床主フェリーターミナル3階。
フロアの3分の2を占めるオープンスペースの中央には、洋上国際空港の模型が展示されており、一面ガラス貼りの窓から現物を拝むことができる。
メープル柄の床や真っ白な壁紙、そしてLED照明が照らし出す電球色の光はフロアをより上品なものに、そして広々と感じさせる。手すりやベンチなども設置されており、本来ならば人々の憩いの場として機能していたのだろう。
そんな中で、あるゆる箇所にへばりつく血液の赤黒さは一層際立って見える。そして、亡者どもの呻き声も。
「南、資料館の正確な位置は」
「あそこです」
前方約40メートル。バリケードを張られたエスカレーターのすぐ先に、エレベーターホールがあった。
向かって左手に脇道があり、感染者らが一際集まっているのが見える。
感染者らはバリケードには目もくれず、こぞって脇道を進もうとしていた。
どうやら、そこが資料館と見て間違いないだろう。そして、生存者が避難していることも。
「グレネードの使用は禁ずる。各員、感染者を撃破しつつ、資料館を目指せ」
6つの銃口が一斉に前を向き、火を吹く。
その光景はさながら数世紀前の戦列歩兵のようであり、クリスたちが引鉄を引きつつ前進するたび、彼らの後ろには正しく死者のみとなっていった。
ふと、先頭を切っていたクリスの目に、あるものが映った。
日光の残滓がかろうじて届いている薄闇の中、殊更に映える黒。十数の群れとなり飛び回っている影。
「〈カラス〉だ、警戒しろ!」
人為的に製造されたB.O.Wとは違い、偶発的に発生した、〈イレギュラーミュータント〉というものがある。
カラスがT-ウイルス感染者の肉をついばむことで発生する〈クロウ〉。いわばバイオハザードの副産物ともいえる代物だ。
クリスは警戒を促すが、すぐにそれは疑問へと変わった。
(銃声から逃げている)
もしもあれがクロウであれば、ここぞとばかりに窓をぶち破って襲い掛かってくる。しかし、カラスたちは銃声に逃げ惑うばかり。屋外で滑空しているヘリなどは、格好の的であるにも関わらずだ。
(普通のカラスなのか?)
作戦終了後の報告事項には一応加えるべきであろうが、いまは目の前の脅威を排除すべきだ。
たとえ、たった1体のゾンビであろうと、噛まれればそれで終わりなのだから。
クリスは首を振ると、戦場へ意識をより戻す。
「…………!」
小さな男の子だった。
”新床第三小学校3年2組
衣服の胸部分に付けられた名札には、そう記載されていた。
俯き気味の顔からは表情が伺えなかった。虚ろな歩調で近付いてくる様は、助けを求めているようにも見える。
クリスは一瞬、撃つのをためらってしまった。
生物兵器として用いられるウイルスに小さな子供が感染すると、その強力な毒性によって、発症した瞬間に死亡してしまうため、幼児の死体が歩くという事例はなかった。
そのことに驚いているのか?
くだらない理屈だと、クリスは吐き捨てた。
歩くだ歩かないだのはどうでもいい。こんな小さな子供まで、死の尊厳が踏みにじられている。歯噛みするクリスのこめかみには、太い青筋が浮かんでいた。
しかし、こうなってしまっては、たとえ子供であっても感染者であることには変わりない。
クリスの一瞬の躊躇の隙を突いて腰骨を掴み、大口を開ける。
「クリス!」
彼のすぐ隣で動いていたリカは左手でハンドガン〈SIG SAUER P226〉を素早く抜く。発砲するにはいささか危険な距離だったが、リカは難なく感染者の頭部を正確に撃ち抜いた。
もう1体がすぐ後ろには控えているのを確認し、銃口をそちらへむけるが……
「クソッ!」
丸太のようなクリスの腕から繰り出される、ヘビー級ボクサーでさえ一撃で沈むほどの強烈なストレートが炸裂する。
顔面にまともに喰らった感染者は頭部を変形させながら吹き飛び、その先にいる何体かを巻き込んで地面に激突した。
「……余計なお世話だったかしら?」
「そんなことはない、ありがとう」
ほとばしる力強さとは裏腹に粗野であるということはなく、1人の戦士として立ち向かいつつも、他者を思いやる優しさがある。
この世界ではマイナスともとれる要素ではあるが……。
なるほど、ピアーズが惚れ込む理由がわかる気がする。
リカは感染者の首を折りつつ、思った。
それから30分と経たず、3階の制圧は完了した。現在は3名の隊員たちが討ち漏らしがないか、細かい箇所までフロアを見回っている。リカはあらためてBSAA隊員たちの兵士としての練度に舌を巻きつつ、クリスらと共に死体が積み重なった資料館の扉の前に立っていた。
「我々はBSAAの者です。誰かいるのなら、返事をして下さい!」
クリスが扉を叩くが、返事はない。
全滅か、はたまた恐怖で動けないのか。いずれにせよ、蹴破ってしまえば楽なのに。
クリスならば難なくやってのけるだろうとリカが考えていると、扉の内側からロックが解除され、軋む音と共に開いた。
「た、助かっ……ひっ!」
