「彼は心優しい男でした。確かに、人付き合いに関してはわたしよりも不得手でしたが、そのぶん自然や動物たちを愛し、そして愛されていた……」
「そうか……」
2階にいる〈奴ら〉の数はそれほど多くなく、サーシャと冴子は、まばらに襲いかかってくる〈奴ら〉をほどほどに
「冷たいことを言うかもしれないが、
「わかっています。わたしか、あなたの手で……」
戸市出流の犠牲。2人は改めて、自分たちが生き延びるという責任の重さを噛みしめる。
「……む。毒島くん、曲がった先にいるぞ」
「ええ。なかなかの数がいるようです」
曲がり角のむこうに相当な数の呻き声が聞こえる。だからここまで、大した襲撃にあわなかったのだ。
それはつまり、あの曲がり角のむこうに生存者がいて、〈奴ら〉がそれに群がっているということだ。
そして角のむこうにあるのは、保健室だ。
「突入します。コザチェンコ講師はこれを」
「これは……」
いつの間に手に入れたのか、冴子は刃渡り20センチメートルのコンバットナイフが収められたポーチをサーシャに差し出した。
「こんなものを生徒が持っていた場合、教師であるあなたならばどうしますか?」
「……没収だな」
笑い合って軽口を叩けるくらいには、2人は落ち着きを取り戻していた。
「ではお先に!」
冴子が曲がり角を駆け抜け、続けざまに5発、打撃音が聞こえた。
サーシャも後に続き、彼女が残していった〈奴ら〉と対峙する。
数は3体。サーシャの気配を見つけ、襲いかかった。
1体が突出し、後の2体は隣り合っている。まずサーシャは、先頭の〈奴ら〉をギリギリまで引き付ける。車椅子に座っているため、食いつくには身を屈めなければならない。その瞬間を狙って、サーシャはぐいと車輪を後ろへ引いた。
バランスを失い顔から倒れ込んだところに、脳天へ一刺し。これでまず1体。
すかさずサーシャは、残りの2体目がけ車椅子を勢いよく前進させた。
左側の1体へ体当たりをかます。覆いかぶさるように転倒させ、眉間に刃を押し込む。素早く引き抜くと、器用にナイフを回転させながら逆手に持ち替え、残る1体の喉を掻っ捌いた。
今のところ、これですべて片付いた。動かなくなった生徒たちに哀悼を捧げ、サーシャが保健室に入ると、冴子が噛まれた男子生徒を介錯していた。
「間に合わなかった……」
「いえ、鞠川校医は無事でした」
冴子の隣で、静香は口元を押さえ真っ青になっていた。
「鞠川先生、よくご無事で!」
「サーシャ先生……!」
安心して緊張の糸が切れたのか、静香はゆっくりとサーシャへ歩み寄り、そのまま彼の胸に顔を埋めた。
聞けば、感染が始まったあとも負傷者の治療に努めたものの、その甲斐なく皆、死んでいった。
そしていま、冴子や彼女が介錯した男子生徒、石井がいなければ、自分は食われていたであろうことを、震える声で打ち明けた。
「よく皆のために頑張ってくれました。ここからは生き延びるために動きだしましょう」
静香の背中を軽く叩いてやると、一度だけ頷いて立ち上がる。表情は暗いものの、体の震えは止まっていた。
「さて……では、これからどうするかだ。わたしは学園からの脱出を推奨する」
「理由を聞かせてくれるか?」
サーシャの問いに、冴子は頷く。
「まずひとつに、籠城は得策ではないこと。〈奴ら〉の腕力は凄まじく、教室のドアでは到底持ちこたえられません。
その上でもうひとつ。先ほどまで多くの生徒たちが避難していた講堂の扉が
「講堂が……!」
サーシャは歯噛みした。
講堂は手嶋と林が避難活動に当たっていたところだ。おそらく、どんな人間であっても受け入れていたのだろう。そう、たとえ噛まれていたとしても。
その点を伝えられなかったのは痛恨のミスだった。
「じゃあ、ひとついいかしら?」
静香が手を挙げる。
「なにかあるのか?鞠川校医」
「ええ。職員室へ行くの。あそこに車のキーを置いてあるから、あとは車に乗って脱出できるんじゃないかしら」
「校医の車は、コザチェンコ講師が乗り込めるのか?」
「えっとぉ……」
どうだろう?と静香は眉をひそめた。彼女の車は小型なので、車椅子を収納できるか怪しいところだ。
