006_理想ノ夢
――――夢を見た。
どこか遠い、誰か知らない人間の、夢を見た。
そいつには『理想』があった。別に、世界平和なんて望んでいたわけじゃない。ただ己の目の届く、そして手の届く範囲の誰かだけは、幸福であってほしいと思っていた。そんな『理想』だ。
それだけならば良くある話。けれど、そいつには特異な資質があった。
そいつは目がよかった。
そのくせ腕は短かった。
けれど、もしかしたらもっと長くなるのではないかと期待できるだけの才能があった。
そして『理想』のためには自らを省みないという悪癖も持っていた。
最後に、そいつの『理想』は他人から与えられた呪いであり、そいつにはその『理想』を裏切ることが出来なかった。
あるとき、そいつは自らを否定する男に出会った。
そいつの『理想』を否定する奴は、その男以外にもいくらでもいたけれど、その男に対してだけは、決して否定されてはならなかった。だから、そいつは男を打ち負かした。その身に『決して後悔しない』という呪いを刻んだ。
あるとき、そいつは自らを肯定する女に出会った。
そいつの『理想』を肯定する人は、その女以外にもいくらかはいたけれど、その女は見守るでも寄り添うでもなく、そいつを引っ張っていった。そして、そいつは彼女と恋に落ちた。
しばらくして、そいつは彼女を喪った。悲劇ではあったが、喜劇の始まりでもあった。彼女は死の間際、そいつに呪いを残した。『絶対に幸福になりなさい』と、女は呪った。
独りになったそいつは、『理想』を貫くために剣を振るい続けた。それ以外にできることがなかった。『幸福』になるためにどうすればいいのか、そいつは知らなかったのだ。なぜなら、そいつはこれまで一度たりとも、『幸福』を求めたことがなかったからだ。
無論、『幸福』を感じたことはあった。けれどそいつにとっての『幸福』とは、求めるものではなく受け止めるもので、与えられないのであれば必要ではないものだった。そして『幸福』の多くは、彼女によって与えられていた。彼女以外から与えられていた『幸福』も、彼女を喪ったのとほぼ同時期に喪っていた。そいつは、『幸福』ではなくなったのだ。
『幸福』になる方法をしらないそいつは、『理想』を貫くしかなかった。『理想』さえ貫けば、『幸福』になれるのではないかと、わずかな希望に縋っていた。そいつにこの『理想』を託した人物は、誰かを救うことで『幸福』を得ていたということを、そいつは知っていたからだ。
けれどそいつの理性のほぼすべては、その希望を否定していた。『理想』を貫いた先に何があるのかを、そいつは知っていたからだ。そしてそれは、彼女が願った『幸福』にほど遠いことを、とっくの昔に知っていたからだ。
そいつの原初は呪いだった。そいつは決して『理想』を裏切れない。
そいつの意思は呪いだった。そいつは決して『後悔』をしてはいけない。
そいつの生涯は呪いだった。そいつは『幸福』になどなれない道を、『幸福』を追い求めながら突き進むしかない。
彼女の呪いさえなければ、そいつの人生は、他人の基準では『幸福』ではなかっただろうが、そいつにとっては『幸福』足りえたはずなのに。
彼女の呪いさえなければ、そいつは人生の幕引きまでは、『後悔』する必要などなかったはずなのに。――――もちろん、その死後についてを述べる資格も意味もないのだけれど。
過程は変わらず、結末も変わらない。そいつは助けた人に裏切られ、処刑台に上るしかなかった。
そいつは『理想』を貫いた。けれど決して『幸福』ではなかった。けれど決して『後悔』してはいけなかった。