東方墓石録   作:甲光一念

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4 温度

 走れ。

 走れ。

 走れ。

 とっくの昔に身体のどこかは悲鳴を上げている。

 肺が限界だ。

 これ以上止まらなかったら潰れるかもしれない。

 何が自分を潰すのだろう。

 自重か。

 責任か。

 追え。

 追え。

 追え。

 どんどん先に進んでしまう人を。

 四肢が千切れようとも。

 置いていかないで。

 頑張りますから。

 私も連れていって。

 これが依存に近いなにかだということはわかっている。

 一方通行でしかない歪。

 自分の何歩先まで手を伸ばしても届かない背中。

 息を切らせて走って。

 疲れても止まらないで。

 進め。

 進め。

 進め。

 触れられないとわかっていても。

 追いかけることには意味があるはずだ。

 ああ。

 なんで。

 気持ちが悪い。

 届きはしないのに。

 とっくの昔にそんなこと知っているのに。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

 永琳が顔を上げると、目の前には誰もいなかった。確かに今、誰かが目の前にいる気がしたのだが。感傷的になっているのだろうか。自分らしくもない。最初から分かっていたはずのことが実際に現実になったからって、それが一体何だというのだろうか。死なない自分は、誰からも置いて行かれるなんて、そうなった瞬間から理解していただろう。

 

 

「結局私じゃ、あなたを理解してあげられなかったのかしらね」

 

 

 寂しげにそう呟く。今から思えば、自分は彼女に少しでも足並みを合わせたことがあっただろうか。自分の後方で息を切らせている彼女を、その場に留まって待っていたことがあっただろうか。振り返って、優しく手を差し伸べたことがあっただろうか。自分の背中しか見たことのないあの子の気持ちを、少しでも想像したことがあっただろうか。

 

 

「何かを教えることは向いていても、誰かを導くのは向いていなかったのね」

 

 

 彼女には、自分の持つ知識の全てを使って接した。幻想郷の中では誰も知らないであろう進歩した技術を、余すことなく知りたいだけ教えた。あるいは、それは独り善がりだったのかもしれない。自分しか知らないことを誰かにも知っておいてほしいという、独占欲やエゴイズムにも似た何か。教えれば、そこに何かが生まれるんじゃないかと勝手に考えて、自分勝手に生きて、自分の勝手では死ねず、こうして別れることになった。

 

 

「思い、出せないわね」

 

 

 自分より遥か彼方を見るあの子の顔を、疲れ切ってしまったあの子の顔を、目の前の者に何かを期待するあの子の顔を、自分の背中を見つめるあの子の顔を。自分は一つだって知らない。それでいいと思った。彼女はいつだって振り返れば見える位置にいた。自分がどれだけ先を歩んでも、しっかりと追いかけてくれていた。懸命に頭と体を動かす彼女の声が聞こえていた。それだけで自分は安心できた。彼女から自分は、どのように見えていたのだろう。豆粒のように小さく見えていたのか、それとも、どこにいても見えるほど大きく見えていたのか。自分に見えているものが、他の者にも見えているとは限らないのに。

 

 

「何を、見ていたのかしら」

 

 

 彼女と共にいた長い時間、自分は一体どこを見ていたのだろうか。視野が広すぎてなんでも見えて、だからこそ本当に見なければならないものを見過ごした。思い出すのは、作られた表情ばかり。昔のように、隠そうとしているのに上手くいかず、考えていることが露呈してしまうことに頬を膨らませていた彼女の記憶は、もはや遠い昔の話だ。時間が、過ぎていく。彼女を過去へと置き去りにして。

 

 

「手を握って、引いてあげていれば」

 

 

 どうにかなっただろうか。笑顔で自分を見つめる彼女を、笑顔で見返すことはできたのだろうか。笑いあっている自分たちというのが、どこかにいたのだろうか。そんな想像も、過去へと流れていく。あったかもしれない未来は、無かった現在なのだ。今ここでこうして立ち尽くしている自分が、そんな理想の過去を経験できたわけもない。もう遅い。なにもかもが。