「毒島くん。まずは、とにかく移動手段の確保優先しよう。今は話し合っている時間すら惜しい」
「……そうですね。では、わたしが先頭を行きます。コザチェンコ講師は援護を頼みます。鞠川校医は後に続いてくれ」
こうして冴子先導のもと、サーシャと静香は職員室へ向かう。
この時、静香はふと、冴子の言葉遣いに違和感を抱く。サーシャと自分とで、なんか対応が違う、と。
「威厳の差かしら……」
頬に手を当て考え込むが、すぐにやめた。
あれこれ悩んでも仕方がないので、静香は2人の後を追う。
ふと気付けば、沈みかけた太陽が空を朱に染め始めていた。このパニックから数時間が経っていたのだろう。
そして、人間の悲鳴がほとんどしなくなっていることにも。
「まるでラクーンシティの再来だ」
冴子は漂ってくる腐臭に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
全貌こそ明らかになってはいないものの、あの事件がアンブレラ社によるウイルス事故という事実は知れ渡っている。
「ラクーンシティ
ラクーン事件の被害者は10万人にものぼる。これはラクーンシティの人口とほぼ同じであり、この事件で町ひとつが壊滅したということだ。
しかし、これは言いようによっては『ラクーンシティのみの被害で済んだ』という残酷な見方もできてしまう。その要員として、ラクーンシティの立地が大いに関係してくる。
ラクーンシティは、その規模にもかかわらず、交通アクセスがハイウェイ1本のみという非常に不便な立地の上に築かれた町であり、封鎖が容易であった。
しかし床主市ではそうはいかない。仮にこの地区だけに感染が留まっていたとしても、藤美学園周辺地区には約6万人の人間が住んでおり、ここから近いであろう〈床主大橋〉と〈御別橋〉を始め、感染経路が数多くある。
これはあくまでも最も感染範囲を縮めた場合であり、下手をすれば市内全域に感染が及んでいたとしたら……
サーシャは首を振った。
今はこの場だけで精一杯だというのに、そんなところまで気にかけていてはキリがなかった。
「きゃ!」
職員室へ通じる渡り廊下のドアへ差し掛かったところで、静香が足拭き用のマットに
「もう!なんなのよぉ……」
「歩くには不向きなファッションをしているからだ……コザチェンコ講師」
「む……わかった。わたしは
サーシャは2人に背を向ける形で、わざとらしくナイフを構えた。
彼の背後では、ブランド物のスカートを裂かれ、静香が小さく憤慨していた。
「こちらは安全なようだ。そちらはどうかな?」
「大丈夫のようです」
サーシャが振り返ると、涙目を浮かべる静香がいた。
膝丈のスカートの裾はスリットになるまで腰まで裂かれており、隙間からは肉付きの良い太ももとセクシーな紫のショーツがちらりと見え、目のやり場に困る。
サーシャは狼狽するが、すぐに思考を切り替える。なぜなら、ここからが彼にとっての本当の試練だったからだ。
なにしろ階段が多い。
上りと下りを区別するために、中央の平面となった箇所をスロープ代わりにすればいけるが、もしも非常階段を使わなければならない場面に出くわしてしまったとしたら。
生存を諦めたわけではない。
だがもし、そのことで彼女らの命が脅かされるようであれば……
サーシャは密かに覚悟を決めた。
「行きましょう、コザチェンコ講師」
「車椅子、わたしが押しますから」
「……ああ。ありがとう鞠川先生」
決して2人に気取られぬよう、密かに、されど強く決心した。
そのとき、渡り廊下の向こうからなにかが射出される音が聞こえた。タッカーか杭打ち機かなにかの音によく似ている。工具を武器として利用しているのだろうか。
「急ぎましょう!」
冴子はドアを開け放ち、駆け出した。
「鞠川先生。わたしたちも!」
「ええ!でも……」
「わたしならば心配無用です!思いっきりお願いします!」
「う……ええいっ!」
静香は車椅子を掴み、全力で駆け出した。
弾むバストが頭に跳ね返ってくる感触よりも、振り落とされないよう腕に力を込めた。
