024_約束ノ夢
――――夢を見た。
どこか遠い、誰か知らない亡霊の、夢を見た。
雨が降っていた。豪雨でもなく、しとしとと、じめじめと。
倒れ伏したそいつはまるで濡れ鼠。誰もそいつを助けなかった。そんなところまで来てしまったそいつを、もう誰も助けることが出来なかった。
ある女性がいた。『幸福』な女性だった。その『幸福』を得るまでに一生分の不幸を乗り越えた女性だった。
その女性が手を差し伸べた。その行為には何の打算もなかった。ただ純粋に、女性はそいつを助けたいと思ったらしい。女性にはそいつを助ける手段があったから、何の躊躇いもなく自然に、手を差し伸べていたらしい。
そいつは彼女の手を取った。それが始まり。それも始まり。
――――ノイズ?
少し、あるいは長い、時間が経った。
そいつには何もなかった。何も、何一つ持っていなかった。何もかも、なくしてしまっていた。
平和な日々が訪れた。
傷ついたそいつを彼女とその家族が受け入れた。若い夫婦と、幼い息子。妻の姉と、従者が一人。ささやかで幸せな家庭だった。
従者の列にそいつは加えられた。赤子だった息子が少年へと成長する過程を、そいつは見守った。
その世界では誰かが死んでいた。理不尽に殺されていた。
悪人によって殺される人。愚か者によって殺される人。災害によって殺される人。
助けを求めても救われない人々。助けを求めることすら出来ない人々。
その全てに、誰もが目を背けていた。ここに『正義の味方』はいなかった。
ただ目の前の『幸福』を守るだけが精一杯の、当たり前の日常があるだけだった。
そいつは平穏を与えられた。そのうちに、家族として迎えてくれた者たちに恩返しが出来ないかと考えた。けれど、そいつは何をすることもできなかった。
そいつはすでに、家族に『幸福』を与えることが出来ていたのかもしれない。けれどそいつはそれを理解できていなかった。
かつては『幸福』を知っていたはずだった。今では『幸福』を与えられていたはずなのだ。けれどそいつは『幸福』がどんなものであるかを忘れていた。それが『幸福』とは気づかなかった。
約束された日常。繰り返すだけで進んでいく日々。明日もまた日常であることを、誰もが信じて疑わない。
そこには『理想』も『願い』もなかった。『理想』も『願い』も必要なかった。『理想』も『願い』も、持ってはいけないものだった。
だから、いつしか破綻は訪れた。
ある雨の日のことだ。そいつは少年に尋ねられた。「幸せか」と。
「何故そんなことを聞くんだ」と、そいつは少年に問い返した。「つまらなそうだから」と、少年は言った。
つまらないわけではなかった。この平穏がどれほどの価値を持っているかも理解できていた。けれど答えは返せない。なぜならそいつは、決して『幸福』ではなかったからだ。
そいつはその問いから逃げるように、家を空けた。
雨が降っていた。豪雨でもなく、しとしとと、じめじめと。
雨の中で、そいつはいつしか『理想』を思い出した。
雨の中で、そいつはいつしか『願い』を思い出した。
だから、『理想』が許容できないこの場所にはいられないと思った。
だから、『願い』が叶わないこの場所には留まれないと思った。
濡れ鼠のそいつが帰ってきたとき、家族はそいつを温かく迎えた。けれどもう、そいつは旅立つ決意を固めていた。
『理想』を切り捨ててしまえばよかったのに、そいつはそれが出来なかった。
『願い』を切り捨ててしまえばよかったのに、そいつはそれが出来なかった。
平穏と『理想』を両立することは難しかっただろうけれど、出来ないことではなかったのに。
平穏と『願い』を両立することは難しかっただろうけれど、出来ないことではなかったのに。
再び雨が降ったその日。
そいつは黙って家を空けた。誰にも何も言わなかった。引き留められることが分かっていた。そうでなければ、今一度巻き込むことになるだろうと予想していた。今度は一人で行こうと決めていた。だから、誰にも何も言わなかった。
けれど気づいた者が一人いた。彼女の夫の男だ。
そいつはその男のことが嫌いだった。平穏な日常ではむしろ好ましいと思っていたのに、思い出した『理想』と『願い』は、その男を心底憎んでいた。男はそいつの『理想』を裏切っていたから。男はそいつの『願い』を邪魔立てしたから。
男はそいつを引き留めた。そいつは折れない。折れるわけがない。だから、先に剣を収めたのは男のほうだった。
そして、そいつは男と『約束』を交わした。必ず帰ると『約束』してしまった。『理想』を貫き、そして『願い』を叶えて
再びこの平穏へ戻ってくると『約束』したのだ。
そうしてそいつは旅立った。 『理想』と『願い』を抱えながら、そいつは『約束』まで背負ってしまった。