東方墓石録   作:甲光一念

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3 不見

「毎度ありー」

 

 全身を白の装束で包み、笠を深く被り顔を隠した薬売りが里の民家を一軒一軒回っていた。言うまでもなく、人里での薬売り、鈴仙・優曇華院・イナバである。妖怪であることが人里の人間にばれてしまえば、せっかくの効果ある薬も信用を失い、まあ売れなくなってしまうだろう。

 まあ、公然の秘密というやつではあるが。

 信用は実益よりも重いのだ。

 信頼できないから切り捨てるのは人間のどう足掻いても覆せない悪い部分だと鈴仙は思っていて、成果を出せば過程なんかどうでもいいじゃないかとは思わないが、過程にこだわるあまりに成果を出せないというのはどう考えても本末転倒だろうとも思う。

 見栄えばかり気にして中身が空っぽ。

 そんなことになっているのは人間だけだ。

 まあ、一部の人間はそういうのを気にしなさすぎだったりすることも――。

 

「よう、妖怪兎」

「いい加減その呼び方止めてくれない? 狂わすわよ?」

「脅しが怖い」

 

 近頃、里内での呼び止め方に一欠片の優しさも感じられない魔理沙はそういう人種なわけだ。実益さえはっきりしていれば見栄えも過程も気にしない、最終的な結果を一番に求める貪欲な人間。

 そういう人間が一番話しやすいのは確かではあるのだが。

 呼び止めるときにはそれに足るだけの理由がある。

 例えば鼠除けだったり、あるいは都市伝説だったり。

 毎回毎回まともな話題ではないのであまり呼び止められたくはないのだが、妖怪兎と呼ばれてしまえば応じざるを得ないのが、正体を隠さなければならない妖怪兼薬売りの悲しいところだ。

 

「で、今回は何の用よ。本当にそろそろ里で呼び止めるのやめてほしいんだけど。そっちは気軽な発言なのかもしれないけど、私としてはあんたに生命線握られてる気分なのよ、このところ」

「いや、悪い悪い。そう呼べば絶対止まってくれるからついな。私だって別にお前を困らせようと思ってるわけじゃないんだよ」

「そんなに信用できない言葉も久しぶりに聞いたわ……」

 

 苦笑いを浮かべながら適当な謝罪を口にする魔理沙を、鈴仙は冷たい目で見ながら肩を落とす。どう考えても反省している様子ではないし、これからも言われるんだろうなとも思う。

 しかし魔理沙としては、今回は珍しく本気で申し訳ないと思っていた。だって、今回魔理沙は、大した理由もなく、己の直感に従って鈴仙を呼び止めてしまったから。

 呼び止めなければならないと思った。

 

「いやほら、聞きたいことがあったんだよ。少し前のことで」

「……少し前? 都市伝説に関してのなんかとか?」

「そうそう、そんぐらいのやつ。『世界轉覆奇談』の時の話だ。覚えてるだろ?」

「そりゃまあ……」

 

 覚えているに決まっている。天狗の新聞から広まった世界滅亡の与太話。終末思想の流布。あれの対応には色々な所が色々なことをしたのだから。もちろん永遠亭も一枚嚙んだわけだが、何か聞かれるようなことがあっただろうか。

 

「あの時お前が売ってた薬、買った人に袋を見せてもらったら『抗鬱薬』って書かれてたんだよ」

「そうね、抗鬱薬だけど、それがどうかした?」

「鬱っていうのは精神の病気なんだろ? なんか細かいこともごちゃごちゃ言ってたけど、見えない将来に向かっての不安――不安障害っていうのも併発するって聞いたぜ?」

「……魔理沙にしては詳しいわね。そうね、そこまで知ってるなら隠す意味もないから教えるけど、あの時売ってたのはその鬱を抑える薬。世界が終わるんじゃないかっていう不安で鬱になりかけてた人はたくさんいたからねえ。それなりに儲けさせてもらったわ。で、まさかその件に関して文句があるとか?」

「違うよ。文句なんかない。むしろ里が今みたいに落ち着いてるのはお前らのおかげっていうのもあるわけだから、感謝こそすれど、文句なんて言うわけないだろ」

「……どーだか」

 

 魔理沙がどこから鬱に関しての情報を仕入れてきたのかは鈴仙にも大体の察しがついたが、別に今それを突っ込んでも面白いことにはならないだろうことはわかっていた。魔理沙だって別に隠しているわけじゃないんだろうし、自分だってそんなに興味があるわけでもない。知られて害があることというわけでもないし、そんなに警戒することもないだろう。

