暇が無ければ最悪数ヶ月は空いてしまうかもしれません
「……《幻想戯画》。紛い物と分かってはいたが。……分かっていたつもりであったのだが、些か期待外れではあるな」
サラ・ブラッドリリーは、その能力を以って《比翼》のエーデルワイスを創造してみせた。
しかし——見た目こそ、身体能力こそ、剣技こそ再現できているのだろうが、言ってしまえばそれだけだ。
エーデルワイスが持ち合わせているであろう数多の“手札”を、画家である彼女には想像することが出来なかったのだ。
だからソレは、外見だけを埋めた空っぽの“贋作”に過ぎなかった。
一輝はその欠点を見逃す男ではない。
戦力差をひっくり返すのは、謂わば《無冠の剣王》の十八番だ。
仮にも“最強”を目指す修羅にとっては、半端な偽物など強敵足り得ない。
「しかし最後のあれは中々であった。如何に幻であれど馬鹿には出来ん。まさしく——真に迫った魂の具現」
《幻想戯画》——マリオ=ロッソ。
身の丈であればバーサーカーを上回るほどの巨躯を有した、壮年の闘士。
言うなれば、《血塗れのダ・ヴィンチ》にとっての最強の幻想だ。
であれば、出来の悪い《比翼》の贋作など軽々と飛び越える。
事実として一輝は両腕を砕かれ、満身創痍と化した。
そうまで傷つくほど自身を振り絞り、ようやく拾った勝利であった。
「いや、まこと……天晴れな絵描きよ、サラ・ブラッドリリー。かの“強敵達”との再会が叶わぬのは残念ではあるが——あの“達人”に駄作を描かせるのは、無粋よな」
それは小次郎にとっての最大の敬意であった。
武人である小次郎はそれ以上の賞賛の言葉を知らない。
サラ・ブラッドリリーの描く絵画には魂が宿る、それを目の前で見せつけられたのだ。
——一流と呼ばずして、何と称すれば良いというのか。
「そなたがあの山門の月を描いたならば、さぞや風流であろう。……が、ここは異界。叶わぬ願いか」
忌々しい縛りもあったが、それでも柳洞寺から望む月は美しかった。
あそこから動けなかった小次郎にとっては、強敵との果たし合いを除けば唯一の慰めであった。
「——唯一?」
それが唯一——では、無かった。
小次郎には、記憶の混濁がある。記憶を辿っていけば、必ず矛盾にぶつかるのだ。並行する時間軸に、幾つかの道筋。
どの道を辿ろうとも、ただの亡霊でしかない小次郎は一流たる英雄達に敗れ去るのだが——続きが見つかるのだ。それどころか、全く別の記憶までもが、ふと過ぎることがある。
今はまだはっきりとは思い起こせない。
どう紐解いていこうと矛盾するそれらを、正しく内包することが出来ないために。
何しろ受肉を果たすほどの異常事態だ。何かをキッカケに英霊となって以降の“記録”を呼び起こし、それが混じりあっている可能性もあるが、それは正規のサーヴァントに限る。
亡霊たる小次郎に、あの聖杯戦争以外の記憶は有り得ないのだから。
「……まあ、学のない私が知恵を巡らせたところで、答えは分かるまいて。手の届く今を、謳歌するまでよ」
どうであれ、小次郎の進む道が変わることはない。
一輝が修羅であるなら、この無名の剣士もまた修羅。
求めるのは不確かな記憶などではなく、斬り合いである
*****
冬木の聖杯戦争、並びにアヴェンジャーにより夢の中で繰り返された偽りの四日間。
いま現在、彼の中で渦巻く記憶の数々は幾つもの結末を迎えた聖杯戦争……そしてその先にある幻想の記憶だ。
それら全てを抱えてしまっている彼は特殊という他に無いが、彼がそこに存在したこと自体に不自然はない。
それどころか、本来であれば、この“無名の剣士”はそれ以外には現れない亡霊であった。
だが、それでも彼は……どんなに希薄であっても、存在を確立していた。
彼は正しい“佐々木小次郎”ではない。故に、冬木の聖杯戦争のシステムではイレギュラーでもない限り彼が現れることはない。
だからこそ、触媒により安定してサーヴァントを召喚することが出来るのだが。
もし仮に——不完全な、曖昧な召喚システムが何処かに存在していたとしたなら。
一度被った“佐々木小次郎”という名の殻。
再び彼が纏ったとしても、不思議なことではないだろう。
