僕と千歌、時々みかん。   作:猫の缶詰(新品)

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最初の一歩、確かな決意・7

沼津へやって来て今日で約一ヶ月。

 何気なく捲っていた日めくりカレンダーは、5月へと突入し、訪れたこの時期。

 

「……憂鬱だ」

 

 ──梅雨。

 一年の中で僕が最も苦手とする時期。

 夏も嫌いだけど、それよりも梅雨はもっと嫌い。空を見上げればどんよりと曇り、気分も落ち込んでしまう。おまけに空気がじめじめとして…とにかく、嫌いだ。

 だから、梅雨時期は基本テンションが低い。

 

「はぁ……」

 

 口を開けばため息が漏れ、目を閉じれば雨音が耳に入って耳障り。あぁ、憂鬱だ。

 

 でも、今日はそうは言ってられない。

 何故なら今日は──そう、ファーストライブの日だから。

 

「春太くん、準備できたー?」

 

 扉越しに聞こえてくる、聞き慣れた彼女の声。

 優しくて温かくて……僕は、そんな彼女の声が好きだ。

 

「うん、終わってるよ」

 

 数日は慣れなかった敬語以外の言葉遣い。

 今は抵抗なく言えるけど、そうなるまでは何度も千歌ちゃんに怒られた。

 「敬語はだめ!」って。

 

「よーし、じゃあ梨子ちゃん家に突撃だ! おー!」

「お、おー……でも、その前に朝食摂らないと」

「あっ……忘れてた!」

 

 今日はファーストライブだというのに、千歌ちゃんは平常運転。それどころか、いつもよりも元気に見える。

 張り切っているというか、なんというか。

 

 一段飛ばしで降りる千歌ちゃんを追い、一階リビングへ。

 いつも通り仕事前で怠そうにスマホを眺める美渡さんと、キッチンで皿洗いをしている志満さんの姿が見えた。

 

「あら、おはよう」

「はよー」

 

 二人の反応は面白いくらいに真逆。

 朗らかな笑顔で迎えてくれる志満さん、片や目もくれず適当な反応を示す美渡さん。

 

「おはよー! 美渡ねぇ、今日はいつもより怠そうだけど大丈夫?」

 

 ツンツンと美渡さんの頬を突き、反応を確かめる。

 

「あー、うっとおしい! 突くなバカチカ! ったく、誰のせいで寝不足になったと思ってんだ……ふあぁ……」

 

 これまた大きな欠伸をして、目尻に溜まる涙を拭いながらスマホを鞄に仕舞った。

 

「んじゃ、私行くわ。今日忙しいし」

 

 用意された朝ご飯に殆ど手を付けることなく美渡さんは立ち上がり、おぼつかない足取りで玄関の方へ。

 

「ちょっと、美渡ちゃん? ……もう、仕方ないわね」

 

 そう言って食器を片付ける志満さんの表情は、怒っているというよりはどことなく嬉しそうに見えた。

 

 

「──んー、太陽が見えないねー」

「天気予報では昼過ぎまで雨が続くって言ってたよ」

 

 昼過ぎまでこの雨。

 雨脚は大して強くはないけれど、やはり気分は落ち込む一方だ。

 

「ね、春太くんは雨キライ?」

 

 身を屈め、そんな問いを投げ掛けられる。

 当然、僕は嫌いだと答えた。

 

「やっぱり、それが当たり前だよね。でも私は、雨の日好きだよ? ──ほら!」

 

 立ち上がり、手のひらに乗せた一匹のカエルを僕へ見せてきた。小さくて、緑色の……アマガエル? だったか。確かそんな名前のカエルだったはず。

 

「……カエルだね」

「可愛いでしょー! 触るとぐにぐにしててね、ちょっと感触はキモチワルイけど、私は好きなんだぁ」

 

 表情を綻ばせ、微動だにしないそのカエルの頭を突く。カエルに表情は無いけど、どこか嫌そうだ。

 

「雨の日はこんなに可愛いカエルさんに会えるし、夏には暑さを吹き飛ばしてくれるし! だから、私は雨の日が好き!」

 

