獣としての本能か。それとも騎士としての直感か。或いはその両方か。
エミヤとクロノが共に今回の任務に不吉な予感を感じたように、ザフィーラもまた只ならぬ気配を感じ取っていた。
彼は早朝即座に七つの渦の内の一つのポイントである海鳴高等学校付近にまで足を運んだ。そして獣形態から人間形態になり、高等学校一帯を見るこのできる近くのビルの屋上に上り、ポイントを一望する。
そのまま数時間その場に留まり神経を研ぎ澄まし、ポイントを凝視し続けた。気が付けば日没が始まるほど念入りに。
「……………」
やはり多大な魔力の奔流すら感じられない。何の変哲もない場所にしか見えない。
しかし、それでもザフィーラは恐ろしく感じて止まない。
この建築物の地下に眠っているナニかが、致命的なまでに危険極まりないと本能が、感が、必死に叫んでいる。
「………私は、臆しているのか」
今日この日まで数多の魔獣と対峙してきた。
綺礼やアルフ、クロノのような猛者とも拳を交わした。
果てには世界すら破壊する闇の書の『闇』とも仲間と共に奮闘した。
しかし、どの戦いにおいても決して己は臆することなどなかった。
むしろ血肉が沸き起こるような昂揚感を受け、本能を奮い立たせて戦ってきた。
だが―――今回ばかりはそういった昂揚感も皆無に等しい。
おかしなものだ。たかが海鳴市の地脈に異変を起こしている魔道具を破壊もしくは回収するだけの任務。明確な敵も現れるかどうかすらも不明であるはずの任務。しかし自分は確信めいているほど分かってしまっている。
「ナニかが潜んでいる………」
そのナニかが何であるかまでは分からない。
魔獣か。怪物か。それとも別次元の生物か。
何にしても、対峙するべきではないレベルのナニかが待ち構えていることだけは分かる。
「…………む?」
険しい顔を露わにしていたザフィーラはふと上空を見上げる。
この華にも似た匂い。どこぞのお転婆娘が此方に近づいてきている。それも猛烈な速度で。
するとザフィーラの予測通り、とんでもない勢いで上空から此方に突っ込んでくる物体を目視することができた。
「少し飛行速度が上がったか。未だに成長真っ盛りな若者というだけはある。関心関心」
アルフの成長具合にザフィーラはコクコクと満足げに頷く。好敵手がよりよく育つことはいいことだ。それもこれだけの短期間でこの成長速度となれば自然と期待も大きくなる。
しかし当の本人はそんなザフィーラと対照的で攻撃的な意思しか見受けられないのはどうしたことか。しかも敵意どころか殺意すら内包してしまっている始末。
「ザフィィィィラァァァァァァ!!!」
怒号を飛ばしながら上空からの落下速度+魔力による飛行速度+怒りの力という驚異の三乗効果を纏いながら突っ込んでくるアルフ。どう見ても怒っている。そして止まる気配もない。
これは何故そんなに殺意丸出しで襲い掛かってくるのだと問う前にキチンと対処した方が身の為だろう………このまま無防備で突っ立っていたら間違いなく自分は重症を負うのだから。
「いつにも増して騒がしい娘だ」
溜息交じりにそう言ってザフィーラは右手を差し迫る彼女へと向ける。
流石に鋭い切れ味を誇る鋼の軛で迎撃してしまうのは明らかにやり過ぎなので、此処は穏やかにあの猛突進を素手で受け止めることを選択した。
「うおりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「――――止まれ」
そして彼女の超高速ヘッドバットを難なく片手一本で受け止めた。
無論、衝突の衝撃までも受け止めることはできないのでソレは地面へと流すのだが……その結果、ザフィーラが立っていたビル屋上のコンクリートが少々破損してしまった。後で修理しておかなければエミヤとクロノに何を言われるか分かったものではない。
「…………くッ!!」