そうしてなんとか職員室の前へ到着すると、改造した杭打ち機を構える男子生徒と、けたたましい電動ドリルの駆動音と共に〈奴ら〉の頭部を抉る女生徒の姿があった。
そして、サーシャたちが来た道とは別の方向から、野球のバットを持った男子生徒と、箒を折って改造した槍を持った女生徒がやって来た。
職員室前へ次々と生存者が集まってくる。サーシャは冴子と静香の他に生きた人間を見ることができて心に余裕ができるのを感じたが、なにも集まってくるのは生者だけではない。
数にして4体。おそらくさきほどの交戦の音に引き寄せられて来たのだろう。
サーシャたちに向かってきているのは、2体。
「片方は任せても?」
「感覚が麻痺してしまうな。相手が1体だと気が楽に思えてしまう」
サーシャは冴子に笑ってみせた。しかし、その表情は強張っていて、額には大粒の汗が浮かんでいる。
どれだけ〈奴ら〉を倒していたとしても、たとえそれが1体だけであったとしても、恐ろしくないはずがない。
それでも立ち向かおうとする冴子の姿に、サーシャは精一杯の強がりを張ってみせた。
冴子は、そんなサーシャの姿が、以前よりも頼もしく、そして美しく思えた。
内なる恐怖を抑え込み、その上で立ち向かおうとする人間の美しさだ。
その姿に、冴子はひどく自分が醜いものに思えた。
この状況に興奮し、〈奴ら〉を屠るたびに悦楽が増していく今の自分が。
だが、すぐさま頭の片隅に押し込んだ。
今は美しいか醜いかを考える時ではない。生きるか死ぬかで行動しなくてはならないのだから。
その時、〈奴ら〉の1体が仰向けに倒れる。額にはサーシャのナイフが深々と刺さっていた。投擲には向いていないサイズにもかかわらず、ここまで綺麗に当てることができるのか。
「……お見事!」
気分がみるみるうちに高揚していくのが分かった。
冴子は、もう1体の頭を割った。今までで最高の手ごたえだったと、腹の下あたりが熱くなるのを感じた。
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ーー同じ頃。
藤美学園がバイオハザードの恐怖に喘ぐなか、〈感染者〉の目を掻い潜りながら国道を走る男がいた。
濃いアッシュゴールドの頭髪をを2つに分け、レザーのジャケットとジーンズという格好の男は、道中で襲いかかってくる〈感染者〉はナイフで処理しながら、レオン・ケネディは藤美学園へ向け、足を急がせていた。
彼はとある任務で日本を訪れていた。
床主市の代議員である紫藤一郎が新型ウイルスの開発に関わっているという情報を掴んだため、その調査に派遣されてきたのだ。
しかしまさか、到着した翌朝にバイオハザードが発生するとは想定外だった。
急ぎ床主国際空港まで退去し、現地の警察官と合流。夕方には到着するであろう〈BSAA〉や〈テラセイブ〉と合流して、生存者の避難活動、及び〈感染者〉の掃討作戦に参加することを命じられたが、同僚であるハニガンから知らされたとある情報によって、レオンはまったく逆の進路を辿ることになる。
アレクサンドル・コザチェンコが、藤美学園という場所に取り残さた可能性がある。と聞かされたのだ。
彼は体が不自由だ。そして、その直接的な原因となったのは自分だ。
かつて東スラブで出会った時、サーシャとは敵同士だった。しかし、彼らの渦中にあった独立戦争の陰に潜む、大統領スベトラーナと対峙し、奇妙な縁で共に戦うことになった。
あれから、サーシャは銃を置き、再び教師としての道を選んだ。しかし、それからも彼はバイオテロと闘っていた。その脅威を教え、伝えるという彼なりの闘いを続けていたのだ。
レオンはサーシャの生存を信じていた。
こんなところで死ぬようなやつじゃない、という信頼があった。
だから、彼は
今度は、良くて免職かな、などと考えるが、友を見捨てるよりかは何倍もマシだった。
トンネルに差し掛かり、レオンは頭だけ覗き込み、内部を偵察する。
数は少ないが、それでもいた。
トンネルという空間に、〈感染者〉の呻き声は何倍もの音量となって響く。
かつてラクーンシティで目の当たりにした死者たちの協奏曲を思い出し、
「……泣けるぜ」
溜息混じりに、レオンはトンネルへの一歩を踏み出した。