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 

 謝ったってなににもならないのはわかっている。時間は戻らないし、後悔を払拭することもできない。目の前の現実は引っ繰り返ることはない。ならば、それは誰への懺悔か。

 目の前に鎮座する弟子の墓石を見つめながら、八意永琳は、ただ悔いた。

 嗚呼、こんな時でも泣けない自分が、本当に嫌いだ。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

「…………てい」

「あいたっ…………あら?」

「おはようございますお師匠様。魘されていたので起こしちゃいました。すみません」

「いえ……、起こしてくれて助かったわ。あまり愉快でない夢を見ていたから」

 

 夢か。あのどうしようもない無力感も、埋めようのない喪失感も、拭いようのない虚無感も、全部夢か。助かったと言えば助かったのだろうが、寝起きでこんなに不愉快な気分になったのはいつぶりだろうか。起こしてくれたてゐに何か八つ当たりをしそうな勢いで不愉快だ。

 枕元に座るてゐが、不安そうな顔を浮かべる。

 

「……すっごい不機嫌そうな顔してますけど、もしかして起こさない方がよかったですか?」

「違うわ。物凄く嫌な夢を見てただけだから気にしないで。貴女が起こしてくれなかったらきっともっと不機嫌な顔になってたと思うし」

「……お師匠様って夢見るんですね」

「たまに見るって感じかしらね。勿論、自分の意志で見ることはできないのだけれど……」

「普通出来ないですよ」

 

 鈴仙は永琳が寝る必要がないと思っているようだが、決してそんなことはない。考えすぎで脳がパンクしそうになることがあるように、いくら不老不死の蓬莱人と言えど、睡眠は生物である以上必要だ。ある程度寝ないで活動することができないのかと言われたらできると言えるけれど、作業効率は間違いなく落ちる。

 当然、夢だって見る。

 良い夢も――悪い夢も。

 まあ、永琳は鈴仙にそこまで詳しい説明をしたことがないので、弟子がそういう風に思い込んでいても仕方のないことではあるが、蓬莱人はそこまで万能ではない。

 夢というのは起きている間の記憶を寝てる間に整理する際に、その内の一部の記憶が視覚野で再生されているものだ。それと同時に、夢にはその者の深層心理が反映される。あのような夢を見たということは、いつか、ああいうことになるかもしれないと、昨日の自分はどこかで思ったのではないだろうか。腕の中で眠る彼女を見て、自分はなにを思ったのだったか。

 

「で、こんな朝からどうしたの? 何か聞きたいことでもあるのかしら?」

「いえ、その……この間、聞きたいことがあるなら鈴仙に直接聞いた方がいいんじゃないかって言ったじゃないですか」

「そうね。そう言ってくれたわ」

「それなんですけど……やめておいた方が、いいんじゃないかなって……」

「え?」

 

 いつもの飄々とした態度も、掴みどころのない話し方もどこへ行ってしまったのか、てゐは気まずそうな表情を浮かべ、視線を逸らし、人差し指同士を合わせながら、弱々しい口調で言った。数日前のてゐからの提案によって、永琳としては結構救われた部分もあっただけに、その発言の意味はよく理解できなかった。

 弱々しい口調のまま、てゐは語った。少し前から鈴仙の様子がおかしいと気付いていたこと、それを理解していながら永琳にその解決を丸投げしたこと、後々になって最悪の場合を想定してしまって急いで止めに来たこと。

 いつもよりも耳が垂れてしまっている。考えを掴ませないてゐがここまで落ち込んでいるのは、永琳でも初めて見る光景だった。

 俯いてしまっているてゐの頭頂部を見て、永琳は思う。

 あの子が俯いているのを最後に見たのはいつだっただろうか。

 あれは、確か――。

 

「――ありがとう、てゐ」

 

