「従者ラグランツの血を名付けて《火花》と定義、保持済み概念《緋牡丹》と加算。……弾けぃ!」
人間の身体が内部から弾け、血が花火のように飛び散るのも、それが爆発する光景も、上条は初めて目の当たりにした。
胃が締め付けられるように痛み、強烈な吐き気が湧きあがってくるのを必死に押さえこむ。もし気がつかれたら、あの魔女の人を人とも思わない残忍な目が、こちらに向けられることになるのだ。
奥多摩の山中で《染血公主》ジェルヴェーヌと従者ラグランツを、上空を飛んでいたスピッツが捕捉、上条が公館に連絡、瑞希と合流して状況は今に至る。
ジェルヴェーヌは聖騎士と交戦状態にあった。幸いなことに、こちらの存在は気づかれていない。
体重九十キロのラグランツの血液七リットル全てを爆薬にした爆発は、大地を波打たせ、あらゆる物を噛み砕き、もうもうたる白煙と土煙を巻き上げた。
奥多摩の山間を揺るがした爆発は、悪鬼に観測されて人が集まればうやむやになるはずだった。
だが、魔炎は上がらない。
斜面の杉を根こそぎなぎ倒すはずの爆発を、一人の騎士が抑え込んだからだ。
彼女の名を、エレオノール・ナガンと言う。
「よくも……」
やさしい乙女の表情に戻ってエレオノールは失われた生命にではなく裏切られた信義のために、涙もなく哮る。
「……よくも、仲間をそのように扱えたものですね!」
輝く剣を大地に突き立てたエレオノールを頂点にした三角形の範囲は無傷だ。背後の部下を守るために、彼女はあえて爆心地に自ら踏み込んだのだ。
勇敢な仲間想いの優しい乙女の顔面は蒼白になっている。《染血公主》の魔法で変成された火薬であるニトログリセリンは、強い血管拡張作用を持ち、それを皮膚や粘膜から大量に吸収されたせいで、激しい血圧低下におそわれているのだ。
「これは夢なんかじゃない。本当に殺し合いをやってるんだよな」
動悸が激しくなるのを、深く呼吸することで落ち着かせようとする。目の前で実際に人が一人吹っ飛んだのだ。死体は肉片ひとつ残っていない。しかし、辺りに漂う焦げた土の匂いと肉の焼けた異臭は、これが現実なのだと否応にも実感させられる。
「はやく殺したいね」
「はやく殺したいよね」
上条たちは木々の合間で息を潜めてその様子をうかがっていた。人の命を奪う行為を簡単に歌うエンド姉弟の輪唱が、上条の青い心を刺激する。
「お前らなあ!……痛っ!」
思わず声を荒げそうになったが、瑞希が投げた携帯電話が上条の額を打ち、落下しそうになるのを反射的に拾い上げる。
勢いが殺がれ、文句の一つも言おうとするが、瑞希の氷のような目がそれを許してくれない。
訥々としたしゃべり方で、極めて端的に、瑞希は殺し合いを催促する式神達に号令を発した。
「これから、割り込む。私が行ったら、後は好きにしていい」
巫女装束をまとった瑞希の足取りは体重を感じさせないように音が無く軽い。
エンド姉弟が、クスクスと笑い手元で戦輪を弄ぶ。シャリン、シャリンと金属の擦りあわされる涼やかな音が、妖怪たちの百鬼夜行を囃したてるようだ。
「なあ、俺はどうしたらいい」
路地裏のケンカの経験は何度もあるし、持ち前の不幸な体質のせいで年中トラブルに巻き込まれ通しだった。そのおかげで、少しは度胸も据わってるつもりだった。
だが、震えの止まらない足が、泣きそうになる自分の心が、こんなに情けなく頼りないものなのだとは思わなかった。無力感と悔しさが、ひしひしと身体を締め上げて、動けなくなる。
「お前には、はじめから何も期待してない。ここで……じっとしてろ」
