サン=サーラ...   作:ドラケン

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再演 南北天戦争 Ⅱ

 大空を穏やかに吹き抜ける天風。香しい花の香りを孕む風を身に受けつつ、花霞により朧に霞む中枢島『ゼフェリオン・リファ』を対岸に望む。

 そこに感じる強大無比なジルオルの気配と、ちっぽけな抗体兵器にノル・マーターのオリジナル機の気配。あれを壊せば、少なくとももう敵戦力が増える事はない。

 

――さて、状況掌握といくか。待ち受けるジルオルと第五位【黎明】。聞いた話ではナルカナにより産み出されて与えられた永遠神剣、暁の【暁天】も同じらしい。そもそも、奴は『()()()()()()()()()()()』らしいが。

 何より厄介なのが『浄戒(じょうかい)』だ。理不尽なモノならば物の数じゃねぇが……イャガの前例がある通り、俺は『()()()()』意味の攻撃には弱い。

 

 ふと、焦躁にも似た疑念を抱く。剣銃身(バレル)部分に三重冠のハイロゥが配置され、それぞれが逆方向に緩やかに回転。穏やかな神風を生んでその風を繭の如く纏って、時折透明化してすら見える【真如】を番えたまま、左の親指を眉間に当てて思考するも……舞い散る粉雪を掴もうとするように、もどかしく掴めない。

 

――『兇屍(リビングデッド)』の俺に、神を縛る『戒めを浄する』何て言う聖句みたいな効果がどう出るかなんて食らわなきゃ分からない。勿論、そんな百害あって一利無しなギャンブルをするつもりもない。

 

 足を止めて仁王立ちし、一服。単分子ワイヤー内蔵のオイルタンクライターで煙草に火を点す。

 紫煙を燻らせながら見下ろす時間樹の幹、遥かに沈み行く雲海の底には南北天戦争の舞台であった『根源回廊』が在るだろう。

 

――あそこで、俺は奴に負けた。負けて、死んだ。そして今……もう一度挑む機会を得たわけだ。

 ただし、有利な事は何もない。ジルオルの実力と今の俺の実力は()()、『強者殺し(ジャイアントキリング)』の俺が、唯一苦手な相手だ。

 

 そんな弱気を起こしもしよう、それ程の相手だ――破壊と殺戮の神ジルオル=セドカは。

 

「ハ――まぁ、同じ相手に二度も負けるつもりはねぇがな」

 

 フィルターのみとなった吸い殻を、浮き島の外へと弾き飛ばす。ここから見えようもない根源回廊に向けて、吸い殻は紅い螺旋状の軌跡を残しながららっかしていき落下していき……やがて見えなくなった。

 神世の古に、最強と呼ばれた神性。その苛烈さは、今も最も恐ろしい記憶として遺伝子に刻まれている。

 

「――フッ、ハ――」

 

 思わず、乾いた笑いすら仕抉(しくじ)る。膝が笑い、心臓が拍動を出鱈目に刻み――

 

【――大丈夫です、兄さま……兄さまは絶対に負けません】

(――アイ……)

 

 左手に握る、瑠璃の波紋が広がり続ける宝石の鞘刃に装填された永遠神銃(ヴァジュラ)【真如】。レバーアクションの用心鉄を握り締める拳から、余計な力を抜く。

 

(……悪い。何をナーバスになってんだろうな……俺らしくもない)

 

 そんな無明常夜に響く、月影の注ぐ滄い海を思わせる安寧。遥か劫初に喪われた、生命を産み出した海原(オケアノス)の潮騒。

 

――神世の古に、写しの世界……そうだ、俺はお前に挑む度に敗北を喫してきた。

 

 その雪辱と息巻く事はない。敗けは敗けだ、今更それを揺るがす事は出来ないし、しようとも思わない。

 

――だが、これが終わりなんだと分かってる。そして、始まりである事も。

 まぁ、何だ。つまり『()()()()()()()』とする俺は……裏を返せば『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』って訳で。

 

「ハハ――」

 

 それに気付いた時、思わず失笑した。目前に迫る破壊神との闘いに対してではなく――自分自身が手に入れた『永遠』という、あまりに空虚な存在意義に。

 

「――迷う事なんてない。やってやるさ、そもそも風は立ち止まらないし……何も残さない。ただ独りだけでも、不実の虚無でも、駆け抜けてやる」

 

 その虚無感を、不撓不屈の『壱志(イジ)』にて克服する。空いている右の拳をきつく握り締めて、己を叱咤するべく声に出して。

 

「……うん、大丈夫。お兄ちゃんなら、絶対に勝てるよ」

「――ユーフィー……」

 

 歴戦の刀剣の如く傷だらけの、青年の刃金の拳を柔らかく温かな少女の掌が優しく包む。さながら、『鞘』の如く。

 目を向ければ、陽光の注ぐ蒼穹を思わせる長い髪と澄んだ瞳。その空を流れる、自由な雲を思わせる白い羽根。幼い姿ではなく、同年代くらいの成長した姿の彼女は、本心から祈りを捧げるように穏やかに微笑む。

 苦笑して、握り締めていた拳を解く。そして少女の頭に掌を載せると――

 

