鈴仙・優曇華院・イナバという彼女にとって、本来地上とは縁のない場所である。あったはずだ。だが彼女は今確かに、穢れに塗れた地上に住んでいて、身も心も地上に降りてきた地上の兎だと公言している。だが、彼女だって時折ふと思うのだ。本当に自分は、地上の兎になれているのだろうかと。
因幡てゐという根っからの地上の兎との交流もあり、地上に慣れた兎だという自覚はある。自分自身がもう月の兎ではないという自覚もある。だが、どっちつかずなのではないかという疑念が、どこまでも彼女を苛む。中途半端であり、中途半端でしかなく、自分の存在に対して断言ができない。
否定が怖い。
八意永琳の弟子である。
因幡てゐの友人である。
永遠亭の雑用係である。
地上に下りた兎である。
月都を捨てた兎である。
幻想郷に住む妖である。
人里での薬売りである。
自分の情報を列挙しても、それが自分自身であり、誰にも否定されない自身の存在証明であるという確信が得られない。それを口にした瞬間、いかな真実も瞬時に虚構になり果てるかもしれないという危惧がどうしても拭えないのだ。誰かに自分を否定されるのがどうしようもなく恐ろしい。
自分が自分だと信じている自分を他人に否定されるのは彼女にとってどう足掻いても耐えられない苦痛だ。誰かに話す必要はないと思っていても、誰かに話さない自己完結は結局自己満足でしかないのではないか。他人に嘘を吐いていることと同義なのではないか。そしてそれは、責められるに値することなのではないか。何の根拠も確実性もなしに他者から存在を認めてもらえるものなどいるはずがないという思考が、今の彼女を支配している。
姿の見えない誰かに後ろから脅されている気分だ。延々と――永遠と。あらゆる存在は周囲からの観測によってその存在を保っている。誰からも認識されないモノは存在していないに等しく、そしてそれは自分では覆すことができない。
自己肯定だけでは足りないのだ。
自己肯定だけでは無意味なのだ。
自己肯定に加えて、他者からの肯定があって初めて、その存在は認められる。だからこそ、自身が空っぽだと思ってしまうのかもしれない。誰に肯定してもらっているのかもわからないまま、誰に認識されているのかもわからないまま、ただただここに存在し続けているというのだから。
自分で自分を肯定できているかどうかの、自信も持てないままに――。
「ねえ、てゐ」
「……なにさ、どうかしたの?」
「うん……、あのさ、私って兎だよね?」
迷いの竹林を並んで歩きながら、鈴仙が急にしてきた質問にてゐは戸惑った。その様子を鈴仙に見せることはないが、質問の意図が読めなかったのはてゐにとっては珍しいことではあった。普段の鈴仙は単純で、溌剌で、そして元気で、だからこそ何を考えているのかが非常に読みやすい。
決して短くない時を生きている因幡てゐにとって、ある意味それは新鮮ではあったのだが。
「そりゃあ兎でしょ。それ以外に一体何だっていうのさ。なに、人間にでもなりたくなった?」
「…………いや、そういうわけじゃないんだけど」
変な間を開けられたせいで一瞬だが、もしかして図星を付いてしまったのだろうかという恐怖が湧いたが、否定の言葉が出てきて安心した。ただ、一瞬とはいえ、鈴仙が間を開けたのは事実であり、その間に何を考えたのかは、てゐにはわからなかった。
「煮え切らないなあ。自分が兎かどうかに自信がなくなるってどういうことさ」
「……どういうことなんだろうね。私にもわからないや」
てゐの少し厳しめの言葉に、鈴仙は特にテンションを変えることなくそう返す。普段の鈴仙だったならば、もう少し激しめに言い返してくるはずなのに。そういうやり取りを期待していた節もないではなかったのだが、こういう反応が返ってくると心配というより不安という側面が強い。精神的に不安定になられるとてゐの立場としても大分困るのだ。
戦闘のセンスに関しては永琳にすら一目置かれている鈴仙だ。月から逃げ出してきた当初の時のような状態にでもなられれば、てゐとしては打つ手がない。弾幕でも敵わないのは試さずともわかっているのだから。いたずらとなれば話は別だが。
