ごパン戦争[完結]+番外編[連載中] 作:Anacletus
―――私的航海日誌1日目。
今日、この時に至るまでの事は非常に感慨深いものがあったけれど、私はそう優秀な人間ではないと自分でも理解しているので、此処に忘れないよう書き記しておく事にしよう。
もしかしたら、誰かがこの記録を見てしまうかもしれないし、その時には私は死んでいるだろうから、出来れば……そう……それなりに親しみを持って貰えるような出だしにしてみようと思う。
私は日本帝国連合の生まれだ。
あの戦争の後に生まれた新世代という奴だが、父母と違って遺伝勃興期の
幼い頃はもう存在しない祖国のお伽噺をよく読んでもらった何処にでもいる普通の子供だったと思う。
父は遠い祖先が日本人だったらしく。
私の隔世遺伝である黒髪やアジア系の中でも日本人的な骨格を18歳程度の予測値で見た時は神様感謝しますと泣いたそうだ。
母は元々が北米最後の居留地であったカンザスの生まれらしく。
あまり昔の事は話したがらなかったが、あの悪名高い委員会に管理されたディストピア地域からの難民が父母だったのだと教えてくれた。
両親が出会ったのは太平洋の洋上都市の1つだったそうだ。
何でも食料生産プラントの労働職が魅力的だったから来たらしいのだが、その日の内に出会って、意気投合して飲み明かし、いつの間にか知らない安宿の寝室だったのだとか。
こうして2人が出会い、何とか職に就いたのは3日後。
もう合う事も無いと思っていたのに同じ職場の同じ部署に配置されたのは奇蹟、だったようだ。
互いにこれはもう運命と笑い合った様子を取った写真は私のアルバムの一番初めに飾ってある。
こうして初めて新しい家族を持った2人は生産プラントの下の方でメンテナンスに明け暮れ。
2年後にはハイ・クラフトマンで子供を持つ事を決意。
その大金を支払う為に稼ぎで小型のボロ船を買って、
2人にとってはそれが始まりだったらしい。
太古の海洋大冒険小説なんかに出て来る人みたいだ(まぁ、それを掘り当てたのは両親だったが)。
とにかく私の両親は運良く当たりを掴んだ。
初めてのサルベージで彼らが引き抜いたのは金庫。
それも旧い旧い代物。
中にはメモリが沢山入っていて、両親は最初、大戦期の壊れたガラクタなんじゃないかと落胆したんだと教えてくれた。
当時、もう量子転写技術による新型のメモリが大量に出回っていて、大戦期の質の悪いメモリは値崩れを起こしていたからだ。
中に入っているデータも恐らくはどうでもいい大戦期の軍事用データだろうし、兵器の設計図が入っていれば儲けもの……それくらいに考えていたらしい。
そうして、読み取ってみたら、それは軍事用ではなく娯楽用。
それも委員会の幹部が個人的に保存していたらしき旧い旧い時代の代物だった。
正しく、それはその当時、最も価値あるデータだった。
即ち、日本帝国連合の前身国家。
旧日本国時代のエンシェント・アミューズメント・データだったのだ。
両親はその日の内にコピーを取ってから帝国連合の首都の役所に電話を掛けて、正式な発掘者名簿に高い登録料を納付して記載され、正式な買取要請を出した。
4日後に半信半疑でやってきたお役人達は両親の差し出したデータに驚き。
即決で戦艦が買えるくらいのお金を振り込んでくれたらしい。
それでようやく2人は帝国首都の洋上都市に移民登録し、私を儲ける事にしたようだ。
首都入りの後、母は男の娘達が務めるのが一般的だった神社に行って神道に改宗し、父はその頃一番技術力があったキリスト教系のプロテスタントに改宗し、小じんまりしたサルベージ会社を設立。
最初の大当たり程ではなくとも、従業員も雇ったし、コツコツ地道に稼いで各宗派での副業もこなして政府からの信用調査にも合格を得たのだ。
私が生まれるのはもう少し先になるが、まだこの話には続きがある。
父母が首都で生計を立てられるようになってから、政府が人類存続に関わる星間移民構想を立ち上げた時、その乗組員になる為の条件などがリークされて暴動になった事がある。
