俺、衛宮士郎は、久しぶりに学校を休むことになった。
というのも昨晩、いろいろと無理を押した後に魔術の鍛錬――――スイッチづくりを行った所為で、どうやら朝まで死線を彷徨っていたらしい。施術を行った遠坂は自分の見通しの甘さを謝ってくれたが、そもそも俺の為に行ったことで、遠坂が二の足を踏んだなら俺から頼んでいたような内容だ。だから遠坂は悪くないし、謝る必要なんてない。そのことを遠坂に伝えたら、何故か叩かれた。理不尽だ。こっちはまだ全く身体が動かなかったというのに。
そんな俺を見かねて助けてくれたのは、昨晩泊まり込んだ桜だった。しかも学校を休まないといけない俺を看病するために、桜も学校を休むって言い出した。それはよくない。俺のことなんて放っておいて学校に行くべきだ。そう桜に伝えたら、泣かれた。――――なんでさ。
結局桜は折れず、セイバーと一緒になって看病してくれている。遠坂は通常通り学校だ。結界の状況が気になるらしいから、これは当然だ。だがいざ看病されてみれば、午前中の内に体調はほぼ元通りに戻ってしまった。遠坂もスイッチさえ造られれば後は時間の問題だと言っていたし、こんなものなんだろう。午後からでも登校しようかとも思ったが、桜とセイバーに止められてしまった。――――なんでさ。
いざ学校を休むと決めたとはいえ、こうなると体調の戻った我が身を持て余してしまう。そのため、昼食の前に昨日の続きのつもりでセイバーに稽古をつけてもらったが、結果は惨敗。桜が気を利かせて昼食休止を言いに来なければ、もしかして今朝より体調が悪化したかもしれない。――――やっぱりサーヴァントには勝てないのだろうか。セイバーは手加減してくれていると言っていたが、どうにかして一本くらい取ってみたいのに。そのくらい出来れば、セイバーみたいな女の子だけを戦わせずに済むかもしれないのに。ランサーから受けた傷も治りにくいみたいなことを言っていたはずなのに。そんなことをつらつらと考えていたら、自分の不甲斐なさが腹立たしくなって来た。
この腹立たしさは身体を動かして紛らわそう。だがセイバーに稽古の続きを申し出てはみたものの、昼食を取った彼女はいくらかクールダウンしたのか、その申し出は突っぱねられてしまった。
「サーヴァントに敵わないということさえ分かって頂けたのなら、これ以上は不要でしょう。今は体調を万全にすることがマスターとして行うべきことです」
だそうだ。くそ――――まだ敵わないなんて思ってないんだからな。そうは思いつつも現状一本すら取ることの出来ない俺に反論の余地はない。そんなわけでセイバーは現在魔力消費を抑えるために眠りについている。桜には適当に誤魔化しておいた。セイバーの国の習慣で、この時間はどうしても横にならないといけないとか何とか。確か欧州のどこかの国で似たような風習があったはずだ。
セイバーが相手をしてくれないとなると、一人稽古をしておこうか。セイバーの動きはいまだに目に焼き付いている。――――目にもとまらぬ速さであったことが焼き付いている。ダメじゃないか俺。
仕方がないから家事でもしよう。ただ、洗濯はもう終わってしまった。掃除と言っても我が家はこまめに掃除をしているため特段汚れているところも少ない。昨日今日と立て続けに使った道場の雑巾掛けでもしておこうか。あ、待った。遠坂たちが帰ってくる前に夕食の準備をある程度済ませておこう。それで時間が余ったら雑巾掛けだ。
食糧は日曜にありったけ買っておいたから問題ない。献立はどうしようか。セイバーや遠坂に合わせて洋食でもいいんだが、俺の洋食は桜に追いつかれかけている。これにこれだけ時間があるのだから、もっと凝った、今己に出来る最善を目指してもいいのではないか。よし和食にしよう。
――――と。意気込んだはいいものの……大変な過ちに気付いてしまった。醤油がないのだ。
