「い、いや、いやあああっ!」
倉本きずなは新米魔法使いだ。だから、ついこの間に魔法に目覚めたばかりの彼女は、視界いっぱいに炎が広がるこの世界のことを、《地獄》の本当の恐怖を今まで知らなかった。
きずなは教室で椅子から落ちそうになったクラスメイトを助けようとして、魔法を使った。
ここは全ての奇跡が燃え尽きる《地獄》、魔法を焼きつくす《魔炎》は奇跡のふるい手である魔法使いを問答無用で奈落に突き落とす。
まるで世界が裏返ったかのように、見慣れていたはずの教室が灼熱の牢獄に様変わりする。クラスメイトは全身に火の粉を纏った怪物に変容し、口からも炎の息吹を吹き上げる。
涙を流すきずなに炎の怪物たちが近寄ってくる。心配して駆けよってきた友達が、きずなに触れようとしてくる。いまだに炎を上げ燃え続けるその手を、近寄ってくる友達だったクラスメイトたちを、きずなは必死に魔法で押しのけようとしていた。
「もうやめて! わたしは、あなたたちと……」
のどが勝手に吐き出す叫びを止めることもできず、きずなは腕を振り回す。仕草が《索引》となって発動する再演大系の魔法を解き放つほど、全てが焼きつくされ、劫火の津波が彼女に押し寄せてくる。
この人たちは心配しているような顔で、親切にも手助けしてくれているような顔で、必死の努力でつむごうとしている奇跡を片っ端から消去してゆくのだ。
滅びゆく魔法の断末魔が炎になって全身にからみつく。まるで悪魔のはびこる《地獄》だ。
「だいじょうぶ。……こわがらない、私を、見て」
きずなの視界で激しく燃え盛り波打つ火の海を、たったひとりかきわけて人間がやってきた。
今週の月曜日にクラスに来たばかりの転校生、神和瑞希だった。炎の中でも涼やかな無表情をくずさない転校生が燃えていないのを、整った鼻筋や赤みの強い唇、頬のやわらかさを何度も指でなぞって確かめる。
「だいじょうぶ。……私、燃えないから」
訥々としゃべる声に胸をたたかれ、きずなは赤ん坊のように泣きじゃくり、瑞希の胸にすがりついた。
きずなは、この世界で魔法を使うことへ初めて恐怖を抱いた。
しかし、この世界が《地獄》と呼ばれる一端に触れながらも、このときはまだ、きずなは平凡な日常に帰れるのだと思っていた。
上条が神和邸に来てから数日が立って、上条は外に出ることも許されていた。時刻は夕方で、夜になったらスピッツと合流する手はずになっている。
公館の仕事を手伝うと言っても、上条は右手の他には何の能力もない普通の男子高校生だ。だが、この“普通”ということは殺すことしか能のない刻印魔導師と比べても有利な点で、日常的に人手不足の公館では貴重な働き手となる。上条は完全に公館から信頼されているわけではないが、特殊性はあっても危険性は無いと判断されていた。
上条に知らされている情報は専任係官ほど多くは無い。今のところ上条がやっているのは、公館周辺地域で見るからに怪しい人間を発見したら通報するというもの。魔法使いは悪鬼を避けて人目の少ない場所にいる。上条のやっていることはつまり、通常の不審者に対する警邏活動と変わりは無い。
「なんだかな。こんなんでいいのかな」
上条はイマイチ釈然としない。先日瑞希に言われたこともだが、現在進行形で自分を取り巻く問題に対して具体的な解決策がないことがもどかしい。誰かの思惑とか、ケンカや事件に巻き込まれるなどのトラブルではなく、偶然に異世界に迷い込んだという原因のわからないアクシデントは、ゴールが見えず、どう行動していいかわからない閉塞感がある。
「まあ、それでもどうにかしていくしかねぇんだけどよ」
電柱の陰を見ればお伽噺に出てきそうな妖精が佇んでいて、人が通るとそれは一瞬で燃え上がり消えてしまう。公館のある森の丘からはよく巨大な火柱が上がるが、周りの人たちは気づく様子が無い。公館の敷地内にいる、《協会》の魔法使いが、なにやら魔法の実験を行ったのだろう。故郷と違い、自然秩序が完全に安定したこの世界は、魔法使いにとっては最高の実験場なのだ。
