「ほんのちょっとだけ、神様におねがいをして、そしたらみんなでしあわせに暮らそう」
揺られた電車の中で、父はそういった。きずなの魔法には過去をやり直す力があると。彼女は新米でも魔法使いだから、本当にそれができると知っていた。世界を一冊の本として認識する彼女の魔法は、そこに記された文字を操ることで過去を書き換える。
きずなは過去をやり直したいとは思っていなかった。しかし父親がそう言うのなら、やったほうがよいのだろうと、優しい彼女はぶつかることを選ばなかった。
大系の違う魔法使いの親子はもう、同じ世界を見てなかった。
「お父さんとお付き合いさせてもろてます、ジェルヴェーヌ・ロッソいいます」
辿り着いた駅のホームで、和服姿の女性は父と付き合っていると言った。うれしいような複雑な気持ちでいると、その女の人は父の胸元にすっとおさまった。
その手に持った青みがかったペーパーナイフが、父に胸を貫いていた。
「ほんま、今まで、ご苦労さんな」
父親がよろめいて、もたれるように駅舎のドアに倒れ込む。開いた扉の中には、血まみれの駅員たちで一杯だった。
混乱する頭で、なんとかしなくちゃという思いで父親に駆けよろうとする。その手をジェルヴェーヌに抑えられ、声にならない悲鳴だけがあふれてくる。
魔女の手からゆっくりと流れるように抜かれた日本刀が、父親の身体を真っすぐに斬りおろした。
きずなの大事な家族が、血を吹き上げながら駅舎の奥に消えた。後を追おうとしたが、扉はたったいま父親を斬った魔女の手で閉ざされた。
速くなる心臓の鼓動とはうらはらに、頭だけが冷静で、これはどうにもならないと告げていた。
「倉本ー!!」
意識の遠くで、少年の声が聞こえた。魔法を見ることができても、使うことができない少年の声。きずなと同じように、突然新しい世界を突き付けられて、しかし全く別の道を歩くであろう少年。
「ああこれは予想してなかったはな。けれど、今はあんたにかまっている暇はあらへん」
ジェルヴェーヌがどこか楽しそうに口の端をゆがめた。自分は、とっくに戻れないところにいたのだ。助けにきた少年の、差し出されたその右手はもう届かない。
「《染血公主》ジェルヴェーヌ・ロッソが名づく。扉を《龍門》と定義、保持済み概念《噴井》と加算、変数域に《塔前》を代入」
開かれた駅舎の扉に広がるのは屍の山ではなく、風景を切り取ったかのような夕暮れの山林だった。
そこがどういう場所で、自分がこれからどうなるのか、何を望んでしまっているのかわかってしまった。
羞恥に顔を手で覆った。
彼女は魔法という奇跡の力で世界に欲望を押し通せる。それが、どんなに傲慢で多くの人を巻き込んでしまうのかわかってしまった。過去をやり直したいという願いは、助けてくれた人たちに対する裏切りだった。
それでも、彼女は、魔法に、奇跡に願いを託さずにはいられなかった。電車の中で弱々しく語りかけてきた父もこんな気持ちだったかと思うと自然に涙があふれた。
「倉本!!」
出会ったとき、不安だったきずなを励ましてくれたのは、彼と瑞希だ。魔法でなくとも願いは届くと言ってくれた。奇跡が焼かれる地獄でも、気持ちまで消えてしまう訳ではないと言ってくれた。
しかし、それでも。
「ごめんなさい」
しかし彼女は、どうしようもなく魔法使いだった。翼を使い望んだ場所まで飛べるというのに、今さら空をあきらめて地べたを歩くことなんてできない。
「本当に、ごめんなさい」
魔法はかくも残酷に、魔法使いを試す。
嫌な予感に衝き動かされて、上条はきずな達の後を追って電車に乗り込んだ。電車に揺られ辿り着いた終着駅で、その惨劇は起こった。
駅で待っていたのは染血公主で、上条がホームに飛び出した時にはきずなの父親は青いナイフのようなもので刺されたところだった。
「倉本!!」
取り乱す彼女の隣で、染血公主が日本刀を抜いた。きずなたちとの間にあるこのわずかな距離が、ひどく遠く感じる。
染血公主が彼女の父親を斬りおろし、駅舎の扉の向こうに追いやった。
走ってくる上条の存在に気づいたのか、染血公主が口の端を歪めて嘲笑っていた。そして駅舎の扉を閉め、魔法を行使する。
開かれた扉の向こうには先ほどとは打って変わって山林の風景が広がっていた。上条はそれが魔法によるもので、そこにきずなを行かせては絶対に駄目だということを直感した。
「うおおおおお!!」
叫んで必死に右手を伸ばす。その手はいかなる幻想も打ち砕くが、きずなのところまで鳥のように速く飛ぶこともできず、上条の二本の足はもつれ、地べたを転げまわる。
