いろんな大事なものを失い続ける。
大事な機会や可能性や
取りかえしのつかない感情。
それが生きることのひとつの意味だ。
―村上春樹「海辺のカフカ」―
バレンタインイベントを大過なく終えると、気づけば進級が迫っていた。
四月になれば最高学年。
学生なんて皆同じなんだから変わらないだろ、とも思うが次年度は所謂受験生になる。
そうなると、嫌でも大学の話が出てくるわけで。
『比企谷聞いてんの?』
『ああ』
『で? 比企谷はどこの大学?』
『……私立文系』
例に漏れず、丹生谷もそうだった。
丹生谷に俺の電話番号が知れてると分かってから約一ヶ月。
最近では、二日に一回のペースで、スマホが目覚まし以外の音を鳴らすようになった。
多くが雑談で、俺は無意味で非生産的なことはやめろと思う効率主義者だが、いつも丹生谷の声を聞くと、そう伝えるのは躊躇われた。
『そうじゃなくて大学名』
『言うわけねえだろ』
『なんでよ』
『……』
……なんでよって。そりゃ恥ずかしいからに決まっているからじゃないですかぁ。
別に自分の行く大学のレベルが低いからとかではない。
一般論としてだ。
……え? 恥ずかしくない?
そもそも俺は一般論を語れるほど一般とコミュニティがない?
ふう。俺は恥ずかしいんだ。
『で、お前はどこに行くんだ』
逆に俺が問い返した。
『えっと……、私も私立文系』
『大学名は』
『……』
あっれー? おかしいぞー?
丹生谷も黙り込んで、沈黙が生まれた。
俺はそれに野次を飛ばし、矛盾を指摘し、美辞麗句の限りを尽くして自分を正当化する自信があるが、そんなことをすれば丹生谷からゆりのん、間違った、雪ノ下に内通されるから黙る。
『んじゃあ、俺もう寝るわ』
『…………そう』
間が空いて、返事が来た。
どこか名残惜しんでいるような感じがして、電話を切るのを躊躇してしまう。
『……切っていいんだよな』
俺が確認するように呟くと、一言だけ『おやすみ』と返ってきてすぐに切られた。
何か、俺が悪いことをしているような気分だ。
戸惑う自分を他所に眠気がやってきて、少し目を閉じるといつの間にか、深い眠りに落ちていた。
× × ×
「比企谷くん。……比企谷くん!」
放課後、俺は部室でぼーっと本を読んでいた。
実際は、何故か内容が一切頭に入ってこず、俺はただひたすらに文字を眺めていた。
ふと意識が戻ると、雪ノ下に呼びかけられていることに気づいた。
「お、おう。どうかしたか」
「いえ、もう部室を閉めるから出て欲しくて」
「そうか、悪いな」
「……最近、いつもより変だわ。永眠はしっかり取らないと」
「いつも変だって前提やめてくれない? それに優しさに見せかけた死の宣告もやめろ」
早口でまくし立てる。中二病時代からの悪い癖だ。そして途中で、気づく。
「今日由比ヶ浜は?」
「由比ヶ浜さんなら三浦さんとショッピングに行くと言っていたわ」
「聞いた記憶がねえ」
「…………わざわざ部室に来て言ってたわよ?」
「まじ?」
「ええ」
会話が途切れる。女子同士の褒めあいのようにメビウスの輪の上にいるわけではないので、続ける必要も無い。
とりあえず、今の自分がおかしいということだけは理解した。
あくまで、今の、だ。
いつもおかしいわけではない。
……おかしくないよね。
俺が一人、思考の堂々巡りに片足を突っ込んでいると、雪ノ下が口を開いた。
「そろそろ、閉めたいのだけれど」
「……ああ。悪い」
俺は雪ノ下に一言返すと、部室を出た。
今日は俺が鍵を返してくる、と言うと雪ノ下にしては珍しく、素直に俺に渡した。
「ありがとう」
「おう」
何か急ぎの用事でもあるのだろうか。
珍しく素直な雪ノ下に「じゃあな」と軽く手を振ると、振り返してくれた。
恥ずかしかったのか、雪ノ下は少し頬を赤らめてすぐに立ち去った。
彼女を見送ると、俺はそのまま歩き出した。
廊下が薄暗いおかげで窓から月明かりが入ってくる。
それを見て、ふと、思う。
一年前には想像出来なかった雪ノ下の変化。
それは誰もが皆、変化しながら生きているのだと俺に実感させた。
不意に丹生谷の顔が浮かんだ。
そういえば丹生谷も俺も目指すのは同じ私立文系だったな。
――また一年後には俺と丹生谷の関係も変わっているだろう。
それが友人として、なのか。はたまたそれ以外なのかは誰にも分からない。
ただ、彼女たちのように、変わっても許容しあえる関係になれれば。
らしくもなくそんなことを、職員室に向かう間、ずっと考えていた。
なんか最近こういう終わらせ方が増えた。
最近改行できないことが増えた。