ごパン戦争[完結]+番外編[連載中] 作:Anacletus
『ほら縁……見てごらん』
『これ、何? 細胞?』
小さなシャーレの中には赤みを帯びた肉の塊のようなものが一つ。
その中央は窪んでいて、少し透明な液体が溜まっている。
それの中を覗く顕微鏡はとても高価なので、いつもは触らぬように言われていた。
だから、初めて覗かせて貰った時はワクワクしたのだ。
でも、すぐ自分にその細胞の面白さというのが分からないという事が分かって、微妙な顔をしたのは子供ならば、仕方ない事だったはずだ。
研究室は本日貸切。
初めての大学へのお泊りはそんな調子で早くも退屈になり始めていた。
『あはは……分からないよな。でも、その細胞達は人の未来を切り開くかもしれないものなんだ』
『人の未来?』
『そうさ。母体……母さんとお前から採取したサンプルで作った初めての検証用試験体。これが此処まで上手く育った……将来、これがお前達の時代になった頃にはきっと沢山の人を救ってくれる』
『嘘臭い……』
国々を飛び回る父が人の役に立つ研究をしているとは知っていたが、そんな簡単に成果が出るようなものならば、もっとウチは楽な生活が出来ていると子供心に思ったのは正しい。
研究資金の捻出は借家のグレードを下げていたし、治安が良いところに住めるようにはしていたかもしれないが、そもそも治安の悪い国である事も珍しくなかったのだから、当然の愚痴だろう。
『おいおい。我が息子よ。これ作るのに十年も掛かったんだぞ?』
『父さん。十ヶ国語も話せるんだから、言語学者か通訳になった方が給料良いって母さん言ってたよ』
『はぁ、あいつは自分の研究の方がロマンの塊みたいなのに……そういうところは現実的なんだよ。しょうがないとは思うんだが』
『それでコレって何なの?』
『コレか? これは“マイクロキメリズム”の検証試験体だ』
『まいくろ?』
『他人の細胞を受け入れても免疫が共存を可能とする現象は母と胎児間では恒常的なものなんだ。それがあらゆる生体に応用出来る技術として確立されれば、将来はどんな他人の臓器でも拒絶反応無しに移植出来るようになるし、全ての自己免疫疾患を解決出来るようになる、かもしれない』
『……あんまり分かんない』
『ああ、済まん。ええと……そう、つまりお前とあいつの細胞をモデルとした理論で生成された薬が、世界を救うんだよ!!』
父が大げさに子供へ語って聞かせたのは世界救済とやらの実際、胡散臭い話だった。
『それにこいつには他の可能性もある。というか、そっちが本来的な使い方なんだけどな』
『?』
『母さんの食べられない物リストって知ってるか?』
『知ってる。蟹と海老とマンゴーと林檎とごぼうとにんじんと、ええと……とにかく一杯』
『そうそう。食べたら死ぬって父さんと結婚するまで日本産の缶詰が主食だったくらいで、その上に食わず嫌いなものだから、結婚式の時なんか式場で出す料理に酷く手間取ってなぁ』
『話、逸れてない?』
『おっと、それで母さんに色んなものを食べて欲しいんだよ。お前は……まぁ、母さんと違って特別だからそういう事はまるで気にならないとは思うが』
『特別?』
少しだけ罰が悪そうな顔をした父親が頬を掻いた。
『此処だけの話。お前は母さんと違って絶対アトピーとかアレルギーとかにはならないぞ。父さんのお墨付きだ』
『何で?』
『母さんがお前を身篭ってた時、泣いてたんだよ。自分のようにこの子が何も食べられないのは可哀想だって……まぁ、後悔はしてないさ……お前と結婚する人やお前に連なっていく人達が何でも食べられる世界へ少しばかり早めに辿り着くだけだ』
『??』
『気にするな。いつか未来で結果は分かる。その時の科学者達や政治家達がどう判断するかなんて、今この時代を生きる人間には然して関係無い事だ』
夢の中での夢はゆっくりと白けていく。
空白。
いや、世界に見える余白が最大値を超えた時。
父の笑みが視界に焼き付いて、再び意識が落ちた。
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思わず跳ね起きる。
『ベアトリックス様!! 目覚めました!!』
「?!」
起きて最初に聞くのがその名前だとは露程も思っていなかった。
それ故に頭痛も無視して声のした方を向くと。