魔法使いであるきずなと上条の、これが本当の差だと突き付けられたようだった。
扉の前でこちらを向いた彼女の涙でゆがんだ顔の唇が、こう動いた気がした。
ごめんなさい。
魔法に目覚めて、誰かをほんの少ししあわせにするような小さな奇跡を起こしたいと言っていた優しい彼女が、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、謝る必要なんてどこにもないのに、彼女は嫌でも助けてでもなく、ごめんなさいと言った。
悔しさと怒りに頭が沸騰しそうだった。こんなこと、納得できるはずがなかった。
「それで、いいはずないだろう。こんなのいいはずねえだろうが!!」
上条の伸ばした右手は届かず、きずなは染血公主に背中を蹴りだされ、扉の奥に消えた。
ようやく追いつき閉まった扉に右手が触れて、奇跡が潰える。一縷の望みを掛けて開いた扉の奥には、血に沈んだ死体の山が転がっていた。
自分への怒りを抑えられず拳を壁に叩きつけた。
「くそっ。俺は、結局こんなざまかよ。ほんとに何の役にも立ってねえじゃねえか」
辺りに充満する血の匂いすら気にならなかった。それほどに自分の無力さが許せなかった。
倒れているきずなの父親に近寄る。染血公主の一撃は傍から見ても致命傷だった。身体は周りに倒れている駅員と同じ様に血だまりに沈んでピクリとも動かない。
せめて状態を確認しようと、倒れたきずなの父親の身体を仰向けに直そうとする。
なんの気なしに右手が触れた。その瞬間、確かに血液を流し体温を持っていたその身体が、弾き消えた。
一瞬の困惑のあと、ゾッとした。これは魔法で偽装されたものだ。では本人は、倉本きずなの父親はどこにいったのだろう。
死体に刺さっていたナイフに手を伸ばそうとして、背後から声がかかる。
「きずなを助けたいなら、それには右手で触れないことが懸命だよ。流石に神人遺物を破壊できるとは思わないけど、まあ念のためにね」
手が止まった。考えたくなかった疑念がふつふつとわき上がってくる。返す声が震えていた。そもそも、何故この男はわざわざ死体を偽装したのか。染血公主をだますためにしては、何かが変だ。
「あ、あんたは、なんでそんなところにいるんだよ」
ナイフを左手で拾い上げ、声の主を見る。身体に傷一つないきずなの父親がいた。
「説明は必要かな。魔法使いでも、悪鬼でさえない少年」
娘がさらわれたというのに随分落ち着きはらった様子だった。突然のことに呆けていた頭が、怒りを取り戻す。
「あたりまえだ。あんたは倉本の父親なんだろ。どうして彼女を染血公主にみすみす渡したんだよ」
言いながら、上条は現在の状況を整理してみる。きずなの父親に対する怒りも、自分の無力さへ怒りも、決して消えたわけではない。けれど怒りに囚われたままでは、もっと大事なものを失う。
ヒーローみたいな大人、武原仁は大事なものを守りたいなら向いていなくても迷っていてもやるしかないと言った。
上条がここにいることで、もし何かが変わるとしたら、絶対に無駄にしてはいけない。
きずなの父親は上条が先ほど右手で触れようとしたナイフを神人遺物と言った。死体を偽装したにも関わらず現れたのはこれが目的だろう。だが、もともとこれは染血公主が持っていたもので、大事なものなら使い捨てに使うはずがない。
導かれる結論は、一つだった。この男は、染血公主とグルだったのだ。
「きずなには役割があるんだ。きずなが《幻影城》の扉を開き、そこに聖騎士が現れ役者が揃えば三千年前のバベルの舞台ができあがる」
わからない言葉だらけだが、きずなは《幻影城》とやらの扉を開くために連れていかれたのだろう。きずなの扱う再演大系は《協会》が最高の魔法大系の一つに数える強力なものだと、以前スピッツが言っていた。染血公主も聖騎士もこの男も、きずなが引き出す魔法が目的なのだ。
「バベルの舞台には、神の降臨さえ可能な完全索引《神の辞書》が現れる。索引型の魔法使いなら、そこでどんな魔法さえも手に入れ、奇跡を起こすことが可能になる」
「じゃあ、あんたは、あんたの目的は望んだ魔法を手に入れるってことなのか」
「私はその《鍵》を使って幻影城に入り、魔法を手に入れ、願いを叶える。役者ではない裏方が勝手に舞台に上がるのはルール違反だろうけど、それでも舞台は十分に成立するんだ」
上条の持っているナイフの正体は幻影城の出入りを自由にする《鍵》だ。これを使えば、さらわれたきずなを助けにいくことも可能だろう。だが、上条は《鍵》の使い方を知らないし、幻想殺しのせいでそもそも真っ当に使えるかもあやしい。