不思議と上条はこの《魔炎》を怖いとは思わなかった。魔法と言う異世界の法則を引き剥がす炎ということだが、幻想殺しには反応しない。それはつまり幻想殺しは魔法ではないということか、それとも幻想殺しが魔炎の干渉を無効化しているのかどうか、よくわからない。
「うん?」
ふと、視界の端で気になるものが見えた。
通りから一本入った住宅街へと続く道には、ぽつぽつと人影が通る。けれど、立ち止まる人間というのは珍しい。
どこかの高校の制服に、スーパーの買い物袋をさげた女の子だ。栗色の髪に濃紺の瞳を恐怖に歪めて、《魔炎》の上がった公館の方角を見つめている。
上条はポケットの携帯を取り出し、公館に通報しようとして、やめた。状況からみれば魔法使いだという気がするが、確信は無い。魔法が使えればそれを消去させることで《悪鬼》かどうか区別できるが、生憎と上条は魔法なんて奇跡とは縁がない。
「あの、どうかしました?」
「あ、いえ、なんでもありません。その大丈夫です。……大丈夫」
女の子は胸の前で手を振り、何でもないと取り繕おうとするが、上条を見る瞳から恐怖の色は消えない。
その恐怖は急に見知らぬ男の子に声を掛けられて身構えたものなのか、それとも魔法使いが《悪鬼》に対して抱くものなのだろうか。
こういう判断はそれこそ公館にまかせるべきなのだろうが、上条は目の前で脅える女の子をほうっておくことなんて出来なかった。
「もしかして、あんたも《魔炎》ってやつが見えてんのか」
「え、なんで。いま、なんて……」
彼女の反応で上条の推測は確信に変わった。
《悪鬼》なら言葉の意味がわからずキョトンとする。しかし、魔法使いなら《魔炎》という言葉自体に心当たりがなくとも、魔法が燃える光景を知っていればそれを連想する。
彼女は魔法使いだ。でも、今までみた公館の連中より、魔法使いらしくない感じがした。安心させようと、上条は精一杯の笑顔を作る。相手がだれであろうと、困っている奴がいたら助ける。独善的でも、それが上条当麻の道理だ。
「俺も、よくわからないけど、この世界の基準じゃ《魔法使い》って扱いみたいだからさ」
「魔法使いって、たくさんいるんですね。ほんと色々なことがあるな」
立ち話もなんだからと上条達は、近くある公園に移動した。小さなすべり台と砂場に、ベンチがあるだけの公園に他の人影は無い。夕暮れで、お腹をすかした子供たちはもう家に帰ったのだろう。
都会にあって、人の姿が途切れる空白の時間帯だった。
「今まで他の魔法使いにはあまり、会ったこと無かったのか」
「私が魔法を使えるようになったのは、最近のことだから」
魔法使いは異世界人だと説明を受けて、実際出会った魔法使いはひと癖どころか、癖しかなかった。だが、目の前の女の子からはそういった雰囲気はない。制服姿で、買い物袋を下げた様子が醸し出す雰囲気はどこか優しい。
「あなたは、怖くないんですか。あの……その《魔炎》っていうんでしたっけ」
「いや、別に。最初は不思議だなって思ったけど」
学園都市で超能力や進んだ科学技術に触れてきたからか、熱を持っている訳でもないその炎を最初は良く出来た立体映像の類のものかと思っていた。
それがどういうものか説明を受けても、《魔炎》が直接上条に何をするでもないから、特に怖いとは思わない。《魔炎》は《魔法》の天敵だが、上条は魔法使いではないのだ。
魔法を使えるようになったばかりの新米魔女の彼女とは、見ているものは同じでも感じているものが違う。
「私は魔法が使えるようになって、初めてお父さんに魔法を見せて、褒めてもらって嬉しかった。まるで夢みたいに魔法があって、私の生活がこれから少しずつ楽しくなっていくのかなってワクワクしてた。誰かをほんの少ししあわせにするような、そんな小さな奇跡を起こしていけるのかなって思ってた。でも、普通の人は何も知らない顔で魔法を燃やして、そんな思いだって平気で踏みつけちゃうんだ」