その時、両親は自分達には縁遠い話だと思っていたらしいのだが、最初の大当たりを引いた時の功績が評価されたのか。
2人は何と当時、融資だけで5世代先まで遊んで暮らせると言われた候補者名簿に名前が載った。
驚いた両親だったが、2人の出した結論は全ての権利を娘にというものだった。
厳密に選ばれた候補者達の中には当時、子供が選ばれずに辞退した人もいたが、まだ生まれて来ていない私の為に両親は名簿への正式な登録を辞退して、そうなるかどうかも分からないのに私を審査対象にしてくれるだけでいいと市役所に掛け合ったのだとか。
そうして、私は母が毎日のように気を付けて生きてくれたおかげで10か月目に生まれる事が出来た。
赤ちゃんだった頃の私の事を両親は酷く可愛がった。
もうそれは確実に抱き締めまくった。
頬をスリスリしたし、一緒にお風呂にも入ったし、顔も形も一緒な2人が大事に大事に私を育ててくれた写真は宝物だ。
当時から私を知っている隣のおばさんも太鼓判を押すくらいのベタベタさだったようだ。
こうして私は小さな時から20年後に完成予定とされた船の乗組員に選ばれるべく。
両親の甘やかしまくりなトレーニングを受ける事になった。
私が苦しそうな顔をすると両親も死にそうな顔になっていた事は当時、普通の事だと思っていたが……そうではないと知った時は両親に感謝したものだ。
幼年者のみの寄宿学校に入れると選ばれる確度が上がると聞いても私を手放さなかったのは自分達の手でそこに行けるようにしてみせるという2人の自負からだったのかもしれない。
2歳になる頃。
私は日系の顔立ちと髪の色を持った子としてチヤホヤされていた。
今では数少ない資質だった事もあるし、当時莫大な金額であったゲノム編集を用いずに隔世遺伝する確率は極めて低かった事もあってだ。
周囲にはご利益に預かろうという人達も沢山いて、よく賑やかな毎日だった事を覚えている。
だが、何も良い事ばかりだったわけでもない。
何故かって……誘拐されてしまいそうになった事もあったのだ。
辛うじて両親は難を逃れたが、当時の委員会管理地域出身のテロリストが勝者たる人種を差別主義者と罵倒し、そのDNAを根絶やしにしなければ、迫害される未来が来ると本気で宣伝していた時期がある。
それに扇動された人々も少なからずいて、私は恰好の標的だったのだ。
やがて、政府がテロリストを完全に鎮圧するとそういった動きは次第に薄れていったが、この頃は両親もあまり人前に私を出さなくなっていたらしい。
こうして私は毎日を家の中でトレーニングしたり、母と遊んだりしながら過ごした。
その頃は外に出ない事を疑問にも思わなかったし、両親が発掘したデータは大量だったので、公共放送が流すより先に自分の家のライブラリを見て色々と学んでいた。
時に愉しくて、時にハラハラして、時に目を覆いたくなるような事も沢山あったが、何よりも私が最後に物語を見て思ったのは……こんな人達に成りたい、というものだった。
それが作り物のお話なのは知っていた。
けれど、時に苦悩し、絶望しても、前を向いて未来に向かっていく人達の姿が私にはこれこそが目指すべき場所なのだと思えた。
5歳になる頃。
私はようやく公的なスクールに通う事になった。
他の乗組員の席を狙う子供達の親は2歳頃からそういう場所に子供を預けるのが主流だったようだが、私は寄宿生でもなく、家から通う全体の3割り程度の内の1人となれたわけだ。
この頃から色々と他の子達との付き合い方やら社会教育が始まるわけだが、私は先頭に立つよりも一歩後ろで見ているのが多い子だったと思う。
クラスで一番なところは何もなく。
しかし、かと言って底辺というわけでもなく。
程々の真ん中くらいの成績で友達ともそんなに問題なく付き合っていたのは間違いない。
だから、特別なところは容姿が羨ましがられるくらい。
家では父母が甘やかしまくりだったのでお前は我が家のお姫様なんだよ~と言われて嬉しくて擽ったかったというのが特別で嬉しかった事だろうか。