「――って、何で居るんだお前は! 強制力はどうした!」

「はぅぅ~~っ! どうしたって、いつのまにかこの姿なってたから普通に付いて来ただけなのに~~!」

「『普通に』ってお前な……それが出来ないから『強制力』って言うんだよ!」

 

 【真如】を肩に担いで、両手で思いっきり羽根を握り締めた。またも弱点の羽根を締め上げられて、ユーフォリアは涙目でアキを睨み上げる。

 

――だから、何でコイツには『透禍(スルー)』とか『強制力(ギアス)』が効かねぇんだよ……地味に凹むっつーの。

 

「むぅ~……せっかく、励ましてあげたのに」

「頼んでねぇよ、超が付く程に大きなお世話だっての」

 

 不服そうにぷくーっと頬を膨らませ、腰のウェストポーチから取り出した櫛で乱れた羽根を梳る。

 溜め息を落として、そんな少女を見遣る。見る度に思う事だが、幼い時から目を見張るような美質を持つ彼女は、少女期に在って既に一枚の絵画のようだ。

 

「それに……お前には悪いけど、よくよく考えたらまた俺の敗けだろうぜ」

「え――?」

 

 一瞬高鳴った鼓動を誤魔化すように紡がれた言葉に、ユーフォリアはキョトンと元々から円らな目を真ん丸にして、櫛をバックに戻す。

 

「そ、そんな事無いよっ! お兄ちゃんは……絶対に勝つもん!」

「当たり前だろ、勝つさ……けどな、俺は()()()()()()()()()()()のさ」

「……ほえ? どういうこと?」

 

 意味が分からず、訝しむように見る彼女にお手上げのポーズを見せる。さいごに、愛らしく『むむ~~』と悩んでいるユーフォリアの丸っこい頭を撫でてやれば――髪を乱される事を嫌がりつつ、『ふにゃ~~』と破顔する様を間近で見せられた。

 

『あたし、あっくんのことだいすき~~!』

 

 その時、ふと感じた衝動。幼い頃の大事な記憶を思い出したような感動にこのまま、攫ってしまいたくなるような……そんな衝動だった。

 無論、刹那に消えた感傷。堪えた後に、見掛け上は歳上としての威厳を示す。

 

「……っと、兎に角お前はここで待ってろ。さっさとあの野郎を打ちのめして連れてくるからよ」

「やだっ、あたしも行くもん」

 

 そのタイムラグたるや、実に零秒。ツーと言えばカーと答えるように、身長差から見下ろす具合で紡がれたアキの言葉に、これまた身長差から見上げる具合で即答したユーフォリア。

 

「我が儘言ってんじゃねぇよ、男の勝負に口を挟むな!」

「やだやだ、や~だ~っ! 行くったら行くったらイクの~~~~!

「コラッ! 女の子が何て事言うんだ、コラッ!」

 

 互いに『(怒)』マークを浮かべて、鼻を突き合わせて恫喝しあう。さながら、喧嘩友達とでも言うように。気の置けない幼馴染みのように。

 

――そんな間柄が、実に心安らぐんだ。最初、俺はコイツを、太陽を見詰めながら咲く向日葵のようだ思ったけど……その実、コイツ自身が太陽だったのだろう。

 だから……時々。月影しか見た事の無い泥亀の俺には……眩し過ぎて、ちと辛い。

 

 だから青年は、右手をアオザイのクワンのポケットに突っ込み、左手で跳ねっ毛の金髪を掻いて。

 

「……なぁ、ユーフィー。少し前に約束した『カオスに行く』って話だけど……あれ、キャンセルな」

「えっ……? お、お兄ちゃんごめんなさい、ごめんなさいっ! もうわがまま言わないから……何でもするから……だからぁ……」

 

 一頻りポカンとした後にいきなりしおらしくなり、うるうると瞳を濡らして……祈るように指を重ねて口にした少女。

 その仕草に何か、心の奥底からこみ上げてくるようなものが有り、思わず真正面から抱き締める。そして真っ赤になった耳朶に、寄せた唇で囁き掛けた。

 

「――ふぁう……あの、その……」

「勘違いすんなよ……俺は一度した約束は破らない。必ず、お前の……お前の手は、この俺が引く……」

 

 ギュッと、彼女を抱く両腕に力を籠める。これから受ける痛みを耐え抜く為の、鎮痛剤(モルヒネ)のようだ。

 優しく後頭部を撫で摩り、蒼穹色の長い髪の滑らかな、ひんやりとした感触を愉しむ。それはまるで、愛を囁くように。脳髄に響く重厚なバリトンの声に少女はふるりと、恍惚に身を震わせる。

 

――ああ、そうさ……『妹』だとか何とか、誤魔化すのはもういいだろ。流石にこれ以上は、無粋ってもんだ。

 本当は、気付いてた。ああ、そうだ、俺は――――……

 

「お兄ちゃん……」

「……ん?」

 

 間近で見詰め上げる蒼穹の瞳を見詰め返す、深く濁った琥珀色の龍瞳。幻想種の頂点に立つと言う龍種、その濫觴である輪廻龍(ウロボロス)の眼差しは、深層心理の具現たる守護神獣に二頭の龍を産み出したユーフォリアには、抗いがたいのかもしれない。

