高校生のころの、部活の夢を見ている。
夢の中でこれは夢だと分かったのは始めての経験だった。
私は夢の中で、先輩と二人きりで弓道場にいる。
(なつかしいな…、あの頃からずっと先輩のことが好きだった。
先輩に合わせて、私も毎日朝早くから練習したなぁ…)
28m先の的に射掛けんと、弓を引き絞る。
先輩は真後ろに立って、私の型を見ている。
「弓手肩伸ばして。……ん、いいよ。そのまま、伸びあい意識して…」
先輩の指が、私の左肩を撫でる。
すぐ後ろで囁かれて、ゾクゾクしてしまう。
私の放った矢は、どうにか的の3時の方角にあたった。
(夢の中でも、私の矢どころはそこなんだ…)
「うまくなったね、ユリちゃん。
これなら俺も安心して引退できる」
ふふふ、と小さく笑って、先輩は悲しいことを言った。
現実でも確かにそのようなことを言っていた。
私と先輩はこの弓道部での先輩と後輩というだけで、先輩が部活を引退したら、もう私たちの関係は無いに等しい。
…このまま、私の初恋は叶わないんだろうな、と、漠然と理解していた。
・・・
目が覚めても、隣に先輩はいない。
またしても、先輩は学会に行ってしまったから。
先輩の同期の、教授の補佐役の方が交通事故に遭ってしまったためだ。
命に別状はなく入院1週間とのことだけど、それが重いのか軽いのかはよく分からなかった。
それよりも、欠員を埋めるために先輩に白羽の矢が立ち、私と5日も離ればなれになることが確定した方が重大だった。
しかも私がこのことを知ったのは学会からたった2日前だったので、私は終始不機嫌だった。
『ほんとにごめんね、ユリちゃん…。』
『悪いと思ってるなら、今すぐ断ってきてください』
『いや、ほんとごめんって。もう明日だからさ…』
『………先輩。
私は、あなたを、絶対に許しませんから。
先輩は私のものだって、自分で言ったじゃないですか。
勝手に、許可無く、私から5日も離れるなんて、おかしいじゃないですか。
何で、なんで……』
『………ごめん』
昨日、先輩と教授は大学を発った。
夜には電話で、先輩に散々に心配された。
『ユリちゃん、一人で大丈夫?ちゃんとご飯食べて、睡眠とるんだよ?
やっぱりこっちは忙しそうだからいつでも電話をとれるわけではないけど、さみしかったらいつでも電話してね?』
そこまで言われるほど私はさみしがり屋の子供じゃないと証明するために、私は啖呵をきった。
『一人で大丈夫です!電話は夜に一回、先輩が余裕あるときにかけてください、それで十分ですから!
それと私は先輩の方が心配ですよ。そっちで変な女にひっからなないようにしてくださいね!』
そのまま電話を切って、ふて寝して、朝を迎えた。
先輩のことばかり考えていたからあんな夢を見たのだろうか。
懐かしい夢の余韻に浸りながら、時計を確認した。
「…ん゛っ!?」
1限の講義の開始時刻はとうに過ぎ、今から頑張っても2限にギリギリ間に合うかどうかといった時間だった。
・・・
今日は調子が悪かった。
目覚まし時計は確かに鳴ったはずなのに、寝坊して1限をまるまる休んだ。
急いで先輩の部屋を出たせいか、参考書と財布を忘れてきてしまった。
万に一つ先輩から着信がないか、携帯電話を確かめてはため息をつき、注意力が散漫になっていた。
ようやく1日を終えて、夕方に先輩の部屋にたどり着いた。
「ただいま。………あ、あぁ…」
うっかりただいまと言って、返事がないことで、私は独りぼっちなんだということが身にしみた。
(……先輩…、全部、先輩のせいですよ、よく考えたら。
いつもは朝に先輩が起こしてくれるから、お弁当を作る時間も持ち物と身だしなみを確認する時間もあるし。
私が調子悪いのって、そういう習慣をつくった先輩のせいじゃないですか、もう…)
当然、そんなわけないのは分かっている。
先輩のせいではなくて、自分のせい。
でも、先輩がいないさみしさをさみしさとして受け取ったら、本当につらくなってしまいそうだったから、責任転嫁して先輩への不満に変えた。
私の携帯電話が震えた。
すぐさま先輩からの着信であることを確認して、耳に押し当てる。
「もしもし!先輩!?」
『うん、こんばんは。今、大丈夫?』
「あ、はい…、大丈夫です。
でも、夜にかけてって言ったじゃないですか。今夜は用事があるんですか?」
『ううん、何も。…ただ、はやくユリちゃんの声が聞きたかったから。迷惑、だった?』
先輩はこんなに素直に好意を示してくれるのに、私はといえば、まだ先輩が学会に行ってしまったことですねているのだった。
「迷惑なんかじゃないです。