*****
「——まさしく凶星よな。歪みきっておるわ」
《深海の魔女》黒鉄珠雫と《凶運》紫乃宮天音。彼らの試合は、始まる前から終わっていた。
試合の時間となっても会場に現れなかった二人の様子を確認するために、会場の大型モニターに映し出された控え室。
鮮血に塗れたそこには——無数の剣で磔にされた珠雫と、返り血を浴び、狂ったように嗤い続ける天音の姿が映し出されていた。
小次郎の審美眼には、《凶運》が“戦う者”ではない事が一目で理解できた。
戦士たる《深海の魔女》を相手にまともに立ちあえるはずもない。そう考えていたのだが。
「——真に恐ろしきは、あの《過剰なる女神の寵愛》か」
彼も一輝から、天音の能力の詳細は聞いていた。
或いは一定以上の実力者であれば破れるのではないか、と侮ってしまった。
経験不足と言えばそこまでだが、油断にも等しい読みであった。
しかし、今の状況を理解できないほど鈍くはない。
珠雫は恐らく、天音を襲撃して試合が始まる前に仕留め、反則負けという形で“勝ち”を拾おうとしたのだ。
それはあくまで珠雫にとっての勝利であったが……それを得るには至らなかった。
悔いもあるだろう。ひとえに彼女は——。
『——あ、イッキ君もこの放送聞いてると思うんだけどさ。被害者の僕が言うのもヘンだけどシズクちゃんを責めないで欲しいんだ! だってシズクちゃんはイッキ君のために反則を犯したんだから!』
「————」
『彼女と戦った僕には分かる。イッキ君、シズクちゃんは君のことを愛しているんだよ。家族としてじゃなく、異性として君のことが好きなんだ! だから君がステラちゃんと付き合いだして、ずっと辛かったんだと思う。ずっとずっと、君に振り向いて欲しいって想い続けていたんだと思うんだ!』
天音は声高に、訴えかけるように珠雫の心情を、“自分勝手”に叫んでいた。
「——聞くに堪えん」
人の心を勝手に理解した気になって、語り続けていた。
否、言い直すならば、この“下郎”はいま、黒鉄珠雫という少女の精神を大勢の観客と、何より聞かれたくないであろう兄の目の前で玩具のように弄んでいるのだ。
まるで善意であるかのように、気遣っているかのように装ってはいるが——その真実は悪意そのものだ。
『そしてそんな気持ちが彼女を凶行に走らせた。君の目標の邪魔になる僕を排除して、君の夢に貢献することで……君に愛されたいという間違った欲望を抱いてしまったんだ!』
その場には——既に、かの魔剣士の姿は無かった。
*****
「確かにシズクちゃんのしたことは間違った事だけど、好きな人に愛されたいって気持ちは当然のものだと思う。だからイッキ君には彼女の気持ちを汲み取って欲しいんだ。どうだろう、君さえ良ければ彼女を女として愛して——」
「うぇ…………えぐっ…………」
身体ではなく、心を犯された少女は、ついには限界を迎えた。
さも彼女の想いを理解したかのように、自分の解釈を真に正しいものかのように“騙る”。
それを、よりにもよって世界一愛している兄に向かって。
「——全く外道よな。それ以上は口を開いてくれるな、貴様は弟子の獲物ゆえ、我が手で首を落としたくはない」
だが、その台詞を続けることを許す気はない。
少女の心を土足で踏み躙り、あまつさえ大衆の前で暴露した。
陵辱にも等しいその行為——花鳥風月を愛で、雅な振る舞いを良しとするこの侍は、弟子の身内を辱められて黙っていられるほど薄情ではいられなかった。
侍は既に、控え室に踏み込むと同時にカメラを切り捨て、珠雫を縫い付けている剣の数々を残らず砕き、彼女を助け出していた。
——無論、愛刀の刃を天に逆立て、“構えた”うえで……だ。
「お兄さん、誰? 弟子って誰のことかな? 一応ここは関係者以外立ち入り禁止だと思うんだけど……」
「それ以上口を開くな、そう言ったのが聞こえなかった訳ではあるまい、悪童よ。この場で散りたくはなかろう」
その言葉を聞いた天音は、ニィっと口元を歪めていた。
天音は小次郎を舐めきっていた。
戦士で無いが故に、彼には小次郎の異質さが伝わらない。実力の一切を悟らせないこの魔剣士の実態を理解できないのだ。
「出来るの? ふふっ、お兄さんに?」
「——ほう、試してみるか?」
