空中に多量の血液が浮いているかの如く、時間が止まっているようにすら感じた華扇はほぼ反射的に、目の前の茂みから感じた妖力目掛けて右手を放つ。それがなにかを確認することもなかった。生物らしい脈動を、動物らしい毛触りを右手として扱っているそれの表面に感じはしたが、それは容赦する理由としてはあまりにも足りなかった。
具体的な正体を確認することもなく、華扇は右手のそれを呆気なく簡単に握りつぶした。流れ出る血液の温かさも、肉の柔らかさもほとんどなかったことから、妖怪の成り損ねだと判断する。妖力の残滓が手の隙間から漏れ出て、何も握っていない右手を象った包帯が宙に浮く。
それと同時に、倒れる音がした。
右手を元の形に戻した華扇はすぐさま宵人の傍に駆け寄る。自分を、仙人を庇って負傷した稀有なる人間の傍に。宵人の胸部から血が流れている。止めどなく、ドロドロと流れている。地面に染み込んでいく。顔がどんどん青ざめていく。少し照れるたびに赤くなっていた顔が、青白くなって――。
「……っ! 少し動かしますよ!」
華扇は男を抱き上げる。ここから永遠亭まではどのくらいかかる。ここまでの深手を負っては里での治療では間違いなく足りない。今から急げばきっと間に合うはずだ。宵人を助けることが出来る。
抱き上げた際、宵人が小さく呻き声を上げる。気にしていては運ぶことなど出来ないが、苦しめているということ、自分のせいだという罪悪感が華扇を苛む。同時に、本当に間に合うのかという不安、焦燥が止めどなくこみ上げてくる。
飛べれば早いだろうが迷いの竹林を抜けられるという自信がなかった。確実に辿りつきたいならばあの道案内を探さなくてはならない。走り始めようとした時、宵人が口を開いた。口の端からは血が伝っていた。
「……仙人様、ご無事、ですか……? ……ははは、無事、ですよね……。きっと……当たっても、無事でした、よね……? ……出過ぎた真似、でしたかね……」
「……私は、無事です。傷一つない。貴方のお陰です」
「はは……、有難い、お言葉だ……。勿体ない……。こんな俺でも、役に立てたん、ですね……」
華扇はゆっくりと歩き始める。なるべく、普段からは想像もつかないような弱々しい宵人を揺らさないように。彼の視線はどこか虚ろだ。華扇に褒められて笑顔を浮かべたはずなのに、薄く開かれたその眼に、華扇は何も見ることが出来なかった。
もう彼の眼には、茨歌仙しか映っていない。
いや、それは今に始まったことではなく、最初からきっとそうだったのだ。初めから、彼はどこまでも盲目的で、そして愚直だった。その眼に、遠く離れた仙人しか映らぬほどに。
遠く離れた仙人を、何処か近くに感じてしまうほどに。
病だと、思っていた。
一時的な、病のようなものだと。
今は熱くなっているが、ある程度すれば熱も下がるだろうと思っていた。華扇が宵人のことを、多少なりとも軽く見ていたことは否定できない。何かしらの危機に遭遇すれば、きっと自分を置いてさっさと逃げるだろうと、軽んじていた。むしろ、そのほうがありがたいという気持ちもあった。いっその事、そうなってくれればと。
だから、こんな事態は予測していなかった。
こんな、取り返しのつかないことになるなんて。
「……本当は、俺がこうやって、仙人様を抱き上げてみたかったんですけど……、まさか、される側になるとは……。……人生なんて、上手くいかない事ばっかりだ……。そう……思いませんか?」
「……そうですね。取り返しのつかない事態に陥って、それから後悔する。人間なんて、そんなのばかりです」
なにを偉そうに語っているんだ。今まさに、その取り返しのつかない事態に直面し、そして後悔している分際で。人間でもないくせに、何を一人前に語っているんだ。
「…………」
何の為に仙人になったのかと、問うたことがある。
彼女はこう答えた、人を越えたかったからだと。
同意を求められ、しかし華扇は否定した。
華扇は言った、人に近付きたかったからだと。
確かに、人里に近い存在にはなっただろう。以前よりは人に近付けたという自負もある。
だが。
人の想いを軽んじておいて、果たして何処が人に近付けたなどと宣おうと言うのか。
「あー……あ。残念だなぁ。折角……、仙人様に抱えてもらったっていうのに……、誰にも自慢できないなんて……」
