ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

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第45話「帝都の落日Ⅰ」

 

「ふぅ……」

 

 商業改革、物流改革。

 

 その上での大規模店舗の地方での規制。

 

 各分野毎の労働環境規制と規制に対する現実的な対応マニュアル。

 

 不合理な面を潰して、他に食い扶持の稼がせ方を幾つか。

 

 更にそれが何故必要なのか。

 

 制度に対する基本的な理解と安全性や健全性を担保する思想書の執筆。

 

 多少の苦労をして、労働基準は護って文化功労賞を貰いつつ、税制改革で締め付けが厳しくなった分野で功労商会、功労店舗への税率優遇を受けましょう。

 

 更に税務関連の人員の倍増と内部規則の強化もしましょう。

 

 という代物を執筆し終えた。

 

(これで3分の1くらいか)

 

 内部告発環境の整備と権力化を避ける人事による定期異動システムの構築を終えれば、ようやく昼時の食事にあり付ける時間である。

 

 合理主義、能力主義は差別や現在の主義主張を失くすわけではないし、人の心を変えていくには人間の行動原理の理解が必須だ。

 

 行動が反社会的にならないよう誘導するのは勿論。

 

 他にも能力主義による弊害を出さない為、公平は目指すが、平等を押し付けない事や教育の機会は平等だが、教育の成果は不公平等である事も教える。

 

(あらゆる行動の機会はほぼ平等。現実の能力主義、成果主義として不平等は極端な寡頭性や選民思想に繋がらないよう、社会の維持に協力的な有能系優良人材層を膨らませる)

 

 有能な連中が無能な連中を切り捨てない事で社会の安定を確保し、自らの安全が最低限以上確保された社会環境を得るのが良いと喧伝するのも忘れない。

 

 基本的な公共的福祉や公助自助扶助のバランスなど幾らでも語り尽してスタンダードにしてかなければならない事は大きい。

 

(発展の維持、持続には優秀な知識層に成れない連中が身の丈にあった生活と仕事を手に入れて満足する事が不可欠だ。文化的なものの多くは共有される層の厚み、人数によって()()として維持される期間も違うからな)

 

 どうしても変えてやらねばならない事は国がやるものであり、それ以外は自由と規制の天秤を頭の良い貧乏くじを引こうとする政治家、損をしても滅私奉公出来る良い意味での馬鹿の類が秩序を保つ、見守るというのがいいだろう。

 

 その為の権力の分散と流動と固定を法制度的に担保するのも忘れない。

 

(社会構造は性悪説を制度の基本として取り入れる思考を普及。国民には幅広く満足出来る文化、文明化による社会資本の増産と再生産によるやサーヴィス経済による富の安定。有能連中には割りを食っても安定した社会で暮らせる事の慶びを内在的な心理要素として固定する方法論を用いる。高度文明の担い手としての誇りや優越感を高める制度が必要だな。要は有能の義務と喜びを飴と鞭的に導入……)

 

 カリカリ。

 

(貴族の義務の有能版が基本原則になるように思想誘導し、社会正義や基本的な道徳、倫理の原則的な立ち振る舞いが評価される社会へと更に強化……)

 

 祖父の秘書染みて帝国議会可決用のソレを書き上げながら、お茶を一口。

 

(犯罪に対する忌避感と法律を護る事が自分達の生存にとって最大の防衛になる旨を娯楽としての文化的なキャンペーン、情報操作として展開)

 

 カリカリカリカリカリ。

 

(犯罪者への司法取引の導入と密告による減刑制度。国の専権事項となる高度知識の秘匿と特定の高度知識取得者、高度技能の専業従事者の認可制度と国営企業への取り込み。国外への渡航制限と理由付け。特定人員の警備環境の開発)

 

 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。

 

(知的財産権の同盟国内への導入。パテント制度の導入推進と主導的地位の確保。国外飢餓地域へのギリギリ餓死しない程度での食料救援物資の配給、国内に呼び込んでの親帝国派となる有能連中層の開発。帝国依存による間接支配と統治)

 

 ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。

 

(民主主義と文民統制制度の普及。現地人員の倫理道徳教育の底上げと向上。民族原理主義、宗教原理主義の潜在的な排除。軍閥の静かな解体と骨抜き化。帝国依存体質にしつつ、内部の自浄作用を高進)

 

 カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ―――。

 

