日がすっかり暮れて、辺りはたっぷりと肥えた満月とわずかな街灯が暗闇を照らしている。
人通りが少ない通り道で、夜だというのにやけに騒がしい。
「ええっ、目も鼻もないつるっぺたの顔の女を見た!?冗談言っちゃいけねぇよお客さん」
「ほ……本当なのよ!ね!見たわよね!?」
「ああ……!」
騒がしいというよりかなり慌てている様子だった。
慌てているのは老人夫婦。
急ぎ足で飛び込みに入ったのは《十松おそば》という屋台の蕎麦屋だった。
店主は夫婦には目もくれずに仕込みを続けている。
お婆さんが話したのはおそらく《のっぺらぼう》という妖怪だろう。
妖怪の中でもかなりメジャーな部類だ。
お婆さんの問いかけにお爺さんが頷くと、店主の雰囲気が変わったような気がした。
「へぇ〜……もしかしてそいつぁ……」
仕込みを続けていた店主はゆっくりと、どこか不気味に立ち上がりながら、顔を向ける。
その顔には目も鼻もないつるっぺただった。
「ひ……!?」
「……っ!?」
お婆さんは腰を抜かし、お爺さんは驚きのあまり目を見開く。
「こぉんな……顔でしたかい?」
「「うわあああああ!!」」
夫婦は悲鳴をあげた。のっぺらぼうはここからが本番とばかりに、夫婦に近づこうとしたその瞬間、
「ごふっ!?」
何が自分の顔面に直撃したのだ。
直撃の勢いでのっぺらぼうは吹っ飛び、地面に大の字に倒れこむ。
その凹凸のない顔には拳のような跡が減り込み、痛々しく象られていた。
つまり何者かがのっぺらぼうを殴り飛ばしたのだろう。
だが妖怪を殴り飛ばすなど、どんな神経をしているのかわかったものじゃない。
のっぺらぼうを殴り飛ばした張本人が、倒れているのっぺらぼうの前に立ち一喝。
「ったく、お年寄りをビビらせたんじゃねぇぞ!心臓に負担かかったらシャレになんねーだろうが!」
着目点が少しおかしいが、一応正論を言う男。
『す……スンマセンっしたぁーッ!』
と、謝罪すると、のっぺらぼうは白い霞のようになって消滅した。
ちゃんと謝罪したので殴り飛ばした男はそれ以上は何も言わなかった。
「き……キミは一体……?」
いまいち状況が理解できない中、お爺さんは腰が抜けてガクガクの体をなんとか立ち上がらせ、拳を軽く上下に振っている彼に話しかける。
当然、ちゃんと聞こえたので振り返り、再び拳をグッと握り、自己紹介を始める。
「俺は冬空 コガラシ。肉体派霊能力者っす!」
ご丁寧に説明してくれているが、正直何を言ってるのかよくわからない。
「肉体派……?」
訳のわからない単語をつぶやくお爺さんに、男は説明を続ける。
「今のは《ムジナ》っつー古典的ないたずら妖怪っすね。大丈夫すか?」
「あ……あぁ。助かったよ。お礼をさせてくれんか!」
お爺さんは何か礼をと、言うがコガラシは首を横に振る。
「いや、いいっスよそんなの」
「そうはいかん!何か……」
礼は無用と陽気に笑うコガラシ。
だが、それではお爺さんたちの気が収まらない。
すると、何か思い付いたのか、あっ、そうだとあることを訊きだす。
「家賃がめちゃくちゃ安い部屋。どっか知らないっすか!?」
10分後。
お爺さんに案内されるまま、コガラシは《ゆらぎ荘》という看板がかけられた大きな旅館にに到着した。
「ここが?」
「うむ。元温泉旅館の激安下宿。《ゆらぎ荘》じゃ」
コガラシの問いに、お爺さんはゆっくり頷く。
「初期費用ゼロ。保証人不要。昨日入荷可能。食費一万五千円で朝夕の2食付き。その上なんと温泉付き!家賃は驚きの月千円!!」
「千円!?」
お爺さんの説明に出て来た“千円”の単語にコガラシは食いつく。
「じゃが無論……それだけ安いだけの理由はある。」
「……出るんすね?」
