……愛姫さまが、ここからいなくなっちゃう夢、みて……」
愛姫さまは呆れたように笑う。その笑い声が身体にしみこむたびに、救われるような心地がした。
「私が? どこに行くってのよ」
「……わかりません」
「もう、吉乃のバカ。変な夢みて勝手に心配してるんじゃないわよ」
「ごめん、なさい……」
しがみつくふるえる手を、愛姫さまはぎゅっと、にぎっていてくれる。それだけでわたしの胸にあたたかい水がみたされるような気持ちになった。
「吉乃は心配しすぎなのよ。ちょっと私に怒られたくらいで、そんなにへこまれたらこっちも困るの」
「はい……」
わたしは、しあわせだった。
罪ぶかいわたしが、愛姫さまをひどい目にあわせたわたしが、こんなにしあわせであっていいのかな。だれかをけおとして居場所をうばったわたしが、こんなふうにやさしくされていいのかな。
神さま、わたしはゆるされてもいいのですか。
あきらめて、ながれて、わすれて、そして、あまえても、いいのですか──
「わかったら、さっさと朝ご飯を買ってきてちょうだい。昨日はあまり食べられなかったから、その、お、お腹が空いたのよ!」
「……わかりました」
「本当にわかったのね? ご飯系と、パン系ふたつずつよ? もしもご飯系がなかったら──」
わたしが愛姫さまのおつかいの内容をちゃんとおぼえようとしていたときだった。だから、気づくのがすこし、すこしだけ、おくれてしまったのだ。
「──っ、う、おぇ……っ」
「愛姫さま……!?」
とつぜんえずいて、うつむいてしまう。こんどはわたしがあわてて愛姫さまに駆けよって、いつものように背中をさすろうとするけれど、
「ッ……触らないで!」
「っ!?」
するどい声だった。わたしは途端に萎縮してしまって、それ以上愛姫さまに近寄れなくなった。けれどほうってはおけないのでおそるおそる声をだす。
「でも、愛姫さま……」
「っ……ゔぅう……っは、う……おぇ……」
口を必死でおさえる愛姫さまの目は、それでも、けっしてこっちに近寄るなと、ぜったいにふれるなと、そうわたしにいいつけているようにみえた。
そうしているうちに、愛姫さまはとうとう吐いてしまったようで、大きなおえつと一緒に手のはしから、胃のなかみが、ぼたぼた、おちてくる。わたしは泣きそうになりながら、愛姫さまの言いつけがあるから近づけなかった。
「……っ、はぁ、ぅ、はぁ、は……ぁ」
ひとしきり吐いて、顔や手、服をべたべたによごしてしまって、ようやく愛姫さまのえずきはおさまった。けれど愛姫さまは、うつむいてしまって、なにもいってくれなかった。
「愛姫、さま……」
「……っ、あなたも、あ、呆れてるんでしょう?」
ようやく口からでてきた言葉は、わたしの信じられないものだった。
「ぅ、私が、こんなふうに……食べなきゃいらいらして、苦しくて、なにもできなくなるくせに、食べたらぜんぶ吐いちゃうようになって、吉乃も嫌になってるんでしょ」
「そんなこと……っ」
「あるに決まってるわよ!」
言葉をさえぎられて、また頭がじんとしびれた。
「いつも偉そうに命令するくせに、私は一人じゃ食事もできないんだって! 吐瀉物の始末もできないんだって! そう、思ってるんでしょ……!」
「愛姫さま……」
わたしはどうしたらいいかわからなくなって、せめてわたしがしてもらったように、愛姫さまをぎゅっとしようとした。
「触らないでって言ってるでしょ!!」
「ひっ……!」
おもわずわたしが空気のぬけたような声をだすと、愛姫さまは、はっとした顔でうつむいた。わけもなくかなしかった。
「ごめん、なさい……吉乃……」
首を一生懸命にふることしかできない自分の無力さが、心底いやになった。
「私、汚いでしょ……自分の吐き出したもので、体じゅう汚して……誰かに触れてもらえる資格なんて、私にはないの。きっとこれは、罰なのよ……私がいい子にしていなかったから、お父さまとお母さまが仲違いした。その罰なの」
愛姫さまの声は、悲痛にみちていた。
「吉乃? 私のことがいやになったら、もう私なんて捨ててしまいなさい。家系なんて関係ない。こんなところで、どうしようもない私なんかの世話をしているなんて、可哀想だもの」
「愛姫さま、わたしは……っ」
「あなたは、かわいいんだから」
「……っ!」
息が、とまりそうになった。
「汚い私に触れて、吉乃まで汚れること、ないの」
ほんとうは、ほしかった言葉。けれどこんなふうには、ききたくなかった言葉。
いわなくちゃ。わたしが、どうおもってるか。
「愛姫さま……」
わたしはそっと近づいて、愛姫さまのほほに手をそえる。愛姫さまは驚いた顔で、赤面しがちな顔をさらにあかくした。わたしはそっとそのほほをなでて、いった。
「なかないで。おねがいだから、なかないでください。わたしは、ちっとも気にしてません。愛姫さまのものなら、どんなものでもきたないなんてこと、ないから」
「よし、の……」
ぬれた目をじっとみつめて、わたしはいう。ほんとうの気持ちはうちあけられそうにないけど、つたえなきゃ。いわなきゃいけないことがある。
「わたしは愛姫さまがすき」
いうなり、わたしはすばやく愛姫さまの小さな唇にキスをした。愛姫さまは、ぼうっとした顔で、わたしをみかえしているだけだった。
「ね? ちっとも、きたなくない」
お読みいただきありがとうございました。小岩井吉乃、めちゃくちゃ好きになってしまいました。原作は明らかに百合ではないと思いますが、こういうのも二次創作ならではと受け流してください。