それと………、その、ごめんなさい。
今回の件、先輩にはどうしようもないって分かってるんです。
ただ、先輩と離れたくなくて、ぐずってしまいました」
『…ふふ、大丈夫だよ。
俺もユリちゃんと離れたくない、同じ気持ちだから、気にしないで。
こっちこそごめんね。できるだけ早く帰れるように頑張るから』
「ありがとうございます。頑張ってくださいね」
ちゃんと謝ることができて、胸の内はいくらかすっきりとした。
先輩と電話しているときだけは、まるでそこに先輩がいて仕草まで見えるようで、独りぼっちじゃないと思えた。
かなり長く話し込んでしまい、お互いまだ夕飯も食べていないことに気がついて、そろそろ電話を切る頃になった。
『あ、そうだ。結局忙しくて、やっぱり夜しか電話できなさそう。
ごめんね?』
「そう、ですか……。
いえ、電話は夜に一本だけでいいって言ったのは私ですから。
大丈夫ですよ。
では、おやすみなさい。明日もがんばってくださいね」
・・・
また高校のころの夢を見ている。
ただ、昨日といい今日といい、夢とはいっても私の記憶を再生しているようなものだった。
今日の夢は、絶対に先輩には知られたくない過去だった。
先輩達が部活を引退してすぐのことだったと思う。
放課後の生徒玄関は、大概の部活が活動を切り上げたので、既に人気が無い。
私は、先輩の下駄箱とそのそばに立つ女性を、物陰に隠れて見ている。
女性は決心したように、先輩の下駄箱を開け放つと、何かを入れて走り去ってしまった。
状況からして、きっと先輩に宛てたラブレターを下駄箱に入れたんだと思った。
私は周囲を見渡して人がいないことを確認したあと、先輩の下駄箱からその手紙を抜き取った。
愛らしい封筒を、その中に入っているであろう便せんごと半分に破り、重ねてもう一度破ってから、懐にしまって、急いでその場を離れた。
・・・
ひどい夢見だったので、全身に冷や汗をかいている。
時計を見ると、既に2限の半分ほどにまで針は進んでいた。
大学に行く気にはなれなかった。
私の知らない間に先輩が誰かと付き合ってしまったなら、きっと私は泣いて、そして先輩を諦めただろう。
でも、私は先輩と誰かが付き合うことを妨害できる瞬間に居合わせてしまった。
私は、先輩を自分のものにしようなんておこがましくて身分に合わないことは、本当に考えていなかった。
でも、先輩が他の人のものになってしまうのは、絶対に許せなかった。
だから私は、やってしまった。
それからも、先輩が高校にいる間、先輩から目を離せなかった。
人がいない時間帯を見計らって、先輩の下駄箱の中を確認した。
図書室で受験勉強する先輩と、電車の時間を合わせて、偶然を装って一緒に帰った。
先輩が電車をおりた後にバレないように私もおりて、家までついていって、先輩が帰宅するのを見届けてから私も帰路についた。
これは最寄り駅は一駅分違うものの、先輩の家と私の家はさほど遠くなかったからできたことだった。
これらの行いは、絶対に先輩に知られないようにしようと思っている。
罪悪感を感じながら、先輩を監視した。
でも、確かに興奮もしていた。
遠くから撮った、先輩の無防備な後ろ姿の写真の数々。
帰り道での先輩との会話を録音したたくさんのデータ。
電車の座席でさりげなく近づいて匂いをかぐときの緊張。
たまに駅前で先輩が買い食いしたものと同じものを食べる幸せ。
普通の人はこんなことしないのは分かっていた。
私がいわゆるストーカーということも。
でも、その異常なことに対する興奮を感じていた。
今でも、先輩の写真や動画、音声をこっそりとることはある。
・・・
午後の講義だけ出て、いつもより疲れた体を引きずって先輩の部屋に帰ってきた。
先輩がいないがらんどうな部屋で、また孤独感を味わう。
お腹は空いていないので、シャワーだけ浴びて、先輩からの電話を待った。
携帯電話の振動にすぐに反応して、通話ボタンを押す。
「先輩、こんばんは」
『こんばんは。今、大丈夫かな?』
「もちろんです!」
先輩は学会に発つ前と同じように、しきりに私の心配をしていた。
『ちゃんとご飯食べてる?』
「はい、食べてますよ」
『睡眠はとれてる?』
「もう、大丈夫ですよ。お母さんみたいですよ?」
『でも、心配なんだよ……』
本当は、ご飯はそんなに食べていないし、睡眠はとれているけど寝坊がひどい。
講義もサボってしまったし、私の現状はまさに先輩が気にかけていたことそのものだった。
でも、忙しい先輩にあまり気苦労をかけるのも申し訳ないので、嘘をついた。
「それより、先輩こそ大丈夫ですか?