「ねえ、てゐ。永遠って、なんなのかな?」
鈴仙のそんな言葉に、てゐは一瞬だけ黙り、しかし特に悩むことなく答えた。
「終わらない、ってことでしょ」
「終わらない……」
「いつまでも続くっていうのとはまた別だよ。始まったものには例外なく終わりがあるはずだけど、永遠にはそれがない。……ていうかさ、その質問は要するにお師匠様と姫様のことを言ってるわけ?」
しょぼくれた鈴仙が具体的に何を考えているかはわからないが、永遠という言葉がその二人を指している言葉であろうことはなんとなく伝わってきた。そもそも隠し事が下手なのに、そのうえ隠す気もないのでは、もうほとんど自分からばらしているようなものだ。
なんとなく、特に大した理由があるわけではないが、本当になんとなく、そういう態度は気に入らない。勝手なことを考えているのはてゐだって自覚している。だがそれでも、今の鈴仙は見ていて楽しいものではないのだ。
「んー……、まあね。永遠を生きるっていうのはどういう気分なんだろうなって、ちょっとだけ気になっちゃったの。別に私が永遠に生きたいわけじゃないから、そこは誤解しないでね?」
「しないよそんな誤解。私が言いたいのは、あんまりしょぼくれた顔してると薬なんか売れないよってこと。またお師匠様にお仕置きされても私は知らないからね」
「もー、相変わらず冷たいんだからー」
少しだけ微笑んだ鈴仙を見て、てゐは心の中で頭を抱える。なんで自分はこんな言い方しかできないんだろう。どうして普通の心配する言葉をかけてあげることができないんだろう。ただ一言、なんだか元気ないみたいだけど大丈夫かと訊くだけだろう。
柄じゃないとか、恥ずかしいとか、思春期の人間じゃあるまいし、何をいまさらどうでもいいことで悩んでいるのだ。正直に心配してあげることもできないのか、この捻くれ者は。
因幡てゐにとって、鈴仙は、立場も違えば境遇も違う、共通点なんか種族と住処ぐらいのものでしかない鈴仙を、しかし実際かなり慕っている。友人だと思っている。でもだけど、自分は今まで鈴仙のためになることを何かできただろうかと考えると、何も思いつかないのだ。元気がない時にいたずらを仕掛けて無理に元気を出させたりはしたが、それに鈴仙が感謝しているかと言えば大分怪しいだろう。元気がないところにいたずらを食らえば、誰だって不愉快になる。
でも、それしか出来ない。
いや、それしか知らない。
なにをすれば元気になってくれるかなんて、てゐにはとんと見当がつかない。もっと真っ当な手段で元気づけてやりたいのに、それができない。毎回、自己嫌悪に陥るのだ。負の連鎖もいいところである。
自分のこんな言葉なんかで、さっきまで沈んでいた顔に笑顔を浮かべることできる鈴仙は、自分なんかよりもよっぽどよくできている。だが、てゐにその気持ちを鈴仙に伝える手段はない。何かを言おうとしても喉の手前で引っ込んでいってしまう。
自分の勇気の無さにほとほと嫌気がさす。物事を先延ばしにしたって、事態が好転することなどほとんどないというのに、それを理解しながら一歩前に踏み出すことができないでいる。
本当に自分は、長く生きてるだけで、何も積み重ねることができていない。
「てゐ、聞いてる?」
「え? うんうん。聞いてる聞いてる。好きな男が出来たんだって?」
「言ってないわよそんなこと! 聞いてないなら聞いてないって素直に言いなさいよね。人里に美味しい甘味屋を見つけたから今度一緒に行かないかって話なんだけど。どう?」
「いいよ、気が向いたらね」
鈴仙から誘ってもらうことはあっても、てゐの方から何かに誘ったことなど数えるほどしかない。しかも大抵はいたずらを仕掛けるためなのだから本当に救えない。自分も救えないし、鈴仙も救えない。
人間を幸運にする程度の能力――役に立たないとは思わない。だが、人間だけなのだ。巫女も、魔法使いも、メイドも、風祝だって幸運にできるのに、妖怪を幸運にすることはできない。
