風が吹き、草木が囀りを響かせる。日は照り、穏やかな気候に恵まれている。
これほど気持ちのいい日など滅多にない。最高の散歩日和だ。
クロノはそんな散歩日和のなか、海鳴市を一人で歩き回っていた。特に目的もなく、頭をリフレッシュさせるために散歩に出かけているだけの平和な時間だ。
雑務に追われる毎日。執務室で書類と睨めっこする自分。動く時は必ずと言っていいほど戦闘が関わる。そんな日常を送るクロノにとって、ただの散歩も有り難い褒美と言えるだろう。
「墓地、か」
クロノはヴォルケンリッター、闇の書について延々と考えながら歩を進ませていたら、いつの間にか見知らぬ墓地にへと足を踏み入れていた。どうやら自宅から随分と歩いたようだ。
「ほぅ………」
後ろを振り返ると海鳴市が一望することができる。ちょっとした丘を知らず知らずの内に登っていたようである。しかし偶然来た場所にしてはなかなか悪くない場所だ。
空を飛び、海鳴市を一望するのと地面に足をつけ、一望するのとでは景色の味わいようが大きく変わってくる。
“何度見てものどかな街だ”
このような場所で闇の書事件などと言う厄介事が起きていると思うと胸が痛くなる。此処に住む人々は魔法も知らぬというのに。
そして今自分達がどんな状況に立たされているかすらも、知ることができない。
「それにしてもこの違和感は、いったい何なんだろうな」
不思議とこの街を見ていたら懐かしい気分になる時がある。とても初めて訪れたとは思えない、大切な思い出をここで作った……そんな気がしてならない。
しかし幾度思い返しても、幼い頃にこの町にきた覚えなど無い。覚えはないのに、懐かしく感じる。まったく、訳の分からない感覚に陥ってしまっているようだ。
恐らくどれだけ考えてもその理由は分からずじまいで終わるのだろう。意味もなく、根拠もなくそう確信できた。
「ッ、誰だ!」
不意に背後から物音が聞こえた。
クロノは警戒を強くし、
この街には闇の書の主とヴォルケンリッターが滞在していることは決して忘れてはならない。そう、いつ奇襲されてもおかしくはないのだ。
もし襲われるのなら、願ったり叶ったり。返り討ちにして捕縛してやろうという気概はある。だがいつまで経っても誰も姿を現さない。それどころか殺気も、人の気配すらもない。クロノは警戒心を保ちながら、ゆっくりと物音のした墓の一つに近づいていく。
「…………」
そして、クロノは声を詰まらせた。
クロノが見つけたのは傷だらけになっている一匹の子狐だ。本来はふさふさであったのだろう獣毛は酷く荒れ、赤黒い血がこびり付いている。
その様は、命に関わる状態であると誰が見ても明らかだった。
「これは酷いな……」
クロノは急いで治療魔法陣を子狐の周りに展開する。重症ではあるが、幸いクロノは治療魔法を習得している魔導師だ。獣を治療することなどわけはない。
外傷を見たところ、犬に手酷くやられたようだ。八重歯の歯型がくっきりと、痛々しいほど残されている。これだけの傷を負わされて尚、生きて逃れて治療を行なえる自分と出会うことができたのはもはや奇跡に等しいだろう。
“運の良い子狐だ”
治療魔法を当てられた子狐は次第に血色が良くなっていき、深く抉れた傷が塞がれていく。やはり最も尊く、強く、誇りある魔法は治療魔法である。
「………よし。怪我は大方完治できたな」
外傷も内傷も無事癒すことに成功した。これも日頃から怪我しまくる剣馬鹿をおかげだ。今回ばかりは皮肉って感謝しておこう。
「もういいぞ。そら、元来た場所にお帰り」
「くぅん!」
「え、ちょっと何を!?」
クロノは動き回れるほど回復した子狐を見てそう言ったのだが、子狐は自分から離れようとしない。それどころか見事な脚力を持ってクロノの肩に飛び乗り、さらに頭へとよじ登ってしまった。
「こら、僕の頭から降りるんだ!」
「くぅん!!」
「当たり前だが何言っているかさっぱり分からん!」
「くぅん! くぅん!!」
引き剥がそうとするクロノを子狐は剥がされまいと必死にへばり付く。
