アレクサンドル・コザチェンコ〈サーシャ〉は、窓の外の景色を眺めながら、日本という国は本当に美しい、と頬を緩ませた。
校庭では生徒たちが元気よく体育の授業を受けている。整然とした街並みを満開の桜が彩り、空は蒼に澄みきっていた。
一年前には考えられなかった光景だった。
2011年。血と涙と火薬に
師と友と恋人すら失い、ついには〈プラーガ〉にまで手を染めバイオテロを引き起こした、許されざるテロリストだった。
すべてが無駄であったと悟ったとき、もはや生きる意味も希望もなく、死んで楽になろうと、自身の顎に銃を突きつけた。
だが、死ねなかった。
『俺たちに自ら命を絶つという選択肢はない。
死ぬわけにはいかなくなった。
恋人であったイリーナ。師と尊敬していた
「JD、日本は素晴らしい国だ。お前にとっちゃ、少し退屈に感じるかもしれんがな」
どんなときでも自分を見捨てず、その身を案じてくれた最愛の友。彼らが生きていたことを忘れさせてはならないと、サーシャは車椅子での生活を強いられる体となっても、バイオテロの当事者として、脅威と悲劇を語り継ぐ闘いを続けている。
JDの形見であるスキットルをそっと撫で、サーシャはそう呟いた。
「サーシャ先生、はいどうぞ」
うららかな太陽の光を形にしたような藤美学園校医、
「ありがとう鞠川先生。あなたにはお世話になってばかりで……」
「いえいえ。これもわたしの務めですから」
厳密にいうと彼女は正式な校医ではなく、大学病院から派遣されてきた臨時のものらしいが。生徒や教師からは慕われ、立派な学園の一員だ。
今回の来日に際しても、下半身の不自由なサーシャに対して親身に接してくれる。
サーシャは彼女に対して、感謝してもしきれないくらいだった。
「もう日本には慣れましたか?」
「ええ。鞠川先生をはじめとする教師の皆さん、そして生徒たちも、みな良い人ばかりだ」
「うふふ、ありがとうございます。……でも、やっぱりサーシャ先生には申し訳ないと思っています」
「どうしてですか?」
眉をハの字に曲げ申し訳なさそうな表情をした静香に、サーシャは尋ねた。
「ほら、午前中の講演で、何人かおしゃべりしてたし、寝てる子までいたでしょう?サーシャ先生的には、やっぱり気分が良いものじゃないかなー……と」
「ああ、なるほど」
サーシャは苦笑した。
「たしかに、もう少し真摯に受け止めてほしかったとは思いました。ですが、それ以上に、皆が平和に日々を過ごしているのだな、と嬉しく思います。それに……」
「それに?」
「ああいえ。とにかく、バイオテロなど一度も経験しないに越したことはない、ということです」
サーシャは、自身に生徒を糾弾する資格などない、と首を振った。
『バイオテロの被害者』のこのこと招かれた自分には。
本来ならば毅然とした態度で注意しなくてはならないのだろう。しかし、かつて犯した罪に対する罪悪感から、どうにも強く出ることができない。
「そういうものですかねぇ?」
「そういうものでなくてはならないのです、本来は」
「でも、少なくともわたしは、サーシャ先生のこと、尊敬していますよ?」
険しくなるサーシャの表情を溶かすように、静香は柔らかくそう言った。
「わたしたちでは到底考えられないほどの苦労をなさって、それでもまだ前を向いていられるサーシャ先生のこと、すごいなぁ、って。多分、わたしの人生ではじめて心の底から」
そう微笑む静香と目が合い、サーシャはとっさに顔をそらした。
彼女の笑顔が、今は亡き恋人アリーナと重なって見えるほど、安らぎを感じるものだったからだ。
「さ、さて、いつまでも保健室に長居してはいけませんね!わたしは職員室へ戻ります」
「もう行かれるんですか?もうちょっとゆっくりしていけばいいのにぃ」
「いえ、一応は来客の身ですのでそろそろ……」
そのとき、ふと校門に誰かが立っているのがサーシャの目に入った。どうやらスーツ服の男のようだ。
ーーいや、立っているのではない。
