──深い深い、海の底。
いつまでも沈み続けて、上から射していた太陽の光はいつしか届かなくなっていた。
周りが見えなくなってから、だいぶ経つ。
それでもまだ身体は沈み続ける。
今僕は目を開けているのか、それすらもわからないくらい曖昧な意識の中、ふと、どこからか声が聞こえてきた。
──おーい、ハル。
聞き覚えのある、どこか懐かしい声。
その声に応えようとするけれど、上手く声が出ない。
──ほら、いくぞー?
……何だろう、この感じは。
懐かしくて……寂しくなってくる。
──おぉ、上手い! じゃ、次はハルの番だ!
視界が少しずつ、明るくなってきた。
地面に立っている感覚も、その手に持つボールの感触も鮮明になっていく。
僕の視線は低く、その先には──父さんがいた。
黒縁のメガネの冴えない顔付き。背はそこまで高くなくて、体格も普通。でも、声がすごく優しい。
聞いているだけで安心するような、そんな声。
「どうした? ほら。投げてみろ」
手を鳴らし、微笑む父さん。
これは、過去の記憶。
確かここは……家の近くにあった公園だ。
あまり休みが取れなかった父さんが、珍しく休みを取って僕を連れてやって来たのだ。
たまには親子らしくキャッチボールをしたいがために。
「ハル? 具合でも悪いのか?」
心配そうに、僕を見つめる父さん。
大丈夫だよと首を横に振って、僕はボールを投げた。
でも、力が弱くてとてもじゃないが父さんまで届きそうにない。
放物線を描いたボールはすぐに地面に落ちて、コロコロと。
今の自分なら、当たり前に届く距離。
それが、この時の僕にはあまりにも遠くて。
「良いぞ、その調子だ!」
そう言いながら、拾い上げたボールを僕へ手渡した。
「ちょっと疲れたな……うん。何か飲み物買ってくるから、そこのベンチで待っててな」
僕の頭をくしゃくしゃと撫で回し、段々と遠くなるその背中を見えなくなるまで見つめていた。
それから、言われた通りにベンチに腰を下ろして空を見上げる。
空は今と何ら変わりない、いつも通りの青色。
けれど見えているそれは過去の景色。
公園を囲むように植えられた木も、遊具も、走り回って遊ぶ子供達も全てが僕の記憶の中にある過去の一部。
当然……今の僕に見えている父さんの姿も。
「ほら、お前の大好きなみかんジュースだぞ」
ヒンヤリと冷たい缶を僕へと渡して隣に腰掛けた。
余程喉が乾いていたのか、早速プシュッ、と小気味良い音が鳴り、ブラックの缶コーヒーを一気に飲み干す父さん。
「ふう……苦いな。やっぱコーヒーは微糖じゃないと」
じゃあ、何でブラックを買ったのか。そんな疑問が頭を過るものの、今の僕には口出し出来ない。
僕はというと、プルタブに苦戦して指を痛めていた。
「あ、悪い! 子供にはこれ固いもんな。っと、ほれ」
軽く開けて、それを両手で受け取る。
500mlの缶と言えど、この時の僕にはかなり大きな物で、両手でやっと持てるくらい。
「おいおい、溢してるぞ」
苦笑しながらハンカチで拭い、それから僕が飲み終えるまでずっと僕の方を見ていた。
「やっぱりハルは、お母さん似だな。目元とかそっくりだ。それに、みかんジュース好きだし。……俺の要素はどこにあるんだろうな?」
まじまじと見つめては笑い、ほっぺを突かれた。
何だかくすぐったくて、自然と笑いが出る。
「まぁ、性格の良さが俺に似ればいいか、うん。……そんじゃ帰るとするか! 日も落ちてきた事だし」
いつの間にか空は夕陽色に染まり、僕は父さんにおんぶされながら帰路に着く。
「……なぁ、ハル。今度また休み取れたらさ、今度は公園なんかじゃなくて、遊園地に行こうな。もちろん、母さんも一緒に」
確かこの時、母さんはパートで外に出ていた。
急に休みを取るもんだから、困るって怒ってたっけ。
だから今度は事前に言って、三人で。
……でもその約束は、果たされることは無かった。
永遠に。
──何で僕は、こんな夢を今見ているのだろう。
微睡みに揺蕩う意識の中、思考を巡らせる。
ぼんやりと、浮かび上がって来るのは母さんの後ろ姿。
周りには沢山の墓がある。
……あぁ、そうか。もうすぐ父さんの命日か。
転勤ばかりでろくに墓参りに行けてなかったから、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
それにいつも墓参りに行くのは、母さんだけだったから。
──すると急に僕の周りが淡く、輝き出した。
その輝きは次第に明るさを増し、やがて全体を包み込んでいく。
聞こえてくる鳥のさえずり。
身体が揺れているような感覚を覚え、僕はゆっくりと目を開いた。
……木目の天井が見える。それと、みかん色の髪の少女の姿。
頭頂部から生えたアホ毛がピョコピョコと、まるで意思を持っているかのようにひとりでに動いていた。
「あー、やっと起きた!」
ムッとした顔をして、唇を尖らせて顔を近付ける彼女。
「お、おはよう。千歌ちゃん」
……なぜ僕の部屋に千歌ちゃんが居るのか。
というか顔が近い。鼻腔をくずくる柑橘系の香りと、頬にかかる彼女の吐息。
妙に艶めかしい唇を見ていると、急に恥ずかしくなってきて僕は顔を逸らした。
「あー、その。どうかしたの?」
きっと顔が赤くなってるに違い無い。
恥ずかしさを紛らわそうと、問いをぶつけた。
「どうかしたの、じゃないよ! 今日は皆でライブ成功を祝ってパーティするって昨日言ったでしょ!」
うわぁ、珍しくかんかんだ。かんかんみかんだ。
でも、それほど楽しみにしているというわけか。
「ごめん、つい寝過ぎた……」
時計を見て、10時を過ぎていることに気付き素直に頭を下げる。
ここまで寝る事は殆ど無い。
心なしか身体が怠い気がするけど……まぁ、大丈夫だろう。
「ほら、起きて!」
「うわっ、ちょっ……!」
両手で僕の腕を掴み、無理やり引き起こそうとして──千歌ちゃんに覆い被さる形になった。
それも、顔は胸に埋めるような感じに。
柔らかい……じゃない! 早く退かない、と……?
グッ、と腕に力を込めるものの、上手く力が入らない。それに全身が重くて熱い。
この気怠さはアレだ。風邪だ。それもかなり高熱の。
「春太くん、重いよぉ……」
苦しそうに呻く千歌ちゃん。
胸の事はいいのか。
まぁ、言及しないって事は大丈夫って事だよな。
「ちょっと……待って、て」
横へゴロンと寝転がり、天井を仰ぐ。
視界がグワングワン歪みだし、近い筈の天井がやたらと遠く見えた。
「春太くん? ……春太くん!?」
僕の異変に気付いたようで、起こした時のように強く揺さぶり始める。
「あん、まり……揺らさ、ないで……」
じゃないと、吐いちゃうから。
歪む視界の先、泣きそうな千歌ちゃんの顔を最後に、意識は段々と遠退いていった。
今回の話は、春太くん以外の視点もあるので、その際にはサブタイに千歌とか曜とかつけます。