「ご、ごめん!」
高坂が慌てて部屋を出ていく。
ドアが閉まり、静寂が訪れると、途端に心臓がバクバク鳴り出し、甘い残り香が鼻腔をくすぐりだした。
高坂の無防備すぎる寝顔が……長い睫毛が……薄紅色の唇が……。
もし自分が訓練されたボッチでなければどうなっていたかは、想像に難くない。
俺は気持ちを落ち着けるべく、頭をかきながら、窓を開けた。
*******
「うぅぅ、もう……こんな時まで寝ぼけるなんて……」
わ、私……何で比企谷君のベッドに入って……しかも……。
まだ手のひらには比企谷君の頬の感触と温かさが残っていた。
私、何しようとしてたんだろ……すごくドキドキしてる。
あの時、頭の中が真っ白になって、比企谷君しか見えていなかった。
……私……もしかして……。
*******
いつもより一時間ぐらい早く朝食を摂り、身支度を整え、高坂と一緒に駅まで向かう。誰から言われるでもなく、自然とそうしていた。
休日の早朝ということもあり、いつもより人通りは少なく、不揃いの足音がよく聞こえる。
朝食中も、バスの中も、駅までの幅の広い道でも、俺と高坂はあまり言葉を発しなかった。目も合わせなかった。
理由は言うまでもなく、昨晩から今朝にかけてのアレやコレである。
しかし、駅の構内に入り、彼女の横顔を盗み見ると、偶然目が合ってしまう。
「「…………」」
どちらも目を逸らさないのか、逸らせないのか、そのまま立ち止まる。
今は人目も気にならなかった。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「「あの……」」
狙いすましたかのように声が重なり、どちらも続きが言えなくなる。
気まずい時の言葉の持ち合わせが少ない俺は、彼女に先に言ってもらうことにした。
「……悪い。先に言ってくれ」
「え?う、うん……その……」
彼女はしばらく宙をぼんやり見てから、申し訳なさそうに笑う。
「あはは……思いつかないや」
「何だ、それ」
「自分だって何も思いついてなかったじゃん!」
「……よく気づいたな」
「気づくよ。比企谷君のそういう時わかるようになってきたもん」
「……そっか。まあ、あんま意味ないと思うんだが」
「そんなことないよ」
「?」
「私は……嬉しいかな」
「……そっか」
何故……とは聞けなかった。
そこまで鈍感なわけではない。ただ、そこに過剰な期待をするほど幼くもないわけだが。
むず痒い気持ちになっていると、高坂が躊躇いがちに口を開いた。
「えっと……は、八幡君」
「……あ、ああ。どうしたんだよ、いきなり」
「き、聞かないでよ!別にいいじゃん!比企谷って名字じゃ分かりにくいでしょ?」
「全然そんなことはないと思うが……」
「あるよ!ウチの学校にも三人くらいいるかもしれないし!」
「いや、いないだろ。多分……まあ、別に……いいけど」
そうこうしていると、構内にアナウンスが響く。
それを合図に、俺達は会話を打ち切った。
どちらからともなく頷き、彼女は改札に向かい、たったか歩き始める。
俺はその背中に声をかけた。
「じゃあな…………あー、高坂」
「……八幡君のバーカ!そこは呼び方変えるところじゃん」
「いや、無茶言うな。あと声でけえよ」
「ふんっだ、八幡君の照れ屋さん!」
「いや、照れてるとかじゃないから……高坂」
「なぁに?」
「……帰り、気をつけてな。あと、約束……覚えといてくれ」
「…………うん。またね」
控え目な笑みを見せた彼女は、改札を通り抜け、エスカレーターに乗り、少しだけこちらを振り返った。
俺はしばらくその場に立ち尽くし、その背中を見つめていた。
彼女が名前を呼んだ時の照れくさそうな表情が、少し躊躇うような声が、確かに甘く胸を締め付けていた。
そんなふわふわした感情に浸っていると、彼女の姿はいつの間にか見えなくなっていた。
…………帰るか。
「ちょ、ちょっと待って!」
くるりと踵を返すと、背後から聞き覚えのある声がかけられる。
振り返ると、そこにいたのはクラスメートの川……何とかさんだった。