「まぁ、カシゲェニシさん。お目覚めですか?」
そこには大女、巨女と言って差し支えないだろう巨体の女がいた。
にこやかなのに両目元の傷のせいで何か怖ろしいものにも見えそうな彼女。
ベアトリックス・コンスターチは軍服姿だったが、たおやかな様子で横に置いてある簡素な椅子にチョコンと腰掛けて、こちらを見つめてくる。
「此処は? それにサナリ達は?」
よくよく感じてみれば、蒸し暑い。
浅い褐色のテントを透かして日の光が差し込んでいた。
外が垣間見える出入り口の先にはテントが幾つも設営されている。
野戦病院にでも入れられたような気分。
周囲にあるものは医療器具だろうか。
台に置かれたトランクには薬瓶が複数詰まっている。
「とりあえず、何があったか教えてくださいませんか?」
「……どう言っていいのか迷います。出来れば、そちらから状況を教えてくれると助かるんですが」
「分かりました。では、簡単にお話しましょう」
ベアトリックスが語ったところによると。
別に部隊を差し向けて追ってきたというわけではないらしい。
カレー帝国には本国との折衝の為に赴いた云々。
どうやら外交使節団の護衛役と本国の最高位の軍人として同伴したとか。
途中、空での爆発が見えて周囲を捜索。
落ちていた遺跡関連の異物の残骸を発見して確保。
詳しい調査をしていたら、破損した水入りのタンクの中にカシゲェニシさんを発見したから、さぁ大変という具合であったようだ。
即刻、治療を施して簡易の医療用テントに運び込んだのが六時間前。
起きたか確認しに来て、彼女は其処にいるのだという。
「………つまり、此処でオレを助けたのは偶然だと?」
「はい。それは勿論。そもそも本国からの電信は届いていましたが、こんな所にいるなんて思ってもいませんでしたよ」
「そうですか。じゃあ、拉致された事は?」
「ええ、存じてます。大変でしたね。つくづくあなたはペロリストと縁があるようで」
そろそろ暮れ掛けた世界は夕闇へと沈み始めている。
これから何をどう話せばいいのか。
未だ胸中は混沌としていた。
「フラムには連絡を?」
「ああ、入れましたよ。中継部隊は逐一、数百km単位で置いていますから。あの子は軍務が終わり次第、即刻こちらに来るでしょう」
「……オルガン・ビーンズとオイル協定諸国の話に興味はありますか?」
「まぁ、偶然ですね。それを話し合いにこの国を伺ったんですよ」
「―――そうですか。この話が終わったら、一緒にいたはずの相手を探して欲しいんですが」
「ふむ。善処してみましょう。お約束します」
とりあえず、今まであった事を掻い摘んで説明する。
それを聞いている巨女の姿勢と笑みは途中も微動だにしなかった。
話し終わると少しだけ顎に手を当てて、少し虚空を眺め。
こちらに視線を向けると再び笑みを浮かべる。
「分かりました。つまり、オイル協定諸国とオルガン・ビーンズを叩くなら、今という事ですね♪」
「―――」
思わず閉口すると苦笑が返る。
「冗談ですよ。冗談」
「冗談に聞こえませんが」
「ですが、そうですか。保守派が劣勢と。ふむふむ……カシゲェニシさん。ちょっと、寝起きで悪いのですが、これから少しお時間を頂けませんか? 勿論、あなたの言う聖女様ご一行の保護はこちらでやっておきますので」
「分かりました」
ゆっくりと寝台から立ち上がる。
フラフラするかとも思ったが、頭痛も既に治まっている。
問題なく歩けそうだった。
そこでようやく自分が軍服を着ているのだと衣服を見て理解する。
「あ、良さそうなのを見繕って適当に着せたので、もしご不満なら後で申し出て下さい。どうせ、こちらは捜索で身動きが取れません。今日は此処に一泊でしょうし、何ならパジャマも用意させますので」
「い、いえ、これで」
「そうですか。では、こちらに」
誘導するように窮屈そうに屈んでテントを出た背中がズンズンと他のテントへと向っていく。
それを追っていくと一際、頑強そうなテントが見えてきた。
当たりを見回せば、三十個程もテントが設営されている。
これでは完全に野営だ。
本当に外交団の護衛なのだろうかと疑問に思う程の兵隊が周囲を歩き回り、無線片手にやり取りをしている。
「さぁ、どうぞ」
「じゃあ、失礼して」
テントの内部に通される。