(独裁者を出させず、独裁を許さない空気を醸造、治安維持部隊を帝国主体で展開し、現地からは武器を吸い上げて、現地の子供を親帝国派で民主主義大好きな有能層と無能だけど帝国文化大好きっ子に変貌させたら、一応の応急処置は完了、と)

 

 カリカリカリ。

 

(軍人の最有能層の大半をこちらに使うべきだな。軍人に土木工事と地域住民の為の教育指導も幾つかやらせよう。現地に妻を連れて行かせて部隊内での性暴力には厳しい対処を徹底。現地の人間に頭を下げさせまくりつつ、国土開発も推進させよう。現地での恋愛は基本的に骨を埋めなければご法度にして、現地の差別問題や民族問題に対しては帝都みたいな帝国的な現実路線で対応)

 

 カッカカカッカッカカカカカリ………。

 

(帝国に現地住民が多くの判断を仰ぎたくなるように誘導しつつ、自律性も尊重するべきか。現地の軍人に無料の剣術教室や青空教室もやらせて、ついでに人道主義や道徳を子供に植え付けて、青田買いも忘れずに。剣道染みてスポーツ何かの遊びで道を解かせるのもいいな。それ用の懐柔手段として給食も配給。水を得るのに井戸と水道の開発も行わせよう。医薬品はさすがに最低限になるが、大量生産可能になったら、現地の因習、思想や宗教の原理主義と引き換えの支援をして欲しいと懇願してくるように現地人の上流階級を全部無力化する懐柔案を―――)

 

「……あなたホントに人間なの?」

 

 学院の館の一角。

 

 執務机を増設した場所でイゼリアが何か汗を浮かべていた。

 

 心外な話である。

 

 ちょっと筆が乗って午前中に200枚程書いただけなのだが。

 

「人間以外の何かに見えますか?」

 

「その口調も……思いっ切り作ってるじゃない。あの侍従の子達と話してる時は男みたいな口調の癖に……」

 

「人はその時々によって相手によって態度を変えるものですよ」

 

 執務室には紅茶と紙の匂い。

 

 ようやく全部で800枚程書き上げたソレが箱に順番で詰められている。

 

 政策を具現する為に必要な知識は全て得ている。

 

 問題はソレを精査出来る人間が極めて限られており、不備の発見が困難な事だ。

 

 ダブルチェックやトリプルチェックは絶対に必要なのである。

 

「………」

 

 書き上げたばかりの資料を見て、イゼリアが何かゲッソリした顔をした。

 

「どうして本一つ見ずにこんな格式高そうな字体で書けるのよ。ついでに一つも誤字脱字が無いとか。あの速度で書けるもんなわけ? というか、あの速度がどうやったら出るのよ!?」

 

「ちょっと、近頃は腕が良く動くだけです。普通に努力すれば出来ますよ。出来ない人間には出来ませんが、出来る人間なら誰でも出来る。そういう話です」

 

 パラパラと分野毎に纏めた紙束が捲られる。

 

「……この書類、軽く目を通してるけど矛盾は……無いわね。これもう一回大丈夫か調べる必要ある?」

 

「あります。人間は出来ても間違う事はありますから」

 

 イゼリアが溜息を吐いた。

 

「それにしても法律や制度の辞典が分厚くなりそうな……これ全部、帝国議会に提出するの?」

 

「ええ、御爺様経由で御爺様の手柄として喧伝しつつ、帝国改革をしているので……御爺様はこのくらいの量なら2日もあれば、全て精査し終えます。後、変更点や現実に即した付帯も付けて問題無い場合は議案として提出してくれるという事になっています」

 

「………ねぇ」

 

「何でしょうか?」

 

「これは貴女が書かなきゃならないものなの?」

 

 イゼリアの瞳が真面目な感じにこちらを見ていた。

 

「わたくし以外が書けるなら、是非ともその方をご紹介して頂きたいですね」

 

「軍事、文化、外交、労働、経済、何でもかんでもやってない?」

 

「現在の帝国の法規の10割は学院で全て確認し、全て頭に入っています」

 

「―――その上でコレを書いてるって言うの?」

 

「ええ、貴族の老人達は知らないでしょうが、この国にも色々と使えるものや害になりそうな法が山積みです。エルゼギア時代からそのままになっているモノも多い。これらを全て変えながら、それの担当省庁も創設しなければなりませんし、身体が4つくらい欲しいですね」

 

「……あのねぇ」

 

 イゼリアが何か言い掛けた時だった。

 