 鈴仙は手に持った団子の串を口に運びながら、魔理沙の方を向く。

 

「で、聞きたいことっていうのはそれ?」

「ああ、違う違う。こんなことじゃないんだ。こんなことじゃないんだが……」

 

 魔理沙は悩む。果たして自分はこの質問を目の前の兎に向けていいものかと。基本的に直情径行が売りの魔理沙ではあるが、霊夢よりは論理的思考ができるという自信もある。だからこそ、ここまで彼女が葛藤するのは珍しいことだと言えた。

 ただ――目の前の妖怪を放置しておいてはいけないという気持ちの方が圧倒的に強い。

 少し前に、里の人間に薬を売っているところを見て、魔理沙は直感的に思ったのだ。今どんな形でもいいから声をかけなければ、もう二度と声をかけることができなくなると。

 そこには科学的な何かも魔法的な何かもなかった。どこまでも純粋な勘。だがだからこそ、自分のその勘に従うべきだと思ったのだ。

 

「…………なあ、お前さ――最近元気か?」

「え? 急に何よ。見ればわかるでしょ、元気よ」

 

 そう言いながら鈴仙は団子を口に入れる。もうそろそろ頼んだ団子もなくなりそうだ。

 

「いや、そうじゃなくて……、えっと……」

 

 魔理沙から鈴仙に対する不安感は説明できる類のものではない。あえて言うとしたら、いつもと何か違うような気がした。それだけなのだ。それだけだけど、だからこそ見過ごせない。

 

「……なんかさっき、薬売ってるお前を見たときさ――仕方なく売ってるって感じがしたんだけど、私の気のせいか?」

「…………仕方なく?」

 

 一瞬、鈴仙の言葉から感情と呼べるものの一切が抜け落ちた。

 初めて会った時から、分かり易い奴だった。そもそも師匠やら姫様やらにただ従っているということが多い奴だ。その行動には圧倒的に自分の意思と呼べるものが欠如していて、言っては悪いがそれは薬の訪問販売も例外ではなかった。

 ただ売るべくして売っている。

 もちろんそこには、自分の師匠であるところの八意永琳への尊敬の感情が見えていて、薬を売るという行為に一種の誇りさえ感じているようでもあるように思った。以前は、だが。

 今の鈴仙からそういった様子は全く感じられない。

 それこそ、今本人に言ったように仕方なく売っているという感じだ。

 

「…………仕方なく」

 

 そしてその情報は、鈴仙に決して少なくないショックを与えた。

 こういう真面目な話の最中で魔理沙がふざけたことを言うことはほとんどないと鈴仙は知っていた。短く無い付き合いだ、さすがに人となりくらいはわかる。魔理沙の言う通り、自分はきっとさっきまで他にすることもないから仕方なく師匠が調合した薬を売り歩いていたのだろう。

 自分がこれ以上ないくらいに信頼している、薬学の師匠であり生き方の師匠であり、命の恩人である八意永琳の薬を仕方なく売っていたのだろう。他にしたいことがあるわけでもないが何をすればいいのかなんて鈴仙にはもうわからないからこうして今しなくてはならないことをさながら惰性のように行っていたのだろう。なるほどそりゃあ魔理沙に心配もされるわけだ。きっと今自分の顔には能面のような表情が張り付いているのだろう。感情の出し方なんてとっくの昔に忘れた。出す必要がなかった。だって出さなくても周りが自分が今なにを考えているかを読み取ってくれたから。表に心中を見せる必要なんていつの間にかなくなっていた。地上の兎の友はこっちから関わらなくても関わってきてくれる。師匠は自分が何も言わなくても求めていることを教えてくれる。そんな世界で一番と言ってもいいくらい恵まれている自分が師匠の薬を仕方なく売るなんていうことがあってもいいのだろうか。そもそも自分はこのところ惰性以外で動いたことがあっただろうか。動く肉塊であるところの自分は師匠に命を救われた瞬間から何を差し置いても兎として動かなくてはならない。なのになんで自分は今ここで止まっているのだろう。

 なにをしている?

 なにをすればいい?

