朝が来た。いつにも増した気だるさが、心の逃げ場を掻き消す。
「…夢ならよかったのに」
遠ざかっていく親友の背中を、穂乃果はただただ眺めることしか出来なかった。あの後、電話により駆け付けたことりの母の車に乗せられ、穂乃果は無事帰路についた。穂乃果の母は、穂乃果を叱ることは無く、抱きしめ、ひたすらに謝り続けていた。それから後のことは、よく覚えていない。
「…学校行かなきゃ」
幾度となく自分のピンチを救ってくれた親友との約束。昨日の悪夢が現実であるならば、昨日交わした約束も、また現実なはずで。急いで制服に着替えなくては、そう思いベッドから出る。
「穂乃果!」
母親が、勢いよく自分の部屋の扉を開けた。そしてその口から告げられた言葉が、穂乃果を玄関へと走らせる。今日の空はまるで、彼女の心を映すかのように雲に覆われ、隙間から射す春の日差しが、明るく街を照らしていた。
「ちょ、お姉ちゃん!どこに行くの!」
「どこって学校に…ってあれ、雪穂、学校は!?」
「…今日、土曜日だよ」
「…あ」
時計の針は、既に11時を指していた。
「お父さん!!」
308号室。そこにはまだ寝たきりの状態ではあるが、目を開き、笑みを浮かべ妻や娘たちの名前を呼ぶ父の姿があった。容体を確認しに病室に来た、担当医である西木野院長―真姫の父親に、何度も頭を下げる。連絡を受け、真姫も病院に駆け付けた。
「真姫ちゃーん!」
「もう、怒ったり泣いたり忙しいんだから。でも、喜んでばっかりじゃいられないわ」
父親の傷は回復には向かっているが、「鬼」として再び戦線に立つことはもう出来ないだろう。と真姫は言った。これが何の意味を示しているのか、今の穂乃果には分かる。
「これからどうなるの?」
「さあね、少なくとも世界平和は望めないんじゃないかしら」
真姫の苦笑いというものを、初めて見たかもしれない。その目元にはうっすらと隈が見られ、苦労の影が見え隠れしていた。
「真姫ちゃん」
「なによ」
「昨日は、穂乃果のために怒ってくれて、ありがとう」
「別にあんたのためじゃないわよ」
超ブラック企業における全社員の気持ちを代弁しただけよ。と言い残し、父親とともに病室を去っていった。久しぶりに家族が揃う、が、とても団欒という気分にはならなかった。…ようやく目を覚ました元救世主に、これまでの日々のいったい何から話せばいいのか迷っていると、
「…すまなかった」
とだけ、父が呟いた。
「わかるの?」
「娘の言いたいことくらい、目を見れば分かる」
鬼に会った。そしてその鬼は、お前のよく知っている人だったんだろう。
「…お父さんは、何でも分かっちゃうんだね」
「μ'sの活動を成功させることは、猛士の願いでもあった。お前には、何の不安もなく、自分の夢をやり遂げてもらいたかったんだ」
「…分かってるよ、お父さん」
皆みんな、私の「せい」じゃなくて、私の「ため」にしてくれたことなんだ。ここで私が責任を感じてしまっては、今までの恩をすべて仇で返すことになる。穂乃果はようやく、彼女たちの嘘を受け入れることが出来た。
「まだ間に合うかな」
「みんなで叶える物語」は、まだ終わっていなかった。私の知らないところで、延々と続いていたんだ。なら今度は私から、彼女たちに協力するべきなのではないだろうか。
「お父さん、穂乃果ね」
「駄目だ」
「…予想は出来てたけどさぁ」