幸せまでは求めない。せめて、せめて、少し前までの普通。それだけでいい。それだけでいいのに、それがあまりにも遠い。
隣を歩くこの友人は、いつか自分がどれだけ手を伸ばしても、どれだけ追いかけても追いつけないような存在になってしまうのではないか。そんな危惧が払えない。
そしてきっと、彼女が進んでいる道は、決して平坦でも安全でもない。断崖絶壁に通じていて、それでも躊躇なくどんどん歩いて行ってしまう。危ういのだ。どうしようもないぐらい。背中を押したら一瞬で姿が見えなくなってしまいそうなくらいに。
初めて会った時から、こうだっただろうか。今となってはもう思い出せない。彼女はこんなにも、自分の感情を隠すのが上手だったか。昔はもう少しだけだが、なにを考えているかを理解することができた。顔にすぐ考えていることが出た。
もう、鈴仙の顔から感情を読み取ることは不可能に等しい。
「……だから、師匠はもう少しでいいからわかりやすく説明してくれてもいいと思うのよ。別にわかりにくい説明ってわけじゃないんだけど、回りくどいっていうかなんて言うか……」
「……あんまり愚痴ばっかりこぼしてるとまた怒られるかもよ。お師匠様、どこで聞き耳たててるか分かったもんじゃないんだからさ。こないだだって人里になんか配って怒られてたじゃない」
「鼠除けのあれ? まあ、あれはちょっとやりすぎたかなって若干自分でも思うけどね……」
耳を垂らす彼女は、いつから自分に愚痴をこぼすようになったんだったか。何回か、その愚痴の内容を永琳に告げ口したことがある。当然というのもあれだが、鈴仙はその後、決して優しくも易しくもない折檻を食らっていた。なのに。
愚痴を漏らす相手はてゐなのだ。
それにきっと、てゐ以外にはそんな素振りは微塵も見せていない。
自分は師匠を尊敬している。師匠は非の打ちどころのない完璧な方だ。あの人の近くにいるだけで勉強になる。あの人の傍にいることを選んで正解だった。
きっと彼女はそう言っているし、そう思っている。心の底からそう思っているはずなのに、時折、彼女の心の穴からちらりと黒いなにかが顔を出す。それはきっと自分自身でさえ認識していない気持ち。表に出すべきではないと見た者に否応なく思わせるなにか。
てゐではその穴を埋めることはできない。ある日、何の前触れもなくぽっかりと開いたその穴は、ただその中の暗闇を映し出すだけだ。その穴からは何も出てこない。
いつの間にか、彼女はあまりにも空虚だった。
「でーも、里での薬の売り上げはちゃんと上がったもん。それに、あのくらいのお仕置きなら慣れたもんよ」
「……懲りないねえ」
考えてはいけないのだ。
今、彼女が浮かべている笑顔が、どれほど薄っぺらいかなど。
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八意永琳は椅子に座りながら頭を抱えていた。月の頭脳と称された彼女はこれまでの人生において、悩む、や、行き詰まる、といった経験が全くと言っていいほど無い。故に、自身ではどうしようもない事態に異様なまでに弱かった。不測の事態や出来事、その全ての事柄をパターンで片付けてきてしまったからこそ自覚できなかったアドリブ力の圧倒的欠如。
常にフラットであるはずの彼女のメンタルは、珍しくダウナーと化していた。
今はまだ本気出してないだけというのは簡単だが、彼女が今直面している問題は永琳が全力で当たっても解消も解決もすることができない類の難問だ。それを痛いほど痛感しているからこそ比喩でもなんでもなく永琳は頭を抱えているわけだ。
相談相手が欲しい。
そんなことを思う。
自分では対処できる物事が有限だという自覚があり、このままでは思考を巡らせても不毛が過ぎる堂々巡りにしかならないことが明白すぎるという考えの末に出た、永琳にとってはこれ以上ない画期的なアイデアだった。
流石は月の頭脳ねと、自画自賛してしまうくらいには。
天啓が下りてきたのかと、一瞬とはいえ錯覚するほど。