 

「……い、……おい?」

 

 そもそも月から逃げ出した時点で自分という兎の皮をかぶった肉塊に存在価値など存在しない。それにもかかわらず師匠も友も自分と話してくれる。助けてくれる。教えてくれる。読み取ってくれる。どうしようもない存在であるはずの自分にそこまでされる価値があるのか。

 それは今、横にいる霧雨魔理沙にしたってそうだ。忘れていたじゃ済まされない。自分は何も言わなくても感情が周りに伝わってしまう傍迷惑な存在なのだ。ただでさえ普段から周囲に気を配っている魔理沙に見抜かれるのなんて考えなくてもわかるだろう。

 

「…………鈴仙?」

 

 ぞっとした。

 まだ団子のついた串は地面に落ち、先ほどまでこちらに向いていたはずの双眸はどこでもないどこかを見つめている。ポーカーフェイスを常に浮かべているのかと思うほど、普段何を考えているかわからない鈴仙の表情は完全な無だった。

 分かり易い奴ではあるが、何を考えているかわからない奴でもあった。

 何かを考えるほど、自分の意志と呼べるものがあるのかどうかも判然としなかった兎だ。何を考えているのかの表層は読み取れても、その内側に何があるのかなんて分かりたくもなかった。

 因幡てゐからすれば、何も無い、が正解なのだが。

 だからこそ、分かりたくもなかったという魔理沙は正しい。人として正しい判断をした。

 見栄えばかり気にして中身が空っぽ。

 そんなことになっているのは、彼女だけだ。

 

「ごめん、魔理沙」

「は? なにが……」

 

 突然俯いたかと思うと、鈴仙は謝罪を口にした。それが何に対する謝罪なのかなんて魔理沙には分かるはずもなかった。自分の気持ちを誰かに伝える方法なんて、鈴仙はとっくの昔に忘れている。知りたければ読み取るしかない。穴だらけの上っ面を覆うだけの意味のない感情を。

 薬の入った箱を背負いなおすと鈴仙は立ち上がる。そんな鈴仙を魔理沙は呼び止めようとするが、声が出ない。中途半端に持ち上げられた手は空気をかき混ぜ、何も掴むことなく静止した。

 自分は何か取り返しのつかないことをやらかしたのではないか。

 そう思うものの、思考が行動に結びつかない。直情径行が売りの魔理沙様だろ。今ここで、服の裾でも箱の角でもなんでもいいから掴んで止めてもう一度話すべきじゃないのか。

 魔理沙は鈴仙の事なんてほとんど知らない。本人から聞く機会もなかったし、聞くべきではないという思いもあったし、そもそもそんなに興味もなかった。だって、今が楽しそうだったから。

 今を楽しんでいる奴の昔なんて別に構わない。ひっくり返す必要も穿り回す必要もない。大事なのは過去でも未来でもない。今だ。刹那主義と言われようが享楽的と言われようが、今以上に大事なものなんてあるわけがない。

 なんでそんな暗い顔をしてる。

 今が楽しいだろ。

 鼠除けの説明をしているときあんなに楽しそうだっただろ。

 なんで謝るんだ。

 何も悪いことなんて、してないだろ。

 言いたいことが激流のように頭の中を巡る。だが、自分に背を向け立ち去ってしまったその背中は、自分を拒絶しているようでもあり、自分自身を拒絶しているようでもあった。

 鈴仙・優曇華院・イナバは、誰かの感情を読み取ることも、とうの昔に忘れてしまった。

 みんな、感情を出すのが上手すぎるから。

 隠す努力も表す努力も読み取る努力も、いつからしていないだろうか。

 それすらも忘れた。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

 永遠亭中庭。

 普段ならばこの時間は自室に籠っているはずの八意永琳は、中庭をウロウロしていた。

 あっちに行ったりこっちに行ったり、竹林を覗きに行ったかと思えば空を見上げていたり。冬である現在、日が暮れるのは早い。もう少し経てば、日は沈み、月が光るだろう。

 別に暗くなること自体には何の不都合もないのだが、数日前にてゐから助言を受けた身としては、いつまでもその行為に尻込みしている場合ではないという焦燥感があった。

 鈴仙にいつも通り薬の調合を教えたり、里で買ってきて欲しいものを伝えたり、今までと同じような会話ならばこの数日だってしてはいたが、あと数歩が踏み込めない。

 俯いて顔を抑える。

 自分はこんなに臆病だっただろうか。たかが弟子に、最近何か困ったことはあるかとか、聞きたいことはないかとか、元気がないようだがどうかしたのかと聞くだけだろう。

 悩みの内容に関して言うならば、それはてゐと大差ない。

 しかし、口の重さはてゐ以上だ。

 人の感情を察するということにも永琳は長けていて、だからこそ今まで誰かにそういった類の質問をすることもなかった。月に数人、感情が読めない不思議な者もいたことはいたが、今現在の鈴仙ほどではなかった。

