東京の夏は岩手の山の中とは違って、じりじりとアスファルトが太陽の光を照り返している。
姉帯豊音はまとわりつくような暑さの中で片手にキャリーバッグ、もう片手に簡単な案内が示された地図を持って下町の家々の間を歩いていた。地図があるとは言え、東京の街は複雑だ。もう数十分ほど同じ場所をグルグル回っていた。そして目的の家の前をもう既に何回か通り過ぎていた事に気づいた時には、全身に気怠さを覚えたほどである。
「ついたよー...」
目の前の下町によくある民家、と言った感じの家の名札には"九戸"と書かれている。インターホンを鳴らすと、すぐに人の好さげなおばさんが顔を出す。
「豊音ちゃん、久しぶりねえ!またこんな大きくなって...今日から貴方もうちの家族だからよろしくねえ」
このおばさんは、豊音の父の従弟の嫁に当たる人である。子供がいなかった事も生活を共にしていい、と言ってくれた要因らしい。
「よろしくお願いします、淑恵さん!」
家の中は空調が効いて快適な温度であった。エアコンからの柔らかな風が、岩手からの長旅で疲れた体を労わるかのように体を包み込んだ。豊音は玄関を入ってすぐ隣の和室に通された。ここは淑恵さんの義父、つまり豊音の大叔父の部屋であったが、5年前に亡くなったきり使われていないから好きに使っていい、とのことだった。すなわちこの6畳の和室がこれから東京で生活を送る豊音の部屋となる。
ありがとうございます、と豊音は礼を言い、背中に背負った最低限のものが詰め込まれたリュックサックをどすん、と下した。他の荷物は後日岩手から届く事になっている。部屋を出て玄関を横切り、リビングへと入った。そこには大きな薄型テレビとふかふかなソファがあり、豊音の従叔父である政春が座っていた。実はこの従叔父は貿易関連の仕事に就いていて、世界中を飛び回っている。なので豊音は会ったことはない。豊音はすこし緊張したが、従叔父の穏やかな顔を見て和らいだ。
「姉帯豊音ですっ、よろしくお願いします!」
「初めまして、君のお父さんの従弟の政春だ。いやあ、聞いてはいたけど本当に背が高いね、どれくらいだい?」
「はい、この前計ったら187cmになってました!」
「ほう!ならバスケやバレーだとさぞかし重宝されるだろう?」
「私は運動音痴だからー...」
「それは残念!私は学生の時はバスケをやっていたんだが、当時の私からしたら君の身長が羨ましいよ。まあ、大体家を空けているがこれからよろしく。」
「はい!」
家の中の案内をしてもらい、夕飯を頂いたら、もう既に日は落ちて寝る時間が迫っていた。薪を使わない、広いお風呂に感動しながらその温かさを楽しんだ後は、布団に入るだけである。
初めての東京での夜。和室に敷かれた布団の中に、豊音はいた。思えば小学6年の春、テレビで見たプロの鮮やかな闘牌を見て、私もああなりたい、と考えて祖父母に泣きながら強請ったあの日。丁度その場にいた淑恵さんが、私が面倒を見るから中学から東京で、と提案してくれた。しかし老いた祖父母だけ残すのは無理がある。それでも祖父母は、施設や親戚に頼るから大丈夫だ、豊音は広い世界を見なさい、と快く送り出してくれた。そう、自分が今この場所にいるのは祖父母と、淑恵さんと政春さんのお陰なのである。彼らが私にくれたこの素晴らしい生活を、更に輝けるものに出来るだろうか、感謝と期待と不安を始めとした色んな感情が頭の中を飛び交う中に豊音の意識は沈んでいった。
深い無意識の底から掬いだすかのような光が目に飛び込んできた。朝だ、と思って枕もとの置時計を見ると短針は7と8の間を指していた。岩手では5時から6時に起きていた豊音にとっては、大変な寝坊である。起きたばかりでもやもやしていた頭の中が急激に動き始める。
「わわっ、もうこんな時間だよー!」
寝間着姿のまま部屋を飛び出し、リビングへと駆け込む。リビングの奥には対面式のキッチンがあり、淑恵さんが洗い物をしている。
「あらあら、そんなに慌てて。今日はまだ春休みでしょう?昨日岩手から来て疲れてたでしょうに。」
「けれどもちょー寝坊だよー」
「そうかい、早起きも健康にはいいからねぇ。洗面所は昨日言った通り、このキッチンのとなりの脱衣所だからね。」
「はーい」
洗面台の鏡の中の豊音はこれからの期待と希望からなのか、笑顔だった。東京での初めての朝。春休みはあと僅か。でも予定は無かった。
第一話。というよりプロローグ。
完結できるといいなって思ってます。
※少し改定。
10/19 表現などを少し変更