勢いを殺された挙句に軽々と自身の全力全霊の頭突きを対処されたアルフはただただ遺憾とばかりに悔しがる。彼女には悪いがアレをモロに喰らえば盾の守護獣とて危険だったのだ。こればかりは勘弁してもらいたい。
「あたしの全力頭突きを片手で受け止めるなんて………クソっ、まだこんなに実力に差があるってのかい。腹立たしいことこの上ないね」
「………どうした。何をそんなに荒れている」
「どうした……だぁ? あたしとの模擬戦ほったらかしてよくもまぁそんなことを!」
バシッとアルフは頭を掴んでいた手を払い除けてそう自分に訴えた。
彼女は気丈に振る舞っているが、目が少々赤く腫れている。というか涙目になっている。
そしてようやく自分の過ちに気付いたザフィーラ。
あまりの失態にいつもの鉄面皮が崩れ、更にはサーッと血の気が引く音を立てながら青ざめる。
先ほどの頭突きは命に危険があろうと無かろうと素直に甘んじて受けるべき制裁であった。
冷静に対処するべきではない一撃だったのだ。
〝しまった……そう言えばそんな約束事をしていたな。完全に忘れてしまっていた”
これには流石のザフィーラも全面的に自分に非があると認めざるを得ない。
いくら気になることがあったといえど、彼女の約束を放置していた上に忘れていた。
これはどれだけ言い訳を取り繕ったところで火に油を注ぐ行為にしかならないだろう。
何より、約束を破ったばかりか女性を泣かしてしまった過ちを騎士として………一人の男として深く恥じた。
「すまん……いや、すまなかったアルフ」
鍛え抜かれた腰を90度に折り、アルフの前で綺麗に頭を下げて謝罪するザフィーラ。
今まで常にアルフを上から見ていた彼が頭を下げたのだ。それもあっさりと。
だが誠意はある。反省の色も伺える。その場凌ぎで軽々しく頭を下げたわけでは決してない。
それは彼女とて理解できた。分かっているのだ十分に。
しかし――――
「ハッ、こちとら一日中お前を信じて待ってたんだぞ! そんな謝罪一つで………!」
それでもアルフは許すつもりなどなかった。それほど頭にきているのだ。それほど楽しみにしていたのだ………ザフィーラと約束していた今回の模擬戦を。
いや、本当に怒っているのは模擬戦が行えなかったなどという小さなことではない。あのザフィーラが、好敵手が、戦友が自分との約束を破った上に忘れていたという事実についてこれ以上にないショックを受けているのだ。
アルフはザフィーラが約束を破らない男と信用していたからこそ心の底から信じて待っていた。予定の時刻を過ぎてもただの遅刻だろうと大目に見るつもりだった。嫌味一つで許すつもりだったのだ。
そして日没が始まったところでようやく自分は約束を破られたのだと知ってしまった彼女の心象は如何程のものだっただろうか。何にしても未だに成人どころか齢が二桁にまで達していないアルフには辛い現実だっただろう。
故に頭を下げたから、誠心誠意を込めて謝罪をしたから「はい分かりました許します」と簡単に頷くことは今の彼女には出来なかった。
「無論、謝罪のみで済ませるつもりは微塵もない! 許されようなどとも考えていない!」
謝罪で彼女の怒りが収まらないのはザフィーラとて百も承知。
だが謝らないことには何も始まらない。申し訳も立たない。
「約束を違えた償いに……お前の望み、俺が叶えられる範囲なら全力で叶えることを約束する」
肝心なのは謝罪をした後に、彼女が納得できる償いをできるかどうかである。
何事にも言葉だけでは駄目なのだ。己が体で過ちを犯した罪を償うだけの
「………ふうん」
アルフはまじまじと綺麗な謝罪フォームを取り続けるザフィーラを見下ろす。
彼は頭を下げてから一ミリたりとも微動だにもしていない。恐らく自分が了承の言葉を発しない限り絶対に動くことはないだろう。
「………仕方がないな…うん」
