甘い香りに鼻孔をくすぐられ、目が覚める。
柔らかいベッドから上半身を起こすと、その香りが部屋の外から漂ってきているものだということに気がついた。
この部屋はいったいどこなのか、そもそも俺は誰なのか、意識が覚醒するとともに様々な疑問が浮かんだが、部屋の外から漂う甘い香りがそれらを考えるのを許さなかった。
……腹が減った。とにかく今は空腹を満たしたい。
部屋を出ると、その香りは長い廊下の中央にある階下から漂っていた。
足が自然と香りのする方向に進んでいく。階段を降りると、香りが一層強くなった。
すぐ近くの部屋からカチャカチャと音がしている。香りもその部屋から漂っているようだ。
ドアノブを握り、扉を開くと、今まで漂っていたものとは比べ物にならないくらいはっきりとした甘い匂いがブワッと溢れ出した。
厨房だろうか、その部屋には火にかけられた鍋が1つ、コトコトと音を立てながら甘い香りを発していた。
「あら、目が覚めたの?」
横を見ると、食器を持った女性が立っていた。
長い黒髪に整った顔立ちで、優しそうに微笑んでいる。
「まあ、そこに座りなさい。今準備するから」
その女性に促されるまま椅子に座る。言葉がでず、返事をすることもできなかった。
女性が鍋の中の料理を食器によそい、俺の前のテーブルに置いた。そして俺の向かいに座り、にこにこと笑っている。
「初めての食事だから、お腹に優しいものを作ったわよ」
皿の中に入っていたのは、少し黄金色を帯びたお粥だった。
食べ物を目前にすると、空腹感がより一層増し、我慢が出来なくなる。
スプーンを持ち、皿の中のお粥を一気に口の中に流し込んだ。その瞬間、甘くて暖かいお粥が口に広がり、飲み込むと、じわっと胃にしみていくのがわかった。
「美味しいでしょ?そのお粥に入ってる蜂蜜は自家製なの。蜜蜂たちが庭中の花の蜜を集めて作ってるのよ」
そう言う彼女に一言お礼が言いたくなり、顔を見ようとするが、滲んでうまく見えなかった。目から涙がとめどなく溢れてくる。それがなぜだかは俺にもわからない。
「あら、泣くぐらい喜んで食べてくれるなんて、作った甲斐があったわ。おかわりはいる?」
頷き、彼女に皿を差し出す。彼女はその皿を嬉しそうに受け取ると、鍋まで歩いて行き、お粥を並々とよそった。
俺は彼女からそれを受け取ると、また口に流し込んだ。いくらでも食べれるような気がした。
それからもう二、三杯おかわりをすると、鍋の中身は空になってしまった。
「あらら、意外と食べるのね。次はもっとたくさん作ってあげるわ」
彼女はそう言いながら食器を片付け始めた。
「あ、あの」
初めて声が出た。注意していないと聞こえないようなとてもか細い声だったが、辛うじて彼女には届いたらしく、手を止め、こちらに振り返り「なに?」と小首を傾けた。
「お粥、ありがとうございます。美味しかったです」
彼女はキョトンとして少し固まった後、可笑しそうにクスッと笑った。
「あなた、面白いわね。てっきり私は、ここはどこなのか、とか、俺は誰なのかって聞かれると思ったわ。…そうね、ありがと。私も自分の料理を人に食べてもらうのは初めてだったから、あんなに美味しそうに食べてくれて嬉しかったわ。」
いい人なんだな、と思った。そう思わせるのは、俺に料理を振舞ってくれたからではなく、性格や人柄、人間として根本的なものが善い人だと見ただけでわかるからなんだろう。
空腹が満たされると、それまで頭の隅に追いやっていた疑問が次々と浮かんできた。
「あの……ここって……それに……俺は……」
わからないことが多すぎてうまく喋れない。本当は1つ1つ聞かなければならないんだろうが、次から次へと迫ってくる疑問が頭を整理することを許してくれなかった。
「大丈夫、落ち着いて。全部教えてあげるわ」
彼女は「ついてきて」と言うとドアに向かって歩き出した。
慌てて椅子から立ち上がり、後を追う。どこへ行くのだだろうか。
彼女は部屋を出ると、俺が降りてきた階段をさらに階下へ降りた。
階段を降りた先は行き止まり、なにも置いていない狭いスペースがあった。
彼女が行き止まりの壁に手をかざす。するとどうだろうか、壁全体に光が走ったかと思った瞬間、重い音と共に壁が左右に開き、広い空間が現れた。部屋の中には液体が満たされた容器や龍を象った石像があり、壁際にびっしりと並べられた装置からはせわしなく駆動音が聞こえている。
彼女は部屋の中に入ると、くるりとこちらに振り返りこう言った。
「私の名前はシャルロット・アバロ、あなたの創造主にして〝技巧〟の名を継ぐ魔術師よ」
「技巧」、「魔術師」どちらも聞き覚えのない言葉だ。だが、彼女がなにを言っているのか分かる気がする。
彼女は俺の目を見て、俺が一体何者なのか、ここはどこなのか説明を始めた。俺は彼女の言葉に耳を傾ける。彼女の声は、その話の内容の突飛さとは裏腹に、聞いていて落ち着くような、優しさに満ちたものだった。