 縫い付けられたように目を逸らさないまま、彼女は小さく息を呑む。自らを抱き竦める男の屈強さ、浅黒く靭やかな龍鱗を思わせる肌に硝煙と焼けた刃金の香り。

 

「あの、あたし……えっと、あの、あの」

「ああ…………ハハ、皆まで言うな。今すぐ答えなくていい、後で聞かせて貰うさ」

 

 弱いからこそ、強くあろうと足掻き続けるその在り方。最良ではあるが最弱の永遠神剣・空位【真如】を担い、力や数など、己を凌駕する敵にこそ撃ち克ってきたこの男。

 迷いや苦しみすらも『是』とし、【真如(いのち)】の代償にその魂すらも【無明()】と換えて。

 

「けど、覚悟はしとけよ? 俺は風、嫌いなモンは吹き飛ばし、好きなモンは吹き拐う……嫌がられてでもな」

 

 対にして同一たる二振りの神剣を宿すその存在は正しく『刃』そのもの。『色即是空 空即是色』、一つの体に『生死』という矛盾を体現した覚者。

 自身の選んだ道を迷いながらでも貫き続ける彼女の父親『聖賢者(ヒーロー)』と全く同じ道を歩みながらも、その対極に在る者。この男は――――『惡ノ華(ヒール)』であった。

 

「この『(やいば)』が――『天つ風のアキ』が、な」

 

 己の名を名乗ろうとして、ふと口を衝いた『刃』の単語を訂正しながら……そう、場の空気を(ほだ)すようにお道化(どけ)て抱擁を解いてゼフェリオン・リファに向かって歩き出した。

 

「うん……一緒に、居たい。あたしも……『悠久のユーフォリア』も、お兄ちゃんと……アキさんと、ずっと……」

「…………ユーフィー」

 

 その背中に、ぽふっとユーフォリアは抱き付いた。抱き付いて、巌の如き背中に顔を埋めながら、恥じ入るようにぽつりぽつりと呟いた。

 胸元で重なる小さな掌に、武骨な掌が被さる。生まれて初めて味わう、充たされたその気持ちを伝えたくて。

 

「……有り難う。御免な、愛してる」

「――う、うにゅうぅ~~~~……」

 

 そんな、彼女を真っ赤に変えてしまうような意地悪を口にしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 青い巨石の積み上げられた中枢部。物理的にログ領域へと到る唯一の門であり、時間樹の幹でもある『理想幹』で最も初期に存在し……神代の争乱『南北天戦争』の舞台である時間樹エト=カ=リファの発祥。この時間樹の種子・根元にあたる『根源区域』の風景を垣間見る場所。

 天空から奈落までを貫いている幹の真中に在る僅かな足場。そこに、現世に帰還を果たした破壊神は立ち尽くしていた。

 

「…………」

 

 二刀一対の双児剣である永遠神剣第五位【黎明】を石畳に突き立て、瞑想するかのように……傷の一つも負う事無く、抗体兵器やノル=マーターの残骸の海の只中に。

 

 その両脇に一列で整然と列ぶ石棺(たんまつ)には、増殖の為に精霊回廊へと繋がれた抗体兵器とノル=マーター。

 それらはジルオル=セドカの放つ圧倒的な神気に()てられて、既に彼の支配に下っている。

 

 そして今、練り上げられた万物の源たるマナが次第に(カタチ)を結び……新たな機体を造り出した。

 

「――ハァァァッ!」

 

 その瞬間、ジルオルは振り向き様に右左の順で【黎明】を引き抜くと――裂帛の気合いと共に、二閃させる。

 斬り下ろしの初太刀に、斬り上げの二の太刀を……本来は敵に見舞う『デュアルエッジ』。双刃は何も無い空間を薙ぎ払って、不可視にして無音の銃弾を打ち砕く。

 圧倒的な二ツのチカラの鬩ぎ合いに、先に空間が金斬音を上げる。その空間の歪みから生じた衝撃波だけで、ノル=マーターの数機が圧潰した。

 

「流石、と言いたいところだけど――大の男がお人形遊びか。良い御趣味だな、ジルオル=セドカ?」

 

 それを成したのはやはり転送装置を利用せずに現れたアキ。暗殺拳銃(デファイアント=デリンジャー)【烏有】から空薬莢を排して二発の神銃弾(マグナム)を装填すれば、波紋を刻みつつ透徹城内に収蔵。徒手となった両手を組んだ。

 体躯に纏うはいつも通り黛藍色の、拳から前腕までを覆うダラバのモノに良く似た蛇腹状の篭手と……カティマのモノに似た鋭角な脚甲のみ。

 

「一体、誰かと思えば……随分と懐かしいな、クォジェ=クラギ……傍らの小娘は知らんが」

「望さん……わぷっ」

 

 目を上げたジルオルが睨みつける先には、黒いアオザイ風の戦装束の彼と共に現れたユーフォリア。破壊神の向ける温度の無い眼差しに望とジルオルの違いをまざまざと見せ付けられ、彼女はショックを隠しきれないようだった。

