大峡谷
ーー大峡谷。
暗黒大陸にある、世界を閉ざすような大きな谷。
その向こう岸には、誰も見たことのない世界があるとも、ファナリスの故郷とも言われている、謎の多い不思議な場所。
そこにたった一人で住む男がいる。
彼の名はユナン。
大峡谷の守り人と称している、世界にたった三人しかいない創世の魔法使い『マギ』の一人だ。
そんな彼の住む小さな小屋のドアを、誰かがノックした。
耳のいいユナンは、ドアの向こうにいる人物が、誰かわかっていた。
向こうもそれを察しているからか、黙ってドアを開ける。
「やぁ、こんにちは」
「こんにちは。久しぶりだね、アルト」
ユナンはにこやかに、訪れてきた女ーーアルトを迎え入れる。
栗色の髪に、
アルトはとても若い容姿の女だ。見た目だけで判断すれば、弱冠二十歳前くらいだと誰もが言うだろう。
その顔立ちは実に端正で、傾国の美女とまではいかないが、誰もが魅力を感じる程度の美しさを持っている。
アルトとユナンは、旧知の仲だ。それも、彼が初めてこの世界に生まれてからの。
ユナンはこれまで、9回もマギに生まれている。つまり彼女も、見た目に反してかなりの長生きなのだ。
ユナンは空いていた向かい側の椅子を引き、アルトを手招きする。それに応じて、アルトも座った。
「ちょっと待ってておくれ。今お茶を用意するから」
「ありがとう、ユナン」
席を立ち、台所に向かう。アルトは自身の羽織っていたマントを取り、椅子にかけた。
テーブルの上に置いてあるクッキーに、手を伸ばす。サクッと心地よい音がしたが、味が感じられない。
「ユナン、お前いつまで
「別に燻ってるわけじゃないよ、ただ
「僕は思ったことを言ったまでだ」
「ホント君って失礼って言葉を知らないよね」
久々に再会した友人は、相も変わらず自由奔放だ。ユナンは呆れつつ、彼女に紅茶を差し出した。
アルトは「待ってました」とばかりに、カップを手に取り、口をつける。一杯呷ってから、フウと息を吐いた。
「……ん、やっぱりユナンの淹れる紅茶は絶品だな」
クッキーは散々に批評されたのに、こんなにも美味しそうに紅茶を飲んでいる彼女に、ユナンは何も言えなかった。
本当に狡い子だ。嘆息して、自分も紅茶を飲む。
不味いと切り捨てたはずのクッキーに手を出したアルトに、またまた呆れてしまった。
「美味しくないんじゃなかったの?」
「ティータイムにはお茶うけが必要不可欠なんだぜ」
得意げに鼻で笑って、クッキーを咥える。
ユナンは「そう」と短く答えて、初対面の頃を思い出した。
「思えば、君と初めて出会ったのも
「ん?そだっけかぁ?」
「そうだったよ。で?相変わらず世界一周旅行を楽しんでるの?」
「あー、まあな」
アルトは口の中に残っていたクッキーを、紅茶と共に飲み干した。
「でもよぉ、最近戦が多いからか、国境越えるのにも一苦労でな。バレないように行くの、なかなか大変なんだぜ?」
「そうなの?君なら、警備なんてあっさり突破しちゃえると思うけどなぁ」
「僕は争いを好まない穏健派なんだよ」
「ウソ、世界の全てを敵に回しても勝てちゃうクセに」
「否定はしねぇけどな」
ククッと楽しげに笑って、アルトは宙を見つめた。
「もう帰っちゃうの?アルト」
「ああ。また旅に出ようと思ってね」
小屋の外。見送るユナンが、少し寂しげに言った。
しかし、彼女の意志は変わらない。
「僕はこの世界が結構好きでね。美味い飯がたくさんある」
「何それ」
アルトらしい答えに、ユナンは苦笑を送った。アルトも微笑み、ユナンの手を握る。
「またお前に会いに行くよ。それまで、またな」
「うん。……元気でね、アルト。僕も、この谷から君の声を聞いて待ってるよ」
「お前は地獄耳だからなぁ。この僕が他の男に取られて嫉妬するなよ?」
「ふふっ、大丈夫だよ。僕はアルトのことが大好きだからね」
「……僕も大好きだよ、ユナン」
二人は固い握手を交わし、アルトは谷を進み、ユナンはその背中が見えなくなるまでずっと見つめていた。
本当に不思議な女だ。ユナンはアルトに会う度、そう思う。
自分がこの世に生まれてからの知り合いで、マギに生まれ変わって何度も出会った女、アルト。長年生きたとは思えないほど子供っぽく、自由奔放で何物にも縛られない。
そんな彼女は、同時に世界を破滅させることができるほどの力を持っている。
それはユナンが選んだ王の器・シンドバッドや、聖宮の番人・ウーゴでさえも敵わない。
そんな力を持っているにも関わらず、多くの人に愛され、また彼女も世界を愛した。そしてもちろん……
ーー大丈夫、君はきっと僕が守るよ。かつて僕を守ってくれたように……今度は僕が。
暗闇に包まれた谷底で、ユナンは空を仰いだ。
生まれてから、もう六十億も経った。
世界が始まって、終わって、また生まれ変わるのを見てきた。
そこで生きる多くの人々と関わり、彼らが死にゆく様も全て見てきた。
そして、今。
アルトは、いずれ終わりの訪れる世界を巡る、何周目かの旅に出る。
これでいいと、思っていた。自分の生きる道は、これでいいと。
ただ世界を旅して、そこに住む全ての人々を見守り、時に関わり、刹那を楽しむ。これが、自分の生き方なのだと。
彼女は、あまりにも長く生きすぎた。
そしてこれからも、その心臓が止まることはない。
たとえ肉体が滅んでも、すぐに新しい身体を作れる。
何があっても、決して死なない。
彼女の名は、ルジク・ヴィ・アルストラトス。
彼女を知る誰もが親しみを込めて、アルトと呼んだーー。