錬金大系魔導師スピッツ・モードは倉本きずなのアパートに来ていた。行方をくらましている彼女の父親、倉本慈雄の手がかりを調べるためだ。
公館から荒っぽい手段を取らないよう注意を受けているから、面倒でも預かった鍵で扉を開ける。部屋に入ってすぐ、スピッツは魔法で脱衣した。錬金大系の戦士にとって服を着るのは拷問にも等しい責め苦だ。だがスピッツにはそれを耐え得る強い戦士の誇りがある。百人討伐を達成し故郷に戻り、己が潔白を証明すること。政争に負けた一族が錬金大系世界で復権するためなら、どんな恥でも甘んじて受けるつもりのスピッツである。
百人討伐をやり遂げようとする固い意志、それが、スピッツ・モードが公館から信頼されている数少ない刻印魔導師として重宝される理由だった。
倉本家の部屋には生活の名残がまだあるがスピッツは意に介さない。情に流されやすく偏執的な武原仁なら三時間はかけて終える調査を、スピッツは半分の時間でやり終えた。
倉本きずなに幾らかの思い入れがある武原仁や神和瑞希ならいざしらずスピッツの心を動かすのは未熟な新米魔導師のことではない。戦士としての誇りと空を飛ぶこと、そして一族のことだけだ。
そのはずだったが、スピッツの心は一人の人物に引っかかっていた。ウニ頭の少年、彼の存在は異質だ。その少年が近くにいるとスピッツは否応もなく惹きつけられる。まるで別の物語に強制的に方向転換させられているみたいだ。先日、ネリム・エンドとクラム・エンドが死亡した戦いの場にスピッツはいなかった。神和の家を出ることになった少年をスピッツが護衛を務めていたからだ。戦いの場に参加できなかったのは単純に悔しいが、次の戦いをしっかり務めればいいだけのことでもある。
めぼしい手がかりのないまま、最後に倉本慈雄の工房と思しき部屋に向かう。ふすま戸を開けると歯車仕掛けのオルゴールが鳴った。ふすまの開閉と同時に音が鳴る対聖騎士用の罠だ。このアパートに聖騎士たちが踏み込んでくることを警戒してのことだろう。
部屋の中には作りかけの楽器がいくつもある。その精巧な出来に唸ると同時に、戦士の本能が倉本慈雄の実力を想像させた。倉本きずなの再演魔導師としての覚醒から始まる一連の事件の中心人物。おそらく神聖騎士団も公館も、染血公主も全て出し抜く気だ。相応の準備と実力を兼ね備えているに違いない。
スピッツは武者ぶるいをした。地獄に落とされてもなお、義のために己が肉体を駆使し、強敵と戦うことができる。戦士としてこれ以上の喜びはない。
「ふふふっ、ふーはっはっはっは!」
意気揚々と工房を出ると、スピッツは空気の乱れを感じ反射的に飛びのいた。自慢の胸板に強い衝撃がぶつかり吹き飛ばされる。窓ガラスを突き破り外気に身体を晒したところで、魔法で姿勢を立て直す。
攻撃の正体は神音大系の魔弾。威力も相当に練られたもので、飛びのいて衝撃を軽減したにも関わらず肋骨が何本か折られている。スピッツは空中で静止したまま攻撃の出どころに視線を向け、二つの人影を見て、喜びに震えた。
「ふーはっはははは! これは僥倖!」
逃した闘争が、向こうからやってきた。身体に気力が高まっていくのを感じる。
「マルクの工房で何をしていた。公館の犬め」
豊かなバリトンを響かせるその男の正体は神聖騎士団団将グレアム・ヴェイン。その後ろに控える巨躯は上級聖騎士ドナルド・デュトワだ。悪鬼の世界で目立つことを嫌ってか剣も鎧も身に付けていない。聖騎士でも警察は嫌いみたいだ。
「犬、いや違うな、私は戦士だ! その命、もらい受けるぞ!」
窓ガラスを派手に割ってしまったから、アパートの悪鬼達がすぐにやってくる。勝負は一瞬で付ける必要があった。
スピッツは魔法で高速移動し、両の手を広げ薙ぎ払うように突進する。まともな勝負なら分が悪くても、無手の聖騎士など恐れるに足らない。