 そんな彼女の頭にぽすんと右掌を乗せると……少し乱暴なくらいに、わしわしっと掻き混ぜる。

 

「多寡が神様をシバき廻すだけだ――直ぐに終わらせる、ちょっと待ってろ」

「……うん……」

「言ってくれるではないか、蕃神風情が……よかろう、今度も我が剣の錆としてくれる」

 

 しおらしく俯き加減に頬を染めて、上位永遠神剣第三位【悠久】を抱き締めたままにちらちらと上目遣いで見上げて来る。

 その表情の可愛らしさたるや、もうロリコンの謗りを受けた所で構わないと思える程だった。

 

「無理だな。なんせ今回、勝利の女神が付いてるのは俺の方だ」

「……『勝利の女神』、だと? ハ、その小娘がか。下らん、我が『浄戒』は神を屠る神名――相手が勝利の女神であろうと調和の女神であろうと、運命の女神であろうと……全てを殺し尽くすのみ」

 

 不愉快げに眉根を寄せたジルオルが、【黎明】を構えて宣言する。だが、そんなどうでもいいモノは最早……視界にすらも入らない。

 "多幸感(ユーフォリア)"とは良く言ったモノだ、信頼に満ち溢れたその瞳と、丸っこい頭に触れた掌を透して……じわりと、渇ききった伽藍洞の自身に幸福な気分が染み入ってくる。

 

――さて、充填はもう充分だな……面倒臭ぇけど、始めるとするか。

 

 半身から引き裂かれるように視線を、掌を離す。気分はさながら……敵を殺す為に、"鞘"から抜かれた"刃"のようだ。

 その主の決意に応えるかのように、虚空に刻まれた透徹城に繋がる波紋の門から銃床が迫り出す。

 

「やるからには、手は抜かねぇ……()る気で来い、こっちも殺りに徃く……!」

 

 引き抜かれた彼の永遠神銃【是我】、その三重冠のハイロゥが高速回転――螺旋の渦を描くエーテルの刃を纏う、永遠神剣空位【真如】を振り翳す。

 

【はい……全てを薙ぎ払ってご覧にいれます。今の私は……】

 

 その時、流れ込んだアイオネアの意志。媛君の静かな怒気に呼応し、ハイロゥの回転が更に高速化。暴走するかのように勢いを増していき、軋みを上げ――――やがて臨界を迎えて、幾重にも乱気流を巻き起こしながら竜巻を纏う。

 マナ結合を、いや……あらゆる事象事物が成り立つ『(よすが)』を断ち切る真空[エーテル]の、淡く青藍に煌めく無形の刃が全てを……万物が始まる以前にそうであり、且つ終わった以後にそうなるモノ……小賢しい言葉などでは到底表現出来ぬ『何か』へと、存在事項の一片すらも許さずに還していく。

 

【――今の私は、第一位永遠神剣すらも凌駕しますから……!】

 

 それは彼女の神銘が示す通りに、『万物の本体としての宇宙万有に遍く存在する永久不変・絶対不易の真理』。

 横一閃の烈風により斬り開かれた黄泉路(すいへいせん)はジルオルに先駆けてアキを狙った、新たに造された機体、母胎となる機体、石棺を纏めて"未定義"の『空海』へ呑み込んだ。

 

 それは『戦闘』と呼べるような上等なモノ等ではなく、ただの『清掃』。

 風は誇り高き血斗場(いくさば)に存在するには不相応な有象無象を薙ぎ払い、血斗者(おとこ)二人と立逢人の少女を残すのみ。

 

「始めるか、終わりを……な」

 

 スピンローディングにより空薬莢を排し、新たな銃弾を装填された永遠神銃。

 その夜明け前の空と同じ色をした瑠璃(ラピス=ラズリ)の宝石剣を向けて、この神剣宇宙で最速たるエターナルは宣告した。

 

 

………………

…………

……

 

 

 鬩ぎ合う剣閃は文字通りに閃光。白く焼け付く灼光を纏う双児剣を振るう苛烈な攻め手はジルオル、滄く淡い燐光を棚引かせる剣銃を振るう流麗な守り手はアキ。

 一刀流のアキに対してジルオルは二刀流のアドバンテージを最大限に活かし、片方を受け止めさせてもう片方で急所を断ちに掛かる。

 

「――ハァァッ!」

 

 速く、今の剣閃が防がれるのならもっと速く。多く、今の一太刀が防がれるのならば…もっと多く。止まる事を知らぬ豪雨を思わせる、間断無きその斬戟。

 本来、両手を用いる一刀流に威力も速度も及ぶべくも無い二刀流。だが、その手数と神故の常識無視の膂力こそが『破壊と殺戮の神』として、彼を高みへと押し上げた神髄だ。

 

「――ッ、ふッ! ハァッ!」

 

 だが、"天つ空風のアキ"はそれを流れる雲か水の如く、淀みの無い剣撃で造作も無く捌き斬る。元来、速度に於いて彼は"最速"。何の追随も許さない。

 ただ、『空位(ふじつ)』である為に永遠神剣が担い手に与えるべき身体強化を得られず、"零"の特性『透禍(スルー)』で『聖なる神名(オリハルコン=ネーム)』の祝福(のろい)も刻まれぬ空位の担い手には、"永遠神剣"と"聖なる神名"の両方の補助を得る破壊神の力は手が痺れる程に厄介なモノ。