瑞希は上条を振り返ることなく、その弱さを見透かすようにただ淡々と、告げるだけだった。
だがそんなことを言われて、簡単に引き下がれるほど、上条は臆病者になれなかった。
ここは魔法使いにとっての地獄で、上条にとっては異なったシナリオを強要させる異世界だ。だが、これが幻想殺しが引き寄せる宿縁というやつでも、そこで何を選び、どう行動するかは自由なのだ。
「あんなん見て、じっとしてられるか。あの《染血公主》って奴はこの世界で人を殺して回ってるんだろ」
ここに来るまでに、スピッツから《染血公主》のことを聞いた。魔法使いの研究機関《協会》の調整官に一代の女傑と評された《染血公主》ジェルヴェーヌ・ロッソ。二年前、同僚の魔導師六名を殺して姿を消し、その後に地獄で強盗、殺人を繰り返した。先日も資産家の男が、買い物の不足金を賄うためだけに殺された。
「死ぬのは、勝手。……でも、邪魔は絶対するな」
瑞希は、そう言い残してふわりとその身体を宙に舞わせる。重力など存在しないかのように、木々の幹を蹴り、枝を踏み、夜の空に身を躍らせる。
「覚悟を決めろ。死ぬのが怖いからってほうっておいてられるか」
まるで“モノ”のように、簡単に人を殺す魔法使いを止めるのなら、それは殺し合いの場に足を踏み入れるしかないのだ。誰かを殺すだなんて、上条には出来ない。だったらせめて、自分が死ぬ覚悟くらいはもってないと止められる筈がない。
「エレオノール隊。総員、概念魔弾、射撃式《残照》ッ!」
エレオノールを庇うように前に出た細身の身体の聖騎士、ニコライがテノールを響かせる。それに呼応して、少女を除いた全員が、籠手の指輪を腕鎧に施されたくさび形文字列の浮き彫りに押し当てる。奇跡を奏でる神音を索引として観測し、魔法を行使する聖騎士たちは鎧や武器に楽器を仕込んでいるのだ。
魔弾を斉射しようとした騎士たちには、この時、ジェルヴェーヌしか見えていなかった。
「いかんなあ、あんサンらが戦うんは妾とちがう。ここがどこやか忘れてへんか?」
口の端を吊り上げ、二年もの時間を地獄で暮らしてきた女傑は無邪気な悪意を込めて騎士たちを嘲る。
この地獄には魔法使いを狩る鏖(みなごろし)の悪鬼がいる。
「《染血公主》ジェルヴェーヌ、……およびエレオノール・ナガン以下聖騎士……六名、補足」
夜空に吹く南風が雲を押し広げ、魔法使いを照らしていた満月の光が不自然に遮られた。黄金の円盤を背負って仙女が現れ、その姿が雲の船から大地の海へと、戦場へと飛び込んで行く。
彼女、魔導師公館の専任係官、神和瑞希は魔法を消去してしまう悪鬼ではない。
《魔獣使い》は感覚する原初の霧である《気》を操り、奇跡を織り上げる。
足元に集中した白い霧が、青い閃光に変わり、火花を散らして流麗な下半身を覆ってゆく。大気中の埃を焼き焦がしながら、その身に膨大な電子を帯電して、仙女は巨大な高電圧の稲妻と化した。
天から大地を割る天罰のような一撃が、騎士団の隊列に突き刺さる。
粉塵が舞い上がり、轟音が悪鬼に観測されて、魔炎が燃え上がる。いくら公館の撃墜王である瑞希でも、《染血公主》と聖騎士を同時に相手するのは厳しい。だから瑞希は、魔法消去の影響を無視した最大出力の不意打ちで、早々に騎士たちの無力化を図った。
「《魔獣使い》、公館の鏖殺悪鬼が!」
立ち上がれないエレオノールを庇い、前髪を焦がしたニコライが忌々しげに吐き捨てる。
瑞希の二つ名《魔獣使い》とは、地獄だけに存在する魔力型にも索引型にも分類できない魔法のひとつを指す。悪鬼を観測者とするこの世界に、本来いないはずの例外中の例外。