 今まで分かっていたはずのことが、ある日急に分からなくなる。

 初めての経験というものを永琳は基本的に好いているが、二度目の経験というと、永琳にとっては退屈なものになる。一回目で全てを理解してしまい、継続する理由がなくなる。ある意味、天才の苦悩と言えるのかもしれないが、周りから見れば贅沢な話でもある。

 だからこそ。

 理解していたはずの弟子を、改めて理解しなくてはならない状況に、永琳は恐怖を覚えているわけだ。

 

「……遅いわね」

 

 いつもだったらもう里での訪問販売を終えて、永遠亭に帰還しているはずなのだが、今日は少し遅い。少しとは言っても、もういつもの時間から一時間は経過しているが。

 蓬莱人の時間感覚を理解しようとする方が間違っているのかもしれない。

 顎に手を当て、月を見上げていると、背後で着地する音が聞こえた。ああ、ようやく帰ってきた。もう空は半分黒く染まっているが、まだそんなに遅い時間というわけでもない。てゐに急かされたり輝夜にからかわれる前に、自分の心の平穏のためにもさっさと聞いてしまおう。

 そう思って振り返った。

 目に入ってきたのは、鴉天狗の新聞記者、射命丸文。

 そして――天狗に抱きかかえられた、弟子だった。

 

「…………え?」

「どうもこんばんは永琳さん。清く正しい射命丸です――と言う前に、こちら、お弟子さんです」

 

 状況が呑み込めない。目の前で弟子を抱えている新聞記者は、その背中に薬箱を背負っていた。おそらく鈴仙が背負ったままでは抱えることができないからだろうが、どうしてこんな状態になっているのかは全く分からなかった。

 これは月の頭脳とかは関係ない、予想外の事象に対する混乱である。

 文も困った顔をしているし、服装が汚れているとかいうこともないので、おそらくは戦いの末にこうなったとかではないと思うのだが、そうなると鈴仙があんな静かに寝てしまっている――気を失っていることに説明がつかない。一応は医者だ。睡眠と気絶の違いくらい見ればわかる。

 いや、普通は見ただけではわからない。

 だが、永琳には分かる。

 

「……えっと、どうして貴女がウドンゲを抱えているのかしら?」

「あー、えっとですね……」

 

 眉をひそめ、困った顔をさらに困らせ、文は永琳の方へと歩み寄る。

 その動作に不審な所は見て取れないので、不意打ちをしかけようとしているわけではないだろうと判断する。鈴仙を受け取るために永琳の方も文の方へと少し近付く。

 

「実は鈴仙さん、飛んでる最中に急に気を失ったらしくてですね、放置しておくわけにもいかないので、不肖、幻想郷最速のこの私がこうしてお届けに参ったというわけです」

「……気を失ったらしいってことは、それを見つけたのは貴女ではないの?」

 

 いくつか疑問点はあったが、一番に聞いておかないと後々はぐらかされそうなところから先に聞くことにした。永遠亭も何度か文々。新聞で記事になったから知っていることではあるが、この天狗、重要なことも特に重要じゃないことも曖昧にぼかすのだ。

 情報の重要度を悟られないようにするための小細工なのだろうが、細かいところまで教えてほしい今はどうにかしてそれを取り払う必要がある。

 

「そうですね。鈴仙さんが落下したところにも私は居合わせたんですが、一番最初に目撃した方は用事があるとか言ってどこかにいっちゃいましてねえ。こうして私が鈴仙さんを運んできたというわけです」

「……そう。ありがとうね」

「いえいえ、お礼はあっちの方に払ってもらうので構いませんよ」

 

 目撃した方、あっちの方。

 名前を伏せるということは、第一発見者が誰なのかを自分に知られたくないということだろうかと永琳は思う。あるいは、鈴仙に知られたくないということなのか。

 伏せているのはどっちなのか。

 鈴仙を手渡せる位置まで二人が近づくと、文は静かに口を開く。

 

「……軽いですね」

「軽い?」

 

 その言葉の直後、文は永琳の腕に鈴仙を乗せ――。

 

「…………」

「軽いでしょう? 医者の弟子とは思えないほど、体調管理ができていない軽さです。身長が低いわけでもないですし、私のような素人からでもわかります。この軽さは、不健康すぎる」

 

 それなりの重さが来ると予想して構えていた腕は、その反動でむしろ上がりそうになった。抱えた瞬間、永琳は絶句した。

 世界には奇妙なことなんていくらでも起こる。日本の山奥には妖怪の最後の楽園があるし、その楽園には妖怪を軽々と打倒する巫女がいるし、古典的な衣装を身に纏った魔法使いがいる。月から移住してきた不老不死も兎もいる。

 だが、これは。

 四十キロ、あるのか?