門に阻まれているにもかかわらず、何故か歩みを止めようとはしない。ガチャンガチャンと、なんども体を打ち付けているようだ。
何人かの教師が、男に歩み寄るのが見える。
「あれは……まずい!」
途端に、背中から冷たいものが流れ落ちるのを感じたサーシャは.全速力で車椅子を走らせ、保健室を後にする。
「サーシャ先生?……行っちゃった」
ぽかんとする静香。机には、まだ口をつけられていないティーカップが、ゆらゆらと湯気を立ちのぼらせていた。
----------
今日の日の為にバリアフリーを行き届かせていた学園内からサーシャが校門まで駆けつけるのに、時間はかからなかった。
幸いにして、教師らはまだ男に接触していない。体育教師の手嶋を先頭に、様子を見ているところだった。
「手嶋先生!その男に近付いてはいけない!」
サーシャは声を張り上げた。
「サーシャ先生?」
いままさに掴みかからんとしていた手嶋は、サーシャの剣幕に足を止めた。
「よかった……間に合った……」
「どうされたのですか、そんなに慌てて」
大粒の汗を流し、肩で息をするサーシャに、教師陣が駆け寄る。
「あれは……不審者などではありません」
「不審者ではない?ではいったい……まさか!」
教師陣の顔から血の気が引いていく。
サーシャの指差した男をいまいちど冷静に観察してみると、がたがたと体が震えだした。
血の気のない顔。生気のない白濁した眼。だらしなく開いた口からはよだれと血がぽたぽたと滴り落ち、こちらからの死角となっていた背面の脇腹はえぐり取られたように欠損し、ぷらぷらと赤黒い肉片がぶら下がっていた。
「そ、そんな!まさかあれはゾン……」
「落ち着いてください!」
取り乱し、いまにも悲鳴をあげそうになる林京子を、サーシャは手をかざして制した。
「手嶋先生と林先生は、まずは外の生徒たちを屋内へ避難させてください。脇坂先生は警察に連絡を。あとの方々は、わたしと正門、および裏門のバリケードの構築を手伝ってください。いいですね?」
サーシャの冷静な指示に、全員が落ち着きを取り戻した。強張りつつも頷いた彼らに、サーシャもまた頷き返すと、車椅子を動かし、門の側まで移動する。
すると、ただ門にぶつかっているだけだった男がおもむろに大口をあけ、サーシャに食いつかんと襲いかかった。
「ひっ……!」
小さく悲鳴が上がる。
「〈感染者〉の対処について教えておきます」
サーシャはジャケットの胸ポケットからボールペンを取り出した。
先端は0.3mmの、丈夫な金属製だ。
格子を掴みながら、サーシャの首筋めがけがちがちと顎を開け閉めする〈感染者〉の頭を狙い、サーシャはボールペンを躊躇いなく振り下ろした。
「頭を狙うこと。その際、絶対に躊躇わないこと」
ぬるりと頭からボールペンを引き抜いたサーシャ。
教師陣の表情が凍りついた。目の前の光景が信じられずに声すら上げられないのだろう。
しかし、彼らの協力なくしてはこの窮地は逃れられない。
『噛まれた』人間が襲ってきたのだ。おそらくこの学園の外ではすでに……
「さあ、急いで!」
ぱんと大きく手を叩くと、皆が一斉にそれぞれの役目へと動きだした。
(上手くいけば、しばらくは凌げる。その間に警察や自衛隊の救助を待とう。それにこの事態、〈BSAA〉が黙っていないはずだ)
〈BSAA〉
国連の直轄である対バイオハザード部隊だ。彼らが鎮圧に駆けつけるのには2、3日もかからないだろう。
生徒や教師たちの家族の安否についてはどうにもできないが、いまのサーシャにはこれができる精一杯だった。
しかし……
安全なはずの校内から、悲鳴が上がった。
ひとつではない。学園のいたるところから上がっている。3階の教室の窓が割れ、そこから生徒が飛び降りているのが見えた。
「ああ、なんてこった」
最悪の事態が起こってしまった。もはや自分たちだけではどうにもならない惨劇を前に、サーシャは頭を抱えた。
『悪意』はすでに内に入り込んでいたのだ。