「その通り……!」
お爺さんの説明をまとめると、かつて、このゆらぎ荘が温泉旅館としてにぎわっていた頃。
露天風呂で学生の死体が発見されるという事件があったらしく、それ以来、その学生の霊が漂うようになったらしい。
当然そんな曰く付きの旅館に客が来るはずもなく、あえなく旅館は廃業。
今や格安下宿に成り下がり、いい物件なのに空き部屋だらけで物好きが数人住んでいるだけらしい。
「はっはっはっ!そんな幽霊くらい、一発ぶん殴って追い出してやりますよ」
お爺さんが説明を終えると、コガラシは怯むどころか、全然余裕と言った雰囲気で笑い飛ばす。
「おお!頼もしいのう。それじゃ!もし除霊できたらタダで住んでくれて構わんよ」
お爺さんのその何気無い発言にコガラシの体はピクリと固まる。
そして、お爺さんの両手をグッと握る。
「今の言葉ガチっすか……!?」
歯を思いっきり食いしばり、目は血走り、額には血管が浮かび上がっている。
ぶっちゃけかなり恐ろしい形相でお爺さんに迫るコガラシ。
と思ったら目に涙を浮かべ、握った手をブンブンと上下に降る。
「ありがとうございます!恩にきります!!お……俺もうずっと宿無しで……!地獄に仏とはこのことっす!」
「やれやれ……君みたいな子供がどうしてそんなことに……」
お爺さんが訊くと、コガラシは自らの生い立ちを語り出す。
「俺、生まれた時から霊に取り憑かれやすい体質だったんす。そのせいで周囲に迷惑かけっぱなしで、いろんな施設をたらい回しに……挙げ句の果てにデイトレーダーの霊に憑依されて、株に手を出し、大負けして借金地獄……!」
語り終えると、コガラシは完全に泣き出し怒り混じった表情で拳をグッと力強く握り締める。
「だから俺は霊能力者に弟子入りし、霊と戦う術を身につけたんす!すべては……悪霊どもにぶっ壊された普通の人生を取り戻すために!!」
「そ……壮絶じゃのう……」
もう完全に泣き出したコガラシにお爺さんは本気で同情してしまう。自分の意思とは関係なく暴走してしまう悲しみはお爺さんの想像をはるかに超えていたからだ。
「しかし、家賃無料はあくまで除霊できたらじゃぞ」
「がんばるっす!!」
コガラシは意気込んでいると、誰かが声をかけてくる。
「あれっ、ひょっとしてコガラシ?」
「ん?」
声をかけられて振り返ると、そこには、リュックを背負い、赤を差し色にした紫色の胴着を着たーーーーー山で鬼に変身し、ツチグモと戦った少年がいた。
コガラシはその少年を知っていた。
「ヒビキ……?ヒビキじゃないか!」
「ハハッ、久しぶりだな!会うのは去年の夏以来か?」
互いに拳を握り合い、再会を喜ぶ2人。
「なんじゃ。ヒビキ君の友達か?」
まさか2人が知り合いだったことにお爺さんは驚いた。
「ああ、お爺さん。彼とは去年の夏に知り合った仲なんです」
「そうじゃったのか。君も良かったな、知り合いが同居人におって」
「うっす!……って同居人?ヒビキが?」
「じゃあお爺さん、俺はコガラシに宿の中を案内しますので、お気をつけ」
「ああ、そうされてもらおうかの」
「って、ちょ!無視すんなよ!」
コガラシは叫ぶが、お爺さんはそのままその場を後にした。
「なんなんだよ……」
「まあ、まあ……とにかく入れよ。長旅で疲れただろ?温泉に入ってさっぱりしてこい。その後話してやるから」
「そうだ!まずは温泉だ!川でも滝でもない一ヶ月ぶりのあったかいお風呂……!」
「相変わらず大変だったんだな……とにかく、この先よろしくな、コガラシ」
「おうよ!」
2人は笑い合い、肩を組みながらゆらぎ荘の中に入っていった。
しかしこの時、コガラシはまだ気づいていなかった。
この先色々と大変な目にあうということに。