ここまで誠意を見せられては引き下がらないわけにもいかない。むしろこれ以上猛進反省しているザフィーラを責めても意味はなく、約束を反故した償いをする姿勢まで見せてきたのだ。いい加減怒りの矛を収めなければ自分の器も知れるというもの。
頭に血が上っていた状態も解け、柔らかな思考が行えるようになってきたアルフは溜息を吐いていつもの落ち着きを取り戻した。
「ザフィーラ………男に二言は無いね」
「無論だ。非現実的、反社会的な願いでなく、俺個人が叶えられる範囲の願いなら全力で叶えよう。努力することは厭わない。騎士として、盾の守護獣として此処に誓う」
厳格な物言いでここまで言うか。
流石は根っからの騎士。同じ獣とは思えないとアルフは呆れかえる。
しかもザフィーラ個人が叶えられる範囲の願い…とちゃんと現実的な上限もつけてくる辺りキッチリしているものだ。
「そりゃ御大層なこった」
「それで、これで
頭を下げ続けながら問う好敵手にしてアルフの目標。
まるで彼の騎士としての誇りまでも踏み躙っている感じがして段々心が痛くなってきた。
これではプレシアのようなヒステリック女と同等ではないか、自分は。
「わかった。分かったよ。それで妥協する。許すよ。だから面を上げてくれ………」
「助かる……今一度、謝罪をさせてくれ。すまなった」
「アンタの誠実さには呆れるばかりだよ。あたしはすっかり毒気を抜かれちまった」
彼はただただ真っ直ぐな芯を持っている。
その誠実さ、堅実さは獣とは思えず、高い忠義は騎士のなかの騎士。
女との約束を破っても決して小さいことだと蔑ろにせず誠心誠意頭を下げ続ける。
〝ああ、自分は本当にバカだ”
この男の強さは肉体面だけでも、100年以上の膨大な戦闘経験だけでもない。
何よりもその真っ直ぐな性根が彼を此処まで強くしている。
そんなことをこんな喧嘩で理解してしまったのだ。自分が情けないと思うのも仕方がない。
何にしても一向に自分が彼に届かない理由の一つが分かった。
これはただ力を追い求めているだけじゃ勝てない。力の根本となる強度が違いすぎる。
「やっぱアンタはズルいわー」
「なに?」
当の本人は自分がどれだけ強靭な存在なのか理解できていない。
これはもう全くの無自覚である。それがまた嫉妬せざるを得ないザフィーラの強み。
自身の在り方を尊くとは思わず。されど卑下にもしない。
ただただその在り方、生き方が、考え方が『当然』とばかりに受け入れ生きている。
「………何でもないよ。それよりさっきの約束忘れるんじゃないよ」
「ああ。もし破るようなことがあれば好きなだけ俺を痛めればいい」
「………その必要はきっとないだろうさ」
この男が不誠実なことをするなどあり得ない。
あり得ないからこそ、今回の約束を破った理由が聞きたいとアルフは思った。
「アンタがバカ正直でバカ真面目でバカ誠実なのは十分理解できた。だけどそんなザフィーラが、人との約束を忘れるほどのことってなんなのさ」
「……………」
「黙秘は許さない。あたしには知る権利がある」
そうだ。これほどの男が、自分との約束を忘れてただ散歩に出かけただと? それも日が落ちるこんな時間帯までウロウロしていたというのか。
それこそあり得ない。
ザフィーラは先ほどの謝罪のなかで一言も約束を忘れた理由を話さなかった。きっと話したところで自分が女々しい言い訳だと断じると思っていたからだろう。
………悔しいが、その通りだ。あの頭に血が上っていた自分はきっと彼の弁解を一蹴していたに違いない。それどころかどんな言葉も火に油。ただ怒りを増幅させるだけだったのも間違いない。
だからこそ頭を冷やした今の状態であのザフィーラが約束すら忘れるほどの事情を知りたいのだ。
「………お前は、海鳴市の地脈に存在する七つの渦については聞いているな?」