「イゼリアおねーさま! お茶! お持ちしました!」

 

 ノックを一回。

 

 扉から自分の背丈より少し低いくらいのカートを笑顔で押して来たのはイゼリアの実妹の1人だった。

 

 姉に似て、器量は良さげであるし、最低限以上の身嗜みも整えられている。

 

 来ている服は少し古びれているが、良いものを丁寧に使っている様子で良く言えば、古風……悪く言えば、古臭いかもしれない。

 

 その背後には姉妹兄弟達の数人がいて、そ~~っと執務室内を覗いていた。

 

 誰も彼も12歳以下だが、自分と同じくらいのこちらの年齢を見て、最初は驚かれていた事が印象深い。

 

 他の年長者の子女は現在、学院への入学に向けての最低限の教養を暇な講師に手伝って貰って教育中。

 

 男子はリージが紹介した勝利の学び舎に合格する為の最低ラインの教育を予めピックアップしていた老齢の退役軍人に竜騎士の養成中である郊外の教練部隊……通称グラナン校そのまんまで教育させている最中である。

 

「あら、ありがとう。気が利くじゃない。でも、ごめんね。まだ、御仕事終わらないから、お昼は少し後にズラしてくれるかってイメリさんに言っておいてくれる?」

 

「はい。おねーさま!!」

 

 ペコリと頭を下げた少女が笑顔で手を振って、カートを置いて扉を閉める。

 

 イゼリアがそこまで言って、お茶のおかわりを入れてくれた。

 

「そう言えば、エーゼルの方は研究所で預かってるって事だけど、大丈夫なんでしょうね?」

 

「帝都の人間が一瞬で死滅するくらいのモノは幾らでも造っているので我が家の侍女達に見て貰っています」

 

「ヴッ、フォッッ!?」

 

「ハンカチ。要ります?」

 

「………アンタねぇ」

 

 口元を出されたハンカチで拭いたイゼリアがジト目になる。

 

「どうして、そう配慮が無いのよ」

 

「貴女のような言わない事を想像して理解出来る人間以外には言いません」

 

「……そりゃ、そういう配慮が為されて無きゃ、今頃問題になってるでしょうけど、それでも相手によってはソレで通らないでしょ?」

 

「正論は常に相手へ受け入れられるものではないでしょうし、多くの人間は不合理でも今までの常識や現状の自分の周囲の環境から問題を問題と認識せずともいいと思っているでしょう。ですが、それが逆にわたくしにはやり易いのですよ」

 

「ど、どういう事よ?」

 

「視野が圧倒的に相手は狭い。それはわたくしにとって正しく最大級の論理的な支援に他ならない。必ず劣っている相手と武器では無く言葉で戦う際、一番重要なのは相手が自分よりも無智である事なのです」

 

「そうとは限らないんじゃないの? それこそ……いや、家柄と功績で文句の付けようがないから、攻め難いのね……」

 

「それが今は言葉での戦争ではスタンダードですが、それ故に現在の帝国にわたくしを論理以外の方法で倒す事の出来る人材はほんの一握りですよ。ありがたい事にその殆どは政治にも経済にも軍事にも興味が無いか。もしくは敵対する要素が見当たりません」

 

「敵になる人間がいないって事?」

 

「わたくしが掲げる大義名分を打ち破っても意味が無い。個人的にわたくしをどうにかしたいという以外の理由ではわたくしを敵として認定したい方はいません」

 

「……帝国は掌握したって言い草ね」

 

「でなければ、此処まで御爺様に大改革を迫りませんよ。御爺様が死んだら、帝国議会にわたくしの代わりに働く方を見付けないといけませんね」

 

「……サラッととんでもない事言うわね。アンタ……」

 

「事実ですよ。だから、足場固めをしているのですから……」

 

「この法案の山もそういうもんなわけ?」

 

「帝国は今までわたくしを必要としていなかった。しかし、帝国はわたくしを必要としなければならなくなった。それがこれらの法案の提出後と提出前の違いです」

 

「アンタの御爺様はアレだけど、アンタはそれ以上かもね……」

 

「誉め言葉として受け取っておきます」

 

「………必要分の精査は終わったわよ。内容は……何かスゴイ見てて、こんな複雑な事出来るのかと思ったけども」

 

