体の至るところが痛む。食道は胃酸の酸っぱい匂いが出たり入ったりを繰り返し、頭は鉛が詰まっているかのように重たい。
まるで二日酔いの朝のような倦怠感のなか、サーシャは目を覚ました。
目の前に広がるのが目を覆うほどの朝日であったなら。目覚ましのやかましい音が鳴り響くホテルの一室であったなら。すべてが飲み過ぎによるできの悪い悪夢であったらならどんなに良かったことか。
死臭漂う荒廃した教室の景色が、サーシャを現実に引き戻す。
「死んでない……感染を免れたのか、おれは……?」
ほとんど太陽は落ちかけていたが、空はまだ夕暮れだ。意識を失っていたのが 丸1日でなければ、おそらく1時間が経ったというところか。
「鞠川先生たちはうまく脱出できたのだろうか……?」
最後の時に彼女が見せた悲痛な顔が浮かぶ。
「……いや、皆を信じよう」
今は自身の心配をしなければ。
そう思い、サーシャは車椅子へと移動すべく
「……おいうそだろ?」
幻覚ではない。たしかに自分の2本の足で立っていた。
なぜ?自分の足は神経系から破壊されており、もう2度と立つことはできないはず。それがどうして……
混乱しながらも記憶を巡らせると、意識を失う寸前に見たあの男とのやりとりが蘇ってきた。
「そうだ。おれはあの男から妙な注射を射たれて……」
ズボンの裾をめくってみる。
そこにはくっきりとした注射の痕があった。〈奴ら〉から食いちぎられていた傷痕もあった。しかしそれは、半ば全快にまで再生していた。
あの薬液がサーシャの足を再生させたのだろう。そしてその薬液とは、十中八九、ウイルス。
その結論に至ったとき、かろうじて堰き止めていた胃液が一気に食道を上ってきた。
サーシャは吐いた。吐いて吐いて、胃袋が捲れあがるほどに咳き込んだ。
普通なら、再び歩けるようになった事実に喜ぶ場面なのだろう。しかしサーシャは、到底そんな風に考えることができなかった。
ーー本当に化け物になってしまった。
かつて自身が取り込んだプラーガが体を蝕んでいく様を思い出し、サーシャは言いようのない恐怖を抱いた。
化け物になんてなりたくないと死を懇願し、自殺まで考えたほどだ。
あの時化け物にならずに済んだのは、あれが最後のチャンスだったのだ。
確実ではないが、体感でわかる。もはや自分は人間ではなくなったのだ。そう悲観したサーシャは床に転がる彫刻刀に手を伸ばし、さっきそうしたように、刃をこめかみに当てがった。
今ならまだ死ねる。この手にほんの少しだけ力を込めるだけで、すべてから解放される。
なのに……
サーシャは彫刻刀を下ろした。
自分はなにを学んだのだ? 東スラブでレオンが言っていた言葉は? 職員室で冴子が説いたことは?