しかしあくまでも彼女はナルシストとかではない。そう思ってしまっても仕方ないくらいに考えて考えて脳みそをフル回転させてようやく出た奇跡的なひらめきだという自負があってのそれなのだ。
誰かに相談するというのは人間としては当たり前で、しかも女性ならばなおさらその傾向は強いはずなのだが、誰かに相談し共に答えを導き出すという誰もが経験したことのあるプロセスを彼女は知らない。
個人が集団に匹敵する場合にどうしたって起きてしまう、一般的な人間関係の齟齬というか。
お嬢様が庶民の暮らしを知らないみたいなものだと思えば、少しは可愛く見えないだろうか。
だが、またもや彼女の前には大きな壁があった。自分のこの悩みを相談するのに最も適しているのは、果たして誰なのかという決まった答えのない問い。そもそも本当に答えがあるのかどうかもわからない。
誰かを頼るという行為そのものに不慣れなのはまあ仕方がないとしても、誰を頼ればいいかわからないという先行き不透明な状況が永琳は苦手だった。
自分で問題に対しての答えが出せない。ならば誰かに相談しよう。しかし自分に分からないものが誰かに分かるものだろうか。やっぱり最も答えに近いのは自分なのでは。だが自分ではいつまでも答えが出ないという答えがもう出てしまっている。じゃあ、いや、でも。
いつまでも終わらない階段を上っているかのようなパラドックスが永琳の脳内で形成されては崩壊するを繰り返し、蓬莱人でもなければ脳神経が焼き切れてもおかしくないレベルの袋小路に迷い込んでしまっていた。こんなに脳を酷使したのはいつぶりだろうか。
彼女にとって、自分と輝夜以外という括りで纏められたその他大勢に、こんなに頭を使うことになろうとは。月からこの幻想郷へ来たばかりの頃は想像すらしていなかった。
自分は輝夜のために生き、輝夜のために死なない。
それだけだったのだが。
「……お師匠様があんなに悩んでるの、私初めて見ました。月の頭脳と謳われる方が、いったい何をあんなに悩んでるんでしょう?」
「そうね、私も永琳があそこまで悩んでるのを見るのは、長い付き合いだけれど二回目だわ。そもそも永琳って何でもすぐ答えに辿りついちゃうから悩まないし。だからある意味貴重よ、この光景」
「……姫様、面白がってません?」
脳が焦げるほどの螺旋に苦しんでいる永琳を、扉の隙間から除く蓬莱人と兎。この二人が一緒にいるというだけでもうすでに珍しいことなのだが、さらに共に覗きをはたらき、しかもその対象が悩んでいる永琳ともなればこれはもう二度と訪れることのない奇跡だと言えよう。
暇を持て余していた輝夜が永琳の下に向かっているところだったてゐに、面白半分で同行したというのがことの切っ掛けなのだが、輝夜が満面の笑みを浮かべているところを見ると、面白半分だったのが完全に面白になったようだ。
従者が悩んでいるところを覗き見てこんなに笑えるのは、もう性格が悪いという言葉以外で言い表しようがないのではないかと思うのだが、当然てゐはそんなこと口に出さない。おくびにも出さない。どれだけ隠そうとしてもこの姫様には全て見透かされているのではないかとも思うのだが、そんなことは考えてもわかるはずがないことなので不安にも思わない。
その肝の太さこそを輝夜は気に入っているのかもしれないし、肝が太いからこそ立場の違いをあまり気にすることなくこうして一緒に行動できているのかもしれないが。
良くも悪くも本音を漏らさないという点では二人はよく似ている。
「うーん……これじゃあ話しかけられませんねえ。薬について少し聞きたいことあったんですけど……」
「あら、話しかけちゃえばいいじゃない?」
「え? いや……、あの状況のお師匠様に話しけるのはそこそこの勇気が必要と言いますか……」
「……私としてはむしろ、今の永琳には誰かが話しかけた方がいいと思うわよ。今の永琳は言うなら、自分から袋小路に迷い込んだ鼠のようなもの。誰かが別の道を示してあげないと、そろそろ脳を酷使し過ぎて死ぬわよ、永琳」
まあ死んでも生き返るから、問題無いと言えば無いんだけどねえ、と気軽に輝夜は言う。