「法的な問題はありません。帝国議会が議決すれば、それを帝国議会は護らせようとします。その方が帝国が栄えると内容を見て分からない無能は帝国議会にも極少数でしょうし、何よりもその方が帝国の財源も増えるし、国土開発にも繋がる」

 

「利権も増える?」

 

「ええ、そして、利権を手にした者はそれと引き換えに真っ当な管理をさせられる。帝国がこれらの法案の議決で変化した事を体感せずに利益だけ求める方は遠からず破滅するでしょう。わたくしが整備する機構がそうさせます。その後釜の選定も既に終わっていますし、問題ありません」

 

「おっそろしいヤツ……」

 

「わたくしが帝国最大の権力の家に生まれた事を嘆いて下さい。そうでなければ、此処まで好き勝手出来ませんでしたよ」

 

「……はぁぁ、はいはい。御仕事終わり。昼食よ」

 

 疲れたと言わんばかりにイゼリアが立ち上がる。

 

 それと共に館の食堂に行くと。

 

 先に待っていた少年少女達がイメリと愉し気に会話している。

 

 すぐにこちらへ気付いたイメリが頭を下げてから、最後に未だ地図を書いているだろうアテオラを迎えに行った。

 

「おねーさま!!」

 

「今日は騎士のおねーさん達といっしょに走るくんれんしたんだよ!!」

 

「見て見て!! おねーさまの絵もかいたの!! 白い紙にかくんだよ!!」

 

 弟妹達が現在の帝国でも高いであろう白紙と絵画用の塗料で書いた自分の絵にこちらを見やった彼女だったが、すぐ姉の顔に戻ってありがとうと微笑むのだった。

 

 *

 

 現代のマーケティング手法というのは大まかに言えば、臨床心理学的に重要なビッグデータを用いる【サイコ・グラフィックス】と【サイコ・オペレーション】。

 

 心理の数値化やカテゴリ化と心理誘導プロセスの開発である。

 

 まぁ、簡単に言えば、グループ毎に対象層へ精密なタグを張って、それに合ったメッセージを心理的に効果がある時間、場所、次期に送るという事でやっている。

 

 人間の心理を操作すると言っても、必ず当て嵌まるわけではない。

 

 また、グループ分けされた人々の現状を何か変更する事もない。

 

 人間の心持一つで変わる事を変えてしまう程度の魔法だ。

 

 人間が何に興味を持ち、何を良いと感じるのか。

 

 それを対象として研究し、大規模なビックデータとして買い入れた者達がそれを用いて詳細に人々へと自分にとって優位な()()()()()()()()()()()を送れば、数%以上の行動の変容を可能にするのである。

 

(つまるところ、文明化社会の政治制度、少数が大多数を支配する寡頭制は形こそ変わってるが、中身はいつでも頭の良いヤツと情報を握ったヤツのものって事だ)

 

 現行の国家において最も怖いのはマーケティングを司る企業であり、それを手中にしている大規模な母数を自分の舞台とする者達は強い。

 

 それは正しく政治、経済、軍事の世界である。

 

 民主主義国家ならば、投票行動の操作。

 

 経済的先進国ならば、正しく商品の売れ行き。

 

 軍事国家ならば、独裁制の維持。

 

 特に個人が多くの人間にSNSや他の媒体を用いて影響を持てるようになった現代では殆どの人々が知識ある者達の影響下で実際に特定の行動の1割程度までは操作が可能とも言われている。

 

 これらは心理操作の対象とする事象次第では数値が跳ね上がったり、下がったりするわけだが、この微妙に中世よりも昔な世界観の大陸ではそこまで行動を変化させる事は出来なかった。

 

 そう、つい先日まではの話だ。

 

(………)

 

 正しく自分の腕より優秀な兵器が目の前にはズラリと並んでいる。

 

 研究所から幾分か離れた場所で買い取った土地にある工場で印刷されたばかりの大量のビラや資料、ポスターの多くは帝国中から集めていた帝国民の情報をタイプ毎に分けて分析して書いた標語や絵、文言を用いた代物だ。

 

 デジタル・マーケティングに対するアナログという意味でならば、これはそれよりも遥かに古い時代に生きる者には核心的な手法だ。

 

 現代でならば、企業の宣伝くらいの意味しかないマーケティング。

 

 デジタル機器が無いので心理操作、心理誘導の精度はお察し。

 

 ついでに動かせる層は国民の数%しかいない。

 

 しかし、この数%が自分の手の内で働いてくれるなら、確実にソレは大きな力に違いないのである。

 