しかしそれは実行されず。直後——控え室の壁が爆散した。
「……コジロウ。下がってくれるかしら、そいつを斬り捨てるのはアンタじゃない」
「だ、誰かと思えばステラさんか! びっくりしたなぁ、もう。壁を壊して入ってくるなんて非常識——」
「だまれ」
絶対的な拒絶。込められた感情はそれだけだ。
「もっとも、これ以上シズクの心を穢そうって言うのなら話は別よ。死に方くらいは選ばせてあげるけど。コジロウに首を落とされるか、アタシに消し炭にされるか……ね」
ステラは小次郎とシズクの方へ視線をやったまま、天音を見ようともしない。——否、出来ない。
今でさえ、血が滲み出るほどに食いしばって怒りを抑えているのだ。
顔など見てしまえば、殺さない自信はない。
「——もう、怖いなぁ、ステラさんは。分かったよ、僕だってシズクちゃんを傷つけるつもりなんて無いんだ。ただ、彼女のことをイッキ君に分かって——」
——刃が閃く。
「——えっ?」
あまりに唐突に瞬いたために、ステラはともかく、天音には反応できなかった。
気がついたのは、既に刀が振り抜かれた後。
「…………っ!?」
「口を開くな……そう言った筈だが?」
その刃は奇跡的に——しかし、必然的にその身を切り裂く事はなかった。
“幸運”にもステラが砕いた壁の破片を小次郎が踏みつけたために、ほんの少しだけ狙いが逸れたのだ。
そもそもが最後通告……掠らせるためだけの一撃であったが、超人たる小次郎が狙いを外すという有り得ない奇跡。
《過剰なる女神の寵愛》は、超絶技巧の魔剣士の一撃をも斥けたのだ。
「ほらね、やっぱりお兄さんには無理だよ。僕を傷つけるのは」
「——それは如何であろうな。貴様の凶運も底が知れた。その程度であれば、一輝には敵うまい。……皇女殿。珠雫は任せたぞ」
霊装を納めた小次郎は、一瞥もくれることなく立ち去った。
彼にしては余裕のない立ち振る舞いではあったが、穏やかさにも限度はある。
紫乃宮天音は、明確にその限りを越えていた。
「……何あれ、負け惜しみかな?」
「ふん、気楽なものね。アンタ、気づいてないの?」
「気づくって何に——っ!?」
指摘され、ようやく気づいたソレは——頬に出来た、浅い傷。
《過剰なる女神の寵愛》によって、文字通り過剰に保護された天音は、それこそ自身が望まない限りは擦り傷一つ負うことはない。
そのためにこれは——はっきりと、異常事態であると言い切れる。
そして天音にとってそれは、戦慄するに相応しい異常だ。
「……何者なの、あのお兄さん」
「答える義理はないわ」
ステラは、ついに一度として天音を視界に収めることなく。
徹底して拒絶しながらシズクと有栖院を抱き上げ、そのまま控え室を後にするのであった。
*****
ステラが最後の最後まで天音を振り返らなかったのには、怒りを抑える以外にも理由があった。
俄かには信じがたい、怪奇にも属する類の話だ。
実際に目撃したステラ本人ですら、何度も自らの目を疑った。
それは彼女の見間違いであったなら、それまでの話なのだから。
「イッキ。あのとき、コジロウはアマネに傷をつけた」
「……師匠なら不思議はないさ。でも、一太刀でやってのけるとは思ってもいなかったけどね」
一輝にも天音を斬り捨てる策はある。しかしそれは一太刀で出来ることではなく——。
「違うの、イッキ。一太刀じゃない」
「一太刀じゃ、ない? でもキミは、師匠が刀を振ったのは一度だけだって——」
「そう、その筈なの。——でも、あのとき私は確かに見た」
それは、《剣士殺し》の一度に複数の斬撃を“放っているように見える”ソレとは訳が違う。
「あのとき、魔力は感じなかった。だから、間違っても伐刀絶技なんかじゃない。それなのに、確かに——刀身は二つ存在していた」
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《過剰なる女神の寵愛》。それは確かに、その世界における全てに影響し、因果を都合良く書き換える埒外の権能なのだろう。
しかし、だからこそ小次郎は試みたのだ。
——果たしてそれは、異次元から呼び込まれる“ソレ”すらも変えうるものなのか……と。