口を開いたザフィーラは言うや否や突拍子もないことを聞いてきた。
「聞いてるも何も、そりゃ聞いてて当然だよ。何せ海鳴市全域の問題だからね」
問われたアルフはこくりと頷いた。
七つの渦については昨日エミヤから詳しく説明を受けたばかりだ。知らないわけがない。
「確かその渦全ての中心には異世界が形成されていて……えーと、更にその異世界を構成している
「そうだ。四日後には編隊を組みその一つの渦にある異世界へと赴くことになっている。で、俺達が最初に赴くことになっているのがあの海鳴高等学校だ」
「ああ、此処から一望できるあの建物か………もしかして、アンタはずっと此処でアレを見ていたのかい? 朝からずっと? 日が落ちるまで?」
普通考えられない。
朝からずっと、あの変哲のない建物を見続けていたというのか。
戦場での脱出ルート、進軍ルートを確認するために地図を見続けるならまだ分かる。
美しい風景を長時間楽しむのならまだ分かる(それでも10時間以上見続けるのは引くが)。
だがあんな建物をただただ朝から晩まで見続けるなど理解できない。自分は長くて30分程度で根を上げてしまうだろう。
「お前は感じないのか。あの建物……否、その真下の地表から感じ取れる嫌な気配を」
「気配? あたしには魔力の流れも、敵の気配も感じないけど」
「………俺は、感じて止まないな。それは獣としての本能か。それとも騎士としての感か。或いはその両方か。何にせよどうにもあの真下にある渦………その異世界には相対すべきではないナニかがいると煩く叫んでいる」
これほど何かに対して危機感を覚えているザフィーラは初めて見る。
少なくともアルフはこんな彼を見たことが無かった。
………成程。これは確かに自分との約束事を忘れてしまうのも無理はない。
彼はこれ以上になく未知なる存在を――――恐れている。
「それが……あたしとの約束を忘れるほどの
その言葉を聞いたザフィーラは静かに笑う。
先ほどアルフの言ったこと全てがザフィーラの図星であった。
自分の思考を見抜かれている。そんな経験、これまで彼には一度として無かったことだ。
仲間の守護騎士、アースラ隊、主はやてにすら自身の心象を悟られたことがないというのに。
「情けないと笑ってくれも構わない。そんなことで約束を反故したのかと怒ってくれても言い返せない。俺はただ何の根拠もない、ただ嫌な予感を、気配を感じ取ったというだけで身構えているようなものだからな。現時点では赴く異世界に敵がいるかどうかも分からないというのに………」
「いいや………歴戦の兵にして古の狼がそういうんだ。間違いないんだろう。まだ餓鬼のあたしにはアンタみたいに本能だ、直感だ、感だと言えるほど一人前じゃないからね。きっとザフィーラのその嫌な気配ってのは思い違いじゃないんだろうよ」
アルフはザフィーラに呆れることなく、失望することもなく、また怒ることもなくそう言った。
そんなアルフの言葉に彼は苦笑してしまった。
いつの間にか随分と自分は信頼されるようになったものだ……と。
そしてこんな自分が彼女に信頼されていいものかと悩みもした。
「ああ、俺の不吉な予感など悉く外れてしまえばいいのにな」
「たぶん無理だね。あたしのお墨付きだ」
「他人事ではないというのによく言える」
今回の任務はザフィーラや守護騎士だけではない。アルフの主であるフェイト・T・ハラオウンも参加せざるを得ないだろう。
何せ彼女はもう立派なアースラ隊の主力メンバーだ。幼いから、未熟だからと言って危険から遠ざけられることはない。むしろ率先して前線に立たなければならない立場にある。
無論、フェイトの使い魔であるアルフも主と共に同じ場所に立たなければならない。
もしザフィーラの不吉な予感……対峙すべきではない危険なナニかが待ち受けているのだとしたらその脅威は彼女達にも牙を向く。
