当時の僕は、竜王国の王都からずっと東にいったところに建てられた砦に隣接した村に住んでいた。
住んでいたころは考えもしなかったが、少し成長した今ならわかる。僕の故郷は、砦が襲われた時に兵士たちが戦うための準備を整えるための、時間稼ぎのための村だったのだろう。
故郷での暮らしは決して豊かではなかったけれど、両親と共に……それなりに幸せな暮らしだった。いつビーストマンに襲われてもおかしくない、仮初の平和だったのは間違いない。それでも、村の友人と遊び、両親の仕事を手伝い、疲れたら眠る。
ビーストマンの脅威をどこか他人事のように感じていた。あの周辺は、最前線ではないと聞かされていたから。砦から巡回にくる、村を守る兵士たちを見て、いつか自分も強くなって両親や村の人たちを守るんだと……ぼんやりと考えていた。
……あの日の昼過ぎ、定期便とは違うタイミングで東の街からの早馬が砦に駆け込み、周囲がにわかに騒がしくなった。
それからすぐだった。東の方から、ビーストマンの群れが波のように押し寄せてきたのだ。悪夢のような光景だった。気づいたころにはすでに手遅れの位置まで奴らは迫ってきていた。
慌てて砦のほうへ逃げようとしたけれど……すでに、砦側にも回り込まれていたらしく、砦の中からは身の毛もよだつような悲鳴が聞こえてきていた。
何処に逃げることもできず、ただただ震えている僕に、両親は……村の裏手の森に走れ、と言った。
それが正しいかどうかなんて考える時間はなかった。ただただパニックだった。
両親にも一緒に逃げるように懇願したが、ビーストマンを引き付けるから、あとから追いかけるからと言って……決して首を縦には振らなかった。
僕は必死に走った。生き残れば、両親が迎えに来てくれると無理やり思い込んで。
後ろを振り返らず、前すらもまともに見ずに、ただひたすらに森の中を走り続けた。
……途中一回だけ、遠くからの叫び声を聞いて後ろを振り返りそうになった。……よく知っている声に、そっくりだったから。
それでも、ただの似た声だと信じて……走って、走って、走った。
どれくらい走っていたのか、あまり覚えていない。気づいたら空は赤く染まって、どんどん暗くなってきていた。
植物の枝や鋭い葉で体中擦り傷だらけ、飲まず食わずで走り続けていたので頭はボーっとして、まともに頭は回らなくなっていた。
そのうち日が落ちて、森が闇に包まれた頃……やわらかい何かに躓いて大きく転んでしまった。ふら付いてまともに立ち上がることもできなくなり、一体何に躓いたのか見て――死んだ、と思った。
僕が躓いたのは、横たわるビーストマンだった。
ああ、コイツが起き上がってきて僕は喰われるのだ、と……酸素の足りない頭でぼんやりと考えていた。あまりのショックに感情の針が振り切れてしまっていたのか、そのときはあまり恐怖を感じていなかったように思う。
頭の中を今までの思い出が駆け巡っていった。
よく一緒に遊んだ隣に住む幼馴染の顔、いたずらする度に怒って追いかけてきた向かいのおじさん、逃げる僕を捕まえて苦笑しながら一緒に謝ってくれた巡回の兵士さん。
自分にとってはとても長い、でも大人たちにとっては多分短かったであろう僕の人生が、どこか他人事のように……何度も、何度も再生されていった。
ふわりと顔を撫ぜる、焼けるように熱い風で我に返った。どうやら、まだ生きているようだった。
思い出したように恐怖が体を支配した。目を開けて周囲をうかがうのが怖い。自分に向けて歩んできているだろう獣の姿を見るのが怖かった。
しかし、そんな僕をあざ笑うように、時間だけが過ぎていく。しばらく経っても僕は喰われることはなかった。体を引きずるようにして起こし、周りを見回してみたら……不思議な光景が広がっていた。
僕がいたのは、丁度森を抜けてすぐ、少しだけ開けた場所だった。その辺から適当に切り出しただけのように見える木材が適当に組まれただけの、無骨なあばら家や柵があって……それらが崩れて、燃えていた。
崩れた建物の中には、何かの肉の塊がたくさん置かれていた。
……落ち着いた今冷静になって考えてみると、あの場所はたぶんビーストマンの食糧基地か何かだったのだろう。
同じように、中に肉の山がある大きな建物がたくさんあって、全部燃えていた。周囲はむせ返るような肉の焼ける臭いで一杯だった。