「自慢は、できれば控えて頂けるとありがたいですね。なんだか貴方は、物事を誇張して話しそうな気配がします。あったことを語るだけというのならば、別に構いませんが」
「……やっぱり、仙人様は何でもお見通し、ですね……」
分かっている。華扇も宵人も、理解したうえで話をはぐらかしているのだ。なるべく空気を深刻な方向へ進ませないように。華扇は言葉を選んでいるし、宵人もそれを無下にしないようにしている。
自分の態度が宵人に新たな負担を与えているのは分かっている。だが、その発言はしてはいけない。
宵人より先に、華扇の膝が折れてしまう。
彼に、生を諦めさせてはいけない。
「……仙人様、以前、どうして好きになったのかって……、聞きましたよね?」
「……はい」
「あの時俺、説教をしてる姿が格好良かったからだって、言いましたけど……、それが一番の理由じゃないんです……」
浅い呼吸を繰り返しながら、宵人は口を開く。今言わなければ絶対に後悔することになると思ったから。だからもう、華扇がいくら気を遣おうと無駄だ。宵人は既に、生から手を離した。
これは、きっと呪いだ。
少しでも長い間、自分を記憶に刻み付ける呪い。
彼にその自覚はなくとも――いや、むしろ呪縛は、本人に自覚がない方が効くのだ。その方が、より後に残る。より尾を引く。深く、傷は残る。
「いつだったかなあ……、仙人様が甘味処で団子食べて、お茶飲んでるときに……、貴女を見かけた……。一目惚れだった……。あの感覚は、今でもしっかり覚えてる……。笑顔が……、眩しかった……」
尊ぶように、遠くを見つめながら、神々しいものを語るかのように。
笑顔を浮かべて、彼は言う。
「本当に、ただ、それだけだった……。それがなんでか……、あの笑顔の隣にいたい、一番近い所で見ていたい……、なんて、そんな傲慢なことを思ってしまった……。絶対に無理だって、わかってて……、わかってても――乞わずにはいられなかった……」
苦しいはずだ。今だって止まることなく血は流れ続けていて、伝わってくる体温は少しずつ、だが確実に低下していっている。本来ならば口だって開けまい。なのに、彼は笑顔を崩さない。
そうさせているのは自分だ。自分が、宵人の言葉を制限している。
痛いとか、死にたくないとか、涙を流してそう叫んだって誰も咎めやしない。当然の権利だ。人間には、本音を叫ぶ権利がある。その権利を、彼は捨てている。
惚れた女性の前で、最後まで格好つけて、精一杯潔く死のうとしている。
涙の一滴も流さず。綺麗に、本懐を遂げようとしている。
「……笑顔が似合う顔、なんですよね、多分……。……この一か月、楽しかった、なあ……」
死んでいくのが分かる。両手を通じて伝わってくる。
自分は、何を言えばいいのだ。何を言うのが正解だ。自分が選んだ言葉が正解か。彼が喜ぶ言葉が正解か。嘘を吐くのが正解か。本音を言うのが正解か。正解なんてあるのか。
口元から、血が一筋――目元から、涙が一筋。
華扇の膝が折れた。地面に膝を付いてしまう。口から漏れたのは、考えてもいなかった言葉。だが、いつかきっと自分は、誰にだってこの言葉を言うのだろうと心のどこかで知っていたはずの言葉。
「――ごめんなさい」
誰へ向けての謝罪なのだろう。それすらもわからない曖昧な言葉は、果たして彼の耳に届いたのか。ほぼ同時に、腕が垂れる。全身から力が失われる。真っ当な別れの言葉も言わないまま、それは終わった。
初めから終わることが決められていた予定調和。真っ当に別れることなんてできないと知っていた関係の当たり前の結末。
自分の選択――これが正しいわけがない。
だって、ほら。
腕の中で死んでいる友人の死に、涙の一滴だって、出やしないのだ。
―――――――――――――――――――――――
墓。死んだ生物を弔うための場所。その上に乗る墓石は、その墓が誰のものなのかを分かり易くする標。今、茨木華扇の目の前にある墓は、つい先日、彼女の腕の中で死んだ男の眠る墓であり、できることならば直視したくない類のものだった。当然、そんなわけにいかないというのを華扇は自覚していたし、こうして直視することこそが自分の責任だとも思っていた。本来ならば、彼はまだ墓石の下に埋められることなく、元気に生きていたはずなのだ。自分さえいなければ。