「お前が鬼になったら、今までお前たちを守ってきた意味がなくなってしまう」
音ノ木坂を守るため、そして私たちの夢を叶えるために、自分の身を犠牲にしてまで戦ってくれた人たちがいる。穂乃果自身が鬼になるということは、その守ってきたものを命の危険に晒すこと、つまり裏切りになってしまう。それは分かっている。でも、
「昨日、入学式だったんだ。普通に聞こえるかもしれないけど、去年の今頃には考えられなかったことだったんだよ。生徒会長として舞台に上がったらね、講堂いっぱいに新入生がいた。その時私、初めて報われた気がした。私たちの始まりは、これが全てだったなって。でも、魔化魍がいたら、せっかく音ノ木坂を選んでくれたみんなの命が危ないんでしょ?私は、生徒会長として、μ'sとして、そんなこと絶対許せないの」
「…穂乃果」
「お姉ちゃん」
「お願いですお父さん。私を、鬼にしてください」
物語が、少しずつ、少しずつ動き始める。そしてそれは人知れず、しかし確実に伝播していくのだった。
「…鬼になれる?ことりたちが?」
「うん、凛たちの練習メニューって、海未ちゃんが考えることが多かったでしょ?」
「どうやらその内容が、鬼の修業をベースにしているらしくて」
悪夢から一夜明けて、ことりの家には、真姫から事情を聴いたのち、猛士の協力者となる決意を固めた凛と花陽が来ていた。
「卒業しても、音ノ木坂は消させないよ」
「…私も、怖くないと言えば噓になります。でも今、海未ちゃんや真姫ちゃんだけにそんな大変な思いはさせたくないです」
友達、だから。凛と花陽は、真剣な表情でそう言った。
「…ふふっ」
「ことりちゃん?」
「やっぱり、みんな考えることは同じだね」
一人じゃない。本音を打ち明けることの難しさ、そしてそれを話すことのできる仲間の大切さは、ことりが誰よりもよく知っていた。
「きっと最初は絶対に認めてくれないけれど」
「何回もアタックするのは、凛たちもう慣れっこだよね!」
「認められないことは、認めさせるまでです!」
違う思い、違う理由で、また同じ目標に向かって立ち上がった少女たち。一方そのころ、知らないということが時として残酷であるということを、再び思い知らされているものもいた。
「…身体が動きません」
「まったく、また鬼になるなんて聞いていませんでしたよ?海未さん」
「申し訳ありません」
一年ぶりの覚醒は、日ごろから鍛えていた海未の身体にも中々のダメージを与えていた。目が覚めてから1ミリも動くことが出来ず、もうかれこれ3時間、布団の中で延々と憂鬱を抱えている。
「とにかく、今は安静にすることです。あなたまで倒れてしまっては、穂乃果さんだって悲しみますよ?…昨日きいちゃん、どれだけ私に電話をかけてきたか」
「…ご心配をかけさせてしまったようですね」
「でも穂乃果さんが無事で何よりでしたよ…あら、お客さんのようです。出てきますね」
「はい」
穂乃果が無事だった、そのことだけで、傷が癒えていく心地がする。
「…穂乃果に会いたいです」
今頃穂乃果は何をしているのだろう。無事とはいっても昨日の出来事は、あまりにショックが大きいものであったに違いない、ふさぎ込んでしまっているのではないだろうか。ため息をつくたびに、また一つ、また一つと憂いは増えていく。
「穂乃果…」
「なあに?」
「私は…」
…え?