《鍵》は幻想殺しを使えば壊せるかもしれない。それで、眼の前の男の目的は崩れる。しかし、それをしてしまうと、きずなを助けにいくことができなくなる。
上条に《鍵》は壊せない。この男はそれを見越して、上条にことの真相を語ったのだ。
「状況はわかったかな。おとなしくそれを渡してほしい」
きずなの父親はそう言うとポケットの中から金属製のカスタネットのようなものを二つ取り出し、その一つで手近にある壁を叩いた。カンっという短い音と共にコンクリが吹き飛び中の鉄筋がむき出しになる。続けてもう一方の楽器で鉄筋を叩く。金属同士がぶつかる甲高い音とたわむような余韻を響かせ、鉄筋が薄ぼんやりとした光に包まれる。同時に轟という音をたてて、辺りの気温が一気に冷え込んだ。冷気が走り、吹きだす白霧が視界をふさぐ中で、男がそれを掴んで振り回す。壁の鉄筋が赤熱する細剣に姿を変え男の手に納まっていた。
音を媒介に魔法を引き出すのは聖騎士と同じ、神音大系の魔法だ。これが自然の因果の順序を無理矢理曲げて目的を達する概念魔魔術と呼ばれる高等技術だということを、上条は知らなかった。
ただ自分が窮地にいるということと、《鍵》を渡してはいけないことだけは理解していた。
「本当はもっと色々準備したかったんだけどね。君のおかげで台無しだよ」
十分な準備などなくても、魔法使いは簡単に上条のことを殺せる。だから、上条のとれる選択肢など決まっていた。
「そうかよ、そいつは残念だったなあ」
きずなの父親に背を向けて、全力で駆けだした。
上条に《鍵》が扱えないなら、公館の人間に頼るしかない。なんとか公館に連絡を取り、《鍵》を渡す。それが第一目標だ。
ホームの端が見えたところで、カンっと金属の打楽器が打ち鳴らされる音がした。反射的に右手を後ろに差し出す。
パンっと何かが弾ける音がして、衝撃が分散した。音が鳴れば魔法がくるタイミングもだいたいわかる。そして幻想殺しなら、どんなものでも触れればほとんどの魔法を破壊できる。
ホームの端から外に飛び出す。郊外の終着駅は、もともと人影も少なく裏手も山だ。人ごみにまぎれて逃げることもできないから、魔法で攻撃される危険があっても遮蔽物の多い山に向かうしかない。
山道を走りながら後ろを振り返り相手の姿が見えないことを確認して、木の陰に身を寄せる。ナイフをズボンのベルトに間に挟んで携帯電話を取り出して画面を確認する。山の浅い場所だからか、かろうじて電波が入っていた。数少ない登録してある番号から公館を選択してコールする。
「頼む。頼むから早く出てくれよ」
祈るような思いでいると、数メートル先に突然すうっと人影が現れ、こちらを向いた気がした。
見つかったと思った。
弾かれたように木の陰を飛び出していた。同時に耳に当てた携帯電話から、声が聞こえてくる。
「よし、つながった」
手にした安堵を嘲笑うように、唐突に、真横から衝撃が襲った。天地が逆転し地面に身体が叩きつけられ、その拍子に携帯電話が手から離れる。
「なんでだよ。もう回り込まれたのか」
「化身だよ。君が駅で見た魔法の、発展型みたいなものだね」
痛みを堪えて立ち上がると、人影が二つ近づいてきた。片方はうっすらとまるで影のように実体がない。これが上条の後ろに突然現れた者の正体で、隠れていた上条の動揺を誘った。そして何も知らずに飛び出したところを本人が魔弾で攻撃したのだ。
「なあ、最後に一つ聞かせてくれ」
このままでは死ねない一心で、口を開く。純粋な実力で届かないのだから、《偽善使い》は言葉を紡いで時間を稼ぐしかない。
「倉本は、その《幻影城》で、バベルの舞台ってのが終わったらどうなるんだ。あんたは倉本がその役割を終えたら、どうするつもりだ」
舞台を成立させるにはきずなの存在が不可欠だ。だから、染血公主や聖騎士達が目的を達成するまでは生きていられる。
だがその後にどうなるのか、魔法使いの世界を体験した今では容易に想像できてしまう。けれど、確かめずにはいられなかった。
「…………」
「答えろよ。あんたは、倉本のことを、娘を見殺しにする気か」
相手の沈黙が、きずながその後にどうなるか、雄弁に語っていた。助けるつもりが無いからこそ、この男は娘の前で一度、死んで見せたのだ。
「染血公主も聖騎士達も、用が済んだらきずなを殺そうとするだろうね。強大すぎる力を持つ、呪われた再演の魔導師を生かしておこうとは、だれも思わない」