周囲には、横たわったまま動かないビーストマンがたくさん。
僕が躓いたヤツはまだ形を保っていたけれど、ほかのヤツらはひどかった。体がバラバラになっているものもいたし、炎に焼かれたのか半分以上炭になっているものもいた。
おぞましい光景なはずなのに、先ほどまで体を支配していた恐怖はどこかへ消えていた。よくできた演劇でも見ているような……どこか他人事のようにとらえている。半分夢見心地だった。
ぼんやりとその地獄のような光景を眺めていると、ひときわ大きな炎を上げている建物の中から、ゆっくりと何かが近づいてきているのがわかった。
目を凝らして何がいるのかを見ようとしたけれど、炎の熱で目がうまく開けていられず、水分不足で頭もボーっとして……体の力が一気に抜けて、その場に倒れ込んでしまった。
最終的には体も動かず、目も開けられなくなってしまい、だんだんと意識が遠のいていくのがわかった。
ああ、ついに死ぬのか、思ったより痛くも苦しくもないな、なんて思っていたら……何かにゆっくりと持ち上げられたような感覚があった。
そのあと、すごく……どう表現したらいいかわからない、何か……心地よい何かに包まれたような感覚があった。それに包まれたまま、僕は眠りに落ちていった。
目を覚ますと、開けた草原が目に入った。
後ろを振り返ると、おそらく僕が走り抜けたのと同じ森が広がっていた。
何が起こったのかわからず混乱していると、唐突に横から声をかけられた。起きたのか、と。
焦ってそちらを振り向くと、そこにあの人……人といっていいのかわからないけれど、とにかくあの人が……岩に腰かけていた。
その姿は、一言で言ってしまえば……"人のような竜"だった。
僕は、それまで竜というものをみたことがなかった。せいぜいが、お伽噺に語られる姿や、砦に飾られていた絵画を目にしたことがある程度。
それでも、この人は"竜"なんだと思わせるだけの覇気を纏った……威風堂々たる姿だったのを覚えている。
全身が闇を溶かした鋼のような色のしなやかな鱗に包まれていて、肩の後ろから伸びる翼は雄々しく、そこに並ぶ爪のような太く鋭い緋色の羽。
背には太陽を思わせる黄金色の輪を背負っていて……思わず、見とれてしまったほどだ。
先程、人のような……と表現したけれど、おとぎ話に聞く竜のような大きな胴体や長い首と比較して小さな手足、といった形ではなく、人間に近いバランスの体をしていた。
立ち上がったときの大きさは……大人の男よりも体半分大きいくらいだった。少なくとも、あの時の僕の倍くらいはあったと思う。
鋭い視線で射ぬかれ、麻痺していた恐怖が蘇ってきたあたりで、ゆっくりと、優しくささやくように話しかけてきた。
「痛むところはないか?見える範囲で治療はしたが、私は専門家ではないからな」
はじめは何を言っているのか理解ができなかった。
基本的に亜人や異形は、人を食事か奴隷程度にしか思っていないと教えられていたから。困惑しながらも頷くと、満足したように大きく頷いて、何処からともなく不思議な水差しを取り出した。
これまたいつの間にか取り出していたコップに水差しから水を注ぐと、こちらへ差し出してきた。
それを見たとき、寝起きと言うこともあってか喉がとても乾いていることに気がついた。なにも考えずにコップを受け取り、一気に飲み干してしまった。
まるで汲みたての川の水のように冷たく、信じられないほど透き通った味わいだったのを覚えている。
僕がその味わいに驚いていると、こちらの様子を窺うように顔を覗き込んで、こう聞いてきた。
「一応聞くけど、GMが中の人だったりイベントキャラだったりはしないよな?もしそうなら緊急事態なんだ、話を聞いてほしい」
言葉の意味はほとんどわからなかったし、その後大人に聞いても誰もわからなかった。
僕が首をかしげていると、少しだけ困ったような雰囲気を出していた。
「いや、わからないならいいんだ。君はどうしてビーストマンの拠点にいたんだ?捕まってたのか?」
死の緊張感が薄れ、混乱しているところに友好的に話しかけられたものだから、藁にもすがるような思いで――吐き出すように、すべてを説明した。
王都の東の砦の村に住んでいたこと、砦がビーストマンに襲われてしまったこと、両親に逃がしてもらったこと。