グレアムとドナルドの放つ魔弾を一つ、二つと見切る。《大気泳者》とは地獄での蔑称だがスピッツの飛行能力は図抜けている。スピッツの高速の軌道にドナルドが身体を割り込ませた。生身の肉体の防御など、自身の肉体が無双の剣と化す錬金魔導師には意味がない。しかし、即座に液状化し両断するつもりが、スピッツは思わぬ足止めをくらった。ドナルドは光背の応用で両手に防御殻をまとい、吶喊するスピッツを受け止めたのだ。このままでは空中で静止してしまい、死に体となる。体勢を立て直すべきか迷ったが、戦士の誇りが後退することを許さなかった。
「うぉおおりゃああああ!」
気合い一発。光背の防御殻ごと腕を掴み、身体の筋肉を総動員してドナルドを放り投げた。行使した全身の筋肉の緊張が一瞬緩み、ふーっと息を吐き切ったその一瞬の隙をつき、ひときわ巨大な魔弾がスピッツの全身を打った。
魔法を使う間もなく屋外の駐車場まで吹き飛び、停車していた車に背中から激突する。肺が片方潰れたのか、咳き込む度に血を吐いた。アスファルトを穿つ血痕、口の中には鉄錆の匂いが充満する。
「ふはっ! ふはははははは!」
大音声で笑っていた。身体に力がたぎっていくのを感じる。周囲の空気がざわめきだした。グレアムの傍らに、2mをゆうに超える巨大な猛禽が待ち構えていた。
「ふはははは! ふあっはははははは!」
全裸の魔法使いが、己が身一つを宙に浮かべて高笑いする。百人討伐だの、戦士の誇りだの全てが頭から吹き飛んでいた。スピッツを衝き動かすのは空を飛ぶ高揚感、闘争への渇望。
死ぬかもしれぬと理性が言う。それでも動けと、吶喊せよと戦士の本能が叫ぶ。そしてスピッツは当然のように飛翔吶喊を選択する。
グレアムの放った魔弾は、スピッツの鍛え上げられた肉体を翻弄し粉砕するには十分な威力があった。
魔法で紡がれた死の猛禽が全裸を喰らうその瞬間、走り込む人影がひとつあった。無節操に飛び出た黒のツンツン頭、右手を真っすぐ突き出すシルエット。
《幻想殺し》
それに触れた瞬間、魔法は奇跡を失い、砕け散る。
上条が聞き覚えのある笑い声に反応して駆けつけると、そこは魔法使いたちの世界だった。血まみれの全裸の姿、それに迫りくる巨大な透明の猛禽。
足は自然と進んでいた。そして、上条はその魔法を右手で破壊する。
「上条どのっ!」
「これで貸し借りなしだ。スピッツ!」
染血公主と戦った時は間一髪のところを助けられた。魔法消去が一般的なこの世界でも、『幻想殺し』は使いどころさえ正しければ恩を返すくらいには役に立つ。
「上条どの、前を!」
振り向くといつの間にか眼前に拳を振り上げた巨躯の大男、ドナルドがいた。咄嗟に身体をひねり、肩で拳を受ける。骨がきしむほどの衝撃に数メートル後退するもなんとか倒れずにすんだ。
「おかしな魔法を使う少年。貴様も公館の刻印魔導師か」
「違うな。俺はそいつの、そうだな知り合いって奴だ。いいのか、これで2対2だぜ。飛び道具は絶対に俺が潰すし、殴り合いならスピッツがいる」
ドナルドの誰何の問いに不敵な笑みで返す。非力な上条にできるのは『幻想殺し』での魔法潰しとハッタリくらいだ。歴戦の上級聖騎士とはいえど、無手で高位の錬金魔導師と接近戦をやるのは躊躇するはずだ。上条の存在も、得体の知れなさでは良い賭け札になる。
これは命を張った賭けだ。札は純粋な実力という、魔法使いの賭場。足の震えを懸命にこらえる上条の隣にスピッツが立つ。汗と血の混じった鼻をつく臭いに、頭がクラクラして倒れそうだ。
「潮時だ。ここは退くぞ」
アパートの住人が警察を呼んだのか、サイレンの音が近づいてくる。魔法の時間を終わりにする悪鬼の足音だ。聖騎士たちが魔法で転移していく。
「やべえな。俺たちもとっとと逃げないと。動けるか、スピッツ」
「無論だ。しかし、上条どのこそ大丈夫か」
殴られた肩が痛むだけで、上条はほとんど無傷だ。上条はスピッツが自分の何を気づかっているのかわからなかった。
「なに言って……」
言葉を発して、声が震えていることに気がついた。足にほとんど力が入らず立っているのがやっとだった。
