あたしは最後に、地下室の扉を閉めて鍵をかけた。
どうせ、前からあたししか使ってなかった部屋。
住人は最早あたしだけなのだから、鍵を捨ててしまえばもうこの部屋を開けることもないだろう。
あたしは扉に背を向け、1階へ続くコンクリートの階段を登った。
“ELISU”と書かれた、ピンクと白のプレートが取り付けられているドアを開く。
薄暗い部屋の中から、猛烈な臭いが吹き出す。
錆びた銅のような臭い…
愛する妹から溢れ、飛び散った、赤々とした血の匂いだ。
そっと頬に手を当てる。
雪のように白くなった肌。
着替えた服が血まみれになるのも厭わず、あたしは慧梨主の亡骸を抱き寄せた。
『あたしもすぐに行くからね…』
あたしは、側にあったナイフを手に取った。
慧梨主が自らの喉に突き刺し、刃の部分は真っ赤に濡れていた。
同じナイフで死ねば、同じ所へ行けるかも知れない。
本当のところは分からないけど、どうせ死んでしまえばもう考える事もない。
『待っててね、慧梨主…』
あたしは、自分の喉にナイフの先を押し当てた。
………………
……………
…………
………
……
…
『じゃあ…これからも頑張ってね。何かあったらすぐに言うのよ?』
『元気出して!…っていうのは無理かも知んないけど、とにかく身体に気をつけて…』
『…ありがとうございます。』
親戚の夫婦に頭を下げる。
手を振ると、二人は桜ノ宮家を後にした。
結局あたしは死ねなかった。
自分の首にナイフを突き刺そうとした時、あたしは気づいてしまった。
お姉さまを、嫌いになれないの_________
慧梨主が本当に悲しんだのは、あいつが慧梨主の心から離れてしまったことではない。
あたしが慧梨主を裏切ったことだった。
だってお姉さまは、私のたった一つの自慢…私の憧れだから_________
慧梨主があたしをどう見てくれていたか、本音を知ったのは死ぬ間際だった。
あたしが慧梨主を殺した_________
自分の過ちに気付くのが、あまりにも遅すぎた。
あいつは慧梨主を裏切ろうとしている酷いやつだ…
そう告げて、傷ついたらあたしが抱きしめて慰めてあげる。
そうすれば、慧梨主を失わずに済んだのかも知れない。
彼女にとって何が一番大事だったのか、あたしは何も分かっていなかった…
『ごめんなさい慧梨主…ごめんなさい…』
慰めてくれる人はいない。
あたしはただただ、一人で泣き続けた。
………………
……………
…………
………
……
…
学園を中退し、別の高校への転校が決まった。
転校を3日後に控えていたある日、あたしは洗面器の前にいた。
『ヴゥ…ガハッ…ハァ…ハァ…』
毎夜、悪夢があたしを苛んだ。
夜が来て、睡魔に襲われるのが怖くてたまらなくなった。
自販機の缶コーヒーにハマったのも、それがきっかけだった。
その日の夢は特に最悪で、あまりの気持ち悪さに嘔吐した。
『うぅ…』
自分の犯した罪に苦しみながら生きていくのもつらいが、あの世に行ってもきっと慧梨主は許してくれない。
死ぬに死ねない_________
まさに生き地獄だった。
『ひどい顔…』
鏡に映る自分を見る。
髪はボサボサ、2〜3時間くらいしか眠れずにいたのでクマがひどい。
涙と嘔吐して垂れた涎でぐちゃぐちゃだった。
『邪魔ね…切っちゃおうかしら。』
普段はポニーテールにまとめている長い髪を見て、あたしは近くにあったハサミを手に取った。
気がつくと、足元はあたしの茶色い髪の毛が散らばっていた。
『!』
セミロングに切り揃えた自分の髪を見た。
『慧梨主…慧梨主!』
慧梨主とほぼ同じ髪型にした自分の姿は、まさしく慧梨主そのものだった。
あたしは思い立った。
これからは、あたしが慧梨主になれば良い。
この世で味わえなかった楽しいこと、手に入れられなかった幸せを、あたしが与えてあげようと。
慧梨主に無かったあたしの性格も活かして、以前よりも元気で明るい、そして優しくて純粋に。
『慧梨主、そうよ!あたしは慧梨主!桜ノ宮 慧梨主よ!!』
鏡の向こうにいる“慧梨主”を、あたしはいつまでも見ていた。
