上条当麻の存在は、地獄から完全に消え去った。それは、誰も観測することなく、まるで初めから存在しなかったかのように世界は振る舞い修正されていく。
それは何かしらの神の仕業なのだろう。魔法の原理と同じく、不安定な自然秩序や揺らぎを調整するのは神の仕事だ。
彼のしたことは、誰にも知られることなく、ましてや、人々の記憶にさえ一片も残らなかった。
ただ、世界を本として観測できる再演大系の魔法使いだけは、その残滓をなぞることができた。悪鬼が作り出す虫食いではない。それは、少しでも身近にいたからこそ感じ取れる、本のページの間に残る小さな欠片だった。
彼女は、自身の生きた世界の本を眺めながら、その見えない欠片に触れようとし、思い出すように語りかける。
「あなたを表す言葉を私は知らない。ううん、私たちの誰もが、それを持たないの。“ここ”に来て、たくさんの私と、過去に聞いてみても答えはなかった。まるであなたは、何もかも拒絶しようとしているみたい。けれども、多くのものを望んでいた。まるで、呪いみたい。あなたは諦めることができないから、何もかもから拒絶されている」
“ここ”は、ただ真っ暗で、天地の差もない。≪世界という本.≫を読み終わったあとの“どこでもない場所”。再演大系の唯一魔導士に与えられる、自分のいる世界すら完全に客観視できる場所だ。
彼女は倉本きずなだ。正確に言うなら、無数の時間分岐の中のきずなたちの一人。ここには彼女とは違う運命をたどってきたきずなたちがいる。そのいずれも共通している点は、自らの生きる世界を壊して、やり直そうとした点だ。だから、自分たちがいた世界からも弾き飛ばされた場所にいる。
だからこそ、彼女たちは同じきずなでありながら顔を合わせようとしない。みんな、後ろめたさを抱えている。支えてくれた人たちがいながら、それを否定してしまったからだ。
だが彼女は自らの運命を変えた存在に語りかけたかった。聞こえるはずがないのだけれど、それでも魔法では計り知れない存在であるそれに、伝えたかった。
「あなたはきっと、別の本の存在なんだよ。きっと、私たちや、他の魔法の神様たちでさえ、あなたを自由にできない。だから、魔法による観測はもちろん。神様が世界を安定させている世界では、あなたをどうしようもできなかった。
“干渉が不可能な自然秩序のゆがみ”なんて、神様たちもどうしようもできなかったんだろうね。けれども、あなたは消え去った。命あるかのようにふるまう歪みだったんだ。神様は幸いにとばかりに、自然秩序を調整した。違和感が限りなく少なくなるように。だから、誰もあなたのことを知らなかった。ただ、結果だけが残った。神様の奇跡でさえどうしようもできない存在であるあなたは、確かに運命を変えたんだ」
確かに運命は変わったのだ。彼女がそれに気づいたのは、ここにたどり着いて、自分の生きた世界を客観的に見ることができたからだ。感謝を伝えるには手遅れだけど、言葉を出さずにはいられなかった。運命を変えたのは、言葉に奇跡を信じ、ただ愚直に行動した存在だからだ。
「私のことを言うね。幻影城には、聖騎士たちとジェルヴェーヌさんがいて、バベルの再臨を待っていた。けれども、エレオノールさんより先に、神和さんが幻影城に乗り込んで、聖騎士たちと戦いはじめちゃった。筋書が違っていても、再演は動き出した。“神の門”の召喚の儀式が失敗したという事実が確定したから、それも歴史改変に織り込んで、始まったの」
聖騎士たちが再演を試みたのは、過去に失敗した地獄に神を呼ぶための門を召喚する儀式だ。“神の門”をと呼ばれるそれは、神様であろうとあらゆる索引が引き出せる完全索引と呼ばれるものだ。ジェルヴェーヌも倉本慈雄の狙いも、そこから望む魔法を引き出すことが目的だった。
「儀式は、ジェルヴェーヌさん、聖騎士のグレアムという人と、神和さんが戦うところまで進んだんだけど、そこで、武原さんが、メイゼルちゃんと一緒に鍵を使って侵入し、魔法消去を使って城ごと全部壊してしまったの。儀式は失敗して私は助かった。これが、結果の一つ」
倉本きずなは、バベルの再臨で命を拾った。それは、武原仁が儀式の達成の前に、鍵を手に入れられたことによる結果だ。
「でも、あなたが、本当に変えたのはもう一つあったんだ。私ね、お父さんとちゃんと話せたんだ。事件のあとに、何でこんなことしたのって。これしかできなかったのって。他にも、お母さんのこととか、魔法のこととか、いろんなことを話したんだ」
倉本慈雄は武原仁に殺されることなく、生きたまま公館に逮捕された。協会には大罪人として引き渡されることになったが、その前にきずなは面会の機会を得た。大したことではないかもしれないが、父親とちゃんとした別れをしたことは、彼女のその後の運命を確かに変えたのだ。
「何もかも、元通りとはいかなかったし、そのあとも私は間違えてばかりで、結果的にここに来てしまったり、あなたがしてくれたことも台無しにしてしまったけど」
運命が変わっても、何もかもがうまくいくわけではない。ここにいるきずなは、運命に耐えられなくて、世界を壊してしまった。ここにたどりついてから、取り返すように、弁明するように語るのも、ただの“偽善”でしかないかもしれない。
「ありがとう。それだけあなたに言いたかったの。お父さんと話せて本当によかった。あなたがいてくれたから、できたの。あなたのおかげで、今の私がいるから、それを伝えたかった」