動けない上条の腕を、スピッツが支えて歩きだす。ヒーローのように助けに入ったはずなのに情けなさで涙がでてきそうだ。
「上条どのは戦うことに向いていないな」
上条自身もそうだと思っている。なんで命があるのか不思議だった。この世界は上条には厳しすぎて、本当に向いていない。
「そうだな。俺はこんな風に、人を死なせたり、死んだりするかもしれない場所にくるのはもうたくさんなんだよ」
上条当麻は、右手の『幻想殺し』を除けば、ただの高校生だ。ケンカは多少やれても、命のやり取りなんてとてもじゃない。
「それでも、俺は……」
この《地獄》で無力さを突き付けられてもなお、上条には捨てきれないものがある。
十崎京香は、もうすぐ日が変わろうという深夜、公館に駆けつけた。倉本家の捜索に出ていた刻印魔導師、スピッツ・モードが聖騎士と遭遇、交戦したと報告を受けたからだ。しかもその場には、戦場から遠ざけたはずの上条当麻もいた。
「状況はわかりました。今日はもう遅いですから、ここに泊まって下さい。職員用の仮眠室があります」
会議室での聴取には上条の立ち回りが気になったのか、魔法学者の溝呂木も同席した。一方的な聴取による居心地の悪さは相変わらずだった。
「待ってくれよ。俺はてんで状況はわからないんだけど、なんでスピッツはあんなとこにいたんだ」
京香の事務的な対応に、上条は食い下がった。先日エンド姉弟の死亡を伝えられたときのような、蚊帳の外に置かれていることに苛立っていた。
「あなたは公館の職員でも刻印魔導師でもありません。これからの暮らしには不要な情報です」
公館は上条に普通の暮らしを約束してくれた。来週から通う高校も決まっている。上条の存在は公館にとって、もうすぐ片が付く問題だ。公館は無関係な人間に、わざわざ情報を流す組織ではない。
ならばと、上条は今までのことから現状を推測する。この世界で体験したことを思い出していく。
「神和はたしか染血公主を追っていた。あとスピッツは神和が傍にいられないときに倉本の監視をする。そして今日現れた聖騎士。するとあの家は染血公主の潜伏先か、倉本に関係がある場所ってことになるけど、倉本と今日の出来事ってどれくらい関わってるんだ」
「私からは何も言うことはありません」
京香の徹底した事務的な態度が、逆に上条に覚悟を決めさせた。
武原仁はまるでヒーローみたいに、みんな守ると言った。京香もその冷たい決断が、結果的に多くの命を守ってきたはずだ。公館には上条よりも有能で信用できる大人がたくさんいる。
それでも全てを拾いきれるわけではない。エンド姉弟は死に、スピッツも命を落とすところだった。上条がこの世界で知り合った人間の内、すでに二人が死んでいた。上条だけが他人のふり決め込んで、知り合いの死をあとから聞かされるなんてごめんだった。
自分だけが不幸ならまだいい。だが、他人の不幸をそのまま見過ごすことだけは絶対にしたくなかった。
「俺は余所者だから、蚊帳の外でも仕方ないと思う。けれど、倉本のことを俺は他人のふりなんてできない。スピッツのこともそうだし、なんなら公館の問題も同じだ。俺がそうしたいから、そうするんだ。相手がどうだとか、情報が少ないとか関係ない」
「あなたの言っていることは偽善です。しかも最も性質の悪い。あなたはただ運がよかっただけで、行動が正しかったわけではありません」
上条の決意は偽善だ。ヒーロー願望が捨てきれていないで、自己満足にすがり我を通そうとする。そしてより現実的な対処を行う公館のような組織の足を引っ張る。
公館は偽善のために、戦うことを止めない幼い小学生を学校に通わせている。上条当麻は、その気になれば完全に戦いとは無縁でいられる。協会とも、神聖騎士団とも、おおよそどの魔法世界ともしがらみがない上条は、まっさらな状態で暮らすことが可能なのだ。
上条は自らそれを拒否した。魔法使いと関わることを止めないと、公館の言うことに耳を貸さず、それでも自分勝手に突き進むと宣言したのだ。