しかしアルフはそんなこと関係ないとばかりに力強く言い放つ。
「どんな敵が現れようが、あたしはあたしの責務を全うするだけさ。きっとあの異世界に赴くだろう主人のフェイトは必ず守る。自分の身も自分で守る。強い敵が待ち構えているっていうならどんと来いさね」
アルフはザフィーラを前にしてそう言って不敵な笑みを零した。
自分がこれほど意気込んでいるというのに、お前はそんなに弱腰になっていていいのかと。
それで盾の守護獣が名乗れるのか……と。
「――――ふ」
その意図を汲んだザフィーラは曇っていた表情を祓い、彼も負けじと不敵な笑みを浮かべた。
「………そうだな。全く持ってその通りだ。お前のその意気込みだけは見習わなければな。この俺も、尻込みばかりしていては盾の守護獣の名が廃るというもの」
「そうそうあたしの意気込みだけは見習……ん? 意気込みだけ? まるでそれ以外見習うところがないみたいな言い草じゃないか!?」
「実際そうなのだから仕方がないだろう。悔しければ早々に俺を超え、見習うべきモノを多く習得しろ。だがまぁもう暫く時は必要だと思うがな」
「アンタねぇ。さっきまで頭下げ続けていたのをもう忘れたのかい!? あたしの要望を叶えるって約束もちゃんとあるんだからな!」
「勿論忘れてはいない。約束もお前が望むものを一つ口にすれば今からでも全力を尽くして叶えようとするとも。だがソレを脅しの材料にしてチラつかせ、立場の優劣を握ろうとするほどお前は矮小な女なのか?」
「う……………」
痛いところを突かれたとアルフはつい唸り声を上げる。
つい先ほどまで企んでいた立場優位計画が音を立てて崩れ去っていく。
確かに相手の弱みに付け込んで立場的優位に立とうなどと卑しいことこの上ない考えだ。
「まぁ俺が認めた好敵手であるお前がそんな浅はかなことを考えるわけもないだろうがな」
「ふ……あはは。と、当然じゃないか。当たり前じゃん、そんなの」
「ああ、それを聞いて安心した」
なんだか上手く掌の上で踊らされた感じがしたのだが気のせいだろうか。
「だが……今回ばかりはお前に迷惑をかけた。そればかりか俺の恐れを祓ってくれた。申し訳ない気持ちもあるし、感謝もしている。」
「ふん。今更そんなこと言って――――」
「謝罪と礼を込めて今夜は飯を奢ろうと思っている……どうだ?」
「――――へ?」
「無論、誠心誠意も込めて手料理を振る舞うつもりだ」
「………あ、アンタって、料理できたの?」
「皆揃ってそのような反応をする。だが腕には自信がある方だ。流石にエミヤには負けるがな」
料理ができる……この筋肉男が?
戦闘しか脳がなさそうな騎士が?
喰らうことを第一とする獣が?
〝―――まじか”
一種の稲妻がアルフの肉体を駆け巡る。
格闘でも負け、家庭的なものでも負け―――だがそれ以上に彼から手料理を作ってもらえるという機会に強い衝撃を受けた。
「無理強いはせん。いくら奢りとはいえ俺の手料理など、謝罪にも礼にも及ばぬものだと断ってくれれば他の方法で………」
「いや、そんなことないさ! うん、そんなことない。是非とも食べてみたいよあたしは!」
アルフは全力で食らいつく。
この男の手料理ほど気になる食べ物はない。是が非でも食してみたいと心の底から思った。
「そ、そうか。それほど期待してくれるのなら、此方も気合が入るというものだ」
「そうと決まればさっさと八神家に帰るよ! ほら早く!」
アルフに引っ張られながらザフィーラはビルの屋上から去って行った。
………
……
…
「甘酸っぱいねぇ………」
ザフィーラとアルフのやり取りを一部始終を見ていた
せっかく先ほど買ってきた無糖の缶珈琲がまるでミルク珈琲のように甘ったるく感じる。
「まさか見回り中にあいつらと出くわすとはな。ったく見せつけてくれる」