すると、そこには白いメットを被った歩哨が四人立っており、ベアトリックスの姿に緊張した様子になると敬礼してから二手に分かれて道を明けた。
「その奥です」
扉を開いて内部に入ると電灯に眩く照らされた大きな長テーブルと片隅には通信機器が一台。
後はテーブルの上座に一人男が座って、資料を見て、何やらサインしていた。
「連れて来ました。この子がカシゲェニシさんです」
「おお、そうか。さ、我輩の近くに掛けてくれたまえ」
出迎えた男はたぶん70台程の白髪の混じった小柄な男だった。
二枚目か三枚目の顔は若い時なら、結構なものだっただろう容姿は皺枯れていながらも温和だ。
これが現実なら歳のいった外国紳士と言っても然して違和感もないだろう。
だが、その纏っている衣服は明らかに軍服だ。
そして、傍らの外套掛けには何やら白い正鍵十字がデカデカと刺繍された……男には少し大きいだろう幅広のトレンチコートが掛かっている。
ゴクリと唾を飲み込む必要も無い。
相手が何者かは何となく……それだけで察しが付いた。
「そう固くなってくれるな。これでも近所では若人に優しいと評判なんだ」
「……一応、名前を伺っても?」
「ああ、構わない。我輩の名はアイトロープ・
その笑みは歳にしたら快活過ぎた。
人を圧倒する気配。
だが、安心感を与えるような深い青色の瞳は優しい。
相手を信用するべき人物だと思うのは物腰が極めて紳士的だからだろうか。
「考古学者?」
「昔の話だよ。それこそ君くらいの頃に志した学問への道。今の職責に付いても、その頃の勉学と成果が非常に役立っている。いや、何がどうなるのか人生分からないものだ」
「………ナットヘスさんと呼ぶべきですか?」
「いいや、我輩は君と友達になりたいと常々思っていた。カシゲ・エニシ君。だから、アイトロープさんとかアイトお爺ちゃんとか、呼び捨てでも構わんよ。此処には小煩い参謀本部の連中もいないしな」
「こほん」
アイトロープと名乗る老人の横で巨女が咳払いをする。
「まぁ、娘の手前、此処はアイトさんで手を打とう。あまり威厳が無いと怒られるからな」
「娘?」
「ああ、彼女は四十過ぎてから、愛人に産ませた子なんだ。公然の秘密だが、今更陰口を叩く輩はいなくなって久しい。こういう二人の時は父と娘に戻りたいものだが、仕事柄そういうのを戒めているらしくてね」
「………」
「今、有り得ないとか思ったかね?」
「はい」
「あははは。素直でよろしい。若者はこうでなくては……さ、冗談はこれくらいにして本題に入ろう」
男がそっと今まで見ていた資料をこちらに差し出してきた。
「これを見ろと?」
頷く老人の手前、見ないわけにもいかず。
その表紙に目を通す。
「グレート・ホステージ・プラン……」
カタカナ読みの書類は何かの計画書らしい。
ホステージは何の単語だったかと思いながら、その書類を捲って呼んでみる。
「これは……?!」
「まぁ、とりあえず最後まで見てくれ。君に感想を聞きたい。タメ口で構わんよ」
「……分かり……分かった」
言われた通り、二十四枚程の計画概要を読むのに丸々30分程は掛かった。
だが、それを読み終えた時、目の前の老人は単なる紳士ではないという事がハッキリと理解出来た。
「合理的で理論的で諸々とても人間心理を理解してる戦後占領政策だが」
「だが?」
老人の笑みは崩れない。
「これを考えた奴は確実に悪魔の類だ。道徳的にはアウトでも共和国からすれば、流す血の量を最小限にした素晴らしい計画、なんだろうがな」
「おお、ちゃんと理解出来たか。やはり、君を選んで良かった」
「どういう事だ? どうして、こんなものをオレに見せる」
「いや、単純にどう思うのか聞いてみたかっただけだ。君の見付かった遺跡で今、地下施設の発掘作業を急ピッチでさせているが、中々どうしてガードが固い。今の状態では掘り返すのに半年以上は掛かるだろう。その遺跡で最も価値あるだろう骨董品である君が、
「!?」
思わず顔に出た。
それにまだ若いなという苦笑を零して、老人が書類を手に取り、内容を掻い摘んで声に出し始める。
「これは単純に言うとオルガン・ビーンズの戦後占領政策重点要綱だ。戦争始めたわけでもないのによくもう出来てるな」
「それはそうだ。あの国にはこの時期に消えてもらう事となっていた。これの草案を出させたのは二十年前だ」