「さて、帝国と世界を救う陰謀でも始めようか」

 

 リージが肩を竦めた。

 

 現在時刻午前1時過ぎ。

 

 外には本日に限っては全て集めた物流専用の任務に当たる商会。

 

【スレイプニィル】

 

 その馬車と全御者が集まっている。

 

 彼らは帝都から鈍行で動き始め、帝都内、帝都郊外、衛星国家、属国領、全ての帝国の領域内へとメッセージを運ぶ情報兵器そのものだ。

 

「では、作業員を入場させます」

 

「ああ、後は頼む」

 

 印刷工場奥の出荷場。

 

 その先から昼夜無く水車の音が聞こえて来る。

 

 現在、擦り上げた大半の印刷物は北部でやる印刷物によるマーケティング、情報工作の前例であり、今後の効率的な手法開発への情報収集の足掛かりとなる。

 

 これは他国で行う手法としても幅広く使う事になるだろう。

 

 印刷工場内部に入ると。

 

 すぐに男達……貧困層から取り立て、心理的に安全である事を確認した能力のある者達が最敬礼で出迎えてくれた。

 

 殆どを貧困層から取り上げたのは有能な人間には任せられない事だったからだ。

 

 無能というのと優秀であるというのは両立する。

 

 有能であっても下劣であるというのも両立するようにだ。

 

 自分以外に現在のこの手法の欠片でも真似られては困るし、手に職を付けて、自分の仕事だけに専念出来そうな職人気質、神経質な人間を選んだ。

 

 誰もが約束を守れる組織の構成員としては申し分ない。

 

「姫殿下!! ようこそお越し下さいました!!」

 

 出迎えた者がもしもそれなりに地位のある人間だったら、恐らく畏まった態度でいるだろうが、現場の職員の多くは何処か誇らしげだった。

 

 それもそうだろう。

 

 自分達が刷り上げた印刷物が今日初めて日の目を見るのだ。

 

 現在、現代には劣っても大量に白く品質の良い製紙を量産出来る製紙工場はこの大陸に此処だけだ。

 

 可能性があるのは後、あの大学のキャンパスの狂人当たりが現地に造っていれば、そういう工場くらいだろう。

 

 と、なれば……後は物量がモノを言う。

 

 メッセージは弾丸よりも明確に人社会を変えるのだから。

 

 より大きく深く人に刺さるメッセージこそが寛容だ。

 

「貴方達の立派な仕事と献身に感謝を。この工場の輪転機の実用化は貴方達が現場で様々な問題を洗い出し、必死に創意工夫をしてこそ、出来上がりました。わたくしは今まで多くの政策を帝国で実施しましたが、この瞬間こそが本当にわたくしが断じる帝国の変わる日。変わった日です」

 

 外から馬の嘶きが響く。

 

「あの馬車に載せられた全ての印刷物が今後、世界を大きく変えていくでしょう。貴方達は世界を動かした。後世、この事実を貴方達が誇らずとも、誰かが誇ってくれるでしょう。それは今まだ無くとも……確かな事なのです」

 

 ブワッと涙目になった男達が男泣きに歯を食い縛って腕で涙を拭い始めた。

 

「インクは身体に悪い。それを承知で貴方達はこの現場でこれからも働き続ける。そして、わたくしはそれに報いるだけの賃金と現場にいる貴方達の生活と生涯を預かる。その手の取れない染みは汚れではないのです。正しく貴方達は帝国という白紙に帝国の全てを顕す第一人者。祖国を、郷土を、家族を、友を、全ての人の為に働く貴方達には感謝しかありません。願わくば、貴方達に長い日常が、より良き人生がありますように……」

 

 頭を下げると男達の涙腺が決壊したらしかった。

 

 未だランタンやランプの明かりが灯る世界。

 

 だが、それもまた電気へと移り変わるだろう。

 

 その先で自分の目的を達成する為に全てを遣り切って見せよう。

 

「次は本の印刷に取り掛かって下さい。文字と絵をより多くの人々に届ける為に。多くの大人達に。多くの子供達に。貴方達は夢や希望を与えられる。そして、忘れないでください。今後、人の欲そのものである紙幣、多くの人々の命を司る行政書類、何もかもが貴方達の手で印刷される事を……それは剣よりも強く。人間を殺す道具にもなれば、生かす理由にもなる。そんな力あるものなのです」

 

