がたん――と、バスの振動で目を覚ます。いつの間にか居眠りしていたようだ。
3月の末にしてはやけに冷える。バス内は暖房が効いていて、その影響で眠りを誘われたらしい。
寝ぼけ眼でバスの窓から外の景色を見ると、いつの間にかそこには海が広がっていた。波は穏やかで、深い蒼に染まっている。外気温は低かったが天気は良く、晴れているため、遠くの水平線まではっきりと分かった。普段は滅多に目にすることの無い景色に、遠くまで来たのだと実感させられる。
『次は
バスのアナウンスが目的のバス停に到着することを告げると、
運転手の停車のアナウンスを聞くと、少しばかり多めの荷物を棚から下ろし、減速で傾斜する車体にバランスをとりながら降車口に向かう。あらかじめ用意しておいた運賃丁度の小銭を運賃箱へ入れ、運転手にお礼を言ってバスを降りた。
スマートフォンの地図アプリで、現在地と目的地を確認する。目的の〈
(旅館、多いな……)
歩き出しながら心のなかで独りごつ。道を挟んで目の前に2軒建っており、道のなりの先にもそれらしき看板がいくつか見える。そして、これから向かう先も旅館だった。
目的地まではアプリが示したとおり、すぐに着いた。十千万と書かれた看板が見えるから間違いないはずだ。木造の建物に瓦屋と、十千万は和の古風な佇まいの旅館だった。入口付近に立つ松の木と玄関にかかる白い暖簾が、より一層に風情を醸し出している。なんとなく遠い記憶にある建物の気がしたが、単なるデジャヴだったかもしれない。
今日、およそ到着する時間も連絡してあるため、後は建物に入るだけではあったが、思わず躊躇ってしまう。その、旅館の赴きある佇まいが、また今日ここに来る目的が単なる宿泊でないということが、二の足を踏ませた。今日からここ十千万に住むことになるというのは微塵も想像ができなかった。
裏口の場所も聞いていなかったため、キョロキョロと周囲を気にしながら正面の玄関へと近づいていく。玄関から中の様子を伺ったが、人の姿は見えなかった。
このままずっと入口で立ち往生していても、完全に不審者なので、意を決して中に入る。
「すみません」
少し大きな声で呼びかける。すると、直ぐさま従業員と思われる女性が奥から出てきた。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。本日は……ご宿泊でしょうか?」
「えっと――」
旅行鞄に、おみやげの入った紙袋の手提げ。自分が完全に旅行者の出で立ちであったことを思い出した。少しいぶかしむニュアンスだったのは自分が男一人で、しかも子どもであったからだろう。
「私は、その、今日からお世話になる……」
「あら、悠士君かしら?」
するとまた、奥からもう一人エプロンをした女性が表れ、悠士に声をかけた。
「青井悠士君よね?こんにちは」
エプロンをした女性はその優しげな風貌と同じくらい柔らかな声で挨拶をした。
「私は長女の
「こんにちは。その…はじめまして、青井悠士です。よろしくお願いいたします」
「
高海志満と名乗った女性が先に表れた女性従業員に言う。
志満は雪駄を履くと、玄関から外へ出て悠士を手招きした。悠士は従業員に軽く一礼をして、外へ向かった彼女についていく。
「あっちはお客様用の入り口だから、今度からはこっちを使ってね」
「わ、分かりました。気をつけます」
「ごめんなさい。お母さんは今出かけていて、夜には帰るのだけど」
彼女の母、悠士にとっては伯母にあたる人には以前会ったことがあった。両親と共に住んでいたマンションに訪れた彼女の母親に、これから相談と、お世話になるお礼を述べたのを覚えている。彼女の母親は非常に小柄で、有り体に言えば伯母だとは、志満の母親だとはとても信じられなかった。
「悠士君は覚えていない?私のこと」
「えーっと……すみません……」
「良いのよ、小さかったものね。実を言うと、私もこの前送られた写真を見ていなかったら、分からなかったわ」
少しいたずらっぽく笑って志満は言った。
写真?そんなものを送っただろうか?いや、両親が勝手に送ったのだろうと悠士は察した。本人に許可なく勝手に写真を送られたのには少し腹が立ったが、実際のところ写真が無ければ少し困ったことになっていたのだから、その判断は正しかったのだろう。
「小さい頃にここに遊びに来たことがあると、母さんからは聞かされたんですが、正直全然覚えてなくて」
10年以上前、自分が小学校に上がる前の年齢の話らしい。しかしその当時の記憶は全く覚えていなかった。20代に見える彼女にも当時会っているはずだろうが、向こうも覚えていなかったようだ。
「無理もないわ。さっ、どうぞ」
「お、お邪魔します」