脳を酷使し過ぎて死ぬという言葉の意味がいまいち飲み込めないてゐだが、過去にあの状態の永琳を見たことがあると言っている輝夜が言っているのだから実際そうなる可能性は高いのだろう。蓬莱人は死なない――とは言っても、脳を使い過ぎて死ぬなんて言う光景をこんな真ん前の特等席で見たいわけもない。
いつも目がどこに付いているのかと言いたくなるほど勘や気配に鋭い永琳が、気配も呼吸も殺しているとはいえ、自分に気付かないというのは確かに少々異常ではある。
なにに対してあんなに悩んでいるのかは微塵もわからないが、自分には見当もつかないほど途方もないことなんだろうという予想はつく。だからこそ、話しかけるのが躊躇われるというか。
これは輝夜が話しかけるのが正解なのでは。
そうは思うものの、完全に面白がってしまっている自由奔放の姫が、助けるために話しかけるなんてことをするわけがないというのも重々理解している。そこまで長い付き合いというわけではないが、てゐだって伊達に長いこと生きていない。他人を見る目くらいは養ってきたつもりだ。
養ってきた結果が、自分が話しかけるしかないという最悪な結論をもたらすものだったならば、あまりにも悲しい収穫だと言わざるを得ないが。自分を追い詰めるために目を肥やしてきたわけではないのに。
「ちなみになんですけど、姫様はお師匠様がなにで悩んでるかってわかったりします?」
「あんなのでも月の頭脳だし、頭の中は私の数千倍はごちゃごちゃしてるだろうから、正直言って見当もつかないわね」
「あんなのって……」
「……でも、前の時も、聞いてみれば案外簡単な話だった。それこそ、誰かと一緒に考えればすぐに答えが見つかるくらいに。協力と協調が苦手なのよ、簡単に言えばね。自分でそれを把握できてないし、中途半端に優秀っていう自覚があるから、誰かに相談するのを無意識に避けている」
「…………一人で何でもできるから、ですか?」
「そうでもあるしそうでもないし。一人で何でもできるから、じゃなくて、一人以外で何もやったことがないからって言った方が適切かしら。そうね……、簡単に言うなら、魔理沙がいない霊夢みたいなものよ」
「あー……なるほど……」
そんな想像もしたくないようなことを言ってほしくはないが、一番納得しやすい例えだったのは確かだ。なんでもできてしまい、失敗したことがないという経緯あっての欠陥。
余計に話しかけたくない。永琳は相談相手を欲してはいるものの、人の心が読めるわけでもないてゐにそんなことはわからないのだから。
幻想郷の中でも永遠亭は特に癖の強い面々が集まっているというのは理解しているつもりだが、それらの個人を知れば知るほど癖がさらに強くなっていくのはどういうわけなのだろう。月から来た奴というのは皆してこうなのだろうか。
笑顔で親指を立てる輝夜から目線を逸らし、覚悟を決めて扉を開ける。ガラガラと結構な音量が響いたはずなのだが、永琳がてゐに気付いた様子はない。ただ両手で頭を抱え、重々しい雰囲気を放っている。今患者が来たらどう対応するつもりなんだろうかと思わなくもないが、永琳にとって仕事とプライベートは大した違いのあるものではないし大丈夫なのだろう。
なんと声をかけたものか。どうしたんですか。なにかあったんですか。困ったことがあるなら言ってみてください。私に何かできることはありますか。いや違う。そもそも自分は薬のことを聞くためにここに来たのだ。普通に質問をして、相談があると言われたら乗ればいい。
人に話しかけるのってこんなに悩むほど難しいことだったっけ。
「あのー、お師匠様? ちょっと薬に関して聞きたいことがあるんですが……、今お時間大丈夫ですか?」
「…………てゐ? …………てゐ、そうね、てゐ。ちょうどいいところに来たわね。うん。そうね。あなたが適任、あなたがぴったりだわ。少し私の話を聞いてもらえるかしら?」
凄い。こちらからの質問を完全にスルーした。おそらくはてゐの言葉は耳に入っておらず、てゐの存在に気付いたから相談を持ち掛けたのだろうとは思うが、てゐがなぜ近くにいるかという考えにも及ばないほど悩んでいるということか。やべえ逃げてえ。