京香の言葉は自然ときつくなる。多くの命を使い潰し積み上げた死体の重さで国を守ってきた公館が、自分の命を軽く見積もる上条を肯定できるわけがなかった。
「魔法使いはあなたと違って、魔法の治療を受けることができます。それができないあなたは、致命傷を負ったら死ぬしかない。公館に余計な気を回す余裕もありません。あなたはその偽善に命を掛けられるのですか」
スピッツ・モードは全身打撲を負いながらも、魔法で一日もあれば回復する。一方、上条は右肩を痛めて腕が上がらない。全身の傷に対する回復魔法の多くは対象の存在そのものに干渉することが多く、上条の右手は魔法の邪魔をする。
魔法使いとの差が上条にのしかかる。自分の無力を思い知らされる。けれども、それにはもう慣れた。学園都市での無能力者の烙印、公館の余所者扱い。上条は自分の非力さに、状況の厳しさに絶望しない。身体が五体満足に動く限り、正しいと思ったことを、自分のしたいことを突き進む。
例え命をかけることになっても、この決意は変わらない。
「それでもだ。俺は自分に嘘をつくことだけは絶対にできない」
それが上条当麻の、《偽善使い》の生き方だ。
「彼は武原君に少し似ているな。眼の前の問題の全てを拾おうとして、しかもそれが拾えると信じている。いや、実際は信じていないのかもしれないな。だから、なんとかしたいと、ああやって突っ張るのだろう」
上条がいた時にはほとんど口を挟まなかった溝呂木が口を開いた。しかも魔法についてではなく上条の人となりについての雑感だ。
京香は付き合いの長い幼馴染だからこそ、仁の人柄がよくわかる。そして専任係官を束ねる事務官だからこそ、仁の実力も客観的に評価できる。
「武原係官は大人で、彼はまだ子供です。自分の実力と置かれている立場、対処できる問題の見極めくらいできます」
「はたしてそうかな。武原君もやはり無鉄砲なところがある。ただ彼より歳を取り、現実の苦さを知っていて、それを踏まえた無茶ができるだけのことだ。本質的なところは案外似ているかもしれないな」
上条当麻と武原仁は似ているかもしれない。上条は異世界に放り出されてもなお、他人事で済ますことのできる問題に命を掛けて首を突っ込もうとしている。仁は刻印魔導師という過酷な運命を背負った少女に人殺しをさせることも、かといって見殺しにすることもできずに、自ら守り抜く決断をした。
自分の生き方のために、他人を優先する。傲慢で身勝手な“悪人”ともとれる思想だ。
「溝呂木さんからそんな発言が聞けるとは思いませんでした。技術的なことしか興味がないものと思っていませんでした」
「観察対象の分析も、研究者の仕事だからね。カウンセリングとなると専門外だが」
京香の皮肉ともとれる素直な感想に、溝呂木は心外だと言わんばかりに肩をすくめた。しかし、表情には一向に傷ついた様子もないから、その仕草はかえって不自然に見えた。
「彼はそうだな、ここにきたころの武原君にそっくりだよ。最も武原君は泣き言や偽善を吐く度に王子護に現実を突き付けられて死にかけていたがね。彼は案外モノになるかもしれないな」
「専任係官としての教育をするべきというのですか」
「人が生まれ持った性質というものはなかなか変えられない。魔法使いが仕える神を選べないようにね。彼も厄介事に首を突っ込むのを止められないだろう。死なせたくないなら教育するべきだな」
なんのために話を続けているのかと思えば、結論はこれだった。溝呂木にとって上条は興味深い研究対象だ。荒事に巻き込まれないよう遠ざけるよりか、戦力として扱えるようにして、手元に置いておけと言っているのだ。
いたずらに上条を死なせないという点では一致していたが、京香にはどうしても受けいれられない提案だった。
「公館は常に慢性的な人出不足ではありますが、彼のような、向いていない人間に仕事をさせるほど落ちぶれてはいません」