ヴァイスは何とも言えない顔をして煙草に火をつける。
自分も命を張った仕事をしているのだ。未成年といえどこれくらいの嗜好品は許してほしい。
闇夜に浮かぶ煙草の灯。それは体に有害なモノだというのに不思議と美しく見えた。
「――――ふぅ」
流石に煙草まで甘くなっていなくて安心した。
主流煙が喉を通り肺を満たすこの昂揚感がまた堪らない。そして止められない。
「………相対すべきではないナニかがいる……ねぇ」
ザフィーラが口にしたあの言葉。
それをヴァイスは妄言と笑うこともなく、真摯に受け止めた。
恐らく彼の予測は的中しているだろうと思うほど。
〝クロノさん、師匠、俺にその他武装隊員数名が同じ危機感を抱いている。
こりゃ偶然と言うには無理があるなぁ………流石に”
実際のところ、ザフィーラだけではないのだ。実は現在数名の人間が同じくしてあの異世界に対して危機感ないし不安を感じていたのである。
ある者は本能が訴えていると言う。
ある者は直感が危険だと囁いていると言う。
ある者は感が告げてると言う。
誰も彼もが説明できない嫌な気配を感じ取っている。
それも戦場に長くいた人間ほど。命のやり取りを多くしてきた人間ほど。
確証もなければ根拠もない。
だが歴戦の戦闘者達は皆口を揃えて『危険だ』と言う。
これは何にも勝る確信に成り得る材料だ。
〝いよいよもって雲行きが怪しくなってきやがったな”
ヴァイスは焦っていた。
自分を含め、皆が警戒するほどの危険がこの海鳴市の地下に眠っている。それも七つも。
それは身の毛もよだつ恐怖だ。
例えるなら核弾頭モドキが市民の住む真下で機能しているようなもの。
そこらの不発弾とではまるで規模が違い、底が見えない恐ろしさがある。
「ここまで早く日数が過ぎてほしいと思ったことはねぇ………」
一日一日が惜しい。
街の異変を一刻も早く取り除かなければならないという使命感に駆られる。このグータラがだ。
「俺らしくないと言えばらしく――――」
――――ゾクっ――――
「………っ!」
不意に背後から敵意では生温い殺気が感じられた。
「シッ!」
間髪入れずに裏拳を背後の人間の撃ち込み、相手が怯んだ隙に強烈な横蹴りを両足に叩き込む。
「く………!」
「生憎……今の俺は虫の居所がすこぶる悪い。相手が誰だろうと容赦はしねぇぞ!」
大地を支えていた足が弾かれ、無様に転がる人間。
ここでヴァイスは追撃とばかりにその人間の腹の上に跨る。
このまま殴り続けて気絶させることも吝かではないがストームレイダーによる直射の方が効果的であると判断。無論、思い至った瞬間ヴァイスは行動に移した。
「これで――――」
唯でさえピリピリしていたヴァイスはいつもの飄飄とした軽さは微塵も感じられない。
頭をぶち抜く気概で
そして素早くストームレイダーを倒れ伏している敵の頭部に突き付けた。そしてそのまま軽い引き金を――――。
「なッ!?」
引くところで思い止まる。
月の光がヴァイスと彼が跨っている人間に降り注いだのだ。
そこでようやく気付くことができた。
「姐……さん………?」
今、ヴァイスが撃とうとしていた人間はシグナムだったのだと。
しかも武装をしていない、白い縦セーターという普段着を着ている状態の。
「――――あ、あっぶねぇ」
確かに容赦はしないとは言ったが相手が美人かつ仲間なら話は別だ。シグナムであるのなら尚更である。それに騎士甲冑も、己のデバイスすら装備していない彼女に魔弾など放ったら参事に繋がる。もし仮に眼球に魔弾を喰らえばさしもの非殺傷設定ですら機能しないのだから。
「危うく………撃っちまうところだった」
ヴァイスはカタカタと震える手を抑えながらストームレイダーを待機モードに戻した。
吐き気がするほど焦った。背中は冷や汗でびっしょりだ。