きずなは顔をあげる。聞こえるはずがないのだけれど、精一杯の笑顔を作って、あなたへ届くようにと。名前も思い出したのだ。まるで奇跡みたいと思ったけれど、あなたは神様の奇跡さえ拒絶するのだから、こんなことがあっても不思議ではない。
「ありがとう上条くん、あなたのおかげで私は救われたよ。お父さんとちゃんとお別れできて、私はしあわせだった」
その優し気な笑顔から。影が消えることはない。それでも、精一杯に感謝と、いっときでも救われたと、しあわせだったと伝えたかった。
あなたのやったことは、決して無駄ではない。その在り方は、正しくはなくても、間違ってはいないものなのだから。
そして、彼女は彼女の戦いに戻る。呪われた再演大系という魔法と運命と、戦うことを、彼女は選んだのだから。
白い閃光に目を奪われて、ついでに気も失って、どれくらいの時間がたっただろうか。
たしか、橋の上で、いつものように突っかかて来る女子中学生の電撃を命がけで、受け止めようとしていたときだったと思う。
「ちょっと、あんた、いいかげんに目を覚ましなさいよ。ああ、もうどうして。直撃してなかったはずだし、いつものように受け止めるかもって思ってたのに」
「うーん、うるさいぞビリビリ」
頭の近くで声が聞こえた。自ら喧嘩をふっかけておいて、何であわてふためいているのだろう。これを機にやりすぎだと気づいてくれるといいなと淡い期待を抱いてみる。
「あれ、心配してくれてんの。目に涙なんて浮かべて、いつもの威勢がうそみたいだな。まあ、大人な上条さんは全然問題ないわけだけどな」
軽口をたたいて見て、身体は本当に問題なさそうだとわかった。気を失ったの一瞬みたいだが、頭が少しいたいし、身体もお腹のあたりに違和感を感じる。
まるで、何か長いこと別の場所にいたかのように徒労感があった。
今、軽口の反撃に電撃が飛んできたらやばいかもと、後悔して身構える
「あんたこそ、泣いてんじゃん。どうしたっていうのよ。まったく、あんたこそ、らしくないわね」
「えっ」
指摘されて、頬を触ってみると、確かに濡れたあとがあった。そんなに電撃にビビっていたのかと、思ったが、そういったものとは違う気がした。
何か大切なことがあった。一言では言い表せない、中途半端になってしまった悔しさと、本当にこれでよかったのかという不安と、肯定されたことによる安堵と色々なものが混ざったもの。おそらく自分でも整理できないほどのものが、あの一瞬にあったのだろう。
「本当に大丈夫。変なとこ打ったんじゃないでしょうね」
美琴が心配そうにのぞき込んでくる。年下の彼女に、これ以上心配されるのはよろしくなかった。
ちっぽけなプライドが、口から言葉を吐き出していく。ついさっき後悔したばかりだというのに学習しない自分にあきれてくる。
「大丈夫、大丈夫だって。お前こそ、急に優しくなって、あれか電撃の出しすぎで悪いものが全部出たっていうなら、上条さんは大歓迎なんだが」
動揺を隠すように、またいらぬことを言ってしまったようだ。起き抜けの軽口は、本当に心配されてたようで、見逃されたが、2度目はない。
「人が心配してやってるって言うのに、あんたねえ、ふざけんじゃないわよ!」
雷撃に追い立てるように、上条当麻は駆け出す。
こうして、1学期も終わる7月19日という日の締めくくりは、あわただしく幕を閉じる。胸の底につっかえているものを抱えながら、上条当麻は特に深く考えることもなく、眠りについた。
何か、とんでもないことがあったのだとう。でも、それによって自分の在り方が変わるとは思わなかった。
翌日、上条当麻は予想外の出来事に度肝を抜かれることになる。
夏休みの初日、エアコンの故障をはじめとする電子機器の全滅の憂き目にあい、補習が待っているというどうしようもない事実に打ちひしがれながら、少しでも気分を晴らそうとベランダに出たときにことだ。
そこにぶら下がっていたのは、布団ではなく一人の少女だった。不思議とほうっておけなかった。そして、とりあえず中に入れて言葉を交わして、湧き上がってくるものがあった。
「おなかへった」
その声は、今まで聞いたことのないくらい透き通っていた。胸の底にとんと落ちていく。何かが始まる予感に胸が高鳴る。
「私はねインデックスっていうんだよ」
まるで、物語から飛び出てきたかのように、魔術の存在を語る彼女に、上条当麻は心を引き寄せられた。憧れたヒーローの姿が胸の底からよみがえる。
「だったら、あなたは私と地獄の底までついてきてくれる?」
自らの運命と呪いに向き合うかのような姿が放っておけなかった。
こちらを気遣うような、笑顔が、胸の奥に残った、しあわせだったと、ありがとうと言ってくれた女の子と重なったような気がした。名前ももう思い出せないけど、大切な出来事だと思った。だから、返す言葉は自然と出てきた。何も変わってなどいない。上条当麻は、上条当麻だから。
「上等だ。地獄の底でもついていってやろうじゃねえか」
地獄での巡礼を終え、幻想殺しは学園都市で、ある少女と出会った。
ここは学園都市、科学にあふれたこの街で、上条当麻と、禁書目録(インデックス)が交錯するとき、物語は新たに始まりを告げる。
それは、神様の奇跡さえ拒絶する“幻想殺し”を持った言葉を信じる“偽善使い”の物語だ。