いや、現在使っている醤油の残りが少なくなっていることには気づいていた。しかし確かストックがあったはずなのだ。大瓶一本分。しかしない。何処にもない。今でテレビを見ながらポテトチップスを広げている桜に尋ねてみようとして、はたと思い出した。
アレだ。虎の所為だ。確か少し前、コーラの2リットルペットボトルの中身がすり替えられていたのだ。無論それに気づいた俺は犯人たる虎をきつくしかりつけたが、色々な不幸が重なった。まず俺が気づくにはコーラと思っていた醤油を呑まなければならなかったこと。その際余りの衝撃に、持っていたペットボトルを落としてしまったこと。更に逆切れした虎が大暴れして残る醤油を全てぶちまけたこと。その後は後片付けでてんやわんや。余りの大惨事に醤油の出所を完全に失念してしまっていたのだ。
「はあ~」
大元は虎の所為だが気づかなかった俺も悪い。テレビに夢中になっている桜に声を掛けて――――なんだ。うたたねしてたのか。朝から世話になりっぱなしだったから疲れでも出たんだろう。こんなところで寝込むくらいならちゃんと横になった方がいいんだが、なんだか幸せそうに眠っているので起こすのが忍びない。仕方がないから毛布を肩に掛けて、テレビを消して、消費中のポテトチップスの袋をしっかり閉じて戸棚に戻し、俺は黙って商店街に醤油を求めて出掛けることにした。
深山の商店街は顔馴染が多くいる。まだ学校が終わっていない時間に買い出しに来た俺に幾人かに茶々を入れられはしたが、俺は概ね順調に目的のものを手に入れることが出来た。しかし、今更になって黙って出てきたのは拙かったんじゃないかという思いがよぎる。ここは少し賄賂を手に入れて帰宅した方が無難かもしれない。そう思った俺は、今の時期なら商店街の中にある公園の近くで店を出している賄賂――――もとい、大判焼きを求めて歩を進めることにした。
そしてそこで、俺は白い少女に再会した。
彼女は公園で、じっと大判焼き屋を眺めていた。まるで珍しいものに興味津々だと言った風に。実際、珍しかったし、興味津々だったのだろう。彼女は見た目からして日本人離れした綺麗な銀の髪と、赤い瞳を持っていたのだから。
だから、俺はちょっと珍しいなと思って彼女を見てしまった。すると彼女と目が合ってしまった。そして――――。
「あ、お兄ちゃん!」
声を掛けられてしまった。
「お久しぶり、お兄ちゃん。ちゃんと呼べたみたいね」
お久しぶり? と首を傾げる。どこかで会ったことがあっただろうか。こんな美少女、一度会ったら忘れないと思うけれど。と、少し記憶を辿れば確かに会っていた。数日前のこと。学校からの帰宅途中、確かにこの子に声を掛けられた。確か、何と言われたのだったか――――。
『早く呼ばないと死んじゃうよ、おにいちゃん』
そんなことを言われたはずだ。
「え――――?」
その記憶上の台詞と、今の台詞と、現在の状況が重なって、俺は固まってしまった。
「でも今は連れてないみたいね、やっぱり。マスターは昼間に戦っちゃいけないっていうのは常識なのに、セラったら心配性なんだから」
マスター、という言葉が意味するところを理解できない。この子は、一体何を言っているんだろう。
「だからね、今あそこにバーサーカーを連れてきてるの。何時襲われるかわからないからちゃんと守ってもらいなさいって。ま、もしまたアイツが狙ってきたら、今度こそバーサーカーに潰してもらうつもりなんだけどね」
そう言って、彼女は公園の隅の木の辺りを指差した。頭が全くついていけていない。彼女は一体何の話をしているんだろう。
「え、ええと……」
「あ。そういえばまだちゃんと挨拶していなかったわね。私の名前はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。バーサーカーのマスターよ。よかったわね、お兄ちゃん。今が夜だったら潰しちゃってるところだったのに」