彼はゆっくりと跨っていたシグナムから離れて地面に座り込んだ。ビルの屋上のコンクリートは嫌というほど冷めていた。まるで今の自分のように。
対するシグナムは何やらしたり顔だ。
「仲間が放った殺気を判別できないようではまだまだ未熟だな、ヴァイス。だが流石に軍隊で格闘術を学んでいただけはある。獲物なしでの勝負では私の方が劣っているようだ」
「いやなに考えてんだアンタ!? 今回ばかりはいくら何でも悪ふざけがすぎるぞ!!」
ヴァイスは切れた。心に余裕がないことも相まってマジ切れだ。
いつも姐さんと言い慕い、敬語交じりの砕けた口調で接してきた彼が素の口調に戻っている。
彼は知らずとはいえあのシグナムに裏拳や蹴り技を叩き込み、あろうことか体を倒した上に跨った。そんなことを自分はしたのだという自責の念もかなり大きいものだ。
「本当に余裕がないんだな」
「余裕があろうと無かろうと切れるわ!」
「まぁ落ち着け。私も悪かったと反省している」
「私も? どう見たってアンタが全面的に悪いんですが」
意味もなく背後に近寄り、それどころか最大級の殺意まで放った。
そのようなことをすればヴァイスもそれ相応の対応をしなければならなくなる。
その結果が先ほどの流れだ。あと一歩でヴァイスはシグナムに魔弾を直射するところにまで至った。
「俺が途中で気づいたから良かったものの、もしあのまま続いていたらアンタは大怪我を負っていた。それを理解しているのか」
「なに。シャマルが一日で癒してくれたさ」
「………本気で怒るぞオイ」
「冗談だ」
「言っていい冗談と悪い冗談ってものがあるぞ!? だいたい何だってこんな一大事に非常識なことをするんだ! アンタも一人の大人ならちゃんとしてくれ!」
ペースを乱されまくるヴァイスは言うだけ言って大きく溜息を吐いた。
人前でこれだけ声を上げたのは久しぶりだ。
しかしシグナムはそんな自分を他所にふむと頷いて右手を顎に当て考え込み始めた。
〝今度はいったい何をしようってんだ”
ヴァイスはつい対ショックの構えを取る。
いつもの戦闘狂なシグナムとはまた違う厄介さが滲み出ている。
「飲みに行くぞ」
「………はい?」
奇襲の次は飲みに行こうだと。
本当に今回のシグナムは何を考えているのか一欠けらも分からない。
まさかからかわれているのか自分は。
………いや、流石にそれはないか。シグナムはそんな性格ではないだろう。
「飲みにケーションだ」
四の五の言わずついて来いと言うシグナムにヴァイスは力なく首を縦に振った。
これは逆らわない方が身の為だ。いっそのこと酒に溺れるのも悪くないのかもしれない。
………
……
…
時刻は21時となり近場に空いている酒場に入った。
ヴァイスは軽い認識阻害の魔道具と証明書(偽)を使用してよくこのような場所に来る。
しかし彼とてまだ15歳。身長こそそこらの大学生と変わらないが歳は未だに餓鬼である。
それを誤魔化すため専用の魔道具や紙を所持していなければ酒も煙草などの嗜好品も手にすることはできない。
「ほんと、そこんとが難儀なんすよねぇ
テーブル席で肉を焼きながら駄弁るヴァイス。
彼の片手にはビールが飲み干されて空になったジョッキが握られている。
ちなみにこれで三本目を飲み切っている状態だ。
「まぁそう言うな。これもお前達未来ある若者の体を気遣ってこそだ。事実煙草も酒も有害なのだから規制は強く取り占められて然るべきだろう」
シグナムははむはむと焼肉を頬張りながら至極もっともなことを言う。
「………正論ほど耳に痛いものはないっすねぇやっぱ」
「分かっているなら少しは控えたらどうだ」
「冗談言わんでください。煙草と酒が無けりゃ俺は死んじまう」
そう言ってまたビールを注文するヴァイス。まるで止めようとする意志がない。
シグナムも人の嗜好にとやかく言い続けるつもりはないので何も言うことは無かった。