この頃から学習に関しては専門分野や将来の労働系統に合わせて本人の意向と摩り合わせが始まるのだが、私は他の子達と共に宇宙飛行士や科学者、研究者の道があったにも関わらず。
何故か、軍人を選んでしまった。
理由は単純明快……その頃見ていたデータに出て来るロボットに乘るお兄さんお姉さんが皆軍人で皆お気に入りだったのだ。
それは未だ政府が開示していないものだったと思う。
両親は驚いたが、2歳頃の騒動の記憶があったのだろう。
自分の身を守れるようになれば、それは喜ばしい事だと頷いてくれた。
そもそも、その頃にはもう委員会残党は絶滅していたし、管理地域出身者達のテロも収まっていた。
つまり、相対的に危険な目に合う確率は少なく。
世界中の国家が共同で統一政体を造る段階に至っていた時点で戦争なんてあり得るはずもなく。
高級取りな軍人はそう悪くない選択肢として両親の目に映っていたのだ。
そうして、私は軍系のスクール内の学級に編成され、そこで同期達と出会う事になった。
隣の席のジェシカ(仮名)は将来、北米大陸に戻って父親の護っていた基地に行くのが夢だと教えてくれた。
前の席のレンカ(仮名)は男の癖に泣き虫で訓練で小さな怪我をしても大泣きしていた。
彼らは将来、人類軍の参謀本部職に務める事になるのだが、それはまだ先の話だ。
私はと言えば、毎日が肉体とメンタル・トレーニングの日々。
戦術や戦略を学ぶのは家のデータを見ている感覚で好きだったが、実技はからっきし。
それでもギリギリより少し上くらいの合格ラインに届いたのは両親の普段の努力とトレーニングのおかげであろう。
家の庭には軍仕様のアスレチックがあったし、もしもの時の為の救急救命キッドが我が家にはあちこちに常備されており、何処で怪我をしてもすぐにテキパキと応急処置出来るようになっていた。
実技で良かった現場での医療技能の高さはこの実家で培われたものである。
軍医という選択肢も一応在ったのだが、私は隠れロボット好きだった為にこの話は此処までとなる。
戦略、戦術、エンジニア系の技能や知識で伸びた私は7歳になった頃。
参謀職の狭き門を叩く事になった。
参謀職と言っても前線の野戦将校か。
あるいは後方の本部勤めか。
色々在ったのだが、試験をギリギリで通った私は本部なんて程遠い野戦将校コースに乗ってしまい。
両親はこの時ばかりはハラハラしたのだとか。
こうして、7歳にして私は旧ユーラシア大陸の帝国の飛び地にある委員会との最前線だった基地も程近い駐屯地で幼年大隊に編入され、訓練と知識の習得に明け暮れる事になる。
訓練は常にギリギリ。
知識はそれなりに伸びたから試験では成績上位だったが、やはり実技が脚を引っ張る。
ただ、家のライブラリなどにあるデータを見ていたおかげか。
前を向いてめげずにやっていく事の大切さを知っていたからか。
根は挙げなかった。
初めて両親から離れて過ごす3か月。
子供だらけの駐屯地で私は目立たないが、取り敢えず合格する子として指揮官達から見られていたらしい。
こうして、私が初めて撃つ狙撃銃や拳銃でアワアワしていた時間も過ぎ去り、4か月目には首都へ戻ることになった。
当時の恩師たる女性指揮官ライラ(仮名)中尉はこの時、ボロ泣きしてくれた。
私は泣かなかったが、隊長は本当に涙脆いなぁと思いつつも皆が泣いているのを見て、私も泣いた方がいいのだろうかと悩んだりもした。
私だけが泣かないのを見て、隊長は『あなたは参謀将校向きね』と微笑んでくれて、少し照れ臭かった事だけは確かだ。
帰った当日。
家には隣のおばさんも来てくれて、両親と会社の人達とパーティーになった。
私は晴れて、幼年大隊の成績中位で席次はまぁまぁな感じの子として選べる選択肢が増えたのだ。
野戦将校でも参謀職ならば安心!!
という、両親の内心も当時になると分かっていたので普通に参謀職系のコースへ本格的に進んだ。
実戦の有り得るコースではあったが、そこに辿り着くまでにはまだ7年以上時間がある。
私はそういう事も何となく理解しつつ、戦術、戦略とテクノクラートになる為の補講も受けつつ、技術将校寄りの技能で進んでいく事になる。