魔法の断末魔で満たされる地獄の光景を思い出したのか、顔を俯かせる。彼女は、魔法を使えるようになって、世界は完全で欠け落ちたものなど何もないのだと思っていた。ここは何だって出来る自由な雲の上だと、知っていた。
だがここは地獄で、彼女を自由にしてくれるはずの奇跡は、なす術もなく燃え尽きる。
「魔法を使うのが、怖いのか」
「怖いですよ。でも、魔法を失うことのほうがもっと怖い」
魔法に目覚めて、今まで見えなかった世界がどこまでも広がっていることを知ってしまったのに、それを無かったことになんて出来ない。
大空を飛ぶことを覚えた鳥は、飛ばすに地べた這いずりまわることになんて耐えられない。だけど、空へと届く翼を燃やされてしまったら、いったいどう生きればいいのだろう。
「俺は魔法が見えても、使えるわけじゃない。この右手は異能を壊すことしかできないし、魔法使いの気持ちなんてまだ全然わからない。けどよ、魔法じゃ届かなくても、他の方法なら届くだろ。魔法なんか無くても、誰かが幸せになって欲しいって気持ちが消えちまうわけじゃねえだろ。なら魔法なんかに頼らなくてもいいんじゃないか」
上条は、魔法のような特別な力を持たない。奇跡にはまったく縁の無い不幸体質で、ケンカも少年漫画の主人公のように無敵でもなければ、頭脳も飛びぬけて優秀なわけじゃない。魔法のような力を持っていたとしても、それが全てではないのだと思う。
もし目の前に困っている人がいて、その人を助けようとした時、たいてい幻想殺しはやっぱり役立たずだ。
だが、それで終わりって訳じゃない。だったら、他の手を考えればいい。迷子を見かけたら保護者を一緒に探すし、友達や知り合いがピンチだって言うなら駆けつける。
あれが駄目だったから、全部駄目だなんてあきらめないで、助けたいって気持ちを持ち続けていられるのなら、その思いは無駄にはならない。
全てが同じように語れないのはわかっている。こんなのは偽善で、そうであって欲しいと思っているだけなのだ。だが、嘘みたいな言葉でも今は、彼女の励みになってくれるのなら、どんな言葉でも使うし、どんなことでも躊躇わない。
《偽善使い》は言葉を吐くだけで、誰かが救われればいいなんて淡い期待を抱く。それがただ一つ出来ることだからだ。
「うん、そうかもしれない。でも、私は魔法使いだから、逃げられないって」
「逃げられないって、何から」
「魔法から、私は再演大系の魔法使いだから」
彼女の言葉に上条は何故だが背筋が冷えるのを感じた。
今の《魔法》という言葉は、さっきまで魔法を夢みたいと語っていたときとはまるで別人が発したかのように聞こえたからだ。
まるで、何千年と生きた呪われた怪物の、心の底から引きずりだした呪詛のように生々しく、どこまでも重い叫び。
力のふるい手は、その宿縁から逃げられない。
再演大系という魔法がどういうものなのか、上条は知らない。だが、その得体の知れない重圧に、息がつまりそうになる。でも、それに屈するのはまっぴらごめんだった。
だから、《偽善使い》は精一杯に言葉を紡ぐ。
「例えそうだとしても、そこで何を選ぶかは自由だろ。誰を思うのかとか、何を大事にするかってのはさ、そんなことで簡単に決まるもんじゃねえよ」
上条当麻は不幸な人間だ。それが右手に宿した幻想殺しについて回る宿縁というやつなら、確かに逃げられそうな様子はない。それでも上条はその不幸とやらを受け入れられている。縛られるものはあっても、それを背負っていくことを自分の意思で決めていける。
「そうかな。そうだといいな。私がどうしたいかは魔法で決められたわけじゃないものね」
彼女は瞳を閉じて、つぶやく。自分に伝えるように、励ますように。上条は、一瞬だけ彼女がぶれて見えたように錯覚した。小さい彼女、大きな彼女、雰囲気の異なるたくさんの彼女が重なっているように見えた気がしたのだ。