 ビシリと再びの最敬礼が返される。

 

 それに敬礼を返して頷き。

 

 後ろに用意していたカートを作業場の内部へと引き入れ。

 

 祝いの品であると焼き立ての菓子を置いてから、現場から立ち去る。

 

 その背後からの一声。

 

 ありがとうございました。

 

 そんな言葉には涙よりも強さが宿っているような気がした。

 

「良い演説でしたよ」

 

「全部、送り出したか?」

 

「作業員総出であれば、左程掛かりません。紙の重さもあの厚みならば、帝国内の何処にでも馬車で届けられるでしょう。時間は掛かるでしょうが……」

 

「これで下準備は出来た。帝国の掌握に掛かろうか」

 

「帝国議会が聞いたら、戦慄くでしょうね」

 

「意味が違う。帝国を動かすのは帝国議会だ。だが、本当に賢いヤツは自分で働きなんかしない。そして、働かずに人を動かすから愚かになる。目の前の状況が理解出来ないヤツから脱落していく」

 

「貴女程に帝国議員が働けば、今頃帝国は世界を盗れていますよ」

 

「さて、どうかな? ディアボロとエンジェラの動きも順調だ。儲けも順次北部同盟と西部での現場に回されてる。高炉が動き出せば、後は事業効率を上げるだけだ」

 

「北部の例の金鉱山ですが、銅鉱山の開設が終了した時点で真っ先に。石炭の産出はまだ後回しでよろしいですね?」

 

「ああ、今年の冬はまだ北部にストーブを配るだけでいい」

 

「それも極めて高価なのですが……」

 

「現在の製造工場で造らせてるのは全部北部への贈り物だ。これを叩き台にして更に小型で精工な加工を可能にする為の技術力を養う」

 

「人の教育と他国への交渉材料を造る為に金など捨てると聞こえますね」

 

「全ての儲けは設備投資と人件費に回せ。とにかく初めで全てが決まる。全てを早く。全てを正確に。金だってずっと持ってても良い事は無い。精錬したら、さっさと民間からの調達費に回して、税金で取り立てるに限る」

 

「はははは、そんな事を言うのは貴女くらいですよ。ああ、そう言えば、あの国を売って頂いた方ですが、家族諸共野犬に食われたようですね」

 

「回収出来なかった金額は?」

 

「各国の報告に寄れば、傭兵が持ち逃げした分以外はほぼ回収済みです」

 

「その傭兵に帝国の最新兵器だと言って、無駄装飾で豪華な剣や美味い飯、とにかくバカ高い高品質な消耗財でも売ってやれ」

 

「了解しました。相手がもっと欲しいと言うくらいのものを売り付けておきましょう……」

 

「もう秋になる。南部皇国の動きが北部に及ぶ前に必要なものは全て揃える。相手はこっちの事をお見通しだぞ。何せオレを狙い撃ちするくらいだ」

 

「でしょうね……現在の帝都守護職を拝命している方にはお悔やみを申し上げるくらい気の毒な事です」

 

「帝都内の状況を逐一軍の情報部から引いておけ。姫殿下は3度も襲撃された事に御立腹だってな」

 

「ははは、事実なので相手は何も言えずに帝都内の情報なら出すしかない、ですか?」

 

「当たり前だろ。相手が幾ら上手くても3度もやられてるんじゃ、帝国の陸軍情報部も無能の烙印を押されて然るべきだろ?」

 

「まぁ、確かに……友人当たりは近頃痩せましたね。何で三度も許したんだと各方面から情報部の信頼は失墜中です」

 

「それが本当なら、いっそ情報部も買おうか」

 

「御冗談を。買えます?」

 

「買う方法ならある」

 

「恐ろしい方だ。それ友人には言えませんよ……」

 

「そうしておけ。前に情報部を一部独立させようかと思ってたんだ。国外用の手足として動かせる部署が必要だからな」

 

「友人の話では人員にそんな余裕は無いとの話でしたが……」

 

「いつでも組織には食み出しものがお約束。そういう連中を集めて、民間や元情報部出身者や引退した連中を集めて、二重、三重の間諜として働いて頂く事も視野に入れてる。オレの資金と引き換えに情報部の要らない人材を寄越せと言ったら、陸軍の上層部も嫌とは言えまい?」

 

「それで帝国の情報を売ると?」

 

「現在の帝国内の機密らしい機密なんてのはオレが今やってる事より重要か?」

 