裏口から中へ入ると、座敷の居間へと案内された。高海家の人は普段こちらで過ごしているらしい。
「少し疲れたでしょう?そこにかけて、休んでいて。今お茶を入れるわね」
居間の真ん中には炬燵が鎮座していた。荷物を下ろし、その炬燵の隣に所在なさげに正座していると、志満がお凡にお茶、そしてみかんの入ったかごを乗せて戻ってきた。
「まだ炬燵は出したままなの。
「いえ、今日は寒いので、助かりました」
「電源入れていいわよ。ゆっくり暖まって」
「ありがとうございます」
「それで部屋のことなのだけど――」
と、そこで「志満さん」と呼ぶ声が聞こえた。彼女は「ちょっと待っていてね」と悠士に言うと、廊下に出た。志満を呼ぶ声はさっき望月さんと呼ばれていた従業員のものだった。
志満は2、3言葉を交わすと、部屋に戻ってきた。
「ごめんなさい、急に旅館の方に戻らなくちゃならなくなったの」
「気にしないでください」
「ゆっくりしていてね、終わったら悠士君の部屋に案内するから」
そう言うと志満は部屋を出ていった。
悠士は炬燵の電源を入れ、中に足を入れる。志満の持ってきてぐれた暖かいお茶をすすると、体がほかほかと暖まった。すると、一気に睡魔が襲ってきた。先ほどまでバスで居眠りしていたはずなのに。そう思って逆らおうとしたが、容赦なく瞼が重く下がってきて……炬燵に突っ伏して寝てしまった。
****
(しまった、熟睡した!)
眠りから覚めるのと同時に悠士はそう思った。まだぼやける意識の中「大丈夫ですか?」と小さな声が聞こえた。
「ごめんなさい、志満さん。俺、すっかり寝てしまって…」
無理矢理に頭を覚醒させつつ振り向くと、志満ではない、見知らぬ女の子がこちらを見ていた。くりっとした目と、幼さの残る面影が印象的な女の子だった。
「「あっ……」」
お互いに、顔を見合わせたままポカンとする。
そんな間抜けな状態から先に立ち直ったのは彼女の方だった。
「えーっと、志満ねえのお友達ですか?」
「いや、友達ではなくて……」
「あっ!彼氏さん!」
「えっ?彼氏?」
「ごめんなさい、見かけない方だったので驚いちゃって。志満ねぇはまだ旅館の方にいますよ」
「いや、俺は友達でも彼氏でもなくてですね」
「あれっ?じゃあ泥棒さん?」
「……」
次々と的外れなことを言う彼女に、悠士は次にどう答えるべきか分からなくなってしまった。
いや、どうして自分の家の炬燵でスヤスヤ眠る人を泥棒だとする結論になるのか。そして、もし自分を泥棒だと思っているのなら、何故彼女は自分の前で目を丸くして、ちょこんと首を傾げたまま、こちらからの返答を待っているのか。
「くっくっくっ……」
そんな圧し殺す笑い声が部屋の外から聞こえてきた。声のする方を見ると女性が部屋を覗いていた。
「あっ、美渡ねぇ、帰っていたの!?なに笑ってるのさ」
美渡ねぇと呼ばれた女性が部屋に入ってきた。彼女は相変わらずクスクスと笑いながら言う
「いや、だって、アンタおかしくってさぁ。泥棒さんだなんて……悠士君はすごい困ってるし」
「美渡ねぇ知り合いなの?」
「知り合いも何も、私達の
「えっ、従弟?」
千歌は驚きの声を上げた。相変わらず状況の飲み込めないていないであろう彼女の前に今度はもう一人の女性、志満がやってきた。
「もう……美渡ちゃんは千歌ちゃんと悠士君をからかわないの」
「あはは、ごめん、ごめん。悠士君もこんにちは。いきなり驚かせて悪いね」
悠士はようやく状況が飲み込めてきた。彼女達が母から聞かされていたこの高海家の三姉妹で、今こちらに挨拶をしたショートカットの利発そうな彼女が次女の美渡、あの落ち着いた女性が長女の志満。そして相変わらずその大きな目をぱちくりさせたまま状況が飲み込めずにいるらしい彼女が、
「えーっと、こんにちは。従弟の青井悠士です」
「ああっ、従弟の悠士君。思い出した!」
彼女はいそいそとこちらに向き直ってペコリと頭を下げ
「こんにちは、高海千歌です!」
三女の高海千歌、彼女は元気よく挨拶をしてくれた。
「その、泥棒とか言ってごめんね」
「気にしないで、お互い初対面みたいなものだから」
「けど、志満ねぇも美渡ねぇも酷いよね、私に何にも教えてくれないからびっくりしたじゃん!ところで悠士君、今日は一人で旅行なの?」
「えっ……」
千歌の何気ない発言に悠士は驚いて姉二人の方を見る。しかし、志満と美渡の2人も驚いた様子でお互いに、視線を交わしていた。
「あれっ?志満ねぇ、千歌に言ってなかったの?」
「あらら?美渡ちゃんが伝えてくれたって聞いたから…」
2人の発言に悠士は空いた口が塞がらなかった。まさか、高海姉妹全員の了承は得られていないとは。いや、またからかわれている?