話すうちに色々なことが頭によぎり……気が付いたら、村へ、家へ帰りたい、とつぶやいていた。
「……わかった。一緒に行こう。案内はできるか?」
僕の話を聞いて、ある程度は村に何が起こったのか、村がどうなったのかを予想していたんだろう。
その人はとても優しい声色で、そう言った。
僕がその時何処にいたのか、正確な場所は覚えていないけれど、その時に遠くに見える山の形は見覚えのあるものだったから、砦の大まかな方向はわかった。
僕は、西の方向に向かえば知っている場所につくと思う、と説明した。
その人は大きく頷くと、腰かけていた岩から立ち上がり、ゆっくりと西に向かって歩き始めた。
「飛んでいったらすぐだろうが、それだとつまらないからな。ゆっくり歩いていこうじゃないか」
僕に、心の整理をつけるための時間をくれたんだろうと思う。逃げてきた時間がどれだけかはわからなかったけれど、決して短い時間ではなかったし……。
これは後から聞いた話だが、僕が火の中で気を失ってから目を覚ますまでには二日くらい経ってしまっていたらしい。
その間、僕のことを見捨てず見守っていてくれた上に、現実を受け入れるだけの時間をくれたあの人は……少なくとも、お伽噺でお姫様を攫うような、悪い竜ではなかっただろう。
砦へと向かう道中、色々なことを話した。といっても、ほとんどあの人からの質問だったけれど。
竜王国や周囲の国のこと、好きな食べ物から始まって……周りにでるモンスターや、それを倒す冒険者のこと。僕が両親を守るために強くなりたかった話や、憧れの……アダマンタイト級冒険者のこと。
お伽噺や英雄譚についても話した。十三英雄の英雄譚は僕も好きだったから、語り口は少し熱くなっていたかもしれない。
あの人は、なぜか"国堕とし"の伝説に強く興味を持っていたみたいだが。
人間の都市には亜人や異形はいないと言ったときは、やっぱりか、と残念そうに呟いていました。
「続きの世界でもそんな感じとは……薔薇の態度見てたら予想はついたが、世知辛いねぇ」
あの人の国では、人と亜人と異形がチームを組むこともあったらしい。
正直、僕には想像がつかなかった。それこそ、お伽噺のような世界だと思った。
友人だと言う、仲間想いのアンデッドの話をしてもらったりもした。
「あの人はもうちょっとユルく楽しく生きてほしいね。こっちに来てないかなぁ……」
……アンデッドなのに、楽しく生きるとはどう言うことだろうと思ったが、黙っておいた。
砦までの道のりは結局三日間くらいだったが、これまでの人生で最も安全な三日間だったと思う。
森に沿って歩くような形だったので、森から出てくるモンスターに何度も襲われたし、一度だけビーストマンの群れにも遭遇したけれど……怖がる間もなく倒されていった。
食事は、時折ふらりと森に入ったあの人が野生の動物を捕らえて来てくれたので、それを捌いて焼いて食べた。
……どうやら、あの人は料理は苦手なようだった。普段は生で食べているのかもしれない。
やり方を教えたが、解体しようとしても上手く捌けず、内蔵を潰してしまったり……。結局、少しだけ心得のあった僕が担当することになった。
僕の焼いた肉に感動したようにかぶりつく姿は、余りにも見た目と不釣り合いで……思わず笑ってしまったことを覚えている。
笑われていることに気づいたあの人は、ちょっとむくれていた。
日が出ている内は歩き、夕焼けをみて火をおこしてキャンプを作り、夜は星を見ながら眠る。
我ながら不思議な体験をしたと思う。
結局、二日目の夕方には見知った地形にたどり着いて、三日目の夕方には……砦に、僕の村
既にビーストマンは去った後だった。
生きるものの気配は一つもなく、惨状と血の饗宴の痕だけが生々しく残っていた。
日がくれて星が出るまで村の中や砦の中を探し回ったが、誰一人として生き残りを見つけることはできなかった。
頭でわかってはいた。
両親や友人知人が無事ではないだろうと言うことは。けれど、僕に起きたような奇跡が、村の彼らにも起こっていてくれやしないかと……期待してしまっていたのだ。
崩れ落ちた僕の家の近くで、両親が着ていた服の切れ端を見つけたとき、糸が切れたように体から力が抜けて、その場に膝をついて動けなくなってしまった。