カオティック・ファクター。
彼女は《地獄の魔法使い》だ。
至近距離で荒れ狂う電流に聖騎士たちの身体が焦がされ、高熱に精密さを要求される神音楽器が歪んだ。正確な音を奏でられなくなった騎士たちの戦力は大幅に半減する。
「立て直せ、神意は我らとともにある!」
戦斧を担ぎあげた、巨躯の聖騎士、ドナルド・デュトワの大音声が、膝をつきかけた仲間を叱咤する。
「天地は一つ、……《気》にして、万物は一つ、……《気》にしたがう」
《魔獣使い》の魔法は、万物の根源たる《気》のもと、おおよそ地上に存在するあらゆる自然物を生じさせる。
両腕を十字に組み、踏み込み一閃、空を切る。三十匹をこえる群狼が空中から灰色の滝のように続々と溢れ出し、やっとのことで剣を構えた聖騎士たちに殺到する。
「おのれ、獣ぶぜいで我らが退くと思うな!」
ドナルドの戦斧が、まとめて数匹の狼を薙ぎ払う。間隙を補うように、残りの聖騎士が前に出て、絶え間なく押し寄せる灰色の奔流を押しとどめる。
「隙だらけだな」
「隙だらけよね」
暗がりから、囁きとともに、二条の銀風が奔った。さらに見えない弦に引かれるように飛来したいくつもの戦輪が、群がる狼を引き裂きながら襲いかかる。血風が聖騎士たちの視界をふさぐが、歪んだ神音楽器の暴発を恐れて概念魔弾で咄嗟に吹き飛ばすことも出来ない。必然、聖騎士たちは剣での近接戦を余儀なくされる。だが、狼の群れと至近距離で殺し合って、人間が生き延びる道理など無い。
「ぬぅ。このままでは」
聖騎士の強固な汎用防御魔術《光背》も、いつまでももつ訳じゃない。絶え間なく迫る狼の牙と爪、鋭い戦輪の刃が、徐々に《光背》を削っていく。その光景に騎士たちの焦燥が募る。
「あきらめてはなりません。神意が我ら共にあるのなら、道は必ず開けます」
戦場にあって涼やかな、乙女の柔らかなソプラノが、文字通り空気を変えた。
楽器に頼らず、歌で精密に発現位置を制御された高威力の魔弾が、獣の群れを吹き飛ばしたのだ。
「エレオノール!」
神の声を聞く一人の神音歌手は仲間の危機に歌い、魔法で状況を打開した。
エレオノールの切り開いた突破口に、二名の聖騎士が飛び出し悠然と佇む瑞希に斬りかかる。
だが、そこに空を飛ぶもうひとりの戦士が立ちはだかった。
「ふははっ、ふはははっははははは!」
《大気泳者》スピッツ・モードは自身の身体の境界面に触れる空気の性質を自在に操り、空を飛ぶ。スピッツが高々度から猛禽のように急降下し、飛び出した聖騎士に狙いを付けると、直上から手刀を振り下ろす。
手刀の表面に蓄えられた、魔法で高密度に圧縮された空気が解き放たれた。激しい空気の奔流が、聖騎士の身体を弄び《光背》ごと、大地から無理矢理引き剥がす。
錬金大系の魔導師は、自由に空を飛ぶ機動性と、自然のものであれば触れるだけで性質を操り切断する高い破壊力で敵を打ち砕く、生粋の戦士だ。
聖騎士の中心に斬り込んだスピッツの機動は止まらない。空中に投げ出された聖騎士に間髪いれず、入射角との同様の角度で、沈んだ手刀を斬り上げる。
初手の攻撃で、《光背》は完全に削り取られてしまっている。聖騎士の身を守っているものはもう、鎧しか残っていない。
どんな強固な素材で出来た鎧も、高位の錬金魔導師の前では紙屑に等しい。自身の身体という“もの”と外部との境界面の性質を操る無双の肉体は、聖騎士の腕を、鎧ごとたやすく切断した。
全裸が正装の錬金大系魔導師は、戦いの高揚と、空を駆ける興奮に笑いが止まらない。
