ボブは訝しんだ。
私こと櫻井ユリが、先輩こと橘シオンと結ばれたのは、ふた月ほど前のことだった。
最初のひと月、私は幸せでいっぱいいっぱいになっていた。
ずっと恋い焦がれた相手と、自由に話せる、好きなときに触れる。
先輩に頭を撫でてもらうと天にも昇る気持ちだったし、先輩がくれるキスは私を情欲に燃え上がらせた。
ふた月目に入ったころ、私は先輩の1Kのお部屋で半同棲するようになった。
先輩からの提案だった。
講義が終わり、私はすぐに先輩に連絡をいれて、大学の東側の門に向かう。
門の近くまでくると、携帯電話を持って立っている先輩の背中が見えた。
気付かれないように忍び寄って、胸を押し当てるように抱きつく。
「うあっ!?」
「んふふ、おまたせしました」
「ユリちゃん、頼むからもう少しソフトに驚かせてよ…」
抱きつく腕に力を込める。
先輩の背中。
どうしてこんなに愛しいんだろう。
先輩の腕をとって、家の近くのスーパーに寄る。
「今日のお夕飯はどうしますか?」
「豆腐を使っちゃいたいから、豆腐ステーキかな」
「えへへ、いいですね」
先輩と相談しながら、食材をかごに入れていく。
なんだか夫婦みたいで、幸せがじんわりと胸の奥に広がる。
「あ、卵安い…。でも2パックもいらないな」
先輩の横顔。
ずっと見ていたい。
先輩のお部屋に着いたら、買った食材を冷蔵庫につめて、先輩と並んで夕飯を作る。
先輩はバイトがあるから、私が一人で作ることもあり、その時は少し寂しい。
「ユリちゃん、ちょっと味みてもらえるかな」
「あ、はい。いただきます」
先輩は、並行して作っていたかき玉汁をスプーンにとった。
「あっ!あーんってしてあげるよ。口あけて」
「あ、あーん……。ん、おいしいです!」
「ふふ、よかった」
先輩。先輩、先輩、先輩……。
愛してますよ…。
・・・
表面上、私はただ幸せに見えたはず。
でも、内面はそうではなかった。
先輩を私だけのものにしたい。
醜い独占欲が、先輩と付き合いはじめて以来、ずっと私の中に渦巻いていた。
先輩と付き合う前は、先輩みたいな素敵な人に私が釣り合うはずがないと、どこか諦めていた。
けれど、いざ私の手の届くところにくると、今度は失うのがひどく恐ろしく思えた。
物理的に、目の届くところにいてほしい、手の届くところにいてほしい。
先輩がいないときは、どこかで事故にあっていないかとか、知らない女に触られていないかとか、すごく不安になった。
その不安を先輩に打ち明けたいのに、恋愛に疎い私には、これを知った先輩に嫌われないかということがただただ恐ろしかった。
先輩とファミレスでお夕飯を食べたとき。
先輩と店員の女性の注文のやりとりを聞くと、衝動的に店員を突き飛ばしたくなる。
先輩が研究室をトイレで立ったとき。
なぜだか不安になって、後をついていって確認したくなる。
先輩からなかなか連絡がかえってこないとき。
落ち着かなくて、何にも手がつかなくなる。
先輩が研究室の女性と話すとき。
先輩が私の知らないひとと電話するとき。
先輩がいつもより少しかたい服装のとき。
泣きたくなって、イライラして、怒りたくなってしまう。
私は、恋愛に不慣れだった。
不慣れをこじらせてしまったから、こんな気持ちを抱えるまでになってしまったのだ、と信じたかった。
こんな醜い感情を、私が生来から持っているとは思いたくなかった。
先輩と付き合っていけば、いつかはこの気持ちもおさまって、普通の恋愛ができると思っていた。
でも、ふた月経っても、私はおかしいままだった。
先輩、先輩、先輩…。たすけてください…
・・・
先輩の作ってくれたお夕飯の豆腐ステーキはとてもおいしかった。
今は、お風呂をいただいた後。
「先輩、あがりました」
「おかえり。ユリちゃん、こっちおいで」
「? はい」
先輩に呼ばれて、側に寄る。
「髪、乾かしてあげる。膝に座って」
「えっ、いいんですか!やったっ」
先輩に髪を乾かしてもらうのは初めて。
先輩のあぐらの上にそっと腰かける。
「失礼します」
「ん。痛かったりしたら言ってね」
フォーッ、というドライヤーの音と一緒に温風が耳にあたる。
「あー……きもちいーです…」
「ふふ、よかった」
お互いの、お風呂上がりのあたたかい体。
髪をとかす、先輩のあたたかい手。
柔らかく髪を撫でる、あたたかい風。
自然と瞼が重くなっていく。
先輩と二人きりで触れあっているときは、安心できるのに…。
先輩がドライヤーのスイッチを切る。
終わっちゃった、と思った直後、先輩が私を後ろから抱き締めた。
「あんっ…、先輩…?」
「もうちょっと、このままで…ね?」
「…はいっ…」
先輩に全体重を預けて、目を閉じる。
気持ちよくて、ふわふわする。
「ユリちゃん、最近、何か悩んでない?」
「………っ!!」
先輩が耳元で囁いた。
さっきまでの気持ちは霧散して、冷水をかけられたように身が縮む。
先輩は、私がなにかを隠していることに確信を持っている。
いっそ、素直に告白した方が楽になれる気もした。
「………………
わたしは、ただ、せんぱいが好きで、好きで…、好きで、きらわれたくなかっただけなんです。
せんぱい、なんにも聞かないでくれませんか…?