 

 だが、チャクラムの如く鋭利に回転するハイロゥ。もしも斬撃が命中すれば『斬る』と全く同時に骨肉を『刔る』事で致命を絶命に変える効果を発揮するだろうその円刃が巻き起こす風を、波紋の刃の峰側へ向けてのみ噴出する事で加速を得て、神の膂力に対抗している。

 

 至近より突き出された右手の一刀『オーバードライブ』を舌打ちしながら、スウェーで避けた――と見せ掛けて。【真如】を双刃剣のように使い、『北天星の太刀』を思わせる技を持ってジルオルの顎を楔型をした銃床で殴り上げようとする。

 それをもう片方の【黎明】で受け止め距離を取ろうとしたジルオルに向けて――上段から、勢い良く振り下ろす『南天星の剣』。

 

 それを、予め予想していたとでもいうのか。ジルオルは【黎明】を一本の大剣と変え、速さと手数を棄てて威力を得る。

 繰り出された下段から刷り上げる剣戟は――彼の代名詞である技、全ての神が恐れた『浄戒』の一戟『ネームブレイカー』。

 

「――ッ!」

 

 大気が鳴動する程に強大な破壊力のぶつかり合いに……歯噛みをしたジルオル。【黎明】を引き、離脱しようとして――高速で回転するハイロゥに搦め捕られた己の剣にそれを阻まれた。

 鍔競り合いながら、押す事も引く事も出来ずに睨み合う。

 

「見誤ったぞ……成る程な、それは『刀剣砕き(ソードブレイカー)』として使うモノだったか……!」

「御明察、少しばかり――気付くのが遅過ぎたけどなッ!」

 

 【黎明】を分離して脱出を試みたジルオルに先んじ、拘束する為に大剣の柄に巻き付いた永遠神銃の銃床に繋がったままのショルダースリング。

 それに気を取られてしまったのがまずかった、敵から視線を反らしてしまった事にジルオルが気付くと同時に――強烈な引きと共に、その端正な顔にアキの右拳による『裂空掌破』が減り込む。

 

「ッ貴様……!」

 

 殴り飛ばされ、しかし【黎明】を手放さないジルオル。反撃の為に拘束するアキごと【黎明】を思い切り引き寄せ、クロスカウンターの『オーラフォトンブレード』を繰り出そうとして――

 

「ッらァァァァッ!」

「クッ!?!」

 

 それを予想していたアキに、もう一撃を……破壊神の膂力を利用して、突き出したまま左拳に握られた剣銃【真如】のトリガーガードをメリケンサックの替わりに使った『崩山槍拳』を直撃され、更には一歩深く踏み込まれて零距離で拳を振り抜く『無体』まで受ける事となった。

 流石に堪え切れず殴り飛ばされて、辛うじて踏み止まった破壊神。ゆっくりと顔を上げて、口許から流れ出た血を拭い憎々しげに睨むジルオルの目に映るのは――地面に突き立てられた二本の永遠神剣【黎明】と【真如】。

 

「さあ、来いよ。こっからは互いに一対一(ガチンコ)と行こうぜ。それとも……神剣無しじゃ、怖くて喧嘩も出来ないか、坊や?」

 

 そして、無造作に……しかし隙無く右手を腰の後ろに当てて左の掌を天に向けた状態で前に突き出し、四本の指をクイクイと動かして挑発してのけたアキの姿だった。

 

「図に乗るな、蕃神がァァッ!」

 

 受けた恥辱に、激昂して吠えた破壊神。それを澄まし顔で迎えるエターナル。

 繰り広げられる、拳同士の戦い。他の要因など紛れ込みようの無い、持ち主自身の実力の競い合い。

 

 それを圧倒しているのは……掌底で受け流し、肘打ちで守りを砕き、後回し蹴りを腹に決めたアキ。

 

 原始的で『本能』に任せたままのジルオルとは違って、彼は『人』が連綿と重ねてきた拳法(れきし)……大怪我をした時を除いて、この旅の始まりから欠かす事無く鍛練し、実戦にて磨き上げてきたその『技術』を駆使する事で、『神』すら圧倒している。

 

「……っ」

 

 それを見守りながら、苦しげに歯を喰い縛ったユーフォリア。

 アキが負けるとは思っていない、ただ……あの"家族想い"の青年が、家族と戦っている事が……"家族"を護ろうと研鑽してきた技を、その"家族"に使わなければならない彼が……哀しくて仕様が無かった。

 

「不利なのはお兄ちゃんの方……望さんに癒えない傷を負わせる訳にも、まして……『透禍』の銃弾を使う訳にもいかない……」

 

 彼女が思い返すのは、この中枢島『ゼフェリオン=リファ』に到る空路で彼が呟いた言葉。風を斬り徃く青年の背を【悠久】に乗って、追い掛けていた際の事。

 彼の携える宝石剣は霊魂まで斬り裂くダマスカスブレード。加えて『銃弾』では加減する事が出来ず、生命自体を終わらせてしまう。

 