やっぱり忙しいですか」
『うーん…、教授の挨拶回りに連れ回されるのと、配られてた予定表通りには全く進んでないところが大変だよ。
事前に予定を頭に入れていったのが役にたたないのは頭にくるけど、おかげでもしかしたら早く帰れるかも』
「ほんとですか!?やったぁ!
…あ、すみません、大きい声出しちゃって…」
『ふふ、まだ分からないけどね。頑張るよ』
たった二日で、私には先輩のいない生活ができないことが身に染みて分かった。
一刻も早く、私のところに帰ってきてほしい。
そして、もう二度と離れないでほしいと、本気で思った。
その後、しばらく先輩とお話して、電話を切った。
最後に好きって言ってくださいとせがんだら、恥ずかしがりながら言ってくれた。
そうして電話を終えて、私はまた独りぼっちになってしまった。
さみしい。
先輩に会いたい。
(もし先輩が怪我してたら、学会に行かずに、私と離れずに済んだのかな…………)
・・・
高校のころの夢を見るのは、これで3日連続になる。
先輩と一緒に電車で帰っている夢。
季節は冬で、車窓からは鋭い角度で横切る粉雪が見えた。
隣に座る先輩は勉強疲れからか、電車の揺れ以上に体がかしいでは元に戻って、眠たげに目をこすっていた。
ふいに先輩はこちら側に傾いて、私に肩をあずけた。
実際にあったことだから、夢の中で驚きはしなかった。
そのまま、すぅすぅと寝息をたて始める先輩。
私は、先輩の手を握りたかった。
すぐ近くにある先輩の耳元で、好きだと囁きたかった。
頬でも唇でもいいから、キスがしたかった。
でも、そこが電車で他人の目があるからという理由以前に、私にはそんな勇気はなかった。
それに、他人のラブレターを破り捨てるような私には、そんなことをする権利はないと思った。
こんなに好きなのに。
私は何もできず、ただ体を棒のようにしながら、先輩の体温と体重を受け続けていた。
・・・
頭がぼーっとして、うまくはたらかない。
起きた時には既にお昼で、今日の講義は午前のみだったから、大学をまるまる休んだことになる。
お腹が空かないどころか、何も入っていないのに吐き出したくなる。
なぜ私は、最近になって高校のころのつらい夢を見るんだろう。
先輩がいない今、私の深層心理で、自分は先輩と付き合う資格がないと自身を咎めているのだろうか。
もしくは先輩がいなくてつらいから、単に先輩関連のつらいエピソードを思い出してしまうのだろうか。
寝ても起きても、つらいことばかりだった。
枕に顔をうずめるとわずかに先輩の匂いがして、胸が苦しくなる。
1人で少しだけ作った夕飯を食べているときは、泣き出したくなる。
先輩にしたいこと、してほしいことはいくらでもあった。
抱きつきたい。キスしたい。向かい合って膝に座らせてほしい。膝枕をしてほしい。お風呂上がりに、髪を乾かしてほしい。
そう思えば思うほど、切なくて、むなしくて、やるせなかった。
でも、思わないことはできなかったし、紛らわすこともできなかった。
会いたい。
・・・
死んだように一日を終えて、先輩からの電話を待った。
夜には、それしかすることはない。
じっと待っても、先輩からの電話は来なかった。
迷惑かもしれないけど、こっちから電話をかけた。
1分くらいコールして、切れてしまった。
また電話をかける。
繋がらない。
電話をかける。
繋がらない。
機械的に続けていたら、ついに繋がった。
『ユリちゃん!?大丈夫!?』
「…あ、あ…、先輩、こんばんは…」
『こんばんは、じゃなくて!
すごい数の着信あったから何があったのかと…』
「え、その、ごめんなさい。
先輩からなかなか電話がこなかったから…」
『……まあ、何もないならいいや。
ごめんね、電話遅れちゃって』
「先輩」
『…うん?』
「早く、早く私のところに帰ってきてください」
『……うん』
「先輩に謝らないといけないことがあるんです。
ほんとは、ご飯ちゃんと食べてないんです。
夜は…、つらい夢を見て、それでいっつも寝坊しちゃうんです。
大学も、休んだり、しました…。
ぜんぶ、先輩が言ってた通りなんです。
わたし、先輩がいないと…、なんにも、できないんです……。
1人じゃ、朝起きられないし…、ご飯も食べられないし、はぁっ、お買い物とか…、大学に通うこととか……、あと、自分の髪さえ、1人じゃ上手に乾かせないし、その、おっ、1人でしても、全然気持ちよくないんです…、独りだと……、生きていけないんです…。
それに、先輩がいないとっ……、わたし、やることないんですっ…
いつもは先輩に甘えていた時間に、何もやることが無くて…
こ、このまま、独りぼっちだと、わたし、餓死するか、おかしくなっちゃいますよぉ……
お願い、早く帰ってきて……?