 

「里で魔理沙さんとお団子を食べているのを目撃したことがありますから、別に拒食症とかではないでしょうし、医者の弟子ですから栄養失調というわけでもないでしょう。だとすると考えられる理由は……なんでしょうね?」

 

 薄々感づいているのだろう。答えを永琳に促すような厭らしい聞き方をしてくる。挑発の一歩手前と言ってもいいくらいだ。新聞記者なりの話術なのだろうが、時と場合と相手によっては割と本気で命の危険がある行為でもある。

 だが、その質問は今の永琳には刺さる言葉だった。

 異常に気付いておきながらそれを放置した結果が現状だ。今も尚、師匠の腕の中で眠っているこの弟子が何に悩まされているのか、何に苦しんでいるのかは分からない。

 いつからだ。

 誰かから後押しされなくては、崖っぷちに立たなくては、行動を起こすことができないほどに弱くなったのは。月の頭脳が、聞いて呆れる。

 触れば分かる、見れば分かる、本当ならもっと早く気付くことができていたはずの弟子の異常。

 軽すぎる体重、浅すぎる呼吸、少なすぎる脈拍、低すぎる体温、衰えている筋肉、荒れている肌、浮かんでいる隈、色のない唇、全身の微かな震え、満足に動いていない臓器。

 自分は一体どれほどこの弟子を放置していた?

 

「実は近頃、鈴仙さんの様子がおかしいという情報が結構寄せられていまして。少し前まで元気だったはずの鈴仙さんが、最近は笑顔がどこか辛そうだとか、薬箱を重そうにしていたとか、目が虚ろな様子だったとか、ネガティブ方向の情報ばかりですね」

 

 追い打ちのように突き刺さる天狗からの言葉。実際それは追い打ちなのだろうと思う。ここまで弟子を蔑ろに扱ってきた情けない師匠に対する追い打ち。反論の術がない。きっと、反論する権利もない。

 なぜ自分以外に分かるような不審な挙動に自分は気付けなかったのだろうと思う。

 考えるまでもない。彼女は、それを隠していたのだ。今はもう読み取れなくなった表情の裏に、自分の本心をひた隠しにしていた。

 知っていたはずだ。誰よりも分かり易かった彼女は、誰よりも隠すのだって上手かったのだと。誰よりも、自らの意志で表に出すのが苦手だと、知っていた。

 

 見れば分かる。

 見なければ分からない。

 話せばわかる。

 話さなければ分からない。

 自分から見せることはない。

 自分から話すことはない。

 感情を出すのが、下手だから。

 

「…………届けてくれて、ありがとう」

「……いえ、お気になさらず」

 

 そう言うと文は永琳に背を向ける。しかしそこで止まってしまった。

 鈴仙の顔を覗き込んでいた永琳が、顔を上げて文の方を見る。

 

「……永遠亭の事って結構記事になるんですよね。優秀な医者ですし、薬も売ってますし。最近の兎ブームもそうじゃないですか。人里の流れの把握にも、鈴仙さんの存在はとてもありがたいんですよ。ですからまあ……なんというか……」

「…………」

「――心配はしてるんですよ、これでも」

 

 完全に暗くなった空を見上げながら、文はそう言った。

 静かに浮かび上がると、ゆったりとした様子で烏天狗は去っていく。あの天狗らしからぬ発言に永琳は一瞬だけ呆けたが、少しだけ、小さい笑みを口元に浮かべると、鈴仙の部屋へと向かう。

 

「心配してくれる子が、沢山いそうね、あの話からすると」

 

 そう呟く。鈴仙の耳には届いていないだろうが、それでもよかった。ただ、自分の口に出して、自分自身に認識させたかっただけだ。嬉しい事実として。

 歩きながら、空を見上げる。

 月。

 満月。

 聞くべきだろう。

 月を見て、彼女が一体何を考えていたのかを。

 しかしまあ、それはいったん置いておいて。

 

 とりあえず、永琳の目下の悩みは。

 白装束のままの弟子を、どうやって着替えさせるかだった。

 

 

 

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