武原仁も性格的にはこの仕事に向いていない。危ない橋を好んで渡り、いつ死んでもおかしくないやり方で仕事をしている。しかし、刻印魔導師を使い潰すことなく、5年もの期間専任係官を務めてこられたのは、魔法使いに対して切り札となる能力があるからだ。
対して上条当麻の能力は、この世界では半端だ。魔法消去に似た能力、『幻想殺し』は《地獄》にやってくる高位の魔法使いにはほとんど通用しない。
必ず死ぬとわかっている人間を、どうして戦いの場に駆り出せるというのか。
そこは夕焼けのホームで、線路の向こうは半ば見慣れた街並みだ。学園都市のように高層建築や近未来的な建物はない。目立ったシンボルもなく、駅前以外は住宅街が続くだけのどこにでもある街並み。
上条は先日聖騎士達と戦ったアパートの最寄り駅に来ていた。気になってなんとなく来てみたが特に得られるものがあったわけではない。当ても無くふらつくのは、よほどの幸運でもないかぎり無駄に時間を潰すだけだということを、身をもって知っただけだった。組織のバックアップも無く、個人で動いて得られる情報などたかが知れている。
道を歩けば何がしかのアクシデントに巻き込まれるのが上条当麻という人間で、今回もそれを当てに情報を期待していたのだが、幸か不幸か何も起こらない。
「そう簡単に何か起こる訳ねえよな。たく、こういうときだけ鳴りを潜めるんだよな、俺の不幸は」
嘆息して、あたりの人影がまばらであることに気づく。都心でも人が途切れる時間は確かに存在し、そこには魔法使いのような不思議なものがまかりとおる。
ふと、視界の端に見知った後ろ姿があった。栗色の髪、瑞希と同じ高校の制服、倉本きずなだ。きずなはただ茫然と一点だけを見つめていた。視線の先には見知らぬ男、黒褐色の長髪を後ろでまとめた灰色の瞳の中年男性が立っている。
「おーい、倉本」
きずなは声に反応してびくっと身体を震わせ、こちらを振り向く。その顔はまるで幽霊を見たかのように驚いた表情で固まっていた。
「上条、くん?」
きずなが二の句をつなぐ前に、優しく落ちついた声音がすっと割り込んだ。
「君は、きずなの知り合いかい」
きずなと話していた男だ。
男は遠目からみると冴えない風体だったが、その灰色の瞳は繊細かつ力強い。どこか職人めいた雰囲気を醸し出している。中年男性と制服の女子高生とは、なんだが不穏な組み合わせで、自然と上条は警戒してしまう。
「ええ、まあ。そちらさんは?」
「お父さんなんだ。ちょっと一緒にでかけなきゃいけなくて」
男に変わってきずなが答える。
似ていない親子だというのが上条の率直な印象だった。けれど、きずなはとまどいつつもおびえているわけではない。信用している様子が見て取れる。だが、きずなの父親だという男の雰囲気は異様な緊張を放ち、上条を落ちつかなくさせる。
意味も無く、首筋を汗がつたった。どうしようもなく、嫌な予感がした。
「きずな、もう行こう」
ホームに、都心から郊外に向かう下り電車が滑り込んできた。きずなの父親を名乗る男が、娘の手を引き電車に乗り込む。
「ごめんね。大丈夫だから、武原さんにも後でちゃんと連絡するから」
きずなは初めて会った時に見せた、取りつくろうような笑顔で、上条に手を振った。
上条はその場を動けずにいた。別に不自然さなんてない。ただ漠然とした不安だけが、心の奥にわだかまりを残す。
「何にもないならそれでいい、家族なんだから。一緒に出かけるなんてよくあることだ」
きずな達が車両の奥に消え、ホームに発車を告げるベルが鳴る。
仮に上条がいなくなっても、この世界とここで紡がれる物語は、問題なくまわっていくだろう。物語の主人公は上条当麻のような異世界からきた無力な少年なんかではなく、それこそ武原仁のような、ヒーローみたいな大人がふさわしい。
だが、この場にいることに、もし、何か意味があるのなら。この物語ではヒーローのようには振る舞えなくても、とどまることで何かが起こせるのだとしたら。
衝き動かされるままに《偽善使い》は選択する。
ここが、分水嶺だった。