もう、誰もいない。
僕があいつらを倒せるほど強かったら、こうはならなかったのに。
両親のところへ行きたい。僕も死んでしまいたい。
失意と絶望の底でぶつぶつと呟いていた僕に、それまで黙って僕の後をついてきていたあの人が、優しい声でこう言った。
「君のご両親は、命懸けで君を逃がしたのだろう?ならば君は今、ご両親の分を合わせて三人分の命を背負って生きている」
「私は別に命や魂を司っているわけじゃないから偉そうなことは言えないけれど、ここで君がそれを捨てて二人と同じ所に行ったとして、顔向けが出来るのかい」
「そりゃあ重くて苦しいだろうさ。君は今その小さな体で両親を背負ってるんだからね」
「でも、それが重荷で自分の命すら降ろすのはご両親の覚悟を否定することになるぞ」
「どうせなら、君が憧れた通り三人分の重さくらい軽々振り回せるよう強くなろうとしてみなよ」
「私には……
両親の最後の表情が浮かんできた。決して諦めていない、覚悟を決めた二人の表情。
あふれてきた涙をぬぐい、前を向いて頷く。
崩れた家の前で、両親が笑ったように見えた。
泣きながら頷いた僕をみて、僕の頭に大きな手を置き、ゆっくりと撫でた後に、美しい首飾りをくれた。
今でも肌身離さず身に着けている、この首飾りだ。
「これを着けていれば、この辺にいる程度のモンスターはよってこなくなるし、少しだけ疲れにくくなる。覚悟ができたら、人の一杯いる町に行って……精一杯生きてみな」
僕の後ろから手を回し、首飾りを付けてくれた。途端に、体が少し軽くなって、自宅にいるような安心感が僕を包み込むのがわかった。
不思議なその首飾りを眺めていると、後ろから呟くような声がした。
「ん……?あ、喚ばれた?私を喚ぶ奴が居るのか。誰だ?……あいつらか?嬉しいな」
僕が振り向くと、あの人の後ろには大きな黒い穴がぽっかりと口を開けていた。
「
そう言って、あの人は後ろの穴へ飛び込んでいった。
僕が待ってくれと叫ぶと、思い出したように声だけがその場に響き渡った。
「色々教えてくれてありがとう。なかなか楽しい旅だったぞ。君のこれからに、竜の加護を」
急いで追いかけようとしたが、既に穴は消えており、伸ばした手が何かを掴むことはなかった。
その後、村や砦から残った食料をかき集めて王都へ向かって歩いていると、王都の方向からまばゆい光が立ち上るのを見た。
距離があったので光しか見えなかったが、とても雄々しい竜の咆哮が聴こえて……
まるで、僕のこれからの新たな人生を祝福してくれているような気がした。
そのあと、数日かけて何とか王都へたどり着くと、街中が蜘蛛の子を散らしたような大騒ぎになっていた。
いつになく生気に満ちた衛兵たちに話を聞くと、口を揃えてこう言った。王都に竜の神が降臨なさり、国をお救いになった、と。
間違いなくあの人だと思った。
その後、子供の身一つで東から来た僕を不審に思った衛兵たちに、僕の身に起きたことを話した。
最初は子供の言うことと半信半疑のようだったが、詰め所に来た
どうやらこの首飾りは……スゴいものだったらしい。
その後、神殿やら王城やらの偉い人たちが、僕の事を"神の守護を得た少年"だの"竜の加護を持つ少年"だの言って祭り上げようとしてきたが、あの人との約束があると言ってすべて断った。
僕は強くならなくてはいけない。
僕を生かしてくれた両親に、堂々とまた会うために。
またあの人と会った時に、僕の生きざまはどうだと見せつけてやるために。
竜王国は、長きにわたる獣の侵攻で大きく、深く傷ついた。
"バハムート"の降臨によって、獣の集団はその規模を大きく減らしたのは間違いない。
しかし、獣の国が滅んだわけではなく、いずれまたその牙は竜王国へと向くだろう。
その日に備えて、竜王国は深い傷を癒し、より強靭な国となっていかねばならないだろう。
"竜"から加護を受けた少年は、十数年後、竜王国の誇る精鋭騎士団を率いる若き精鋭となる。
いつからか、彼は再会した恩人から受け取ったという宵闇のような色をした鎧を纏って戦うようになった。
"バハムート"の降臨した夜の空のような深い闇とともに、竜のように敵を圧倒するその姿を見て──
──人々は彼を、"竜騎士"と呼んだ。
まだ12巻読めてないです。
12巻を読むより先に13巻が出そう。