口籠った俺に、彼女は決定的な言葉を口にしたのだった。
動けない。どうしたらいいかが分からない。もし彼女がランサーのように獰猛な殺気を放っていたのなら、俺は我武者羅にでも立ち向かうか逃げるかしただろう。だけど目の前にいるのは少女で、殺気を放っているわけでもなければ肝心のバーサーカーは見えないし、でも彼女は確かに今物騒な言葉を口にしたわけで。
「むう。レディが挨拶したんだから、ちゃんと返してくれなきゃ駄目じゃない。コレだから日本人は田舎者って笑われるのよ」
と。そんな風に。ごくごく当たり前のことで、ごくごく普通の怒気を受けてしまったから。ああこれは拙いなと、幾ら俺でも普通の感覚で感じ取ってしまった。
「わ、悪い。ええと、俺は衛宮士郎。セイバーのマスターだ」
「エミヤシロ?」
「それじゃ笑う社じゃないか。士郎でいいよ」
「シロウ? シロウ。うん、シロウ。そっちの方が響きがいいわ。じゃあ私のことはイリヤって呼んでいいわよ」
そういえば、セイバーにも似たようなことを言われたんだった。やっぱりあっちの方の人には、日本語って難しいのかもしれない。
「イリヤはこの辺の子じゃないよな?」
「当然じゃない。私はアインツベルンのマスターなんだから」
「じゃあ、こんなところで何してたんだ?」
「ちょっとお散歩。お城を出るのは初めてだったから、楽しみにしてたの。でもアイツが私のこと狙ってるから、森のお城から出ちゃいけないってセラが言うのよ。説得するのに苦労しちゃった。だから妥協してバーサーカーを連れてきたの」
「セラ? アイツ?」
「セラっていうのは私のメイドよ。リズっていうメイドと一緒に私の世話をしているの。アイツっていうのはアサシンのマスターよ。アサシンはもう潰しちゃったけど、アイツは殺し損ねちゃったから。やっぱりあの時ぐちゃぐちゃになるまで潰しておけばよかったわ」
そんな、なんでもないような、割とそうでもないような会話を続ける。話している限り、イリヤは特に変わったところのない普通の女の子だ。話している内容が普通の女の子からかけ離れているってことを除けば、だけど。あ、でもこのくらいの歳の子って、虫とか小動物とかにだと結構残酷なことを平気ですることがあるから、もしかしたらその延長のように感じているかもしれない。
「イリヤ。女の子がそういう物騒なこと言っちゃ駄目だぞ」
「物騒なことって?」
「潰すとか殺すとかだ」
「え? でもバーサーカーなら潰しちゃうし、殺しちゃうわよ?」
なんだか話が通じないな。
「だから、潰すとか殺すとか、言葉にしちゃいけないし、やるのはもっと駄目なことなんだって」
「お兄ちゃんはおかしなこと言うのね。マスターなんだから、殺し合うのは当然でしょ?」
「だから、俺はイリヤみたいな女の子がマスターをしていること自体が許せないんだ」
つい、言ってしまった。アーチャーからは色々と注意を受けていたはずなんだが、完全に頭から飛んでいた。遠坂のことにしても、このイリヤのことにしても、どうやら俺はやっぱり心の底から納得していなかったらしい。
くすくすくすと、イリヤが笑う。
馬鹿にされたと怒られるかもしれないと覚悟していただけに、その反応は意外だった。
「シロウは面白いね。想像していたのと全然違う」
「む。もしかして俺の方が馬鹿にされてるのか?」
「どうかしら。ねえ、もっとお話ししましょう? シロウの言う、物騒じゃないお話をね」
むう。納得は出来ないけどその提案には賛成だ。昼間の、しかも人通りもぽつぽつと見かける公園で、物騒な話なんてすべきではない。
しかし、ではどうしたものか。俺と彼女の共通点なんて、それこそマスターだというだけだ。聖杯戦争の話はどうしても物騒になるし、魔術師の話でもそうなるだろう。でも――――それでも、よくよく考えてみれば、俺はまだそこまで危険な目に合っているわけではない。ランサーには襲われたけれどセイバーに助けられたし、魔術の鍛錬で死に掛けるなんてそれこそ日常茶飯事。そんな日常の中でも俺がのほほんとしていられるのは、多分遠坂とかセイバーとかアーチャーのおかげなんだろう。