「ああ!! 忘れてた」
「何、どうしたんだ」
思わず見入ってしまっていた意識が、唐突に断たれる。
「晩御飯、はやく帰って作らないと、お父さん帰ってきちゃう」
公園の入り口のほうまで走ったところで彼女は振り返った。夕焼けに照らされたその顔からは、強ばりが抜けていて、なんだかこちらまでほっとする気分になる。
「あの。ありがとうございました」
律義にお辞儀をしていた彼女の背後に、あらたな人影が現れていた。
「上条どの。こんなところにおったのか」
上条からはその正体がはっきりと見える。ダンディズム全開のカイゼル髭、一切隠すことのない見事な裸身。夕日を背負った全裸は、とびきり突き抜けた非日常の存在そのものだった。
彼女がゆっくりと後ろを振り返る。全裸を確認後、高速で顔がもとに戻った。一瞬上条と目が合うが、気まずそうに逸らされた。顔は当然のように真っ赤で、口がパクパクと動いて発するべき言葉を探している。
「あ、ああ、えっと。別に私は何も見てませんから。全裸とか、全裸とか、変態とか見てませんから」
「わあああ、しっかり見ちゃったじゃん。っていうか、違う、違う。俺はこいつとはなんの関係ないから」
さっきから変な汗が止まらない。スピッツがなんとか合わせてくれれば助かる。だが、魔法使いは、そんなに気を回してくれはしない。
スピッツは爽やかすぎる笑顔で、言い切った。
「何を言っておる。上条どのと拙者とは、共に幾晩の夜を明かした中ではないか」
「だあああああ! そんな誤解しかまねかないこと言ってええぇ!」
あながち間違いじゃないから、余計に性質が悪い。否定しきれないところが、彼女をさらに引かせてしまっている。
「その。えっと。ごめんなさい。さようなら」
彼女は、スピッツの脇を全力で駆けていく。壮絶な誤解をされたまま、上条は茫然と立ち尽くす。
「はあ。なんというか不幸だ」
「どうした上条どの。元気が無いぞ」
彼女とは、なんとなくいい感じで話せていた。変態ばかりで疲弊した心には、彼女の普通で優しい雰囲気がおおいに助かる。だか、この壊滅的なインパクトを持つスピッツの登場に、もしかしたら親しくなれるかもというほのかな期待をずたずたに打ち砕かれた。
「別になんでもないですよ。別に……、そう簡単にフラグは立たないってわけですか」
未だヒロイン不在の異世界ファンタジーな物語に落胆する上条を、スピッツは訝しげな顔で覗きこむ。
「上条どのは、彼女の正体を知っていて接していたのか。親しげに会話しておいでだったが」
「いや、知らなかったけど、魔法使いだろ。その口ぶりだともしかして見てたのか」
「何を隠そう拙者は、学校帰りの彼女をずっと監視していたからな」
スピッツは、見た目が物語るように、隠すものもやましさも無いから、全てを晒しても堂々としていられる。
だが傍から見れば、もはや犯罪の匂いしかしない。
「監視って、お前、その格好でそんなことしたらマジ洒落になんねぇぞ。全裸と言う名の紳士って言い張っても無駄なんだぞ」
「違う! 拙者は紳士ではなく、戦士だ! そこのところ間違えてもらっては困る!」
「そこかよ! 引っかかるとこそこかよ!」
魔法使いのこだわりは、どこかおかしい。悪鬼よりの常識を持つ上条とは、価値観がかなり違っている。だが魔法使いにとって、それは曲げることのできない己の生き方そのものだ。しかも、価値観の衝突が即殺し合いに発展する。だから、悪鬼と魔法使いに限らず、魔法使い同士の衝突も、いたるところで発生することになるのだ。
そんな中でも、スピッツは奇跡的に順応しているほうだった。
「拙者も警察の世話になることは経験上まずいことは承知している。だから、先ほどまでは恥をしのんで服を着てたのだ」
錬金大系魔導師にとって、服は魔法の扱いの未熟な子供や病人、衰えた老人が着るものだ。大人の彼が着ることを、この世界の恥に照らし合わせるならオムツを穿くことに等しい。