 そんな、雨の日ラブな千歌ちゃんを見ていると、何だか昔の自分を思い出す。

 純粋で、雨に濡れるのもお構い無しに水溜まりではしゃいで遊んで、泥だらけになって。

 そんな僕を見て、父さんは怒らずに一緒になって遊んでくれたっけな。

 ずっと昔の事なのに、今でも鮮明に思い出せる。

 

「……どーしたの? ボーッとして」

「え、あぁ……何でもないよ」

 

 それよりも、と。桜内さんの家へと向かう。

「梨子ちゃーん! 朝だよー!」

 

 お母さんに挨拶をして、玄関先で腰を下ろす僕の隣で、千歌ちゃんが急に大きな声を出しながら階段を上がっていく。

 

 毎度の事なのか、桜内さんのお母さんは微笑むだけで注意する様子もない。

 

「準備してるから、ちょっと待っててー!」

 

 二階の方から、ドタドタと慌ただしい音。

 今の声に急かされて慌てる桜内さんの姿が容易に想像できる。

「はーい!」

 

 朝っぱらから元気だなぁ……と、他人事のようにそんなやり取りを横目に玄関に飾られた写真へと視線を移した。

 その写真には幼い頃の桜内さんとお母さんの二人が、大きなトロフィーを手に屈託のない笑顔で映る姿があった。

 

「……あの子、最近また良く笑うようになったの。ありがとね。春太くん」

「え、いえ、僕は何も……」

 

 僕は何もしていない。

 桜内さんは自分で千歌ちゃん達と手を取り合い、前に進んだ。僕はそれを見ていただけだ。

 

「食事中にね、嬉しそうに話すの。貴方達の話を。今日は千歌ちゃんがー、とか……これは内緒の話だけど、あの子、向こうではあんまりお友達が居なくてね。だから……梨子のこと、よろしくね?」

 

 親としても、今の状況は非常に有り難いのだろう。

 桜内さん自身が決めた事とはいえ東京から一変して田舎のこの内浦に越してきて、内心、不安で一杯だったろうし。

 

「……はい。分かりました」

 

 

 

 

 

 雨脚の強くなる中、僕らを乗せたバスは普段通りに走り続ける。

 窓に貼り付く雨粒が流され、その奥で流れるいつも通りと呼べるようになった外の景色をぼんやりと眺めていた。

 

 最後部座席に座る曜ちゃんと、桜内さん。

 僕の隣で、静かに目を閉じて俯く千歌ちゃん。

 誰も、口を開こうとはしなかった。

 

 エンジン音と、微かに聞こえる誰かのイヤホンから漏れ出た曲の音。

 それさえも耳障りになる程、緊張していた。

 僕がライブをするわけではないのに。

 それなのに、自分の事のように感じている。

 

 成功への期待と、失敗の不安。

 ──大丈夫。きっと成功する。

 そう何度も心に言い聞かせることで、募る不安を払拭していた。

 

「ね、春太くん」

 

 ふと、千歌ちゃんが小声で語り掛けてくる。

 顔を向けると、耳元でこう囁いた。

 

「……手、握ってても良い?」

 

 そう言った千歌ちゃんの小さい手は、微かに震えていた。

 普段は明るく、前向きな彼女。

 そんな彼女も初めてのライブを前にして、不安に押し潰されそうになっている。

 今の僕に出来ることは、その弱々しく震える手を握る事だけ。ただそれだけだった。

 

 言葉は返さず、どれぐらいの力加減で良いのか分からないまま出来るだけ優しく握る。

 少しヒンヤリとした、柔らかな手。

 男のゴツゴツとした手とは違い、強く握ってしまえばそれだけで折れてしまいそうな程か弱い手だった。

 

「……ありがとね」

 

 気恥ずかしくなり、頷くだけで僕はまた外に目をやった。

 依然として、雨は止まない。

 それでも、さっきまで僕の心の中にあった不安は、少しだけ晴れた気がした。

 




恐らく、次かその次で終わります。多分…
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