「死ねる訳がないだろ!」
なにがなんでも生き抜いて、バイオテロという悪意と闘う。それが自分の責務だから。
こんな時こそ、前向きに考えなければならない。そう、自分は生きるチャンスを再び与えられたのだと。
ならば、これからどうしたらいいのかなんて決まっている。それは、生きてここから脱出し、皆を探すことだ。
決意を新たにしたサーシャに反応したのか、車椅子に括り付けられていたスキットルが揺れる。
それはまるで、ここにJDがいるようで、お調子者の彼らしい陽気な笑いが聞こえてくるみたいだった。
「かっこ悪いとこ見せちまったな」
スキットルを取り外し胸に潜ませると、一度大きく深呼吸をした。
アドレナリンが死臭すら搔き消す。
いまはあの男のことはどうでもいい。
とにかく、こうして五体満足の体を手に入れたいま、さっそく行動だ。
耳をすませば、扉の向こうには〈奴ら〉の呻き声で溢れかえっていた。
悲鳴や怒号がまったく聞こえてこないのは、もはや生存者は1人もいないものと、サーシャは首を振る。
しかしどうしたものか。
手持ちの武器らしい武器は彫刻刀のみ。
ふと、サーシャは思い出した。あのフードの音が窓から去っていく場面を。
窓まで歩き外を覗いてみると、外には駐車場があり、正門までを見渡せる。正門は内から破られていた。
「バスは……ないか」
サーシャは胸を撫で下ろす。
ないということは、皆が脱出に成功したということなのだから。
近くに〈奴ら〉はいない。
正門までの道には無数の〈奴ら〉がさまよっているが、通り抜けられないほどひしめき合ってはいなかった。
「全力で駆け抜ければ、やり過ごせそうだな」
走るという行為そのものが久しぶりだった。
2、3回軽くジャンプして状態を確認してみると、今までが嘘のように、体が軽かった。
ーーいける。
校庭へ飛び出したサーシャは、その自信が
体の筋肉に、すべて強力なバネでも仕込まれているのかと錯覚するくらい、今まで以上に〈奴ら〉の動きがスローに感じた。
それでもやはり、校門に近付くにつれて〈奴ら〉の密度が増してくる。
組み付こうとすればいなし、必要であれば撃破し、それを繰り返すうち、校門はすぐ目の前に迫っていた。
このまま一気に駆け抜けるだけ。
サーシャが安堵したその瞬間、門の外側の影から人影が飛び出してきた。ハンドガンを構えた男だ。
「伏せろ!」
反射的にサーシャがスライディングの要領で身を屈めた瞬間、男が発砲した。
景色がスローモーションと化した。ライフリングを滑り放たれた弾丸は真っ直ぐに飛び、サーシャの鼻先を掠めた。彼を狙ったのではない。弾丸は彼の見落としていた、すぐ背後までにじり寄っていた〈奴ら〉の眉間に吸い込まれていった。
男はそのまま、滑り込んでくるサーシャの手を取り、ぐいと引っ張り起こす。
サーシャはその男を知っていた。
2つに分けられたアッシュゴールドの髪。強い意志を秘めたコバルトブルーの瞳。
レザージャケットとジーンズというカジュアルな服装ながら、佇まいは歴戦の猛者のそれ。
「……
かつてサーシャの体に寄生したプラーガを、脊髄を撃ち抜く荒療治で
アメリカ大統領直轄の組織〈DSO〉のエージェント、レオン・S・ケネディが、あの日と変わらぬ姿でそこに立っていた。
「どこのマッサージ店に行ったんだ? ぜひとも紹介してほしいもんだな」
「
レオンは首をもたげ、サーシャが肩をすくめて返す。
サーシャの身になにがあったかのかレオンは知らない。しかし2人は、こうして生きて再開できたことに頬をほころばせた。
「色々と聞きたいことはあるが、いまはこの場所を離れよう」
無数の〈奴ら〉が校門を出ようと迫ってきていた。距離にはまだ余裕があるが、早く移動した方が良さそうだ。
「サーシャ、これを」
レオンはサーシャに、愛用のハンドガン〈グロック26〉を差し出す。ズシリとくる重みに、サーシャはどこか懐かしさを覚えた。
「またこいつを握ることになるとはな」
「できることなら、おまえにはもう使って欲しくなかった」
ほんの一瞬の沈黙。
地獄にあって、涼やかで物悲しい春風が一筋、2人の頬を撫でた。
「行こうか」
「そうだな。そういえば、ここへ来る道中、スクールバスが走り去るのを見た」
校門から向かって右側、桜の花びらが降り積もる道路の上に、しっかりとタイヤ跡が残されていた。
「バスは御別橋へと向かっているはずだ」
「ほう、それはちょうどいい。ウチのセーフハウスがあるから寄って行こう」
「いいのか? おまえがこんなところにいるなんて、なにか任務があるんじゃ……」
「少し前までの話さ」
レオンはハンドガンの弾倉を交換しつつ、肩をすくめた。
「さて、最悪の再開になってしまったが、よろしく頼むぜ〈
「ああ。こちらこそな」
サーシャとレオンは、互いに拳を作り、甲の部分で叩きあわせると、それぞれ周囲を警戒しつつ、桜並木の坂を駆け下りていった。