 『じゃあ、どうする気なの?』と尋ねた彼女に鷹龍の(つばさ)のウィングハイロゥで飛翔する彼は、心底面倒臭そうに『俺の技は、一撃必殺が信条だからな』と。

 自慢とも卑下とも取れる前置きをしてから、頭を掻いて……。

 

『要するに……殺すより生かす方がずっと難しいって事だよ』

 

 到底、生命を奪う事に特化した暗殺者(アサシン)らしからぬ言葉を呟いた。

 

 瞬間、風洞の世界に響く破砕音。ジルオルの『浄戒』が籠められた拳が、石箱を粉砕したのだ。

 技術と速度では神たるジルオルを圧倒したアキだが、威力では神名持ちのジルオルに大きく分がある。まともな一撃を受ければ、それだけで勝負が決しかねない。

 

 さりとて……例え投石と砲撃の違いが在れども、当たらなければ意味が無い。その拳打を躱して、反転しながら繰り出した拳がジルオルの鳩尾に刔り込まれた。

 威力は低けれども、確かに波紋を刻む一撃が。そして――波紋は幾つも重なり、海洋すらも動かす大波となる。

 

「……カハッ……!」

「――どうした、こんなモンか! テメェが"家族"よりも頼りにしたのはこんなしょうもねぇ力かよ、望!」

 

 遂に片膝を突かされたジルオル。荒い息を吐き、俯いた神に向けて彼は。

 

「ハ、これだから与えられた力で粋がる奴は骨が無ぇぜ……テメェは結局、永遠神剣と神名が無きゃあその程度なんだよ!」

 

 そう、叫ぶ。ありったけの嘲笑と侮蔑を籠めて――『諦めた』男をそう嘲る。

 ジルオルは、それを己が事として受け止めて。

 

「……そうだとも。何の意味も無く根源で消えようとしていた我は、セフィリカとナルカナに救われた小さな存在だ。だからこそ生きる意味が欲しかった。この世界に、生きる意味を……探したかった」

 

 独白するように、呟く。彼の存在する……いや、『した』理由を。"或る高次元の存在"により、この時間樹エト=カ=リファの創世に使用されて……その搾り滓として、後は消え去るだけだった彼。

 

 根源にて樹の根に繋がれ、記憶も無く。緩慢に滅びを迎えていた彼を見守った『誕生を司る太陽神』"セフィリカ=イルン"。そして……永遠神剣第五位【黎明】を与え、彼の手を引いたナルカナ。

 その二人によって、彼は奇跡的に生きたまま牢獄から解き放たれて外に出た。生きる意味を探して――不条理なこの世界を見て回った結果、彼は破壊神となったのだ。

 

「判る訳ねぇだろ、そんなモン……誰一人だって、自分が生きた意味なんて判る訳ねぇんだよ」

「では……お前はそれで良いというのか、クォジェ……無意味に生き、無意味に死んでも……」

 

 顔を上げてアキを見るジルオル。その目には何か、試すような意思が見られる。

 

「それも生きるって事だ。生きた意味なんてのは、後を生きる奴が先で倒れた奴を追い抜いていく時に、その死に様を見てから決めるモンなんだからな……それとな、俺は巽空だ。クォジェ=クラギじゃねぇ……殺したのはお前だろうが、間違えるな」

 

 抗戦の意思を失った事を悟り、戦闘態勢を解いた彼は仁王立ちのままで腕を組んだ。

 

「死人は大人しく死んどくのが正しい"生き方"だ。俺もお前も、難儀な"死に方"選んじまったな」

「違いない……生きる意味を探していたつもりが、いつの間にやら……摩耗していた」

 

 そのまま苦笑しあう。世界を産み、それを壊す事になった破壊神。そんな破壊神に憧れ、故に嫉み、転生を繰り返した悪神。

 もしも歯車が少しでも狂っていたなら……それはきっと違わぬ生き方だったのだろう。

 

「……終わってみれば何の事はない。何の意味も無い生涯であった」

 

 それに――神は自嘲するように、俯きながらそう嘆息して。

 

「そんな訳がねぇだろ、意味の無いモノなんて有りゃしない。意味なら『無』にだって在るんだ、『有』だけが存在してるんじゃねぇ……だから、無駄なモノなんてこの世に無い。善きにつけ悪しきにつけ、『破壊』の後にこそ再生が在るように。お前が生きた意味ならこの俺が……お前の背中を追い続けてきたこの俺が保証してやる……ムカつくけどな」

「――……」

 

 同じく、嘆息を零して口を開いた永遠者に視線を向け直して。

 

「……転生体(のぞむ)が恨めしい。ルツルジの時もそうだったが、我はどうしてこうも……友を得る運に恵まれなかったのだろうな」

 

 そう屈託の無い……転生体である、世刻望と似た笑顔を見せながら。金色の篭手に包まれた左手を差し出す。

 

「巫戯化倒しやがれってんだよ、誰があんな男の敵、ハーレム野郎(のぞむ)の友達だ。只の腐れ縁だ、莫迦野郎」

 

 それに、なんだか語ってしまった気恥ずかしさから毒を吐きながら……差し出された手を握って握手を交わす。

 