いや、まさか。本当に伝わってない……?
恐る恐る振り替えると千歌はいつの間にか炬燵に座り、卓上のみかんに手を伸ばしていたところであった。
千歌はきょとんとして言った。
「皆どうしたの?」
「あの……ね、千歌ちゃん。悠士君は今日からうちで生活することになっているの」
志満が気まずそうにそう告げた。
千歌はその手に持っていたみかんをぽろりと落とし――
「ええぇー!?」
千歌の驚いた声が部屋に響き渡った。
****
悠士の両親の海外への転勤が決まったのは12月の末、クリスマス前の頃だ。自分は海外に行くのが嫌で日本に一人暮らしするつもりでいたが、両親はそれに反対した。
そんな時、たまたま仕事の都合で家に寄った母の姉―― 千歌達の母親からうちで預かると提案があった。両親と千歌の母の相談の結果、悠士は高海家に下宿することとなり、高校生一年生の春休みの終わりに、こうして十千万まで訪れることとなった。
****
「ここが悠士君の部屋だって」
千歌が部屋まで案内してくれた。
部屋は畳の和室で、7畳程度だろうか。机と簡易な衣装卦けが既に準備されていた。ここがしばらくのあいだ自室となる。
「何にもなくてごめんね」
「いや、これだけあれば充分だよ。ありがとう、高海さん」
「「……」」
部屋に、何となく気まずい空気が漂う。千歌も悠士の存在は知っていたようだが、親戚とはいえ、いきなり初対面の男が同じ家に住むことになったのだ、彼女からしたらいい迷惑だろう。
自分も同い年の高校生がいると聞いてはいたが、下宿について知らされていないことは想定していなかった。親戚なのだからあまり気にすることは無いと考えたが、むしろ初対面の親戚というのが距離感を掴みかねていた。
「空調はエアコンを使ってって。つくかな?」
千歌は思い出した様に言い、壁にかかったリモコンに向かった。悠士も部屋に入り、隅に荷物を置く。
「あれっ、電源入らないや。電池が無いのかな。私、買ってくるね!」
「いや、高海さん、俺が……」
買ってくるよと、いい終える前に千歌は既に部屋を出ていってしまった。
一人残された部屋で、千歌との何となく噛み合わないやりとりにこの先のことを考えて少し不安になった。
少し物思いにふけっていたが、はっと、悠士は自分のポケットの財布とスマホを確認した。お世話になる以上、自分のことは自分でやらなければ。
悠士は急いで部屋を出た。
千歌は玄関で靴を履いているところだった。
「高海さん。自分で行くよ」
悠士はずいぶんと小さく見える背中に声をかけた。
「そう?でもお店の場所わかる?」
「えーっと。スマホで調べればなんとか」
「でも……」と言いよどむ彼女に「どこか出掛けるの?」と声をかけてきたのは志満だった。
「電池を買いにコンビニまで。悠士君の部屋のエアコンのリモコンの電池切れていて」
「なら、お願いがあるの。ついでに牛乳買ってきて頂戴。はい、お金。余った分で好きなもの買っていいわよ」
志満からお金を受け取り、「わーい」と子供の様に喜ぶ千歌を尻目に悠士は言う。
「俺が行ってきます。自分のことなのに、悪いですし」
「なら二人で行ってきたらどう?」
志満が言った。
「悠士君にこの辺のこと少しは案内できるでしょう?」
「じゃあ一緒に行こっか」
返答に困っている悠士に、千歌は言った。悠士も頷き、二人で外へ出る。
外はいくらか日が暮れてきていた。「コンビニまで5分くらいかな」と先に案内する千歌に続く。
十千万の前の道路は自動車の通りはあまり多く無く、人通りも少なかった。道中で千歌は、「ここは旅館と食事処で、向こうにもバス停があるんだよ。あっちは……」と色々と教えてくれた。
「この辺はコンビニも少なくて」
千歌は決まり悪そうに言った。
「沼津の市街に出れば結構お店はあるよ、ここへ来る途中に見てきた?」
「いや、今日は長岡の駅からバスで来た」
「そうなんだ。長岡の方にもお店はあるんだけど、悠士君が暮らしいてたところと比べると全然でしょ?」
「そんなことは……。まぁ、少ないとは感じるかな」
悠士は率直な感想を述べた。
そうこうしているうちに目的のコンビニに到着した。
「そうだ!あそこ!」
千歌はそう言って、道の先の看板をピッと指差した。