「くっ、この……痛たたた!? 爪を引っかけるな尻尾を首に巻くな!」
「くぅん!」
そのまま数十分の死闘の末に、とうとう根を上げたのはクロノだった。
この子狐、外見に似合わずかなり強情だ。あのなのはに通ずるものがある。
心なしか何処かで出会っていたような親近感もあって、心が先に折れた。
「分かった。分かったよ。僕の負けだ。だから、お願いだから僕の頭から降りてくれ」
クロノの懇願に、子狐は得意げに鼻を鳴らして自分の頭から飛び降りた。
この子狐、まさか人の言葉が理解できているのではないだろうか。
「くぅん!」
今度は尻尾を大きく振りながら、自分のズボンの裾をぐいぐいと引っ張ってくる。
「僕を何処かに案内したいのか?」
クロノの問いにコクコクと頭を上下に揺らす。どうやら、本当に自分の言葉を理解しているらしい。
見たところ魔獣の類ではないようだが……まぁ、細かいことを気にしていても仕方がないか。クロノはこういう動物も地球にはいるのだと己の心の中で自分を納得させた。
“さて、ついてこいと誘われているがどうしたものか。見るからに森の奥地に行こうとしているが、ここでついていかなかったら後々面倒くさそうだ”
仕方なくクロノは子狐についていった。
………いや、やっぱりこの子狐とは初対面な感じがしないのは何でだろう。
………………
……………
…………
………
……
…
「ここ、は―――」
子狐に誘われ、森の奥に進んでいき、抜けた先に到着した場所を見たクロノは絶句した。
「草原…それに、かなり大きな湖だな。ゴミどころか人が立ち入った跡もない」
美しく、静かな場所だ。こんなに環境が整った場所はミッドチルダにも早々ない。
クロノはゆっくりと湖に近づいていく。そして腰を下ろし、水面を覗きこむ。
「ほう……凄いな。水が透き通っている。濁りが全くないぞ」
「くぅん」
「なるほど。この場所を教えてくれたのが、君なりの恩返しということか」
子狐の頭を優しく撫でる。すると子狐は気持ちよさそうに目を細めた。
クロノは別に動物が好きだというわけではないが、こうして動物の幸せそうな仕草を見ると自然と心が安らげる。
少し気負い過ぎていた気持ちも軽くなっていくような気がした。
「また時間が空いたら来るとしよう。お前も、もう犬に捕まるようなヘマはするんじゃないぞ」
「くぅん………!!」
クロノは絶景と言えるほどの景色を堪能したところで帰ろうとする。
すると背後から子狐がまた頭のてっぺんまでよじ登ってきた。
「またか………ん?」
再度引き剥がそうとしたが、子狐の異変に気付き、彼はすぐにその動作を止めた。
“この、反応は”
子狐は必至にクロノの頭にしがみ付き、カタカタと震え出している。尋常ではない怯えようだ。まるで孤独を恐れているような、そんな恐怖が伝わって来る。とても駄々をこねているようには思えない。
「まさか、今お前には親がいないのか?」
「……………」
今まで卒なく鳴き声で返事してきた子狐が、今度は何も言い返さず黙然とした。
嫌な予感がする。
「帰るべき場所は?」
「……………」
この問いにも答えない。子狐の傷跡、そしてこの異常とも言える怯え。親狐の姿もない。導き出される憶測は、最悪なものだった。
“参ったな”
クロノは暫し腕を組み、熟考した後に出た己の結論に溜息を吐いた。
「………はぁ。この僕も、つくづく甘い」
親狐が死亡している可能性が高く、また帰るべき場所もないのなら放っておくわけにもいかない。
それにここまで懐かれているのを無理矢理拒絶するのも気が引ける。
「家にくるか? 子狐」
「くぅん!!」
クロノの言葉に子狐は尻尾を大きく振って喜びを表現する。
彼はやれやれだと言い、子狐を連れ元来た道を帰っていくのだが――――さて、動物好きのリンディとエイミィはともかく、家政婦の化身とも言えるエミヤはどのような反応をするのだろうか。
……………
…………
………
……
…
「これと言って拒否する理由はないな。だが一度飼うと決めたのなら、最後まで責任を持って面倒を見るんだぞ、クロノ」