「!?」
「はは、驚くのも無理は無い。だが、パン共和国の対外戦争は全て数年単位で策定されている。予定超過しているのはごはん公国との戦線だけだ。それ以外は順調と言える」
「……これを見ながらカレー帝国内にいるって時点でキナ臭過ぎる。戦争を始める前のお膳立てでもしてるのか?」
「当たりだ。我が国とて、戦争は過大な負担だ。此処で横槍が入るのは面白くない。オルガン・ビーンズの占領にもオイル協定諸国が絡んでくる。そうなれば、加盟国の一つであるカレー帝国もそれなりに関わってくるだろう。だから、ちょっと我輩が出向いてきたわけだ」
「戦時に優秀な政治家、官僚を暗殺。下層民主体の軍は分断包囲による撃滅で数を減らして戦後占領下のリスクヘッジ。完全併合地域と分断して立てる海沿いの本国。幾つかの主権を細かく放棄させる代わりに戦後も独立を保障し、無能な穏健派を政権に据え、国民には併合地域に残るか本国に向うかの選択権利を与えて、自分で選んだって民衆心理を利用するわけだな」
「ああ、そうだとも」
老人は余裕綽々だ。
「戦後は海沿いの政権の統治する一帯を隔離。海岸線沿いの領土の一部を租借して開発させず、他国との貿易路を寸断し、民衆への食料支援をしながら、飼い殺しにして、上流階級と下層民の内部分裂を助長。自分からこんな国より共和国の方がいいと帰化するよう仕向けると」
「無論だ」
「教育政策に口出し、
「いいだろう? 当時から心理的効果を使う手は有用だったから、プランには不断に使わせてもらった」
「食料支援に関する全ての情報は公表され、共和国へのテロ、諜報、反乱、革命、人的資源への被害が出た場合はランク付けされたケースで一定期間の削減……本土から退去して狭い地域に押し込められても自立を守ろうとするだろう膨大な人数の不満は無能な味方政府へ。
「戦争に負けたんだ。普通なら何でもかんでも取り上げるのが常識。だが、我々はそんな不毛な事をしないし、する気もない。ほんのちょっと主権を制限して、我が国の糧となってもらうだけだ。無論、そうしてくれる人々には公平な市場と公平な働き口と公平な給金と公平な身の安全を保障する」
「だが、政治は口出しさせず、軍にも口出しさせず、教育には口出しさせず、核心部分は絶対に譲らないわけだ」
「ちなみに新しいプランでは旧オルガン・ビーンズ領を経済特区にして他国からの投資を呼び込む予定だ。税制負担はほぼ0にする。再開発を急がせて多国間での条約で非戦闘地域に指定する事は既に規定路線だ」
「時間が経てば、帰る場所は消える。独立を志す者は自分で食糧難の地域に行く事となり、その場所で食糧難そのものを製造するペロリストとして自国政府に処分される。他国が介入してきても、領土が従来の9分の1以下では包囲殲滅も容易。港を漁村レベルで維持させても荷揚げ能力の引き上げは租借で阻止。揚陸には不向きな土地柄で治安も最悪、と」
「そこまで分かっているなら、これが最善策であるとも分かるはずだぞ。エニシ君」
「だが、そこまで上手く行くとは思えない」
「ほう?」
「もし、殆どの人間が残って反対活動に反政府活動に従事したらどうする?」
「確かに。それもまた一つの可能性ではある」
「それに大人しくしてる奴だって、政府要人くらい殺そうと思えば、殺せる。自国内でペロリストが大量に製造される下地になったらどうする?」
「まったくだな。その意見は正しい。だが、一つだけ君は見逃している。その可能性を知っていて、これは策定されたかもしれないという事だ」
「何?」
老人は微笑みながら、瞳を閉じる。
「君の元いた国に差別とやらはあったかね?」
「まぁ、それなりにあったんじゃないか」
「では、差別とは区別とどう違うのかね?」
「……人権好きな連中に屁理屈だって言われるぞ」
「あははは、そうだな。それは間違いない。だが、四十年。四十年だ。我が国の政権を我々が取って、我輩が独裁者となって、四十年……我輩はあらゆる占領政策において最も重要なのは人に諦めさせる事だと思っている」
「諦めさせる?」
「我輩は民を公平に扱ってきた。だが、区別しても扱ってきた。それ以外の分野での差別やその助長を禁止し、それが為せるだけの教育基本方針と教育法規を策定し、民の精神面でも改造に邁進してきた。その上で今、我輩は殆ど自分の党の統制や選挙に手間を掛けず済んでいる。この意味が分かるかね? エニシ君。君の傍にいるオールイースト家の娘さん。我輩の大ファンだそうだが、その姿は国家の上で浮いていると思うか?」