恐る恐る顔を覗かせたのは中年の男だった。整髪料で固めていたのであろう七三分けは、見る影もなく振り乱されている。男はクリスたちの足下に転がる死体にショックを受けたのか、膝から崩れ落ちて口を覆う。高そうなスーツが血で汚れるなど気にしていられないほどの衝撃だったのだろう。
「もう大丈夫です、落ち着いて下さい」
クリスはミネラルウォーターのボトルを差し出した。男はそれをひったくると一息に飲み干し、深々と息を吐き出した。
「すみません、つい……」
「いえ、構いませんよ。それで、あなたの他に生き残っている方は?」
「あ、はい!それは……」
「そいつとわたしだけだ」
中年男を押しのけるように、もうひとりの男がのそりと姿を現わす。これまた高そうなスーツに身を包んでいた。ただ、その体はでっぷりとたるみ、もはや三重顎になるまで垂れ下がっただらしのない顔は、あまり直視したくないほどに脂ぎっていた。
「あなたは?」
「紫藤一郎」
「紫藤……あなたが」
床主市を拠点に活動する代議士であり、地元の有力者である。とすると、中年の方は彼の職員、または秘書といったところか。
「2人だけなのですか?」
資料館といっても、ほんの数分で見て回れるほどの小さな規模のものだ。とはいえ、ここに避難していたのが2人だけだと、いささかスペースを持て余している。
(もっと生存者がいてもおかしくはないはずだが……)
クリスのつま先に、床に散在していた荷物が当たった。小さな、子供用のリュックサックだ。側面には名前を書くスペースがある。
”新床第三小学校3年2組 須賀将光”
途端に、彼の表情が険しくなった。
「あんたまさか……他の生存者を締め出したのか?」
「だからなんだと言うのだ。こちとら生き延びるためならば仕方がなかろう」
紫藤は平然と言い放つ。その表情にはいやらしい笑みが浮かんでいた。
とどのつまり、彼らは外で助けを求めていた生存者を見捨て、避難していた人たちを囮のために放り出したのだ。自身が守るべき人たちを踏みつけ、その死体の上で平然とあぐらをかいている。
「……クソ野郎ね」
リカが呟く。
隊員たちも同じ心境だったらしく、怒りを込めた眼差しを紫藤たちへ向けていた。
「なんだその目は? まさか、天下のBSAAが生きた人間に手を出すわけじゃないだろうな?」
紫藤は人差し指で頬をとんとんと叩き、挑発してみせる。
隊員の1人が衝動的に殴りかかろうとするが、クリスはそれを制する。
「いえ、そのようなことは。とにかく無事でなによりです。現在、2階ではわたしの部下たちが作戦にあたっています。彼らと合流しましょう」
「ふん、急げよ」
クリスは、3階の制圧が完了した旨をピアーズへ報告した。極めて冷静で、事務的な声だった。
しかし、リカは見ていた。そんなクリスの表情が、憤怒の色に染まっていたことを。
実のところ、紫藤のとった行動のすべてを否定することはできなかった。
バイオテロという極限の最中において、自分の命を優先することは間違いではない。たとえそれが唾棄すべき行いであろうとも、
それに、BSAAが対バイオテロ部隊であるゆえに、民間人への危害は重く禁じられている。
ここにいる者たちは、歯を食いしばり、拳を握りしめ、耐えるしかなかった。
「まったく、はよ案内せんか!」
「ええ、了解しました。ただ……」
こちらもただ黙ってはいない。
彼が紫藤一郎という人間であるからこそ、出せるカードがある。
「〈要救助者〉でいられるのはこの作戦までだ。こちらには、あんたらから聞かなきゃならんことが山ほどある」
「な、なんだと?」
紫藤の表情が曇る。
「あなたには、このバイオテロの重要参考人になってもらう必要があるのでな」
紫藤一郎と今回のバイオテロ。
彼が引き起こしたとは現時点で決め付けることはできない。しかし、拘束するには充分すぎるほどの理由をこの男は持っている、
日本への移動中、ホワイトハウスとある情報が入った。情報の出所は床主市に勤務している、とある刑事からとのこと。紫藤が行なっている不正献金疑惑を調べている過程で、彼が過去に、とある企業から多額の謝礼を受け取っていたことが発覚した。
その企業とは、かつてアンブレラがカモフラージュのために立ち上げたペーパーカンパニーであると判明した。
謝礼の支払いは1998年のラクーン事件が起こるまでの14年間に渡り行われていたという。
14年前。つまり1984年といえば、アンブレラの日本法人〈アンブレラ・ジャパン〉が設立された年。いわば、アンブレラの手が日本へ伸びた年となる。
まだ、線としては結ばれていない。だが、そこには確かに点と点とが存在している。必ずなにか接点があると睨んでいたのだ。
「今は要救助者として扱うが、その後は覚悟しておくことだ」
クリスは隊員たちを集め、紫藤たちを先導して階下への道を踏み出す。
「厄介なことになったものよ」
「せ、先生、いかがいたしましょう……」
紫藤は苦虫を噛み潰した表情で舌打ちをする。秘書の男はオロオロと、クリスの背中と紫藤へ、絶えず視線を移していた。
「まあいい。まだ、打つ手はある」
「まさか、〈彼〉を……?」
紫藤は上着の襟に留めてある、議員記章を改造した小型端末のボタンを押した。
それが、呼び出しのサインだ。