追い詰められると耳がしわしわになるのは鈴仙の特徴だが、今だけは自分もそれを真似してもいいんじゃないだろうかと思う。あんなの意識してできるもんじゃないけど。
「……話ですか、分かりました聞きます。どうしたんですか?」
「ええ、そうね、そう。相談があるのよ。私一人じゃもうこれ以上の進展は望めないから、こうしてあなたに聞くわ。いいかしら?」
こんなにも選択の余地がない質問が世の中にはあるのか。
引き攣っているであろう顔の筋肉をどうにかして正常な状態に戻す。
「お師匠様からのお話ならいつだってどこでだって聞きますとも。まあでも、お師匠様に進展させられない答えに私がどうにかできるとも思えませんけどねえ」
できる限りの平常心で、いつものような口調で永琳の問いに快諾する。今の発言で永琳が質問するのを止めてくれたりしないかなという実現する確率が無に等しい打算も混じっていたのだが、打算は打算。永琳は無理をして不敵な笑みを浮かべるてゐに、疲れ切った顔で問う。
「最近――ウドンゲの様子がおかしくないかしら?」
「……………………え?」
「いえ、別に確証があって言ってるわけじゃないのよ。でも、近頃竹林で呆然と立ってるうどんげを見かけたし、兎たちからも心配する感じの報告が来てるし、感情を表に出すことが少なくなった――いえ、表に出す感情が少なくなった気がするのよ。てゐ、あなたなにか、心当たりないかしら?」
そりゃあある。心当たりというか目の前でそういった鈴仙を見る機会が一番多いのは間違いなくてゐだ。本人はきっとできる限り隠しているつもりなのだろうが隠しきれていない。
しかし、問題はそこじゃない。
永琳が、鈴仙を心配して、頭を悩ませる?
それは、蓬莱人が死ぬのと同じくらい、てゐにとってあり得ない事だった。別に永琳を無血無情の冷血人間だと思っていたわけではないが、輝夜曰く、脳を酷使して死ぬ寸前まで来ていたという永琳の悩みの種が鈴仙に対しての心配。
もしかしてこれは嘘の質問なのでは。本当の質問をするには自分は少し頼りなかったから適当に偽の質問をでっちあげてこの場を流そうという算段なのではないだろうか。そう考えればしっくりくる。しっくりなんて来るか馬鹿。誰が見たって悩むという行為の極致に達していた今のお師匠様に、そんなことをできるだけの余裕があったと思うのか。だとすればとんだ役者だ。
飲み込みそうになる唾を止める。見開きそうな目で瞬きをする。不自然に上がりそうな口角を下げる。全身から吹き出しそうな汗を抑える。平常を保て。動揺を見せるな。今の永琳ならば、騙しきれる。
「――さあ? 鈴仙の様子がおかしいのなんていつものことじゃないですか。どうせまた、人里の人間たちのために何か作ろうとしてて、その考え事でもしてたんじゃないですか?」
「……それならいいのだけどね。あの子――月を見ていたから。気になったのよ」
「月くらい誰だって見ますよ。特に私たちは兎なんですから。たまにはあいつも、故郷を見上げたくなったんじゃないですか? もしくは、こないだ習った月光の紫外線でも見ようとしてた、とか」
完全な嘘八百だ。口から出まかせを言わせたら自分の右に出るものはいないと自負しているてゐだが、それで本当に騙しきれるかと言われたら半々と言ったところだろうか。あとは祈るしかない。黙り込んでしまった師匠が、冷静な判断をせず、自分の言葉に騙されてくれることを。
部屋の外から今の状況を笑いながら眺めているであろう性悪姫様への怒りに集中することで、緊張から出そうになる冷や汗をどうにか止める。正直こんなこと今まで生きてきて一回もやったことがないからできるかどうかなんて全く見当もつかなかったが、案外やってみればできるものだ。極度の緊張は人を何段階か成長させるらしい。これ医療で何か役に立たないだろうか。立たないだろうな。
集中しろ。半笑いの苛つく顔を思い出せ。割と頻繁に見てるだろ。