「ふはははっふははは! 空を飛ばずして何の人生でしょうや! 戦わずして、何が戦士でしょうや!!」
「相変わらず。公館はようやるわな」
背後に響くスピッツの高笑いを聞きながら、染血公主はほくそ笑む。公館の専任係官、敵対するものをことごとく鏖殺にする《鏖殺悪鬼(スローターデーモン)》と《協会》の敵である聖騎士では、目的は同じでも協力することなんてまずない。必然と衝突する。あとは混乱に乗じて逃げればいいだけだ。
「ほな、妾は消えさせてもらおかいな」
「待てよ。魔法使い」
右手を強く握りしめ、上条は染血公主の前に立ちはだかった。異能の力を問答無用で打ち消す力、悪鬼の魔法消去と似た能力、《幻想殺し》を持つ右手。普段何の役にも立たない右手が、この人殺しの魔女に通じるのかわからない。
上条にできることは時間を稼ぐことだ。魔女の魔法を出来るだけ捌き、右手で受け止め、瑞希たちが来るまで耐えることだ。
そのためなら、怯えなど押し殺し、精一杯の虚勢を張ってみせる。
「てめぇの好きにはさせねぇ! おとなしくしやがれ」
「あんた、刻印魔導師かいな。なんや、威勢がいいわりには震えとるで」
ジェルヴェーヌが、目を細めて上条を値踏みする。
残忍な眼に射竦められて、震えていた足が凍ったように動かなくなる。
「うるせぇぞ魔法使い。お前みたいな人殺しを、この世界で野放しにできるかよ」
「なんや悪鬼のために言うとるんか。おもろいこと言いはるなあ。魔法を使えんのは人間のかたちしてても、ただの“モノ”といっしょやへんか」
魔法使いは、悪鬼を人間扱いしないとは聞いた。だが、それをまざまざと見せつけられて、単純な怒り以上の何かが全身を駆け巡った。
「てっめぇ! 何様だ」
地面に縫いとめられていた二本の脚が、考えるよりも早く動く。右手を、五本の指の一つ一つに、力を込めて順に折り、拳を握り込む。
「悪いけど、あんたにかまってる暇ないわ。ちゃっちゃと通らせてもらおか」
染血公主にとって、若く修羅場をくぐってきた雰囲気も無い上条は、全く脅威の対象になどならず、路傍の石ころ程度に等しい障害としか感じない。
宣名大系は術者自身が想起したイメージを媒介に索引を引く索引型の魔法だ。この大系の魔法は、索引行為が術者の脳内で完結してしまうため、奇跡を発現するためには、対象を術者の脳内イメージを記述した《化身》で捕獲し、名付けを行う必要がある。
白壇の扇子を広げジェルヴェーヌは、宣名大系の《化身》、《貪欲の化身》を上条にけしかける。
「少年を名付けて《張り子》と定義す……」
高位魔導師のジェルヴェーヌは上条の虚勢を見抜き、定義は的を射ていた。定義付けが完了次第宣名大系の魔法が上条を捉える。
宣名大系は魔法を引きだす手順が煩雑な分、通常の防御手段が意味を成さない殺傷力の高さが特徴なのだ。
通常の魔法防御では、宣名大系の魔法は防げない。それこそ、悪鬼の魔法消去のような、魔法の天敵でも、使えない限りはたいてい無理だ。
上条は、異能の力を打ち消す《幻想殺し》の宿った拳を身体にまとわりつくように実体化しようとする魔法に、叩きつけるように突き出す。
「効かねえ!」
ジェルヴェーヌが放った《貪欲の化身》が、対象を捕獲する寸前で消滅する。
定義が外れて、対象を見失ったのではない。上条の体表面に張り付き、右手に触れた段階で《化身》自体がかき消えたのだ。
「あははは。なんや。あんたおもろいな。気ぃ変わったわ。腕の一本でも、もろうて帰ろか」