「なあに?海未ちゃん!」
「ほ、ほの…か…?」
もう向けられることは無いと思っていた、太陽のような眩しい笑顔があった。錆びついた機械のようなぎこちない動きで、どうにか上体を起こす。
「「ごめんなさい!」」
ずっと言おうと思っていた言葉。素直になれない気持ちを正直に吐き出すための、魔法の言葉。
「やっと言えたよ」
「もう、こういう時ばっかりは予想を超えてくるんですから」
なんだか、やっといつもの私たちになれた気がする。たったそれだけのこと、何でもない当たり前だったことが、これほどまでに尊いものであったのだと、二人とも実感していた。
「今度は穂乃果を、知らない世界に連れて行ってよ!」
「それってまさか…!な、何を言っているんですか!これ以上穂乃果が傷つくなんて耐えられません!」
「そんなこと言ってももう遅いよ!海未ちゃんは、私に長年嘘をつき続けた貸しがあるんだからね!」
「き、昨日貴女を助けたではありませんか!大変だったんですからね、体中が痛くって!!」
一度は捨てた命、友のためなら惜しくない。そんな気障なことを考えてみたり。怖くないわけじゃない。でも、私たちが手に入れた日常は、私たちの手で取り戻すんだ。きっと海未も真姫もみんなのお父さんもお母さんも、その一心で戦ってきたはずだ。
「海未ちゃん」
「なんです」
「…私たちの思いが、集まればなんとかなるかも」
「なっ…!」
水臭いよ海未ちゃん、ちゃんと私たちに話してくれればよかったのに。
「友達でしょ」
友情とは、成長の遅い植物である。と昔の偉い人は言う。今の彼女らにとって友情とは、まさに言葉通り、鬼に金棒なのであった。
場面は変わってことりんぱな。理事長、もとい猛士関東支部現局長に休日はない。今日は書類整理のために学校へ行くと言っていた。理事長に覚悟を示すため、いざ音ノ木坂へ。と意気込んだのはいいのだが。
「ことりたち、決心したとは言ったけど」
「まさか今出てくるとは思わなかったよ…」
「誰か助けてー!」
学校へ向かう途中、「こんな森あったっけ?」と疑問には思ったものの、何故か導かれるようにしてそこへ入り込んでしまった3人。案の定出るあてもなく、ただたださまよっていた。そこにぽつりと人影が見え、ああよかったと安堵したのもつかの間。正真正銘の魔化魍であった、という状況である。
「とにかく逃げよう!」
踵を返し、来た道を戻ろうとしたその刹那。魔化魍「コダマ」が、何かを呟いた。
「にゃっ!?」
「凛ちゃん!」
「ピャア!」
「花陽ちゃん!」
今まで静寂で支配されていた森が、突如侵入者を捕食せんとばかりに襲い掛かる。どこからともなく伸びてきた蔦がたちまち彼女たちを絡めとり、四肢の自由を封じてしまった。
「く、苦し…!」
「早く出ないと…!」
もがけばもがくほど、動きは少なくなるばかり。そのうち二人とも、木の幹に括りつけられたまま動けなくなってしまった。
「…ことりに用があるの?」
ただひとり残された、局長の娘。魔化魍には知能の高い個体も存在すると、先ほど花陽が教えてくれたばかりであったが、これに至っては、利用すべきものを「学習」させられここに来ているということを感じ取ることが出来た。人質にでもするつもりなのだろうか。しかし当の本人は、いつにもましてぼんやりと、昔の記憶をたどっているのであった。
「…あれはいくつの時だったかなぁ」
『ことり、誕生日おめでとう。はいプレゼント』
『ありがとうママ!』
『今年は特別に、これをあげるわ』
いつかの誕生日、その年は、なぜかプレゼントを二つ貰った。
『わぁきれいな笛!あれ?でもママ、これ吹いても全然鳴らないよ?』
『それは貴女のことを助けてくれる御守りよ。いつかは分からないけれど、その笛の音が鳴る日が必ず来るわ。その日まで、大事に取っておきなさい』
確かに、コダマ自身が知り得る情報の中で、最も魔化魍に関して「無知」であったのは、この南ことりに間違いはないだろう。だが、
「お母さんに、怒られちゃうかな?」
その母親が託した「想い」、そして娘が成長して紡いだ「覚悟」を、この化け物は知らされていなかった。
「凛ちゃん、花陽ちゃん」
森に響く笛の音が、また一人の「鬼」を目覚めさせる。逆巻く羽吹雪が、絡みついていた蔦を跡形もなく消し飛ばした。
「新しい世界、探しに行こうよ」
強い「私」へとなれる未来を目指して、戦士は舞う。
ことりちゃん戦います。
次回、四之巻「叫ぶ流星」