 てゐの体がびくりと跳ねた。それは予期せぬお礼の言葉に対する驚きであり、頭を撫でられているという状況に対する呆けだった。失敗を誤魔化そうとしに来たという、言ってしまえば、自首をして少しでも罪を軽くしようという打算にも似た考えがてゐの中にはあった。

 だからこそ、なぜ自分が今、頭を撫でられているのかが見当もつかない。

 

「……あの、お師匠様?」

「貴女の言葉のお陰で、私の気分は軽くなった。それは紛れもない事実よ。しかも、やってしまったと思ったことを自分で報告しに来てくれた。……怒ると思っていたかしら?」

「ええと……まあ」

「怒らないわよ。あの時の私に、なにを言ったらいいか分からない末のあの言葉だったんでしょ? 感謝をしても、説教をする理由はないわ」

 

 冷静な今から考えてみれば、あの時の自分は完全にどうにかしていた。てゐがなぜ目の前にいるのかも考えず、拒否などしようもない質問をして、自分の都合で自分の言葉をただ並べていた。

 てゐが追い詰められてたというのも、冷静な状態だったなら、一目見れば分かったはずだ。

 師匠なのだから。

 そう、自分は、師匠なのだ。

 

「それに、貴方のお陰で今、分かったわ」

「……なにがですか?」

「私とあの子の間になにが足りなかったか、よ」

 

 永琳は布団から起き上がると寝巻から普段着に着替える。気合を入れるように帽子を被り、きょとんとしているてゐをちらりと見ると、少し笑って、襖を開けて廊下へと出た。

 このぐらいの時間だったら彼女は台所にいるはずだ。この寒い中、一番に起きて自分たちの朝食を作ってくれている。

 ほら、聞いていて落ち着く、規則的な包丁の音。

 物音の少ない永遠亭に、その音はよく響く。

 朝まで起きていたときに聞こえるこの音が、どれだけ自分を微笑ませてくれたか。

 

 足音を立てずに扉の前に立つ。この時間にこの扉を開けるのだって、果たしていつぶりだろうか。思い出そうとすれば思い出せるかもしれないが、思い出す必要もないだろう。

 これからは、きっと頻繁に開けることになる。

 静かに扉を開けると、そこには上下左右に小さく揺れる背中。集中しているのか、扉を開けたのに永琳には気付いていないようだ。

 

 小さい、背中。

 だと思っていたのに。

 いつの間に、こんなに大きくなったのだろうか。

 永琳は、背後からそっと、鈴仙を抱きしめた。

 味噌汁をかき回していた右手が止まり、全身が驚きで震える。

 

「おはよう、ウドンゲ」

「……師匠? えっと……おはようございます。朝ごはんならまだですよ?」

「わかっているわ。わかってる。わかってるのよ」

「……どうしたんですか?」

「いえ、なんでもないのよ。なんでもないの。温かいわね。貴女は温かい」

「まあ、兎は体温が高いので……」

 

 優しく抱擁されている鈴仙は、未だ状況が掴めない。こんなに距離が近いことが最近あっただろうか。ましてや、抱きしめられるなんて。嬉しいとかではなく、もうそろそろ死ぬから今くらい優しくしてあげようみたいな状況なのかという怯えの方が大きい。

 

 ただ、温かい。

 狭い世界でひとりぼっちだった鈴仙の背中は今、温かい。

 

 鈴仙の髪に顔をうずめている永琳の顔は振り向いたって見ることはできないけれど、振り向く気はなかった。心地いい。鍋を見つめながら、鈴仙はそう思う。

 寒い。寒い。寒い。

 それだけだった台所に、自分以外の誰かがいるだけで、こんなにも温かいものだろうか。

 わからない。

 鈴仙には、わからない。

 

 向かい合ってこなかった弟子と師匠の歩み寄りは、きっと、ここから始まる。

 二人でいれば、こんなに安心できるのだから。

 

 

 

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