お願いします…。
せんぱいに、きらわれたくないです…。
すきじゃなくても、きらいにはならないでほしいんです………」
「………大丈夫。俺を信じて。
絶対、嫌いになんてならない。
これまでも、これからも、ずっと好きだよ、ユリちゃん」
先輩が私を強く抱き締めた。
私は、ゆっくりと、先輩に自分の気持ちを打ち明けた。
先輩を独り占めしたいこと。
そんな自分がきらいなこと。
先輩に打ち明けたかったけど、嫌われるのが怖かったこと。
「…嫌いになるはずがないでしょ。
もしかしてユリちゃん、俺がユリちゃんを独り占めしたいって言ったら嫌いになる?」
「そんな、そんなことないです!むしろ、すごく嬉しいです。…すごく」
「ふふ、俺も同じだよ。ユリちゃんにそう思ってもらえて嬉しい」
先輩は額を私の頭にあてた。
「それとね、これからは、ユリちゃんがしたいと思ったことは全部言ってみて。できる限り、叶えてあげる」
「したいこと…、先輩に…」
「何でもいいよ。キスしたい、とかでも」
先輩は冗談めかして笑った。
なら、今、先輩にしてほしいことを。
「キス、したいです。先輩、私を、私の気持ちを、全部受け止めてください。好きです。愛してます。あぁ、先輩、すき…」
ありあまるこの気持ちを、先輩に打ち明けて、受け止めてもらえた。
「伝えてくれて、ありがとう。好きだよ、ユリちゃん」
・・・
次の日。
大学構内で先輩と別れる前。
無性にキスしたくなった。
「先輩、あの…」
「うん」
「…んー」
「?」
「ですから…んーっ…!」
「…ふふっ。あぁ、なるほど」
先輩は私を人目につかない壁際まで引っ張って、キスをした。
私が舌を入れても、応えてくれた。
その後も。
駅前でデートしたとき、先輩の手をひいて、路地裏に入って。
「はぁっ、はぁ…、んちゅっ……、んふっ、先輩、ここで…」
「分かったから、痛いよユリちゃん。そんなに押し付けなくても逃げないから……、んむっ…」
先輩がティッシュ配りのお姉さんにつかまったあとで。
「ユリちゃん?ちょ、どうしたの」
「ふーっ…!ふーっ…、ふーっ……、ごめんなさい。
他の女とあんまり話さないで下さい。目も合わせないで。
じゃないと私、先輩にひどいことしちゃいそうです。
あぁ、ごめんなさい…。
わたし、なんてことを…、あぁぁ、あの女…」
先輩が携帯に入っている妹さんの写真を、私に見せたあとで。
「……ごめんなさい、その写真、全部消して欲しいです…。私以外の女の写真、全部。
…大丈夫ですよね、妹さんなら、また会えるんですから。大丈夫…、大丈夫…」
先輩がベッドでお昼寝しているとき。
「先輩、痕、つけますよ。いいですよね。
…………わたし、言いましたからね。見えるとこに、痕、つけちゃいますよ?