「……こうして来てみたものの、特別話すこともありませんね。……まあ、ここでなにかを話したところで独り言にしかなりませんが」
ただ黙って墓を見つめることに耐えられなかったのか、華扇は口を開く。結局は今の言葉だって独り言だが、目の前に墓がある以上、それは独り言ではなく語りかけなのだろう。墓に話しかけることを、誰が馬鹿にできようか。とは言っても、返事が帰ってこないのは間違いない。墓は喋らない。これは墓の下に眠っている者の代替品にすらならない、ただの無機物なのだから。
「……あの日から、後悔し続けています。私がどれか一つでも、どれだけ小さくとも、どこかの行動を変えていれば、こんなことにならなかったんじゃないかと」
霊夢から、あんたのせいじゃないと言われようとも、早苗から、あまり気に病まない方がいいと言われても、魔理沙から、相談があれば聞くぜと言われても、気にするなという方が無理だ。それはおそらく三人だって分かっていて、それを踏まえた上で優しい言葉をかけてくれたのだろう。そしてそれと同時に、そんな慰めの言葉になんの意味も無いことだってわかっていたのだろう。結局、罪悪感というものは自分自身が納得できない理不尽から生じるものであり、他人の言葉で簡単に消し去れるものではない。理不尽の、一つ一つ。
「……でも、忘れるんですよね。私はまだまだ死ななくて、そして、いつの間にかあなたのことを忘れるんですよね」
茨木華扇は仙人だ。修行を重ね、死神を追い返すことで現実的でない長寿を実現している。もう何年生きたかも覚えていない。自分は今まで数多くの死に立ち会ってきたはずだ。動物の死に、妖怪の死に、それに、人間の死に。今の自分の記憶に残っているのはその内のいくつだろう。全部覚えていると言いたい。でもそれは無理だ。覚えていないから。半分? 半分の半分? 半分の半分の半分? 今日の今、たった一人の人間の墓石の前でこんなに後悔していることだって、何十年後、何百年後かには忘れてしまう。跡形もなく、忘れ去る。
「……ふ、ふふ。今感じているこの罪悪感も、そのうちに忘れてしまうんでしょうね……」
最初の寿命差による危惧は、ひょっとしたら華扇の過去の経験に基づいたものだったのかもしれない。それすらも覚えていないというのだから、とんだお笑い草だ。笑い話にもなりはしない。あまりに滑稽すぎる、身の程を弁えなかった妖怪の末路だ。自業自得という言葉が、あまりにもよく似合う。失敗には、取り返せる失敗と取り返せない失敗があって、華扇は今まで騙し騙しそれを見過ごしてやってきた。時には見過ごされもした。見逃された。極論、今自分が生きていることだって、誰かから見逃された結果に過ぎない。どれほどの罵声を浴びせられても、どれだけの非難を受けても、弁明のしようもないほどに放置してきた失敗の積み重ね。
「……正直、あの時、貴方が死んだ時、私、安心しちゃったんですよ。もういいんだって。応えられない関係を続ける必要ないんだって、思ってしまいました」
謝ったって償えない。頭を垂れても許されない。泣いたって拭えない。あれも正解だったのだろうか。自分で考えたことだから正解だったのかもしれない。正解は必ずしも正しいものではない。自分にとっての正解は自分が納得できるものだとは限らない。酷く矛盾したことを考えている自覚はある。許してもらおうなんて思っていない。許されなくたっていい。正しいことは美しいことではないし、間違っていることは醜いことではない。きっと彼はそれを知っていた。知っていたから、正しくないと分かっていても、自分の信じる正解を選ぶことが出来たのだ。
「――羨ましい。…………人に近付くなんて、無理なんでしょうかね、結局」
華扇は、ずっと俯いている。その眼は墓石を見ない。そこに刻まれた名前を見ない。いつか忘れるのなら覚えている必要はない。涙も流せない自分が、その名を覚えている資格はない。身を翻し、その場から去る。不意に、声が聞こえた気がした。
「さようなら――私を好いてくれた人」
気のせいだと分かっていた華扇は、振り返らなかった。
あの時、あの場所で、振り返ってさえいなければ。
彼に対する罪悪感か、己の内の後悔の念か。
自分にそう思わせるのがどちらか、華扇には分からなかった。
その悩みは、まるで人間のようだった。