………………
……………
…………
………
……
…
『へぇー、亡くなった妹さんにね…』
綾瀬ちゃんは、転校してできた最初の友達だった。
『うん…だから、この先段々性格が変わってくかも知れないけど、その…嫌わないで欲しいのよ。』
あたしは彼女に、自分の本心を明かした。
あたしは慧梨主として生きていくと決めた。
仕草や性格、好みとかも全て慧梨主に合わせていく。
完璧ではなくとも、気持ちは完全に慧梨主に成り切ろうとしていた。
そしていつか、身も心も彼女になるつもりでいた。
その時友達が一人もいなかったら、“慧梨主”があまりにも可哀想だと思った。
『大丈夫!亜梨主ちゃん良い人だから。あ、でも呼び方変えた方が良いよね…うーん、さくらちゃんとかは?名字から取ればどっちにも使えるでしょ?』
変わらぬ笑顔で明るく接してくれる綾瀬ちゃん。
『ありがとう。』
『まっかせてよ!その…慧梨主ちゃんの時に不幸にさせないようにしてあげるから!どっちも大事な友達だもの。』
きっと彼女の恩は、死ぬまで忘れない。
あたしはそう胸に誓った。
そして、あたしはどんどん“慧梨主”になっていった。
控え目な性格も、
好みも、
話し方も_________
一方であの娘に足りなかった、一歩踏み出す勇気が、いつのまにか備わっていた。
心の平穏を保つため、あいつを殺した記憶も都合よく改竄して、曖昧にして、“慧梨主”が壊れてしまわないようにした。
そうしてあたしの中の“慧梨主”は自我を持ち始め、新たな人生を歩み始めた。
綾瀬ちゃんと仲良くして、日々の生活を懸命に生きて、そして遂に“慧梨主”として恋をした。
あたし自身が演じていることは、決して思い出してはいけない。
そうなれば、もう二度と“慧梨主”は戻って来ない。
だから、不都合な記憶は避け続け、決して暴かれないようにしてきた。
パンドラの匣が開かなければ、あたしと慧梨主はずっと一緒にいられる。
叶えられなかった慧梨主の夢を、
今度は
そうして“慧梨主”は産まれた_________
………………
……………
…………
………
……
…
二重人格_________
亜梨主の話を聞いて、俺は謎の正体を探り当てた。
慧梨主から度々感じた亜梨主の面影。
あれは全て、亜梨主が慧梨主を演じていたが故だったのだ。
「何もかも上手く行ってたのに…やっと、やっと慧梨主を蘇らせられたのに…!」
そんなつもりじゃなかった。
そう言い返したかったが、悔しそうに顔を歪める亜梨主の表情を見ると言葉が出てこない。
「約束したじゃない、慧梨主を大切にしてあげてって…それなのに…」
だが亜梨主の形相のどこかに、慧梨主の優しい面影を感じてしまう。
突き飛ばして逃げるのは容易かったが、そのせいで動くこともできなかった。
慧梨主が死んでいた_________
亜梨主にアイアンで殴られて、こめかみから血がドクドク流れていたが、俺はショックで痛みも忘れていた。
「返して…あたしの!慧梨主を!!返しなさいよぉッッッ!!!」
亜梨主はアイアンの無い方の手で、俺の胸ぐらを掴んだ。
「ひっ…」
「アンタさえ現れなきゃ、こんなことにはならなかった!アンタのせいよ!アンタがあたしの“慧梨主”を殺したのよ!!」
そう言い放つと、女のものとは思えない強さで俺を突き飛ばす。
バランスを崩して、部屋の隅に崩れ落ちた。
「待ってよ、俺はただ…」
そこまで言って口をつぐむ。
現実に“慧梨主”は消滅してしまった。
この部屋の扉を、仏壇を開けてしまったがために。
パンドラが好奇心から箱を開け、この世の災いが溢れ出たように。
俺が好奇心から開けた扉は、俺が一番愛した人をこの世から消した。
例えそれが、亜梨主の作り出した虚像だとしても…
俺の責任だった。
「言ったわよね?もし悲しませたりしたら、殺すって…」
アイアンを片手に俺を見下ろす亜梨主。
亜梨主が殺した慧梨主の兄さまが、最期に見た景色と同じだろう。
亜梨主は俺を睨みつけ、両手で8番アイアンを振り上げた_________
『ッ…』
俺は覚悟した_________