スピッツから言わせれば最大限の譲歩だったのに、悲しいことに悪鬼や上条にはあまり理解されない。
「じゃあ、なんで今全裸なんだよ」
「錬金大系の魔導師は、“もの”と“もの”との境界に魔力を見出す。消去環境でなければ衣服を液状化して瞬間的に脱衣することが可能なのだ」
「いらんからそんな魔法。服を着てくれていたら問題無いのに」
「おおいに問題ありだ上条どの。戦士として、いつまでも恥を晒しては故郷の義姉上をはじめ、帰りを待つ一族に顔が立たん」
遠くの故郷の錬金世界を思ったのか、スピッツは目を細めて立派なひげをなでる。刻印魔導師は極刑に等しい刑罰で、百人討伐を成し遂げた者は未だ存在していない。スピッツはその困難な道に投げやりにならず、あえて恥をさらしてでも挑み続ける。いつか故郷の土を踏むことをあきらめていない。
スピッツの全裸の覚悟宣言に、上条は気圧されていた。
「そうなんか……。んで、何で彼女を尾行なんてしてたんだ。魔法使いだからか」
「うむ。彼女はただの魔法使いではない。彼女は再演大系の魔法使いだ」
「再演大系ってなんだ。それが、そんなに特別なことなのか」
再演大系。彼女がそれを言葉にした時の冷たさは今も完全に消えていない。
「拙者も詳しいことは知らないが、再演大系は60年前、使い手が滅んだはずの幻の魔法大系だ。《協会》が最高の魔法大系の一つに数える強力な奇跡の担い手でもある」
「強力って、そんな雰囲気は全然しなかったぞ。こういっちゃなんだか他の魔法使いと比べて随分普通な感じがした」
実のところ、魔法使いはみんな変態だと思っていた。初めて出会った魔法使いが弩級の被虐趣味、可憐な少女かと思ったら嗜好がサディスティック、そしてとどめに全裸である。文化の違いは凄まじく、異なった世界の住人だということ否応なしに感じさせる。
その点、彼女は普通なのだ。魔法使いらしい厳しさというものが無い。価値観としてはこの世界本来の住人に近いものを持っている。
「彼女、倉本きずなはここ1カ月で魔法に目覚めたばかりなのだ。だからこそ、公館の監視の対象になっている。その監視は《魔獣使い》どのの仕事だ。そして《魔獣使い》どのが傍にいられないとき、代わりに尾行するのが拙者の責務だ」
思えば、彼女と瑞希は同じ高校の制服を着ていた気がする。
上条は立場的に瑞希の下に就いていることになっているが、そんなこと全く知らされていなかった。瑞希はたまに様子を見に来るだけで、基本的に放置されていたのだ。
「拙者とて全てを知らされているわけではない。刻印魔導師に与えられる情報は制限されているからな。専任係官から命令をうける以外にあまり勝手な行動をする訳にもいかんのだ」
この《地獄》に来て数日が経って、色々なズレを感じるようになった。
魔法使いがこの世界の住民を悪鬼と蔑み人間扱いしないこと、本来この世界の住民を守るはずの公館がやっていることのきな臭さ。それらの思想と現状が、あまりにもちぐはぐで、乖離している気がする。
それが、上条を落ち着かない気持ちにさせる。
「《魔獣使い》どのもいっておられたろう。《刻印魔導師》と《専任係官》は対等ではありえない。同様に《公館》と《協会》も、《魔法使い》と《悪鬼》もまた決して友好的な間柄ではないのだ」
「またそれか。もしかして、思った以上に俺って不幸なんかな」
状況が思ったよりシビアなのを、改めて実感する。いたるところにある溝はどこまでも深く、下手を打てば地獄の底にあっという間に引き摺り落とされる。
「上条どの、ここは魔法使いにとっての地獄。奇跡も燃え尽き、神もいない悪鬼蠢く釜の底だ。そんな甘い心構えでは、早晩命を落とすことになるぞ」
「そんな、大げさな」
命のやり取りなんて、この世界の住人の多数や、上条には全く縁が無く、どこか違った世界のお話である。想像できないのも無理が無い。
だが、もう日が沈む。悪鬼が眠り、人が消え魑魅魍魎が蠢く夜、魔法使いの時間がこれから始まるのだ。