もうわがまま言いませんから、お願いします、じゃないとわたし………………、死んじゃいますよ…………」
私は電話に向かって懇願しながら泣いた。
先輩は、ただ、ごめんねと繰り返した。
ひとしきり泣いたあと。
「ごめんなさい、見苦しいところを見せてしまって…」
『ううん、ユリちゃんのそういうところが好きだよ』
「そ、そうですか…」
『それと…、帰るのはあさってだと思う。
それまで、待てる?』
「………」
『明日は、いつ電話してもいいよ』
「……………待ちます……」
『ごめんね、ありがとう』
明日は土曜日だから、講義はない。
きっと、無気力で無意味な日になるだろう。
先輩がいないと。
・・・
高校の、先輩の代の卒業式の日の夢を見た。
厳格な方の式もそこそこに、大概の卒業生は自分が所属していた部での追い出し会をメインの卒業式として考えている。
弓道部では、卒業生は弓道場で袴を着て久しぶりに矢をつがえ、受験勉強で鈍った腕を笑いあうのが恒例行事だった。
先輩は同期の方と的を外したり当たったり、肩を痛めたりして楽しそうだった。
私は少しも楽しくなかった。
先輩が弓をひく姿や、袴を着た姿を見るのはこれで最後だろう。
それどころか、先輩とお話できる機会すら二度とないかもしれないのに、楽しめるわけがなかった。
追い出し会の最後に、部員から卒業生一人一人に色紙を渡す。
私は先輩に渡す役を買って出た。
部員と卒業生、顧問の先生、皆が見ているなか、ぴしりと背を伸ばし袴姿の先輩のもとへ歩み寄る。
色紙を渡したくなかった。
渡してしまえば、もう先輩との縁が切れてしまう気がした。
嫌だ、渡したくない、嫌、行かないで…。
この時ほど、先輩との1歳の差を恨んだことはない。
私が止まっているので、まわりがすこしざわついた。
『ユリちゃん…?どうしたの?』
『…先輩………うぇぇっ……!
うぁぁぁん…!あぁぁぁぁぁっ………!!』
私は皆と先輩の前で大泣きした。
先輩が卒業する悲しさやら、泣いてしまった恥ずかしさやらで、顔があげられなかった。
泣いていると、左肩に手を当てられた。
そのあと、左耳のすぐそばで先輩の声がした。
(ユリちゃん、聞こえる?)
驚いて、顔をあげようとしたら、左肩を押されて、あげることができなかった。
(大学で。
………待ってるから、ね)
それだけ囁いて、先輩は私に顔をあげさせた。
先輩はニッコリと笑った。
まわりはヒューヒューと囃し立てた。
私はぽかんとした顔のまま、とりあえず先輩に色紙を差し出した。
・・・
朝。
夢の内容がつらいものではなかったおかげか、頭がボーッとするけど体調は良かった。
今日を乗り切れば、先輩に会える。
時計を確認しようとして、気がついた。
(………あれ!?先輩がいる!)
帰りはあさってになると言っていた先輩が、次の日に私と寝ていた。
声すら出ないくらいに驚いてしまって、喜びどころではない。
最初は幻覚かなにかかと思ったくらい。
時計を確認すると、正午だった。
首だけ起こして部屋を確認すると、先輩のトランクケースとスーツが見えた。
(……つまり………)
つまり、先輩はどうにかして、今朝くらいにここに帰ってきたということか。
あさってに帰る、というのは、たぶん私を驚かすための嘘だったのだろう。
私の隣にいる先輩は、私の妄想とかではなく、温かな体温を持った本当の先輩だった。
匂い。体温。柔らかさ。かたさ。寝顔。早く帰ってきてくれたこと。
全部が愛しくて、かけがえのないものだった。
絶対に手放したくないくらいに。
「先輩…………帰ってきてくれたんですね……
もう、二度と離ればなれにならないように……しましょうね…
わたし、頑張って大学まで先輩を追いかけてきたんですから。
離れてしまうのは、お互いにとって良くないと思います、よ………?」
私は先輩を起こさないようにベットを抜け出た。
先輩を私のもとにはりつけるための準備を、先輩が起きる前に終わらせないといけない。