口の端を吊り上げ、和服の魔女は楽しそうに扇子を閉じる。宣名大系の《化身》自体に干渉して消滅させるなど、予想外の事態もいいとこだ。どんな魔法大系にも当てはまらない、ありえない現象に背中がゾクリとする。
咄嗟に浮かんだのは、魔法使いを絶望に突き落とす公館の専任係官の二つ名だ。
「《沈黙(サイレンス)》、《真なる悪鬼》かいな。いんや、魔炎も出てへんみたいやし、別もんやろ」
《沈黙》は魔法使いにとって、数多の高位魔導師を屠ってきた地獄の恐怖の象徴だ。
だが目の前の少年からは、得体の知れない力に多少なりともとまどいは感じても、魔法使いを真に絶望させる寒さは感じない。
だから恐怖や、驚異よりもまず、そそられる。いったいどんな仕組みなのだろうと。
《協会》に在籍していたときには聞いたことも無い現象だ。公館の新たな手札ならば、それを見極めないと、後々の不安要素になる。
「まあ、いろいろと確かめさせてもらおか」
ジェルヴェーヌは手始めに、足元にある石ころ上条に向かって蹴りあげる。
草履で蹴って、勢いもろくに出ず、目くらましにもならない石つぶてに、上条は悪寒を覚えて右手ではたき落とす。
相手は、あらゆる物を媒介に、火薬を生成し爆破する。脳裏に焼きついた人が爆発する光景が、そのことを強く認識させた。
魔法を使うには宣言もしなければならないようで、それだけなら対応できる。
「同じような芸が通用するかよ!」
「それ、そのまま、あんたに言えることやな」
唐突に地面で起こった爆発が、上条の身体を掬いあげる。
右手の届かない足元にあった、小石が爆薬に変成されたのだ。宣名魔法は、実は絶対の技量のある高位魔導師であれば、名付けを省略できる。
地面にたたきつけられて、その勢いのまま何度も回転しながら斜面を転がり、途中で巨木に激突して、ようやく停止した。
背中を強打したせいで息が詰まる。口の中には土砂の味が広がり、耳鳴りがして音も聞こえない。気を保とうと首を振って、顔を上げるとジェルヴェーヌと目が合った。追いつかれていた。
心臓を鷲掴みにされたような感覚に、全身が総毛立つ。ジェルヴェーヌの手に持った扇子が一閃した。
両手を庇うように交差して、身体を低くする。頭上を何かが通り過ぎた。
見ると背後にあった木が半ばまで抉れていた。綺麗な切り口、ただの扇子のはずが、業物の刃と同等の切れ味を持った。これも魔法なのだ。
ジェルヴェーヌが物足りなさそうに見下ろし、緩慢な動作で扇子を振り上げる。
「どうしたんや。もう終わりかいな」
魔法で強化された扇子が、上条の頭を立ち割らんと打ちおろされる。当たれば頭の中身をぶちまけて死ぬ。
「余裕見せすぎだ。人間舐めんなよ。魔法使い!」
臆せず、右手で扇子を受け止める。《幻想殺し》が魔法を破壊し、そのまま扇子を握りつぶす。魔法とわかれば怖くない。魔法に《幻想殺し》が通じるのは、もう証明済みなのだ。
だが、魔女は上条のかすかな手応えを嘲笑で踏みつける。
「やっぱ魔法消せるんは、その右手だけみたいやな」
魔法の無効化が悪鬼と同様のものなら、初手の爆破も無効化されてもおかしくない。
初手のプラフに放った石つぶてを右手で防ごうとして、さらに魔法で強化された扇子の一撃を右手で止められ、強化魔法が消去された。
ただそれだけの事実で、何が魔法の天敵なのか簡単に見えてくる。想定外のことが起こったら、それが何に起因するのか、可能性を順に潰していけばいいだけだ。
染血公主の振りぬいた膝が、上条の鳩尾を捉えた。
「がっ―――ああ。ゲホっ、ごほっ」
「あーあ、妾の扇子を台無しにしよってからに」