「?!!」
思わず。
そう本当に思わず。
浮いていると言い掛けた。
だが、思い出してもみればいい。
街の中で軍人を見掛けても尊敬の眼差しこそあれ、怖いというような感情を向ける輩は見るからに一人もいなかった。
EEである事、名家の出である事を除けば、フラムが総統閣下を絶賛する事に奇異の視線が向けられる事は軍の施設でも見た事が無い。
それどころか。
街を歩けば、総統閣下とやらは本当に心底国民から慕われていた。
「私は共和国の人間だ。共和制なのだよ。この国は……そして、対外戦争の全てに勝利し、人的資源の消耗を完全に抑制し、好景気で民を沸かせ、謹厳実直を旨として科学と技術を推進し、汚職を可能な限り排除したのは我輩だ。人々の中には40年で私の望む民族像とソレそのものが出来上がっている」
「………国民があんたを望んで総統にし、総統であるあんたが国民を創った。そう言いたいのか?」
「その影で諦めた人間が沢山いる。だが、その諦め方は他国に比べれば、限りなく明るかったはずだ。我輩はそうなるよう努力した。自国民であろうとも他国からやってきた民であろうとも、我が国民として国家に組み込む限り、我輩は公平に扱う。公平とは平等ではないのだよ。区別も差別とは違う。我輩は同じ働きをする者に同じパンを一切れ与える人間だ。だが、同じ働きをしても今まで仕えてくれた日数でパンの数を増やす人間でもある。それが我が国とってもはや常識なのだよ」
総統閣下。
そう呼ばれた老人の言葉には確かに説得力というものがあった。
誰だって、昨日入ってきた会社員と今まで働いてきた会社員では違って当たり前と思うはずだ。
同じ給料を貰っていても、何処かで長く働いた分の報いがある事は当然だとの考えは理解可能なはずだ。
人間は機械ではないし、感情を全て割り切れるわけでもない。
男は元からの国民と後から併合した国民とを区別した。
それは他国からすれば、差別という場合もあるのだろうが、今までの大陸の常識からすれば、良識的な部類だった。
そして、男にとっての差別。
つまりは民族感情に由来した偏見や諸々の行為は厳しく取り締まった。
相手側にしてみても、区別はされているが身包み剥がされるわけでもなく。
働き口や給料は公平。
差別すれば元からの自国民ですら罰せられるという現状を見て、一定の納得が得られたはずだ。
そうして、時間が過ぎていけば、残されるのは差別も区別もしなくていい民となっていく。
「……そうか、あんたは均質な国民を創ってるのか」
「明晰だな。報告書に書かれていた通りだ。我輩は国民とは創れるものであり、国民自身でも創り上げられるものだと信じている。互いに相互理解、納得、感情的なバラ付きも含めて均一な反応が出来るよう我輩は国民を導いてきた。それが我が国の民の本質だ。同質な文化、同質な価値観、同質な血統、同質な体質、これらを求めてやってきたのだ。それは少なからず成果を上げている」
「それで泣く人間だっていただろう」
「君が塩の化身とやらの一件で感じただろう併合地域の悲哀は我輩にとって区別の範囲だ。諦める時に痛みは伴っただろうが、食べて行ける、生きて行ける、そして異議さえ唱えなければ、生活はそれなりに豊かだ。時間が経った故に後はそこまでの区別をしなくとも良いと総合的な数字や情勢で判断し、政策は転換したが、アレも元々は数年前から決定されていた事を前倒ししたに過ぎない」
「数字ってのは若者のMUGI耐性者が占める割合か?」
「そうだ。二十年の政策であの地域の20歳以下の若者の実に64%が耐性者となった。その耐性を受け継いだ二世も続々と生まれている。この流れはもはや止められない。中核地域からの今まで以上のMUGI輸入無しには生活も成り立たないだろう。これはつまり後は文化や価値観においての同質化を進めるだけで良いという事だ。大陸の標準寿命は最大で67歳。後百年もせずに彼らはパン共和国そのものとなる」
男の理論には少なからぬ裏打ちと今までの実績が垣間見えた。
「あんたの言う事は一々最もだ。他の国の保守にも見習わせたら、随分と生活環境が向上するだろうな……だがな」