「御尤も……」

 

「オレが関わらない部分の昔なら機密って類の情報を第三国の間諜のフリをさせて、ウチの連中で敵国に流しつつ、敵国の情報を当の第三国にも流す」

 

「……悪魔ですね。戦争の誘発原因を握ると聞こえるのですが」

 

「解って来たじゃないか。現状の帝国の状態は傷付き倒れそうな怪我人だ。これを温厚になりましたとアピールしつつ、今までの帝国領土を解放し、不可侵と通商条約の締結を餌に潰した勢力に賠償金を払い再建すると言えば、どうなる?」

 

「……成程。時間の遅延策としては最高ですね。それも本当に払われるおつもりなのでしょう?」

 

「戦争は金が無くても出来るさ。少なくとも現状の帝国改良をオレが帝国の国家予算からしたら、まるで殆ど無いような金額でやってるようにな」

 

「国家予算を賠償に当てれば、帝国の弱体化もアピール出来て、一石二鳥だと?」

 

「相手にわざと有利な盤面に見えるところを見せ付ける。そして、火が立てば、火を一回綺麗に消して見せる。すると、相手の心理は簡単に操作出来るだろうな」

 

「……弱体化してコレならば、もはや帝国を潰すのは現状では不可能だ、と?」

 

「正解。それには火を消し止められるだけの水を用意しないとな」

 

「悪魔ですね。やっぱり……」

 

 リージが肩を竦める。

 

 工場の外。

 

 未だ暗い夜道にゾムニスが御者を務める馬車が一台。

 

「ゾムニス。このまま郊外に向かう」

 

「ああ、解った……ん?」

 

「どうした?」

 

「いや、今日は晴れてるが、見間違いじゃないなら……空に竜が飛んでる。フォーエを寄越すように言ったかい?」

 

「いや? 今日に限っては―――マズイか? ゾムニス!! 緊急だ!! 帝国議会方面に走らせろ!!」

 

 すぐに乗り込んで指示する。

 

「どういう事ですか? あの影はまさか他国の? まさか、()()()ではないでしょう?」

 

「ああ、今日は違うはずだ。そもそも……」

 

 リージが窓を全開にして車窓から月夜の竜を見上げる。

 

「こんな夜更けに堂々と飛ぶかって話だ。もし、そうだとすれば、それはバレてもいいって事だろ」

 

「バレても……まさか!?」

 

 馬車が揺れる。

 

 それなりの速度が出ており、暗い街並みの最中をカンテラの明かりだけで疾走していく。

 

「ゾムニス!! 上のヤツは何処に向かってる!!」

 

「この様子だと……学院? いや、帝国議会か? だが、こんな時間に誰もいないだろう。あんなところを襲っても……」

 

「帝国議会じゃない。帝国議会の後ろだ。恐らく」

 

「それはつまりッ」

 

「ああ、今度の襲撃はオレじゃない。直接狙えそうな居場所を調べてなくても良いヤツが1人いるだろ」

 

「帝国の現皇帝ッ、緋皇帝バセアか!?」

 

 そう現実が呟かれた途端。

 

 次々と結構な数の竜が飛翔していく。

 

「あの数だと少なくとも中隊以上大隊以下くらいか?! 人間の数で比較するなら、1個師団相当とやり合える数だ!?」

 

 ゾムニスの言葉に溜息が零れる。

 

「竜の国……どうやら頭の切れるヤツがいるな」

 

「どういう事です?」

 

「南部皇国と北部同盟の泥沼の戦闘を望んでるヤツがいる」

 

「ッ」

 

 リージがこちらの言いたい事を察して顔色を変える。

 

「竜の国は北部皇国と親しい中だ。北部皇国の負担を軽くしつつ、これからの獲物である帝国の同盟国と前の敵だった南部皇国を争わせて、利をまるっと得る算段だろうな」

 

「今更、皇帝を殺しても意味はあまり……」

 

「どんな意図があるのかは後から分析すればいい。今は応急処置が先決だ」

 

「はい……」

 

 リージが目を細める。

 

 対外的にも知られている事だが、新興帝国であるアバンステアの皇帝は戦争当時は英雄として名高かったが、その後の統治では殆ど全ての政治的な決断を悪虐大公と呼ばれる事になる祖父に丸投げしていた。

 

 つまり、現在の実質的な権力者は大公であって、皇帝ではない。

 