「ナルカナに伝えておいてくれ。我では無理だったが……望なら、或いはお前の担い手に成れるやも知れぬ……とな」

「……諒解した。だから、安心して消えろ」

 

 互いの始まりたる神代では為し得なかったその光景。遥かな永劫の果てに、終わりに迎えた奇跡の一幕。それを瞼に焼き付けて神は魂の深みへと還っていった。

 そして瞼がもう一度開かれた時、その瞳はキョトンと開かれて。

 

「……空?」

「望……」

「望さんっ!」

 

 見慣れた顔付き、聞き慣れた口調の世刻望が帰ってきたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 握り締めていた手を離して、嬉しそうに望に駆け寄ってきたユーフォリアの邪魔をしないように一歩半後ろに下がる。

 

「良かったぁ……ぐす、本当に良かった……」

「ユーフィー……ごめんな、心配を掛けて……」

 

 よく判らないが、元々望に父親と同じ"雰囲気"を感じていたらしい彼女はぎゅっと抱き着いて鼻を鳴らした。

 その彼女を宥めすかすように頭を撫でようとした望に――

 

「望――歯ァ喰い縛れ」

「え――ってグはぁぁぁっ!?」

「きゃああっ、の、望さ〜ん?!」

 

 下がった分だけ思い切り踏み込み、完全に無防備な頬ッ面を殴り飛ばした。

 

「痛ってぇ……な、何すんだよ空っ……つぅ……」

「『何すんだ』はこっちの台詞だ阿呆が、"家族"を裏切りやがって。今までのはジルオルへの私怨、今のはお前への私怨だ」

「お、お兄ちゃん……お願いだから落ち着いて……きゃうっ!」

 

 止めに入ろうとしたユーフォリアを小脇に抱えてゆっくりと歩く。【黎明】と【真如】が突き立ててある位置……今は【黎明】を抱えている長法衣姿のアイオネアが居る位置まで歩いて、左手で【黎明】を受け取った。

 

「第一、お前が先ず謝らなきゃいけないのは……コイツだろうがよ、っと!」

 

 それを望へ投げ渡す。元より分離しかけていた為に、空中分解して二刀一対の双児剣に戻ったそれが彼を挟んで地面に突き刺さった、その瞬間――

 

「ノゾムぅぅっ!」

「レーメ……」

 

 その中間点に発生した目眩い光と共に、妖精のように小さな少女……【黎明】の守護神獣であり、彼のパートナーである『天使レーメ』が現れた。

 

「ばかものぉ……心配させおって、ノゾムのばかもの、ばかもの……」

「レーメ……ごめん、ごめんな……」

 

 天使は望の首っ玉に抱き着いて、さめざめと泣いた。そんな彼女を抱き留めて、優しく金髪を撫でる望。その様子に満足して、小脇に抱えっ放しだったユーフォリアを下ろしてやる。

 

「……良かった。これで全部元通りだね」

「だな……ったく、面倒臭い奴だ。本当、手が掛かる」

 

 嬉しそうにお尻の辺りで手を結び、覗き込むようにアキの顔を覗き込んだユーフォリア。

 

「あのね、お兄ちゃん……もしもね、あたしが望さんみたいな事したら……同じように、一生懸命頑張ってくれる……?」

「……んな訳が在るかよ」

 

 さらりと蒼穹色の髪が流れる様は、まるで風が吹き渡るよう。それにぶっきらぼうに、少し鼓動の乱れを感じつつ視線を逸らす。

 

「もしもお前だったら……最低三倍は頑張って受け止めるっつーの」

「えへへ……」

 

 そのまま、ぽんっと丸っこい頭に手を置いて撫でる。意識して望に『させなかった』事を。

 そこまで……抜かれた"刃"が"鞘"に収まるまで都合五分。"時の女神"を師に持つ暗殺者の宣言は、秒の狂いすら無く正確だった。

 

「――受け止められるものなら……受けてみなさい!」

「え――ってグはぁぁぁっ!?」

「きゃああっ、お、お兄ちゃ〜ん?!」

 

 怒声が木霊した次の瞬間、光の塊の直撃を受けたアキが横っ飛びに吹っ飛ぶ。転がり脇腹を押さえて……それを為した人物に。

 

「イッた……肝臓(レバー)イッた! 何すんですか会長、息が出来ないぃ……!」

「『何するの』はこっちの台詞よ、よくも変な力で私達を拘束してくれたわねっ!」

 

 『エアリアルアサルト』で彼に体当たりを食らわせた沙月へと、至極真っ当な文句を付けた。

 

「あのですね、俺は全身全霊で望を助ける為ニガフっ!」

「望ちゃ〜ん、大丈夫〜!」

 

 そして、ちょうど俯せになった彼の頭を踏んで駆けていく希美。その恋する瞳には想い人(のぞむ)だけしか写らない。アキを踏んだ事も気付いていない。

 

「助ける為に心底頑張ろブッ!」

「望、御無事ですかっ!」

 

 顔を上げたところに、カティマの具足。

 

「望ぅ〜っ、大丈夫〜っ!」

「いやちょ、待った、取り敢えず喋らせデベッ!」

 

 続きルプトナにヘッドスタンプ。

 