赤いエプロンを着てキッチンについているエミヤは、此方に振り向かず、背中を向けながら承諾した。
彼の厳格な口調とその後ろ姿は、「途中で捨てたら許さん」と堂々と語っている。
「ふむ。それならば狐の飯も作ってやらなくちゃな。あぁ、そうだ。飯を食わせる前に子狐の泥だらけの身体を一度洗わなければ。クロノ。すぐ風呂場にいって子狐を洗ってこい」
「あ、ああ」
この弓兵、渋るどころかノリノリである。
クロノはエミヤの指示通り、急いで子狐を担いで風呂場に向かっていった。
「へー、シロウって動物好きなんだ」
エミヤの横でキャベツを刻んでいたフェイトは嬉しそうに笑う。
実際、彼の思わぬ一面を知れて嬉しいのだろう。
「別に好きというわけではない。ただ親も、帰る場所も、自立する力もない命を見捨てるわけにもいかん。それにクロノは責任感の強い男だ。最後まで面倒を見るだろう」
その力強い言葉で、どれほどエミヤがクロノ・ハラオウンを信頼しているのかがよく分かる。そう、彼らはまさに無二の親友と言える間柄なのだ。互いの背中を任せられる、命を預け合える深い絆を持っている。
――――羨ましい、とフェイトは思った。
自分は未だに『エミヤシロウ』という男を何一つ知らないし理解できていない。
命の恩人であり、なのはと同じく自分を本当の人間にしてくれた人だというのに。
「手が止まっているぞフェイト。キャベツを切り終えたら次はトマトを頼む」
「あ、はい!」
クロノに対する嫉妬紛いな気持ちを押し込めて、フェイトは料理の手伝いに集中するのだった。
◆
エミヤとフェイトが作った食事を残さず食べ終え、皆が皆自由な時間を過ごしている中、クロノは一人自室に籠り、頭を捻りながらある重要なことを真剣に考えていた。
それは闇の書でもヴォルケンリッターのことでもない。今日から飼うことになった子狐の「名前」についてだ。
「うーん」
あまりこういったことをしたことが無いクロノは必至になって何か良い名はないか模索する。名前を付けるのならせめて人の耳に入っても恥ずかしくない名を与えてやりたい。そう思ってはいるのだが、中々いい案が浮かんでこない。子狐の性別は雌なので、尚更ハードルが高くなっている。
“「フォックス」、は余りにも雄向けの名前だな。もう少し愛らしいものがいいだろう”
これから先、ずっと呼び続ける大切な「名」だ。適当に済ますことは許されない。
「くぅーん♪」
まだ名のない子狐はコロコロと転がるボールを楽しそうに追い掛け回す。前足では突き、時には飛び掛かったりしてじゃれついている………明日からはもっと遊び道具を増やしておこう。
「そうだ。鳴き声を弄って考えてみるか」
クロノはポンと手を叩き、閃いたという表情を顔に浮かべる。
子狐の「くぅん」という鳴き声は特徴的だ。折角だからそれから成る名前を作るとしよう。
さぁ、今こそ自分の発想とネーミングセンスが問われる時だ。クロノは子狐を呼んで、自分の前に座らせる。真剣な顔をして、クロノは己が考えた子狐の名前を口にする。
「『
この世界この日本に生まれ育ったのだから、それに適した雰囲気にしてみた。
個人的にはなかなか悪くないと思うのだが………さて、名を提案された子狐はどう思う。 クロノは固唾を呑んで反応を窺う。
「くぅん!」
名を提案された子狐は愉快そうにぴょんぴょんと跳ね回る。鳴き声も嬉々したものだ。まさに子狐の反応は良好そのもの。
これは、気に入ってくれたと判断してもいいだろう。クロノはホッと胸を撫で下ろす。気に入ってくれたようで何よりだ。
こうしてハラオウン家には一匹の子狐が家族として加わった。久遠はクロノ・ハラオウンだけではなく、多くの人々の疲れを癒す必要不可欠な存在となるだろう。
一方その頃………
狼少女:「なんかあたしの立場を危うくする敵が現れたような………」
言峰夫妻の家で過ごしていたアルフは獣的直観で只ならぬ危機感を感じたそうな。
『とらハの久遠とは設定が大分異なります』