 しかも、皇帝当人が子供を作れなかったという話しは実しやかに流れており、事実として愛人の1人もいなかった上、大公の血縁が近頃外に出て来た。

 

 つまり、皇帝が子供を作らない限り、高齢の両者が倒れたら、その後釜は帝国議会の議長もしくは大公の血縁が派閥を作って握る可能性が高い。

 

「姫殿下って言われ慣れ過ぎてすっかり忘れてたが、そう言えば、一応は時間とある程度の努力さえすれば、帝国自体は転がり込んで来るんだよなぁ……」

 

 何かゾムニスがやれやれ的な顔になった気がした。

 

「ウチのお姫様はどうやら物忘れが酷いらしい」

 

「あははは。いや、それを言うなら、忘れていられる実力があるらしい。の方が適当なのでは?」

 

 リージがそう苦笑気味に返す。

 

「お前ら……オレを何だと思ってるんだ?」

 

「小竜姫フィティシラ・アルローゼンだ」

 

「我らが愛するべき悪魔のような方ですね」

 

「冗談言ってないでさっさとやる事やるぞ。深夜とはいえ、少数でも人死には出したくない。途中、本邸に寄れ。リージ、お前は御爺様の護衛と避難を」

 

「了解です」

 

「ゾムニス。働いてもらうぞ。アテオラとイメリを含めて家の人間には全員地下通路で郊外に脱出して貰う」

 

「解った。どうやら守備隊が出たようだな」

 

 都市は俄かに騒がしくなり始めている。

 

「竜にはどうせ勝てない。軍憲兵と女性騎士連中も避難させなきゃならないから、こちらで馬車は乗っていく。お前は市街戦用の完全装備を回収したらノイテとデュガを率いて研究所に迎え」

 

「研究所?」

 

「竜の国が仕掛けて来る以上、一回で全てを済ませようとするだろう。オレの事も恐らくは見てたはずだ。なら、重要そうなのは全部どさくさで持って行こうとしてもおかしくない。だが、物は良いが人はダメだ」

 

「そちらではなく研究所の職員を護れと?」

 

「殺されるな。誘拐されるな。オレが厳守させるのはそれだけだ。ただし、研究所の機材はいいが、薬品はヤバイ。研究所を護れ無さそうなら、安全な地下倉庫に立て籠れ。研究者達には襲撃された場合の計画3号を発令する。とにかく危ない薬品だけは漏出させたり、燃焼させられない。全部何とか安全な場所に隔離だ。地中に埋めてもいい」

 

「了解した。だが、そちらはどうする?」

 

「学院にも装備は置いてある。そっちを回収した後、女性騎士を全員避難後に王宮へと向かう。悪いが皇帝が死んだら、その時はその時という事で……」

 

「今、サラリと我が祖国の皇帝が見捨てられましたよ?」

 

「今更だろう。必要なければ、我々とてどうなるものか」

 

「お前ら、そういうとこで息合わせなくて良いから……」

 

「御心配はしていませんが、誰も付かないというのはさすがにちょっと不安が残りますね」

 

「主に止めるヤツがいないな」

 

「こいつら……」

 

 思わず頭に手をやろうとすると。

 

「マヲー」

 

 頭の上にいつの間にか黒いものがいた。

 

 ついでに重さも今更のように首に掛かって来る。

 

「!?」

 

「そう言えば、ソレがいましたね。近頃は随分と仲良くなったとか。侍女の方々が言っていましたよ。猫相手にお話しをされるようになって、少しは年頃の方らしくなってきたと」

 

 リージの言葉に渋い顔となる。

 

「解ってて言うなよ。ちなみにこいつは恐らくお前らより賢いぞ?」

 

「それは心外ですね」

 

「だが、事実だ。猫……何が出来るのか知らないが、少なくとも竜くらいには対抗出来る知恵があるだろ? 少し手伝え」

 

「マヲ~~?」

 

 え~~と言われたような気がする。

 

「後でお前が好きな料理、好きなだけ作ってやるから」

 

「マヲヲ!! マッヲ~~~~♪」

 

「本当に言葉が解るのか。バルバロスも色々なんだな。本当に……」

 

 ゾムニスが猫と会話するこちらを呆れた瞳で見やるが、猫が会話するのが非常識なのであって、会話出来ると知ってるから話しかける自分は正常である。

 

 馬車は闇夜の中を駆け抜けていった。

 

 その先に何が待っているのかはまだ分からずとも。


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