ていうかなんでこんなに鈴仙のことで自分が苦労しなくちゃいけないんだろうと思う。このところ鈴仙の様子がおかしいのは事実なのだし、もういっそ全部丸投げしてやろうか。永琳に鈴仙に直接聞けばいいじゃないですかって言ったらこの場は丸く収まるのでは。
ただ、鈴仙の方に何が起こるかがわからない。
「あの子、最近何考えてるのかわからないのよね……。昔はもっと分かり易い子だったんだけど、いつの間にあんなに混沌としちゃったのかしら……」
「…………?」
月よりこの地上に降りてきた時から、鈴仙・優曇華院・イナバは非常に分かり易い兎だった。黙っていても、隠していても、偽っていても、一目見れば何を考えているかがすぐわかってしまうほどに。表情と感情が豊かだったのか、それとも貧しかったゆえにパターンで分類し表情を見分けられていたのかはいまいち判然としないが、いつからだろう。
なにを考えているかを質問しなくなったのは。
鈴仙には永琳が何を考えているかなど欠片もわからないが、永琳には鈴仙の考えていることがわかっていた。一方通行で独り善がりな以心伝心。それがどれだけ歪な関係か、気づいたときには遅かった。何も聞けなくなっていた。
結局、永琳は鈴仙の表面的な感情しか読み取れていなかったというだけのことなのだろう。顔に浮かぶ程度の些末な感情だけを読み取っていた結果、感情の上澄みだけしか見れなくなっていた。その下に、どれだけの感情が沈殿しているかを考えることもせず。
全てをパターンとして処理してきたが故の、当然の帰結。
「そんなに気になるなら、直接聞いてみたらいいじゃないですか?」
「え? ちょ、直接? ウドンゲに? 私が?」
「それ以外に何があるんですか……。別に偉そうなことを言うわけじゃありませんけど、誰かの気持ちを、誰かが考えていることを知りたいなら、もう直接聞くしかないと思いますよ?」
永琳が具体的に鈴仙のなにが気になるのかは、てゐにはよくわからなかったが、一つだけ分かったことがある。何故かはわからないし、何時からなんてことはもっと分からないが、この師匠、鈴仙に直接質問するのを物凄く怖がっている。
人が嫌がることを見抜くのが上手いてゐとしても、八意永琳がなにかを怖がっている――何かを嫌がっているのは初めて見る。死なない蓬莱人がなにかを怖がる必要がないというのも多分にしてあるだろうが。
別に鈴仙に問題を丸投げしようとしたわけではない。事実、鈴仙と永琳は会話自体は頻繁にしている。里に薬を売りに行くときも、何かを教わっている際も、分からないことを聞くにしても、会話自体は多い。だからきっと、永琳が怖がっているのは『質問』だけだ。
人の心を読めるわけではないてゐには、それがどんな質問なのかまではわからないが、ここで質問を促せば、鈴仙は以前のように戻り、永琳から詳細不明の恐怖を取り除くことができるのではないかと思ったわけだ――が、当然そんな上手くいくわけがないこともしっかり理解はしていた。
前述した通り、その場合鈴仙がどんな反応をするかはわからないのだから。
あくまでもてゐの目的は、薬に関する質問と、脳を酷使し過ぎて永琳が死ぬという事態を避けることだけだ。永琳が死ぬかもしれないのは、自分一人で答えが出せない状況に陥っているからであり、だとすれば、一人でも結論が出せるような悩みの落としどころを提示すればそれでひとまずは解決するはず。
それにも悩むという可能性は決して零ではないが。
質問するか、しないか。
さすがにそれ以上の面倒は見切れない。
「鈴仙のことですから別にそんな深刻な話じゃないでしょうし、むしろこのまま何も聞かずにもやもやし続ける方が問題だと思いますよわたしゃ。師匠が弟子の悩みやら相談を聞き出そうとしてなにが悪いってんですか」
てゐ自身も自覚はしているのだ。結局これは丸投げだと。永琳の死の危機も、鈴仙を理解できないのも、自分ではもう解決できないから、二人をぶつけることで解決してくれれば一番楽だという逃げだと。
ただ、それと同時に思う。
逃げてなにが悪いのかと。
部屋の外でそこまでの会話を聞いていた輝夜は、蠱惑的な笑みを浮かべながらも、心底からの溜め息を吐いた。