「のぞむ〜っ、大事無いか〜!」

「もう許してくださイギィ!」

 

 最後に、妙な擬音の足音を立てるのナーヤに踏まれて顔面を地面に埋めて、『ちーん』の擬音と共に沈黙した。その間に沙月に希美、カティマにルプトナ、ナーヤは一斉に望へと駆け寄り、抱き着いて騒いでいる。

 

「……クソッタレ……後半に行くに連れてそこはかとない悪意を感じたぞ。やっぱり分かっててもやってらんねぇ、何だよこの扱いの差は……」

 

 そして地に顔を埋めた姿勢のままで辟易したように……否、辟易してそう呟いた。

 

「みんなひどい……一番頑張ったのは、お兄ちゃんなのに……」

「言っただろ、『負けないから負ける』って。勝負に勝って戦争に負けたって奴だ、こういう場合は負けるが勝ちが定石だし……」

 

 実に不服そうに、つんっと唇を尖んがらせてそんな様子を見遣るユーフォリアに答えて顔を上げ、先ずは顔と服の土を払う。

 これが彼の言った『敗北』。戦士としてではなく、一匹の『牡』の沽券としての敗北だ。

 

「結局……世の中、どう転んだって美形が勝つように出来てんだよ」

「そんな事……」

 

 溜息を吐いて胡座をかき、空間に波紋を刻みながら取り出した聖盃に充ちる零位元素(アイテール)で顔を洗って袖で拭いつつ、そんな言葉を吐き捨てた。

 

「……そんな事無いもん。お兄ちゃんは望さんなんかよりずっと、ずっと格好いいもん……誰が何て言っても、ずっと……格好いいもん」

「ヤめろ、虚しくなるだろうが……こういう時、いい女ってのは男に優しい言葉を掛けないもんだ」

 

 敗者となったが故に勝者のままで十人十色……より正確に表現するのなら六人五色の、実に眉目麗しいより取り見取りの美少女達をまた侍らせる権利を得た、勝ち組男をジト目に。

 

「……だから、来んなって言ったんだよ。どこの世界に惚れた女に……こんな情けない姿を見せたい男が居るってんだ」

 

 火を点した煙草の紫煙を燻らせながら強めに長く、上を向いて袖の部分で目許を拭う。今更、憎まれ役が嫌になった訳でも無い。

 ただ、勝者となったが故に敗者のままの彼のその仕種はさながら……涙を堪えて天を仰ぎ見る、敗残者のような仕種でもあった。

 

「じゃあ……証明するもん。空さんが情けなくなんかないって」

「証明ってな……だから、あんだけ見向きもされずに足蹴にされてんだから、モテないのが今正に証明されて――」

 

 そして、そんな姿勢のままだった為に。

 

「――ッ!?!」

 

 無明の闇に、やり場の無い想いを霧散させたその瞬間――鼻先に感じた甘い香りと息遣い、そして……唇に感じたごく微かな温もりと柔らかさ。

 

「ばっ……おまっ、今……!」

「けほっ……にが~い……」

 

 生まれて初めての感触に、思わず跳ね退こうとしたが……真正面から抱き着いたユーフォリアからは、逃れられない。

 代わりに、いつかの月下の浅瀬でのように……紫煙の苦味に熱っぽく潤んだ蒼の瞳彩(アイリス)に映る、赤く染まった己の顔を見た。

 

「……胸を張ってよ。前にお兄ちゃん、言ってたじゃない。『命を救えるチカラが欲しかったんだ』って。この戦いでお兄ちゃんは……誰も殺してないし、死なせてないんだよ?」

「――……!」

 

 その間抜け顔が目を見開き、驚きに染まる。そしてじわりと、自分でもはっきりと恥ずかしいくらいに熱くなり……ガバッと。

 そう、自分を思ってくれる小さくも確かな相手を思いっ切り抱き締め返した。

 

「……有難うな、ユーフィー……俺はやっぱりお前にぞっこん惚れてるみたいだ……愛してる」

「ふぁ……あうぅっ……! ま、また言ったぁ〜っ!」

「ハハ、何度だって言うさ。本当の事だからな。漸く判ったんだよ、例えどんなに強く思ってた処で……口にしなきゃ想いは伝わらないッてな」

 

 またもやしっとりと、ロートーンな男の声で以って耳元で囁かれて、ユーフォリアは耳まで真っ赤に染め直す。

 頭頂から湯気を吹きそうな彼女を抱いたままで、無防備なつむじに向けて。

 

「そう言えば……『付いてくるか』どうかの答えは聞いたけど……こっちの答えは聞いてなかったな。聞かせてくれよ……お前の答え。曖昧な言葉なんかで濁さないでさ……お前の、答えを聞かせてくれ」

「う、うぅ〜っ……」

 

 ちらちらと、彼の顔色を伺って……彼が不退転である事を悟るだけに終わり、やがて観念したように。

 

「……えっと……その……何て言うか、あの……うぅ……あ、あ、あぅ」

 

 しどろもどろと、とにもかくにもたっぷりと勿体を付けて。

 

「あ……あの……あ、愛……して……うにゅう……ます……!」

 

 消え入るように、何とかそれだけを言葉にしてくれたのだった。


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