「だが?」
「あんたみたいな希少な考えを持つ人間が死んでからも、その体制が維持出来るか?」
「可能だ。その為に指導者層を育成してきた」
その言葉にようやく男が独裁者とは程遠い存在なのだと理解する。
受け答えからもそれは何となく察せられていたが、男は権力を道具として見ている。
道具は捨てられるし、受け渡しも出来る。
世間一般で言うところの極悪な独裁者というのが権力の為に国家を食い物にする輩なら、目の前にいるのは純粋に国家の繁栄と己の理想に燃える
「脱帽するよ……確かに今の言葉が本当ならあんたは合理的で論理的で隙も殆どない奴だ。でも、あんたのやり口で積み上がる悲劇の数は自分で思ってるより多いかもしれないぞ。あんたがいなくなった後、それはきっと牙を剥く。その時、指導者層とやらが上手く対応出来ればいいがな」
「信じているさ。死にゆく者に出来るのは本質的にそれだけだ」
何の躊躇も無い微笑みに背筋が寒くなる。
自分の前にいる男は自分の生死なんて己の理想の前では本質的に失って構わない。
そう本気で思っているのだと確信したからだ。
「オレはあんたみたいな数字で人を切り捨てられる奴が嫌いだ。その合理性の良し悪しに付いて頷ける事があってもな。これは純然たる罵倒として受け取ってくれ」
「心に留めておこう。それにしても……うん。心地良いものだ。若者に自分の至らない部分を指摘されるというのは……実に新鮮だ」
「総統閣下はマゾヒストなのかよ」
思わずツッコんでから、口を噤む。
さすがに横の娘さんとやらが怒るかと思ったからだ。
しかし、その顔には少しだけ驚いた様子の表情が張り付いているだけだった。
「君は実に愉快だ。だから、私の哲学を教えておこうか」
「哲学?」
「……我輩にとっての戦後は、我輩の死んだ後にしか来ないのだよ。だから、我輩は死ぬまで頑固にこの老体を鞭打って戦争を遂行しよう。それが我輩の殺した、我輩が諦めさせた者へ言える言葉の全てだ」
この国に哲学というものは無い。
そう、言った美少女の事を思い出す。
でも、だからこそ、この目の前の老人が無数の戦争に勝利して来たのかもしれないと理解する。
哲学無き者に大そうな事を成せるだけの決意と力が宿るとは思えなかったからだ。
「そこまでして戦争をする意味がオレには見当も付かない……」
「ふふ……色々とあるのだよ。誰にも言えない事、譲れない事というのは……さ、難しい政治談議はお終いにして夕食の時間にしよう」
ケロッとした顔で老人がベアトリックスの方を向く。
すると、こちらに頭を下げて、巨女が夕食を取りにいった。
「……訊いていいか?」
「何かな?」
「どうして、オレがこの世界の人間じゃないと分かった?」
「言っただろう。我輩は考古学者だと」
「?」
「罵倒された事だし、それは自分の力で調べたまえ」
「そうさせてもらおう」
「……若者よ。大望を抱け。我輩のようにな」
ニヤリとチョイ悪ジジイみたいな子供っぽい笑みで老人が肩を竦める。
「悪いがオレにとって必要なのは自分の周りの人々と小さな温かい食卓だけだ」
自国民の若者なら感動するような言葉を投げ掛けてくる相手にそっと返す。
「それもまた大望だろう……人の手にあるものは大抵冷たいと相場が決まっている……だが、その歳でそう望みを言える君は人間の本質がよく分かっている」
「……」
「我輩の望みも、君くらいの年頃に始まったものだった。学問の徒であった頃、とある本を遺跡で見つけたのが切っ掛けであったよ」
「本?」
「ああ、それが我輩の政治家を目指す事となった原点で出発点だ。題名も分からないが、その赤い本の作者は書いていた」
「何て?」
「世の中には武力によらず、経済によって建設された国家なんてものはない、らしい」
「………」
豪華な夕食は結局のところ味もロクに分からなかった。
探索は最終的に朝になるまで続けられたが、誰も見付かる事は無く。
捜索の継続は残留させる部隊に任せて。
共に連れられるまま、皮肉にも最初の目的地であった場所。
旧ハヤシ族領の街へ馬車で移動が開始された。
無事を祈る事しか出来ない自分の横で愉快げな老人はずっと若い頃の自慢話をしていたのは良かったのか悪かったのか。
何もかもが判然としないまま、事態は勝手に進んでいくらしかった。