暫く二人は各々食べたいものを注文しては食べ、他愛のない話に花を咲かす。
気が合うとはまでは言わないが今や彼らは共に仕事をこなす仲間である。会話くらいは弾む。
「―――で、シグナム姐さんは本当に俺に何の用があるんですかね」
だがこのままのほほんと終わるわけもなく、ヴァイスが思い切って彼女に問うた。
「用も何も、最近のお前があまりにも見かねたから声をかけた。それだけだ」
「………見かねただって? 俺が?」
「ああ。今のお前は焦燥に駆られている。それ故に日頃の態度も戦闘の動きもぎこちない」
「…………」
「思い当たる節はあるだろう………先ほどの戦闘もそうだった。確かに動きにはキレがあったが、柔軟さが欠けていた。それにいつものお前であれば身内の放った殺気も判断できたはず」
返す言葉も見つからない。
そんなことはないと言えない自分が情けないものだ。
しかしシグナムは歯に衣着せずにズバズバと言葉を紡ぐ。
「
故に、今のうちに消しておかなれば危ういと判断した」
「………まじで耳に痛い。痛すぎる」
あまりの適格な台詞にヴァイスは何も言えず、テーブルに頭を打ち付けてダウンする。
恥ずかしい。今のヴァイス・グランセニックは過去最大級にかっこ悪い。
よりにもよってシグナムに心配をかけられ、その上に諭された。
男としてこれほど情けない姿はないだろう。
友人のティーダ・ランスターが此処にいたら大爆笑するに違いない。
「………ほっといてくれても良かったんですよ。なんだって気に掛ける必要があるんすか」
突っ伏したまま放った言葉に威厳も何もない。まるで男らしくない拗ねたような口調。
そしてそれを言った本人が更に凹むという自爆。
今のヴァイスは自棄酒でもしなけりゃやってられないと言えるほど惨めであった。
シグナムはそんなヴァイスに苦笑しながら
「大切な仲間だからだ」
そんなことを言ってのけた。
「前にお前が私に対して言っていたな。我ら
清々しいまでの表情で彼女は言う。
ヴァイスはただただ呆けた顔をして彼女の言葉を聞くしかなかった。
「私も今回の任務は危険だと感づいている。あの異世界に赴けば唯ではすむまいと確信している。それなのにお前ときたら万全のコンディションを整えるどころか崩しているときた。それをどうして放っておけることができるだろうか」
彼女もまた渦の中心にある異世界を警戒していた者の一人だった。
故に彼女は万全を期して望むべく体調の調整をいつも以上に怠らないようにしてきた。
烈火の将ですらここまでしておかなければならぬと判断した未知なる任務。
「お前は確かに部隊の要に成り得る立場にある狙撃手だ。だがだからと言ってそこまで気負うことはない。焦る必要もない。今まで通りのお前であれば、それ相応の結果が出せる………私が保証する」
シグナムなりの励ましがヴァイスの荒んだ心に響く。
重圧からくる息苦しさ。肩に圧し掛かっていた重み。それらが可笑しいと思えるほど和らいだ。
ヴァイスは笑う。笑うしかない。これほど人に気にかけられ、励まされたのは初めての経験なのだから。
「………かの烈火の将が保証してくれるんなら、間違いないっすね」
「無論だ。まぁ自分で言うのも何だが人を見る目には自信がある」
「はは、そりゃそんな人に認められたんだから俺も光栄に思わんと罰が当たらぁなー」
ヴァイスは陽気な笑顔でそう言った。シグナムも彼の笑顔を見て満足したように頷く。
気負いすぎていては良いことなど一つもない。肩の力を抜いていなければ息苦しいだけ。
そんな単純なことをヴァイスは忘れていた。忘れていたが、彼女は思い出させてくれた。
――――ああ、憂さが晴れた後に飲む飯は旨い。心底そう思うヴァイスであった。
・次回でいよいよ皆が危険視する異世界へ赴くことになります。
あとアルフの前だけはザフィーラの一人称が私から俺になります。