膝から崩れ落ち、四つん這いになってえずく。胃の内容物が逆流し、酸素を求めて開いた口から、酸っぱい胃液が地面に吐き出された。
苦しさに喘ぐ中、ジェルヴェーヌの冷たい声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「ほんまなら、その口から血しか出えへんようになるまで弄ってやるんやけど。まあええわ、そのまま死んどき」
立ち上がらなければ、今度こそ死ぬ。だが、身体が言うことを聞かない。
もう、だめかもしれない。
この異世界で、素敵ヒロインとなんのフラグも立てられないまま、かっこ悪く死ぬ。脳裏に浮かんだのは、常に全裸で笑う、一人の男だった。なんでこんな時にそんな奴のことが浮かんでしまうのか、最後の最後まで、不幸だと思わずにはいられない。
「上条どの!」
幻聴だと思った。次の瞬間、身体が浮いて、地面がどんどん遠ざかってゆくのがわかった。スピッツが、上条を空へと引き上げたのだ。
眼下を走るのは獣の群れと、その上を疾走する人影が見える。《魔獣使い》の魔法によって生み出された従順な使い魔たちと、それを従えた巫女だ。
「聖騎士はもう引き上げたんか。なかなか役に立たん連中やな。しゃあない。妾ももう帰ろか」
狼の群れに囲まれても、魔女は優雅に余裕を崩さず微笑んでみせる。魔法の行使に対象化が必要な宣名魔法では、圧倒的な手数に対応するのは困難だ。
「《染血公主》……逃がさない。お前は、ここで、倒れろ」
「いややね。《魔獣使い》が群狼、名付けて《猟犬》と定義。保持済み概念《緋牡丹》を加算。派手に飛び!」
染血公主は、一度の名付けで、狼の群れ全てを一度で照準し、爆破した。
奥多摩の山中を、再び爆音が揺るがす。二度目の激しい爆発は、地崩れを誘発し、山の地形が変わる。
今度は遮るもののない、正真正銘の大爆発だ。爆風で吹き飛んだ小石が、空を飛ぶ上条の額を打ちつける。
「染血公主は!」
大地はそこだけ爆撃を受けたかのように悲惨なありさまだった。その爆心地にあって、瑞希は埃まみれになりながらも、傷を負った様子は無い。あの爆発を至近で受けて無傷なのは、《魔獣使い》の用いる原初の息吹を相手の攻撃に反応させ相殺し得るものに変換する強固な防御魔法、《気盾》が為せる技だ。
「すげぇな。あれが……魔法使い」
上条は素直に感嘆した。一瞬であれだけの爆発を起こすのも、それを防いで見せるのも、全て魔法が為せる技だ。エントロピーや質量保存の法則すら、持たざる者の泣き言と評する奇跡の使い手たち。
その力の衝突の単純な凄まじさに、自分が入りこむような余地などあるのだろうか。あの大爆発を見せつけられては、染血公主がいかに手を抜いていたのかはっきりわかる。
この世界では、誰もが当たり前にもつ魔法消去に似た能力、しかも右手限定だけのちっぽけな力《幻想殺し》。
最初に瑞希が言っていたように、自分は単なる足手まといにしかならないのではないだろうか。
白煙が晴れて、《染血公主》の姿は消えていた。今の爆発の隙に、森の中に姿を隠したのだろう。
遠くで、消防車のサイレンの音が聞こえる。あれだけ派手にやったのだ。直ぐに人も集まってくる。
時間切れだ。《染血公主》は逃げおおせ、《幻想殺し》を右手に宿す少年は、その無力さを突き付けられる。
「むっ。もう降りねばなるまいか。まあ、上条どのが無事でよかった」
全裸の何気ない一言で、泣きそうになる。この世界は相当異世界の住人には厳しく出来ているようだ。
「ああ。なんというか、不幸……だな」