そんな風に俺の友人たちのことを考えていたら。ふと――――まるでなんでもないことのように、その疑問が浮かんでしまった。
「イリヤ。あそこにバーサーカーがいるって言ったよな?」
「ええ、そうよ?」
「何で霊体化させてるんだ?」
「え?」
俺は先ほど彼女が指し示した、公園の隅の木の辺りを倣って指差す。俺にはバーサーカーが見えないので、本当にそこにいるかはわからない。バーサーカーが彼女の護衛としてそこに控えているのなら、せめて挨拶でもした方がいいのではないかと思う。しかしバーサーカーは霊体化しているから霊視の出来ない俺ではちゃんと挨拶できるかどうにもわからない。だったらそもそもどうして霊体化なんてしているんだ、という疑問にぶち当たってしまった。多分――――家にいる面々が悉く霊体化なんてしていなかったことが原因だろう。
イリヤは明らかに驚いていた。赤い目をいっぱいに広げて、本当に不意を突かれた、という顔だった。
「ええと。サーヴァントは隠さないといけないんでしょ?」
「それは神秘の秘匿とかそういうもののためだ。だから周りの誰にもばれなきゃいいだけだぞ。ウチには今セイバーとアーチャーがいるけど、二人とも基本的に実体化してる。流石に学校まで連れていくときは霊体化させてるけど。そういう、必要に迫られてない場合は普通通りにしてるぞ。一緒に飯食ったり、風呂に入ったり、横になったり」
正確にいうとセイバーは俺のせいで霊体化できない事情があるだけだし、アーチャーは彼自身の趣味である上にコストパフォーマンスで負担を掛けないと遠坂に約束までして実体化をしているわけだが。流石にそこまで詳しく内情を話さなくてもいいだろう。イリヤはまさに青天の霹靂とでも言った顔で俺の話を来てくれている。
「じゃ、じゃあバーサーカーを実体化させても問題ないのね?」
「おう」
「一緒に御本を読んだり、お風呂に入ったり、お昼寝したり、胡桃の冬芽探しをしたって、全然悪いことじゃないのね!?」
「おう。もちろんだ」
「バーサーカー!」
そんな俺の話を真に受けて、イリヤはとても嬉しそうにバーサーカーを呼んだ。
「■■■!」
そして俺は、この世ありえべからざるものを目撃することになった。
主人の言葉に、言葉を用いずに応えた戦士は、確かに予想した通りの場所にその姿を現しだした。
それは灰色の巨人だった。いや、人だとか言う言葉の範疇で表現していいモノではない。身に纏う神秘はセイバーのそれを軽く凌駕し、その威圧感たるや逃げ出すことすら躊躇われるレベル。もしこんなモノと何の心構えもなく、しかも夜なんかに遭遇でもしてしまったら、きっと衛宮士郎は指一本動かせず、肺に空気を入れることすら忘れ、その威容に恐れをなしたことだろう。これは死だ。視覚的に、触覚的に、感覚的に、有無を言わさずもたらされる死の象徴だ。
「バーサーカー聞いて。シロウがね、バーサーカーも実体化していいって言ってくれたのよ!」
実に嬉しそうなイリヤ。しかしそれは誤りだ。いやイリヤの誤りではなく衛宮士郎の過ちだ。幸い人通りは途切れている。あの位置なら大判焼き屋の店主も気づかないだろう。しかしこのままでは時間の問題で、ああまずい遠坂に怒られる!!!
「と――――待った、待って。ストップ、イリヤ、待ってくれえええーーーーーーーーー!!!」
俺の絶叫が商店街に響き渡った。
ああ。短慮な自分を殴りたくなる。このときもそうだったし、この後の話もそうだ。女の子は大切にしなさいって、切嗣にちゃんと教わっていたって言うのに、俺はその教えに背いてしまったんだから。俺はこの後酷く後悔することになる。けれどその話は、今は次回に残しておきたい。