「お菓子屋さんなんだ。ケーキとか和菓子とか売ってて、中で食べることも出来るよ」
遠くから見たそのお菓子屋さんは素朴な外観で入りづらさは感じなかった。今も駐車場に自動車が数台駐車してあり人気があるようだ。
「せっかくだから買って帰ろうか!…でも志満ねぇからのもらったお金だけじゃ予算不足かも……」
むむむ、と千歌は財布の中身を確認して唸っている。
「ケーキじゃないけど、途中でお土産にお菓子を買ってきたんだ。てんりん家のバームクーヘン」
「本当!?」
「うん、評判は良いから、多分おいしいと思う」
千歌は「やったあ!」とニコニコしながら本当に喜んでいるように見えた。甘いもの好きなのだろうか?口に合うかは不安だけれども、目の前でこんなに喜んでもらえるなら、持ってきた甲斐があったと思った。
コンビニで電池と牛乳、そして余った金額で千歌はみかんゼリー、悠士は缶コーヒーを買ってもらい、 店の外に出た。
ここに来るまでの数十分程度で日はいっそう傾き、辺りは夕陽に照らされていた。
「わぁ……」
夕陽がきらめく海を見て思わず声をもらす。今まで住んでいた場所では目に出来なかった光景に悠士は釘付けになる。
「ふふふ、綺麗でしょ?そうだ、せっかくだから」
千歌はそう言うと悠士の腕を掴んで走り出す。
慌ててコンビニの袋を落とさないように必死についていった。
千歌がつれてきたのは十千万すぐ目の前にある海岸だった。三津海水浴場と言うらしい。
「こっちのが、もっと近くで海を見られるかなって」
海水浴場の砂浜からは内浦の海と景色か一望できた。波はとても穏やかで、オレンジ色の夕陽が淡く反射している。昼間にバスの窓から見た鮮やかな海ではなく――また別の景色。日暮によって、海の色は鮮やかさではなく、深く暗い蒼へと変化していたが、夜の海の様な冷たさや怖さといったものはまったく感じなかった。
「暖かなオレンジ色が本当にきれいだ」
悠士は感想を述べる。
「本当だね。でも入っちゃだめだよ。水は冷たいから、風邪引いちゃうから」
「入らないって」
千歌はいたずらっぽく微笑む。悠士もつられて笑ってしまった。
「右に見える島が淡島って言って、友達が住んでるんだ。あと、左に出てる岬。あの上に見える建物が浦の星女学院。私が通っている高校だよ」
そう言って千歌が示した先には確かに白い建物があった。
「へぇ、良い場所にあるね。良い景色が見えそう」
「うん。でもね…その代償として通学路の坂は結構大変」
彼女はわざとらしく大袈裟にため息をつき――また二人で笑った。
「あのさ、悠士君」
千歌はおずおずと切り出す
「名前――千歌でいいよ。高海さんだと何だか他人みたい。それに家じゃ全員が高海さんだよ?」
「あっ!そう……だった」
彼女に言われて初めて名字で呼んでいることに気がついた。
「えっと、じゃあ。千歌さん?」
「同い年だよ?」
「えーっと、千歌ちゃん」
「うむ、よろしい。これから一緒に住む家族だから。遠慮とかしないこと、ね?」
「家族か。そうだよね、ありがとう」
悠士は千歌が家族と呼んでくれたことに胸が暖かくなる。彼女は初めから歓迎してくれていた。どうやら自分が一方的に遠慮していただけだと思った。
すると千歌は悠士に向かって手を差し出した。
「これからよろしくね、悠士君」
「こちらこそ、改めてよろしく」
その手を握り返し、握手をする。
「けど、今日は夕陽がほんとに良く見えて綺麗…」
千歌は海を見て言う。微笑んだ彼女の髪をやわらかな海風がそっと揺らした。
「――うん、綺麗だ」
悠士も思わず見とれて、声を漏らす。
「そろそろ帰ろうか」
振り向いて千歌は言った。
「あんまり遅いとお姉ちゃん達に怒られるし。悠士君が来たから今日の晩御飯はちょっと豪華かなぁ」
「う、うん!そうだね」
悠士は慌てて頷く。
千歌は何処かで聞いたことのある鼻歌を歌いながら家路につく。どうやら気付かれていないようで、悠士はほっと胸を撫で下ろす。
(――うん、綺麗だ)
そう呟いた悠士の瞳に映っていたのは、千歌の言う景色ではなく、夕陽にきらめく彼女の横顔だった。
初投稿作品になります。
つたない部分が多々あると思いますが、よろしくお願いします。