「あんたは、それでもあの子の親なのかよ」
なけなしの勇気と怒りを振り絞って、上条は前に突っ込んだ。腕を振り上げ、男の顔面を狙う。
幻想殺しで消される可能性を察したのか、化身が後ろにさがり、本人が細剣を構え上条を迎え撃つ。例え一撃をかいくぐられたとしても、今度は無防備になったところに化身の攻撃を叩き込む算段だ。
男が細剣を引く。突き出される動作を読んで、上条は一気に身体を沈めた。
本当の目的は、男の前に落ちた携帯電話だ。はじめから、こちらの攻撃が通じるとは思っていない。
虚を突き携帯電話に手を伸ばした上条の眼の前に剣が落下した。地面の携帯電話はあっけなく貫かれた。剣を引いた動作はフェイントで、初めから上条の狙いは読まれていたのだ。
「残念だったね」
間抜けにも、無防備に地面を這う格好になった上条の体が、男に蹴りあげられる。倒れた上条に、きずなの父親が細剣を突き付ける。
口元の血をぬぐい、上条は懸命にこの状況を打破する手段を考える。
いちかばちか、剣を右手で受け止めて破壊するしかない。魔法で作られたものなら、少しでも異能の力が関わっていれば壊せる可能性がある。
「君の右手は魔法に干渉しているのだろうけど、これは魔法で精錬されただけの普通の鉄剣で、手で受け止めても無駄だ。もういい加減にあきらめてくれ」
単なる不幸では片づけられない、死という理不尽がすぐそこに迫っていた。《鍵》を奪われれば、きずなを巻き込む運命の歯車は止まらない。
事態はすでに、どうにもならないところまできていた。
「こんな終わりはあんまりだろ。俺は不幸で終わってもいい。けれどこの世界や倉本まで不幸になる物語なんて、納得できるかよ」
理性では詰みだとわかっても、このまま終わりたくないという感情が、最後までくすぶっていた。
上条の右手が、突き付けられた細剣を掴んでいた。その細剣は《幻想殺し》では破壊できない現実で、上条の命を奪うものだ。だから、右手は刃に傷つき血を流す。
歯をくいしばり上条は立ちあがる。このままあきらめるなど納得できなかった。決めたことだ。ここがどんな場所であっても二本の足で地面を踏み、この拳に力が込められる限りは進み続けると、他人事にできないとのたまって、まわりのことを顧みることなく行動していくことを選んだんだ。
勝手に行動して、勝手にあきらめたら、自己満足で終わるだけの、本当に最低の《偽善使い》になってしまう。
そんな格好の悪いことができるわけない。
「あんたがどんな願いを叶えようとしているのか知らないけれど、そうまでして叶える必要があるのかよ。親子なんだろ」
「ここじゃない遠い場所へ、奇跡は本当にあると、そう信じて、あの娘が魔法を使えるようになるまで十七年間やってきた。今さら迷いはないよ」
この男は上条が生きてきた以上の時間をかけて、この日を迎えた。その覚悟の程を、上条は推し量ることなんてできない。
上条は魔法使いと悪鬼、そのどちらにも属すことのない存在だ。生き方も、拠って立つ信念も、何もかもが違っている。
自分が場違いな場所にいることは自覚していた。
言葉は無意味かもしれない。この右手は、誰にも届くことなどないのかもしれない。けれど、それであきらめていいはずがない。例え無力だとしても、倉本を、この世界の問題をなんとかしたいという気持ちが消えてしまう訳ではないのだから。
だから、《偽善使い》は言葉を紡ぎ、《幻想殺し》の宿る右手を強く握る。
「倉本は、あんたに魔法を褒めてもらって嬉しかったって言ってたんだ。あんたのことを信じていたんだ。そんな信じる家族を裏切ってまで叶えなければならない願いなんて、どんなものであっても正しいはずがない。間違っている。だから、俺はあんたを絶対に認めない。俺は絶対にあんたを否定してみせる。あんたがどうしてもあの子を犠牲にしてまで願いを叶える必要があると思い込んでいるっていうなら」
これは相手にぶつけるためでもない、自分のための言葉だ。ヒーローになんかなれなくても、残酷な世界に、無力な自分に、それでも納得いかないと突きつける。精一杯足掻いても、それでも自己満足に終わるだけかもしれない、ただの“偽善”を吐きだす行為。
けれども、どうしようもない現実を、その全てを幻想にしてみせるために、上条はあえてこの言葉を世界に叩きつける。
「まずはそのふざけた幻想をぶちこわす!!」
神なき《地獄》で奇跡に見放された少年は、それでも戦うことを選ぶ。
その右手で残酷な世界の横面をぶん殴るために。