日向さんと鎮守府の片隅で
やあ、美しいなと私は言った。
霧雨の煙った昼下がりのことであった。陽は薄ぼんやりとすり抜けて、軒下で雨を避けている彼女の足下を、照らすともなく浮かび上がらせた。どこからか梅の香が漂い、大変風流な日であった。
左手で傘を揺らしながら、こつこつと、私は水溜まりを大回りして歩いていた。飛び越せるような水溜まりでも、ゆっくり回って避けたい心地だったのだ。
その心地が、口を変にした、と私は今しがたの言葉をあまねく後悔した。
鎮守府というところは、昔はさぞむさくるしい武辺者とか、とにかく剽悍な兵と青瓢箪な幹部とかの巣窟だったと夢想するが、私の知る時代では華、華、華ななんとも男たち憧れの園である。出入りの一業者としても、見目麗しい女子は見慣れたものだった。
ことに私は性状硬派なる男と自認していたので、話の最中に一つ二つ誉め言葉を打ち上げることはあっても、出会い頭に軽妙な口など利かぬと常々誓っていた。
それが、やあときて、美しいなである。俯けた顔が大変重くなった。女が気分を害し、軟派者に向ける視線を寄越したらと思うと恥辱でどうにかなりそうだった。
「美しいなと言うのは」
頭の上から声が降ってきた。憤懣とも得意げともなく、存外に平静な声であった。
「私のことか、それとも瑞雲のことか」
女は妙ちきりんなことを言った。私は世の中をいくらか見てきたが、美しいに対してこんな返しをする女をついぞ見たことがなかったので、あっともえっとも取れない声を挙げた。
瑞雲というやつを私は寡聞にして知らなかったが、大方艦娘の誰かだろうと思った。しかしいくら見回しても、辺りには女と私以外人影はなかった。なんぞ謎かけかとも思ったが、考えてもなにも浮かばないので、仕方なく私は女と目を合わせた。この宇宙に瑞雲某がいたとしても、知らない以上私の宇宙にはいないという訳である。宇宙にいないのだから言及するもない。
「さっきはですね」
口を開けたが言葉が詰まって出てこないので、私は右手を使いハンカチで額の汗を拭った。無造作に戻すことはせず、二つ四つと折り々々してから大儀そうにポケットへしまった。その頃ようやく、私の口には油が注されたらしかった。
「どうも、不躾をいたしまして。美しいなと言うのはまさしく貴女のことですが、しかしそれは、
油は効用を遺憾なく発揮して、私の摩擦を限りなく零にしたらしかった。のみならず、凍った路面のように、人を大惨事へと誘う悪魔的な滑らかさを与えたらしかった。顔から火が出ている気がする。そのまま灰になり、海へと吹き散らされればどれほど安らかだろうと思った。もっと火を焚け燃え上がれと、やけくそになって口を開いた。
「貴女が軟派者の口車に乗るような軽率な方ではあるまいと、私はまったく知悉しています」
知悉している筈もなかった。初対面である。
「ただ、私は目の明かぬ訳でもないから、美しい時は声の一つも出てしまうもので、おお、とか、ほう、とか。それが偶さかに、美しいなと形を持つ訳です。いや、いや。無論、美しいの一言でフラフラとなどはないと、世の中の道理は心得ております。道理を心得た男だと、そういう目で先の言葉は受け取って頂きたい」
「あるんじゃないか」
女が言った。口が動いただけで、茫洋とした面がうんともすんとも意思を言わないものだから、私は女の胸中を斟酌できず弱りきった。あるとはいったいなにがあるのかと、嘆息したかった。元々、そこにいもしない瑞雲某の名を出してくる面妖な女である。
「美しいと言われれば気分がいい。ちょっとお茶という気にもなるだろう。なにせ瑞雲は美しい」
ここに至って、私の宇宙は常識を消し去った。女が面妖とも思わなくなった。よく考えれば、宇宙とかいうやつの方がよっぽど面妖である。馬鹿馬鹿しくなった。なにが宇宙だ。鎮守府の片隅に、男と女がいるだけだ。なにが硬派だ。濡れ栗のような色の、肩へ触れるか触れないかという髪。もどかしいじゃあないか。喫茶店にでも誘って、髪を伸ばしてみたらと言うのも男じゃないか。
「やあ、美しいな。ちょっとお茶でも行きませんか」
女は相変わらず、喜色を浮かべず、にこりともせず、ただ霧雨の中を私の左へとまわった。
「傘に入れてくれるか?」
後年、妻へ人の色恋を訊ねてみた。あの時あれは、一目惚れというやつだったんだろうかと。一目惚れというやつで通じあったのかと。
まあ、そうなるなと、いつものように彼女は言った。