……………ちぅっ、……………………んはぁっ……
…わたしの………………、んふっ…………
………せんぱい、もうひとつ…」
先輩が隣の研究室の女性に見つめられていたとき。
「ああああああっ!先輩は!わたしの彼氏なのにっ!!そうですよね、せんぱいっ!?いっぱいいっぱい、痕つけましたよね!?まだたりないですかっ!?なんで見られるんですかっ!?わたし気をつけてって言いましたよねぇっ!?」
「っ、ごめんね、ユリちゃん…。今度から、もっと気をつけるから」
「ふーっ!ふーっ!ふーっ、ふーっ、ふーっ…ふぅ…。
…………ご、ごめんなさい、乱暴にしちゃって……、わたし…せんぱいが…
……あ、ち、血が……」
「あ、これは…」
「あ、あ……ごめんなさい…ごめんなさい、ごめんなさい!わたしっ、あ、そんなつもりじゃ…、あっ、あぁ、違うんですっ!ごめんなさい!許して下さい!!お願いします!!嫌いにならないで下さい!おねがいですから!!ゆるしてください!!ごめんなさい!!ごめんなさいっ!!」
「…大丈夫だよ、ユリちゃん。こんな傷、舐めておけば治るし」
「あ、わ、わたしにやらせて下さい!わたしに、治させて下さい!み、見せて……、ちゅっ、えぅっ、…ん、はぁっ…、痛く、ないですか?…れるっ、ぴちゃ………」
・・・
先輩としたあと、一緒にシャワーを浴びる。
「先輩、背中流してあげます」
「お、ありがとう」
「いえ、いつも洗ってもらってるので」
スポンジにボディソープをつけて、泡立てる。
先輩の背中に泡を塗ろうとしたところで、先輩の体は、私がつけた痕で、とても人には見せられない状態になっていることに、いまさら気がついた。
痕のなかのひとつ、もう消えかけているものに指をあてる。
「? ユリちゃん?」
「………」
これは、先輩に私の気持ちを打ち明けてすぐくらいにつけた痕だろうか。
近くの別の痕まで指を滑らせる。
「ちょっ、くすぐったいよ」
「あ、すみません…」
これをつけたときは覚えている。
先輩がバイト先の後輩の女性からラブレターを貰ってきた日につけた。
かなり強く噛みながらつけたから、結構前のことなのに、まだ赤黒く残っている。
「…先輩、覚えてますか?バイト先でラブレターもらってきましたよね」
「う、うん…、ごめん…」
「もう怒ってないです、ちょっとしか。そのときつけた痕、まだ残ってますよ」
「マジで?」
痕から痕へと指でなぞる。
つけた経緯を覚えている痕は先輩にも教えてあげる。
「先輩、知ってました?私、先輩が寝てる間に、実はけっこう痕つけてるんですよ」
「うん、知ってるよ。狸寝入りしてることもあるし」
「…えっ?」
「先輩、復習です。腰にキスする意味はなんですか?」
「…えーっと……なんだっけ、親愛?」
「…ぶー、はずれです。次のテストに出ますからちゃんと調べておいて下さいね」
「これは、さっきのえっちのあとにつけた痕ですね」
「え、いつの間につけてたの?」
おもむろに先輩の背中に抱きついて、背筋を舐めあげる。
そのまま、背中のまんなかに唇を添えて、思いきり吸い付く。
慣れたもので、すぐに濃い痕をつけることができた。
「…ぷぁっ。えへ、またつけちゃいました」
「…ふふっ、もうすっかりユリちゃんのものだね、俺は」
不意にでた先輩の言葉に、ゾクリと快感を覚える。
痕をつけるのは自分のものに名前を書くことに似ている、と内心思っていたけど、まさか先輩もそう思ってくれていたとは。
「…んふ、んふふ、そうですね、先輩はわたしの…」
私の抱きつく力が緩んだ隙に、先輩は反転した。
私は先輩に正面から抱き締められる。
「…へっ?」
「おかえし」
先輩は私の首にキスしたあと、思いきり吸い付いた。
「…ちぅっ、……ふぅ、キスマークってつけるの難しいね…」
「え、せ、先輩!?」
先輩が私に痕をつけるのは初めてだった。
「俺は俺をユリちゃんにあげる。
だから、俺もユリちゃんがほしいな」
先輩の顔を見る。
そんな顔されたら、わたし…
「…はい、もらって下さい…!
先輩を全部もらいますから、私を全部全部もらって下さい…」
先輩の瞳。
いつもと違う、ほの暗い瞳。
その表情は、私にとっても似ていた。